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「目をさましていなさい」

マルコ13章

1.1992年10月29日...
2.マルコ13章はなにを予言しているのか?
2.1.AD70年のローマ軍によるエルサレムの破壊
2.2.キリストの再臨の日=終わりの日
2.3.キリストの受難と昇天
3.マルコ13章はなにを教えているのか?
3.1.「人に惑わされないように気をつけなさい」
3.2.「あわててはいけません」
3.3.「何と言おうかなどと案じるには及びません」
3.4.「いちじくの木から、たとえを学びなさい」
4.「目をさましていなさい」


イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。

「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」

すると、イエスは彼に言われた。

「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。

「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」

そこで、イエスは彼らに話し始められた。

「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中に入ってはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい。その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる。』とか、『ほら、あそこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」

マルコによる福音書13章(新改訳聖書)

1.1992年10月29日...

みなさん、こんにちは。

14年前になりますが、あるクリスチャンのグループがこういうパンフレットを配っていたそうです。

「主の主、王の王を迎えましょう。イエス・キリストは1992年10月29日午前1時シドニー時間に来られます。」

このメッセージを信じた人たちは Gladesville に集まって午前1時を迎えましたが、2時になっても3時になってもなにも起こらず、最後には外で待ち受けていた新聞記者たちに対して、「私たちは間違っていました」と言ったそうです。

このグループはもともとは韓国のグループだそうですが、韓国では2万人からの信者がいてこの日に備えて仕事をやめたり、家を売ったり、家族を見捨てたりしていたそうです。

このグループの指導者はやがて詐欺罪で逮捕されたそうですが、歴史を振り返ると世界のいろいろなところで、イエスや聖書をだしにして「終わりの日が来る」といって人々を惑わず、だますということが行われてきました。

これだけ間違ったメッセージがなされてきたのに、しかし、まただまされてしまう人たちがいるのを見ると、そのようなことは、これからも行われつづけることでしょう。

なぜ人々はそのようなメッセージにだまされてしまうのでしょうか?

イエスがまた再び来られることについて、聖書はなにを言っているのでしょうか?

今日のマルコによる福音書13章は、そのイエスがまた来られること─イエスの再臨とも言いますが─その再臨を予言している箇所だと言われます。

未来にいつ、なにが起こるのか、知れるということは大変魅力的ですね。

ああ、あの宝くじが当たることが分かっていれば買っていたのに。

あの株の値が上がることが分かっていれば売らなかったのに。

なんて思ったことがありませんか?

イエス・キリストが再び来られる、すなわち、この世界がこの世界として終わる日が来ることが分かっていれば、もしかしたら私たちも仕事をやめたり、家を売ったりしてその日に備えたかもしれません。

しかし、聖書は果たしてそういうことを教えているでしょうか?

まず第一に、私たちは聖書を可能な限り正しく、すなわち、その著者が意図したとおりに、そして最終的には神が意図されたように、正しく理解することが必要です。

そのために、このマルコ13章が、もし予め起こることを私たちが知るように、未来を予言しているのだったら、いったい、なにを予言しているのか、それを正しく知ることが必要となるでしょう。

しかし、マルコ13章がなにを予言しているのか、それを理解する以上に必要なことは、その予言を踏まえて、マルコ13章が私たちになにをするべきなのかを教えているのか、ということを理解することだと考えます。

実は、この私たちがなにをするべきなのかを正しく理解するなら、はたしてマルコ13章がなにを予言しているのか、明確に理解することができなかったとしてもそれはあまり問題にならないと考えます。

今日のメッセージは大きく二つに分けることができます。

まず初めにマルコ13章が予言していることを見て、その上で、マルコ13章が私たちに何をするべきなのかを教えているのか、見ていきたいと思います。

2.マルコ13章はなにを予言しているのか?

アウトラインの2番です。

マルコ13章はなにをいったい預言しているのでしょうか?

この箇所は伝統的には少なくとも二つのことを予言しているのではないか、と言われています。

ひとつは紀元70年の夏に起こったローマ軍によるエルサレムの破壊。

もうひとつはキリストの再臨の日、すなわちこの世界の終わりの日のことです。

問題はいったいどの箇所がどちらのことを言っているのか、大変に分かりづらい、またどちらのことを言っていたとしてもそのまま理解するには問題があるようだということです。

2.1.AD70年のローマ軍によるエルサレムの破壊

まずは、1節から見ていきましょう。

1節、「イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」」

この「宮」というのはエルサレムにあった大きな神殿で第二神殿と呼ばれていました。

エルサレムの神殿はまずソロモン王が紀元前10世紀ごろに築きました。

それは第一神殿と呼ばれていますが、第一神殿は紀元前6世紀に、バビロニアの王ネブカデネザルによって完全に破壊されてしまいます。

ユダヤ人がバビロニアの捕集からエルサレムに帰ってきたとき、彼らは神殿を建て直しましたが、これが第二神殿と呼ばれています。

紀元前1世紀、ヘロデ大王の時代になって、彼はこの第二神殿を大幅に拡張しました。

イエスの時代にはまだ拡張が続いているときで、最終的に紀元64年まで続いたそうです。

この第二神殿が如何に見事な建物であったのかは聖書以外の書物が記しているところですし、現在でも「嘆きの壁」と呼ばれるその一部が残っています。

ここに解像度があまり高くないのですが、辞書から持ってきた写真があるのでお回しします。

ここで「何と見事な石でしょう」と呼ばれているものは小さいものでも長さ4メートル、高さ1メートル、大きなものでは長さ15メートル、高さ2.5メートル、重さは400トン以上というものも用いられていたそうです。

そのような壮大な神殿を見て、この弟子のひとり、それが誰であったのかは分かりませんが、彼は感嘆したわけですが、イエスの答えは弟子たちが全く予想しなかったものであったでしょう。

2節、「すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」」

イエスがこのように予言したのは紀元30年ごろでしたが、この予言は紀元70年、Wikipedia によれば、反乱を起こしたユダヤ人たちがこの神殿に立てこもったため、ローマ軍によって完全に破壊されたそうです。

現在「嘆きの壁」と呼ばれる部分は、この第二神殿を取り巻いていた外壁の西側の部分であり、ユダヤ人は「西の壁」と呼んでいるそうです。

ユダヤ教の神殿、そしてその神殿に使える祭司の職はこのときからなくなり、第二次世界大戦以降、イスラエルが国家として存在しても、宗教的な意義を持つ神殿の再建はなされていません。

また、これは僕の理解ですが、もしそのような神殿が建設されたとしても、祭司の職を行うことのできるユダヤ人はもういないので紀元70年前に存在した神殿と同じ意義のある神殿はもう存在し得ないと考えます。

3節、「イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」」

「いつ、そういうことが」というのは宮が破壊されてしまうことを指していると考えられますが、弟子たちの理解では、神殿が破壊されてしまうのは、世の終わりの日のことを思わせたかもしれません。

並行するマタイの福音書では弟子たちは、「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」と言っています。

5節、「そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中に入ってはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい。その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる。』とか、『ほら、あそこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。」

もう一度読んでいただきましたし、長くなるので読みませんが、5節から23節までがひとまとまりで、この箇所が紀元70年のエルサレムの破壊のことを言っているのだ、と考えられます。

としたら、確かにその年の前には、6節、「自分こそキリストだ」すなわち神に選ばれた王だと言ってユダヤ人たちをローマに反乱する戦争に導くものが何人も現れました。

これは一世紀のユダヤ人の歴史家、ヨセフスの書に記されています。

そのような指導者たちはみなローマによって処刑されましたが、彼らに従った人たちもまた滅ぼされたでしょう。

また、戦争や、飢饉や、地震もあったでしょうし、イエスの弟子たちは確かにユダヤ人やローマ人によって迫害を受けました。

使徒のはたらきにはペテロやヨハネがユダヤの指導者の前に立ち、またパウロがアグリッパ王の前で演説し、ローマ皇帝の前で申し開きをするために連行されることが書かれています。

ネロ帝のもとでのクリスチャンに対する迫害は熾烈を極め、12節、「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせ」ることもあったでしょう。

14節、「荒らす憎むべきもの」というのは、マタイの福音書では特定されていますが、これはダニエル書に記されています。

しかし、このダニエル書に記されている「荒らす憎むべきもの」がいったいなんのことを指すのかは、このマルコ13章に記されている「荒らす憎むべきもの」がいったい何のことを指すのかを理解するよりもさらに難しいかもしれません。

ひとつの解釈は、これはローマ軍がエルサレムを侵略始めるときのことを指していると考えられます。

並行するルカによる福音書ではこの箇所は「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」と言われています。

どうしてこのように違った言い方がなされているのか、分かりません。

イエスは両方のことを言ったが、マルコ、マタイ、ルカはそれぞれ片方のことだけを記したか、マルコで言われているとおり、もし読者がよく読み取ったなら、それはルカの言うとおりのことであったのか、もしくは、イエスはエルサレムが軍隊に囲まれると言ったが、それをローマ人に知られないために福音書には暗号的な言い方をしたのか、いろいろなことが考えられますが、はっきりしたことは分からないでしょう。

しかし、伝統によれば、エルサレムにいたクリスチャンたちは確かにこのイエスの言葉からエルサレムの崩壊を予知し、それから逃れるために早急にエルサレムを出て、破壊から逃れたことが伝えられています。

ですが、もし、この5節から23節までが紀元70年のエルサレムの破壊のことを予言していたのだとしたら、いくつか問題があります。

一つ目は10節、そこには「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」といわれています。

紀元70年までに、福音はあらゆる民族に宣べ伝えられたでしょうか?

例えばそのころの日本人にはおそらくは福音が伝えられてはいなかったでしょう。

もし「あらゆる」という言葉が「ひとつものこらずすべての」という意味であったなら、この予言は紀元70年までにはなされなかったと考えられます。

しかし、「あらゆる」ということばは必ずしも、「ひとつものこらずすべての」という意味ではない場合があります。

福音ははじめユダヤ人にだけ伝えられましたが、パウロによれば、コロサイ人への手紙1章6節ですが、この福音は、世界中で、実を結び広がり続けています、といわれています。

世界中で、と言うことばに、日本はまだ含まれていなかったはずですが、しかし、パウロの観点からは、すでに世界中で福音が伝えられている、と考えたでしょう。

この意味で、紀元70年には福音はあらゆる民族に宣べ伝えられた、と考えられるかもしれません。

もうひとつの問題点は19節です。

19節、「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。」といわれている点です。

ノアの時代の洪水を思えば、それ以上の苦難といわれている苦難は終わりの日の苦難でしかないように思われますが、果たしてそうでしょうか? ここでは「今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日」と言われていますが、しかし、その苦難は、イエスが「山へ逃げなさい」と言われているとおり、実は逃れることのできる、苦難であります。

ノアの洪水は山に逃げても逃れられるものではありませんでした。

考えますに、これはユダヤ人が民族として受ける苦難、といえばナチスドイツによる苦難が思わされますが、その苦難よりもさらに大きな苦難、なぜなら紀元70年のエルサレムの破壊によって、神がユダヤ人とともにいるという象徴であった神殿は永遠に失われ、人々の罪をあがなういけにえをささげる祭司も失われたからであったからではないでしょうか?

このことはユダヤ人だけでなく、あらゆる民族が救われるためには必ず起こらなければならないことで、20節、「もし神がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者がない」ことであるのだと考えられます。

このように理解するのなら、5節から23節までは紀元70年のエルサレムの破壊のことをイエスは預言しているのではないかと考えられます。

イエスにとっては自分の愛する弟子たち、またユダヤ人の同胞がやがて激しい迫害に会い、また軍隊によって殺掠されることを思って、この予言を与えたのでしょう。

2.2.キリストの再臨の日=終わりの日

それでは、24節からは何を預言しているのでしょうか?

アウトラインの2.2ですが、24節、

「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」

先ほど読んでいただきましたし、長くなるので読みませんが、24節から37節の箇所は「人の子」─すなわちイエス─が、いずれ、偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来ることが予言されています。

それはキリストの再臨の日、すなわちこの世界の終わりの日のことですが、それはもちろんいまだ訪れていません。

32節、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちもイエスさえも知りません、ただ父なる神だけが知っておられます、と言われています。

すなわち、もし誰かが、例えば2006年10月29日にイエスが来られる、というなら、それはもう間違っている、ということです。

もしこの箇所がイエスが再び来られる日のことを言っているのだとしたら、やはり問題があります。

それは30節、「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません」と言われていることです。

もしこの「時代」という言葉がこの世界の時代、というような意味であるのなら、この世界が滅びる前にイエスが予言されたことがすべて起こるという意味に納得されるでしょう。

しかし、聖書のほかの箇所でも使われているように、「時代」という言葉は「世代」という言葉に訳されることがあります。

その場合には、このイエスの言葉を最初に聞いた弟子たちがまだ生きている間のうちに、これらのことが全部起こってしまう、という意味になります。

もちろん、世界の終わりは弟子たちの生きているうちには起こりませんでしたが、もし、この箇所が弟子たちが生きているうちにという意味であったのなら、この箇所は世界の終わりを預言している箇所ではなかったことになります。

それではなんのことを予言しているのでしょうか?

2.3.キリストの受難と昇天

アウトラインの2.3.ですが、それでは、この箇所は何を預言しているのか、それはイエスがこれから受ける十字架上での苦難とその後に天に昇る昇天のことを予言しているのではないか、と解釈されることができます。

ここで鍵となることばが、26節の「人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです」という箇所の「来る」という言葉です。

これはダニエル書7章13節で預言されていることだと考えられます。

今、開いているマルコ13章にはしおりをしていただいて、ダニエル書7章を開いてください。新改訳聖書、旧約聖書の1342ページになります。

13節、これはダニエルの言葉ですが、「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

「人の子のような方」というのは興味深い言い方です。

人の子のようであり、またそうでない、という意味が含まれているのでしょうか?イエスはこれを単に「人の子」と言っています。

また「年を経た方」というのはこの章で3回用いられていますが、文脈から神ご自身のことであるでしょう。 ダニエル書では人の子が天の雲に乗って来られた、と言われていますが、人の子はどこに来られたのでしょうか?

私たちは「来られる」と聞くと、私たちのところに来られるような印象を受けますが、ダニエル書では人の子は神のもとに行くことが言われています。

ギリシア語、またヘブル語で「来る」という言葉は同じように「行く」と訳されるそうです。 マルコの福音書に戻ってください。

そうすると、26節で「人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来る」というのは、実は「雲に乗って行く」という意味ではないかと考えられます。

すなわち、イエスが十字架にかけられ、後に復活し天に昇り、神のもとへと行ったことは、実際に物理的に目に見える形ではなく、いわば詩的な表現で、「人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って行く」と言われているのだと考えられます。

もしそうならば、27節の「人の子は、御使いを送り」と言われていますが、御使いという言葉は天使という意味だけでなく、人間の使者という意味でもあって、確かに復活後、イエスが使徒たちを世界のあらゆる国の人々に遣わしました。

24節、25節の「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」という表現はイエスにおいて人々の罪の裁きが行われることの表現であると考えられます。

そのように考えるのならば、30節の、「これらのことが全部起こってしまうまでは、この世代は過ぎ去りません」という言葉も理解できます。

しかし、この解釈の仕方にも問題があります。

すなわち、24節、「だが、その日には、その苦難に続いて」と言われていて、イエスが十字架につけられる前に5節から23節まで言われているようなことが起こったのかと言うことについては疑問があります。

まとめると、マルコ13章で果たしてなにが預言されているのか、明確に理解しようとすることは実は僕にはできませんし、おそらく、予言がなにを指すのかを正確に理解することはそれほど重要ではないと考えます。

重要なのは、それでは、私たちはいったい何をするように言われているのか、ということです。

3.マルコ13章はなにを教えているのか?

アウトラインの3に行きましょう。

3.1.「人に惑わされないように気をつけなさい」

3.1.まずイエスは「人に惑わされないように気をつけなさい」と言われています。

歴史を見ると、これまでに「私こそ救い主だ」「イエスの生まれ変わりだ」などといって多くの人を惑わしたにせキリスト、にせ預言者が現れ、そして現在も多くの人が彼らにだまされ続けています。

なぜだまされてしまうのでしょうか?

22節では、彼らはしるしや不思議なことをして見せ、とあります。 なにか不思議な現象、理解できないような現象があったからといって、それが真に神からの預言者であるとは限りません。

彼らがもしすでに私たちに与えられている神の言葉と違うことを言うのなら、それは神からの預言者ではありません。

なぜ、神はこのようなにせ預言者たちが現れることを赦されているのでしょうか?

人を誤りに導くにせ預言者たちは確かにより大きな罰を受けますが、にせ預言者にだまされてしまった人たち、そのような人たちも神からの罰を逃れることはできません。

なぜなら人は自分の信じたいことを信じたがるものがあるからです。

神の言葉を聴いても、それは私には合わない、私は認めたくない、しかしにせ預言者が言うこと、例えば、信じれは物質的に豊かになる、病気がみな癒される、等ということは、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」という聖書の言葉に比べてずっと魅力的なわけです。

私たちはたとえしるしや不思議なことによってでも偽預言者たちに惑わされないよううに、言われています。

3.2.「あわててはいけません」

アウトラインの3.2です。

7節、イエスはまた「あわててはいけません」と言われています。

世界には戦争が絶えず、地震や津波があり、何十万人、ときに何百万人と言う人たちが殺され、死ぬことがあります。

そのような現状を見ると、人の世はもう終わり、終わりの日が来ている、と考えられることがあるかもしれません。

しかし、イエスは言います、8節、「これらのことは、産みの苦しみの初めです」、すなわち、このような苦しみは、終わりの日がやがて来ることを示していますが、すでに終わりの日が来てしまった、というのではありません。

1999年4月のことでしたが、シドニーで大変激しい雹が降りましたね。

香港から来ていた僕の友人は、敬虔深いクリスチャンですが、彼女は雹を生まれてから一度も見たことがなかったそうです。

そのときちょうど車を運転していて、ゴルフボール大の雹、場所によってはクリケットボール大の雹だったそうですが、それがガンガン車に降り注いでくるのを見て、「ついに終わりの日が来た」と数分間は思っていたそうです。

確かに私たちはある状況において、この世界の有様を見て、「終わりの日が来た」と考えてしまうかもしれません。

しかし、イエスが来られるとき、それは、誰にでも分かるように来られます。 マタイの福音書24章26節には言われています。

「だから、たとい、「そら、荒野にいらっしゃる。」と言っても、飛び出して行ってはいけません。「そら、へやにいらっしゃる。」と聞いても、信じてはいけません。人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです」

東で起こるいなずまが、西でもはっきりと分かるように、イエスが再び来られたときは誰にでも分かるように来られます。

すでに終わりの日が来た、というメッセージを信じてはいけません。

3.3.「何と言おうかなどと案じるには及びません」

アウトラインの3.3.です。

イエスはまた、11節、「彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です」と言われました。

初期のクリスチャンたちは、使徒の働きにも書かれていますが、ユダヤ人の指導者たちに捕らえられ、鞭打たれ、またその前で弁明をさせられました。

ローマ皇帝の下で激しい迫害に合い多くのクリスチャンたちが命を落としました。

現在でもある国ではキリストを信じることが認められず、また信じているがゆえに迫害を受けることがあります。

私たちにとってはどうでしょうか?

日本でもオーストラリアでもイエスを信じるがために引き渡され、弁明をしなければならない、などということはあまりありません。

しかしながら、例えばイエスを信じない家族の前で、自分の信仰を弁明することがあるかもしれません。

職場や学校で、イエスを知らない、信じない自分の友人に対して、弁明をすることがあるかもしれません。

そのとき、何と言おうかなどと案じるには及びません、私たちには神に与えられた神の言葉があり、聖霊がそれを話させてくださいます。

これは弁明をするときなにも考えず、なにも準備しなくていい、ということではないと思います。

第一ペテロの手紙3章15節にはこう言われています。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」

弁明の用意はしますが、しかし、何と言おうか心配する必要はない、そのように言われていると考えます。

3.4.「いちじくの木から、たとえを学びなさい」

アウトラインの3.4.です。

イエスはまた、28節「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出てくると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」と言われています。

これは何のことを言っているのでしょうか?

ある場合に私たちは、この世界での戦争や地震や飢饉と関係なく生活し、必要なものは何でも足りて、この世界を楽しむことだけで心の中がいっぱいになってしまっています。

そのようなときには、たとえ戦争のことや戦争のうわさを聞いても、それは自分には関係のないこと、世界は今あるまま、自分が死ぬまでいつまでもあり、自分はただそれを楽しんでいればいい、と考えるかもしれません。

しかし、いちじくの木の枝が柔らかになって、葉が出てくると、夏の近いことが分かるように、これら世界で起こっていることはイエスがやがて来られること、そして、イエスはあるいは今日にでも来られることを知るべきです。

私たちは、いつ、イエスが来られても良いように、そのような心構えで、そのような生活をすることが求められています。

4.「目をさましていなさい」

このマルコ13章がなにをいったい何の出来事を予め予言しているのか、正確なところはわかりません。

しかし、この章が私たちに教えることは明らかです。

それは「気をつけていなさい」「目を覚ましていなさい」と6回も繰り返し、この章で言われていることから明らかです。

「目をさましていなさい」

言うまでもありませんが、もちろんそれは、生理的に寝てはいけない、などということではありません。

そんな命令は2日だって守れないわけですが、それでは、「目をさましていなさい」とはなんのことを言っているのでしょうか?

それはどのようなときにも、イエスが再び来られるということが、自分の生きる指針の基礎となるべきだ、ということだと考えます。

私たちは日曜日に教会に集いますが、それでは、日曜日以外はイエスと関係ない生活をしている、ということであってはならないはずです。

私たちは朝と夜には祈りをささげ、神のことを思いますが、日中、仕事をしているとき、勉強をしているとき、家事をしているとき、神のことを忘れて生活している、ということであってはならないはずです。

もし、明日、イエスが再び来られるということが分かったとしたら、私たちはどうするべきでしょうか? もちろん、今日のメッセージは、そんなことは分からない、もし分かるのであったら、その予言は間違いである、というメッセージだったわけですが、仮に、もし、分かるのであったら、私たちはどうするべきでしょうか?

もし、本当にいつも目を覚まして、生きているのであるのなら、明日、イエスが来るからと言って、急に自分の生き方を変えようとはしないはずです。

私たちは常に、イエスを迎え入れる心構えで持って生活をするべきであるからです。

祈りましょう。

今日、このイエスに頼って、イエスが自分の罪をおって、十字架に死んだことを信じるのなら、一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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