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「律法学者たちには気をつけなさい」

マルコ12章35節から44節まで

1.ローマ法王がイスラムの聖戦を批判しましたが...
2.「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか」
2.1.キリストはダビデの子である(エレミヤ23:5、マルコ10:47)
2.2.キリストはダビデの主である(詩篇110:1)
2.3.どういうわけで?
3.「律法学者たちには気をつけなさい」
3.1.律法学者とは?
3.2.律法学者の非
3.3.なぜイエスは律法学者を非難したか
4.貧しいやもめの献金
4.1.クリスチャンのモデルとして(2コリント8:1−4)
4.2.律法学者への非難として
5.イエスというキリスト


イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた。

「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」

大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。イエスはその教えの中でこう言われた。

「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」

それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。

「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」

マルコによる福音書12章35節から44節まで(新改訳聖書)

1.ローマ法王がイスラムの聖戦を批判しましたが...

さて、日本の新聞で読んだ限りなのですが、ローマ法王ベネディクト16世がある講義の中で、イスラム教の創始者、ムハンマドとイスラム教の教えるジハード、聖戦の概念を批判した、と言われています。

イスラム社会ではローマ法王のこの批判に対して、非難が持ち上がり、ローマ法王はこれを受けて「非常に申し訳なく思っている」と謝罪したそうです。

詳しいこと、また、確かなことは、よく分からないのですが、もし、誰かがこのように言ったとします。

「ムハンマドの教える神は真実の神ではない」

誰かの教える神が、真実であるのかそうでないのか、などという議論はなかなか難しいものですが、しかし、もしイスラムの教えが、そのようにムハンマドを批判する者は誰でも信徒の手で殺されなければならない、と教えるのなら、そのような暴力的な教えは間違っている、と僕なら批判するべきだと考えます。

みなさんならどのように考えるでしょうか?

どうも日本の人の主流な考え方では、どのようなものであれ、他の人の宗教の教えを批判することは間違っている、という考え方があるように思われます。

どのようなことであれ、他の人の宗教を批判してはいけない。

日本は多神教の国、などといわれますが、イスラムの神も真実の神、キリストの神も真実の神、仏教の仏も真実の仏、などと、どんな神とも仏と呼ばれるものも、それはその人にとっては真実だ、という考え方があるように思われます。

それは、日本での一般的な考え方であったとして、それでは、クリスチャンはどのような考え方でいるべきなのでしょうか?

聖書はどのように私たちに教えているでしょうか?

先ほど読んでいただいた聖書箇所は3つの部分に分けることができると思いますが、その三つの部分から今日はポイントを三つ見ていきたいと思います。

アウトラインの2番、3番、4番ですが、

まず最初に「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか」という問題

次に「律法学者たちには気をつけなさい」というイエスの言葉

最後に「貧しいやもめの献金」の箇所が教えていることを見ていきます。

これら三つの部分はなんだかつながりのない記述であるように一見見えますが、マルコがその福音書を記すとき、どうやら大変な思慮深さをもって、その福音書を構成した、ということをずっと見てきました。

今日のこの三つの箇所にも一貫したテーマがあることを見ていきたいと思います。

2.「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか」

2.1.キリストはダビデの子である(エレミヤ23:5、マルコ10:47)

まずは、35節からです。

35節、「イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。」」

「キリスト」というのはギリシア語、ヘブル語なら「メシア」、それは「油を注がれた者」という意味で神に選ばれた王のことを指します。

「キリストがダビデの子である」というのは「いずれ来る神に選ばれた王は、かつてのイスラエルの王ダビデの子孫から出る」という意味でしょう。

「どうしてキリストをダビデの子と言うのですか」という質問は、あたかも、「キリストをダビデの子と呼ぶことはふさわしくないです」というイエスの考えが述べられているかのようです。

ですが、果たしてそうでしょうか?

イエスは時にこのような質問をしますね。

マルコによる福音書の10章で見ましたが、あるとき金持ちの青年が来て、イエスを「尊い先生」と呼びました。

イエスは「なぜ、わたしを「尊い」と言うのですか」と言いましたが、それは必ずしも、「私を尊いと呼んではいけない」という意味ではありませんでした。

ここの箇所もイエスは「どうしてキリストをダビデの子と言うのですか」と問いかけていますが、必ずしも、キリストをダビデの子と呼んではいけない、と言っているのではないでしょう。

実に、神に選ばれる王がダビデの子孫から出る、ということは旧約聖書のいろいろな箇所に預言されています。

開かなくてよろしいのですが、例えばエレミヤ書23章5節にはこう書かれています。

「見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。」

旧約聖書によれば、キリストがダビデの子であることが言われていることは明確です。 それなのになぜイエスは「どうしてキリストをダビデの子と言うのですか」という問いかけをしたのでしょうか?

2.2.キリストはダビデの主である(詩篇110:1)

36節、「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』

これは旧約聖書、詩篇110篇1節の引用です。

詩篇110篇1節を開いていただけますでしょうか?新改訳聖書、旧約聖書の936ページです。

詩篇110篇1節、「は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座についていよ」」

一度読むだけでは分かりにくい、と思われるのですが、ここでは三人、というか三者が関わっています。

まず、「は」と一節で言われている「」という言葉は新改訳聖書では太字が使われていますね。

これはいったいなんでしょうか?

この太字の「」は原語では特別な言葉でヘブル語のアルファベットで YHWH と書くそうです。

それは神ご自身を表す固有名詞とも言える言葉です。

この言葉の発音は、昔ならエホバ、そしてそれは間違いであって、今では「ヤーウェ」と言われていますが、イエスの時代もそしてユダヤ人は現在でも神の名前は神聖なもので発音することも恐れ多い、という理由でこの言葉を発音せず、代わりに「アドナイ」という「主」という意味の言葉を用いたそうです。

そのようなわけで、新改訳聖書では YHWH を「」と訳し、太字が用いられているわけですが、この最初の「」は神のことをさします。

そして、神が「私の主に仰せられる」とあるわけですが、この私とは「ダビデ」のこと、このダビデが主と呼ぶ人物は文脈によれば神に選ばれた王、すなわちキリストのことであることが理解されます。

神がキリストの敵をキリストの足台とするまでは─足台とするというのは勝利することを意味するそうです。新共同訳では「屈服させるときまでは」と訳されています。─神の右の座に着いていよ、と神がダビデの主であるキリストに言った、という意味になると考えられます。

すなわち、イエスの言うとおり、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいます。

マルコによる福音書に戻りましょう。85ページです。

2.3.どういうわけで?

37節、「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう」

「どういうわけで」キリストがダビデの子なのでしょう。

この言葉の背景には子というものはその親に勝らない、という考え方があると思われます。

もちろん、声を大にして、そんなことはない、という意見もあるわけですが、もしキリストがダビデの子であるのなら、自分の子を主と呼ぶのはどういうわけなのでしょう、と言う意味であるかもしれません。

もしくは、もしキリストがダビデの子孫なら、キリストはダビデの時代には存在しなかったはずですが、ダビデはキリストのことを主と呼んでいる、それはいったい、どういうわけなのでしょう、という意味かもしれません。

いずれにしても、神の言葉の専門家であるはずの律法学者たちはこのイエスの質問に答えられませんでした。

それは、どうしてでしょうか?

端的に言えば、それは、神に選ばれた王、キリストが、結局は一人の人という存在以上のものではない、という考えがあったからでしょう。

ダビデは神に愛され、神に選ばれた特別な王でした。

しかし、どれだけダビデが特別であったとしても、彼はまた、私たちと同じように、罪ある人間であって、罪を犯し、人以上の存在ではありませんでした。

ユダヤ人にとっては、ダビデの子孫であるキリストはまた、神に選ばれた王ではあっても、一人の人、以上の存在であるとは、考えられていなかったでしょう。

しかし、この二つの箇所はいずれ来るキリストはただの人、以上の存在であることが示されています。

そのことを理解しなければ、イエスの問いに答えることはできなかったでしょう。

37節、「大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。」

なぜ群集がイエスの言われることを喜んで聞いていたのか、詳しくは書かれていません。

11章、12章で語られたイエスの教えがすばらしかったのか、それとも、今日のこの箇所に限定して、聖書の専門家であるはずの律法学者たちがイエスの問いに答えられなかったのが面白かったのかも知れません。

3.「律法学者たちには気をつけなさい」

3.1.律法学者とは?

ここに出てきた、律法学者とはどのような人たちであったでしょうか?

注解書によれば、律法学者、とはもともとは神に仕える祭司のうち、神の言葉を書き記し、書き写し、その言葉に精通していた者のことを呼んだようです。

イエスの時代には律法学者は祭司にとどまらず、いろいろな職を持ちつつ、律法学者として旧約聖書を学び、教える者、また職を持たず、教えを受ける生徒に支えられて生活をする律法学者もいたそうです。

マルコによる福音書には祭司、長老、パリサイ人、サドカイ人などが登場しましたが、彼らはまた、旧約聖書に詳しい、律法学者であった、と言えるでしょう。

律法学者たちは神の言葉に通じ、理解し、それを正しく人々に教えるべき人たちでしたが、しかし、イエスの時代のおそらくは大部分の律法学者たちは、その責任を果たしていなかったようです。

3.2.律法学者の非

38節、「イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。」

僕は大学院の卒業式のとき、とても長いそしてとても明るい赤いローブを着せられました。

何百人いる中の確か二人だけが博士課程の卒業者だったわけですが、そんな服を着ればいやおうなしにも目立つわけです。

幅の大きい白い襟で、遠くから見たらサンタクロースを思わせないこともないような、いでたちだったのですが、一目見て、ああ、あれは博士課程卒業者と服装で表現しているわけです。

そのような服を着れば、見せびらかすために歩き回りたくなるわけです。

長い衣をまとって歩き回るのは、自分が律法学者であることを服装で知らせていることです。

人々の尊敬を受けること、会堂や宴会で一目置かれることが大好きで、律法学者たちは自尊心に満ちていたことでしょう。

40節、「また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。」

やもめというのは夫がすでに死んでしまった妻のこと、家というのはその人のもっている財産を表します。

どのようにして律法学者たちがやもめの財産を使ってしまうのか、はっきりとは言われていません。

注解書によれば、教えを受ける人からの贈り物で生計を立てていた律法学者は、やもめのように弱い立場の人からいろいろな理由をつけて多大な報酬を得ていたかもしれません。

この点についてはアウトラインの4番でもう一度見てみます。

また、律法学者たちは「見栄を飾るために長い祈りをする」と言われています。

長い祈り、というのが何分くらいのことを言うのか、分かりませんが、もちろん長い祈りそれ自体が悪いものでは決してないでしょう。

イエス自身もゲッセマネで長い、長い、弟子たちが眠ってしまうほど長い、祈りをされました。

しかし、人前で祈るとき、それが神のためでも、人のためでもなく、自分の見栄のために長い祈りがされるのなら、それは偽りの宗教心と言えるでしょう。

長くなるので今日は読みませんが、マタイの福音書23章には律法学者、またパリサイ人たちが如何に人に見せるための宗教を行っていたのかがイエスによって非難されています。

3.3.なぜイエスは律法学者を非難したか

なぜイエスは律法学者をこうも辛らつに非難したでしょうか?

律法学者たちは神の言葉を守り、人々に正しく伝え、自らもその言葉に従って生きるいわば人々のモデルともなるべき人たちでした。

それなのに、その律法学者たちは正しく神の言葉を理解せず、またしようともせず、自分の強欲と傲慢のままにやもめの家をくいつぶし、見栄を飾るために長い祈りをしたのなら、当然、そのような人をイエスは非難したでしょう。

「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです」とイエスは言われました。

なぜなら人を教える立場にある人は、人を正しく導くという特別の責任を負うからです。

人を間違った道に導く人は、自分自身の罪と、他の人を神から遠ざけてしまった罪と、人一倍、厳しい罰を受けます。

しかし、イエスが律法学者を非難した理由が、もうひとつあるように僕は考えます。

このことはアウトラインの5番でもう一度見てみたいと思います。

アウトラインの4番に行きましょう。

4.貧しいやもめの献金

4.1.クリスチャンのモデルとして(2コリント8:1−4)

41節、「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。」

新改訳聖書の注釈によれば、レプタ銅貨一枚は一デナリの128分の一に相当する値、一デナリは大体、労働者一日分の賃金であったといわれています。

例えば一日に12800円稼いだとすれば、一レプタは百円。二枚で二百円となります。

しかし、実際の価値が正確にどれだけであったのか、ということはあまり重要ではありません。

重要なのは、その二百円がこのやもめにとってどのようなものであったのか、ということです。

43節、「すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」

この二百円は、おそらくは目で見て分かるほど貧しかったであろうやもめの生活費の全部でした。

生活費の全部、というのは、そのやもめの持っていた全財産、という意味よりは、その日、やもめが生活に必要なもの、主に食料であると考えられますが、その生活に必要なものを買わずに、代わりに全部を献金した、という意味であると考えます。

この箇所は多くの注解書で、またおそらくはいろいろなメッセージの中で、クリスチャンが習うべきモデルとして引用される箇所ではないかと思われます。

確かにクリスチャンは、献金をするとき、余分な分を献金するのではなく、自分の必要を覆しても、捧げることが薦められると考えます。

開かなくてよろしいのですが、第二コリント人への手紙8章1節から4節には、マケドニアの諸教会のクリスチャンたちが極度の貧しさにもかかわらず、自ら進んで、与えられた力に応じ、いや、力以上にささげたことが、パウロによって賞賛されています。

ですが、はたしてこの箇所はそのようなクリスチャンのモデルとしてのやもめの献金が伝えられているのでしょうか?

もしかしたら、必ずしもそうではない、と考えられます。

4.2.律法学者への非難として

アウトラインの4.2ですが、まず第一にこの献金はエルサレムにあった宮で行われた献金でした。

この宮は11章で祭司長、律法学者たちが不当な利益を得る「強盗の巣」とイエスによって非難されました。

さらに今日の箇所のすぐ後、13章では、イエスが、宮に対して、「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」と言います。

ここでいわれている「献金」はおそらくは旧約聖書の律法によって求められたささげものではなく、いわば自由意志の献金であったと考えられます。

イエスはそのような宗教的なささげものよりも人の必要のほうを重んじる人でした。

すなわち、マルコの福音書7章で、神にささげるコルバンよりも、自分の両親の生活の必要を支えることのほうが神の意思にかなっていることを言いました。

旧約聖書によれば、貧しいやもめのような人は三年ごとにささげられる十分の一のささげものによって、その生活が支えられるべきであることが申命記の14章で言われています。

このやもめは確かにその行いから、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れましたが、果たしてそれが薦められるべき行いであったのかどうかには疑問が残ると僕は考えます。

40節で律法学者たちが「やもめの家を食いつぶし」と言われましたが、そのすぐ後でこのやもめの献金が語られているのにはなんのつながりもあいでしょうか?

自分の生活費のすべてを宮にささげるべきだと教えられたやもめが、そのとおりに行った、その律法学者の教えの残酷さ、強欲さを示す箇所であったのではないか、そのようにも考えられるのではないでしょうか。

この箇所が果たして、クリスチャンのモデルとして伝えられたのか、それとも、律法学者への非難として伝えられたのか、ここでは結論をすることを避けますが、もしクリスチャンのモデルとして伝えられたとしても、それは律法学者への非難を含んでいるものであったと考えられます。

なぜなら、律法学者はやもめの家を食いつぶしても自分の強欲を満たそうとしましたが、やもめは逆に自分の必要すべてを神にささげたからです。

マルコによる福音書11章と12章は、イエスがエルサレムに入城してからずっと、律法学者たち─それは祭司長、長老、パリサイ人、サドカイたちを含め─人々に神の言葉を教えるべき人たちが、その神の言葉を正しく理解せず、また自分たちの欲のために、誤った教えを教えていたことを非難するものであったと考えられます。

5.イエスというキリスト

まとめましょう。

新約聖書によれば、イエスは、ダビデの子孫でした。

マタイとルカの福音書ではイエスの父ヨセフ、母マリヤがそれぞれダビデの子孫であることを記しています。

マルコの福音書ではイエスの血筋については触れられていませんが、10章で盲目のバルテマイがイエスを「ダビデの子」と呼んでいました。

このダビデの子孫は、また、旧約聖書によれば、神に選ばれた王、人々を罪から救い、神のもとへと導くキリストでした。

このキリストは、歴代のイスラエルの王がそうであったように、結局は罪ある単なる人間、ではありませんでした。

イエスの1000年前、ダビデがこのキリストを主と呼んだように、このキリストはすでに存在し、実に時のはじめから、人はこのキリストによって罪から救われることが定められていました。

このキリストは単なる人ではなく、実に神が人となってこの世界に来てくださった方だからです。

イエスがこのキリストです。

人を神へと導くべき神の教えが曲解され、捻じ曲げられ、誤った教えによって、人々が神の元から切り離されていることへの憤りが、イエスが律法学者たちを非難した理由であったでしょう。

しかし、イエスが律法学者たちを非難した、さらにもうひとつの理由があります。

それは、イエスが律法学者たちによって殺され、その死によって、イエスに信頼するすべての人の罪の罰を受けることが、神の計画であったからです。

私たちの罪が赦され、神に受け入れられる、それがただひとつの方法でした。

いわばイエスはそのためにも、律法学者たちを非難しました。

イエスが律法学者たちを非難し、律法学者たちが自らの罪のためにイエスを憎み殺してしまうことによって、神は私たちの罪をイエスの死によって解決してくださるためでした。

それはなんとも不思議な計画ですが、イエスの死が自分の罪の結果だと受けいれる人たちを、神は今、受け入れて下さろうとしています。

イエスは神が時のはじめから、ダビデの時代のずっと前から、人々を救うためにこの世界に遣わされた救い主、キリストであるからです。

祈りましょう。

もし、今日、イエスに頼って、自分の罪を神に赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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