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マルコ14章12節から31節まで
1.明日、自分になにが起こるのかが分かったら...
2.過越の祭りと種なしパンの祝い
3.過越の食事の用意の「奇跡」はなにを伝えているのか?
4.ユダの裏切りは予め知られていた/定められていた?
5.パンとぶどう酒が象徴することは?
6.人間の弱さと神の計画の確かさ
6.1.ユダの裏切り/つまずき/ペテロの弱さ
6.2.イエスの準備/イエスの予言/書いてあるとおりに/契約/よみがえり
種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。
「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。
「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。そして、その人がはいって行く家の主人に、
『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』
と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
弟子たちが出かけて行って、都にはいると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
弟子たちは悲しくなって、
「まさか私ではないでしょう。」
とかわるがわるイエスに言いだした。イエスは言われた。
「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。
「取りなさい。これはわたしのからだです。」
また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。
「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。イエスは、弟子たちに言われた。
「あなたがたはみな、つまずきます。
『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』
と書いてありますから。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
すると、ペテロがイエスに言った。
「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
イエスは彼に言われた。
「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
ペテロは力を込めて言い張った。
「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
みなの者もそう言った。
マルコによる福音書14章12節から31節まで(新改訳聖書)
みなさん、こんにちは。
いつもどちらかといえば固めの話なので、きょうは他愛もない経験話から始めたいと思います。
あれは僕が高校生のときでしたが、好きな女の子がいました。
それだけならいいんですが、僕はなぜか、相手の女の子も自分のことを好きなんだと思ってしまったようです。
で、自分も好き、相手も好き、そう思ってしまった、それだけならいいんですが、僕はなぜか、これは自分は相手に告白しなければならない、と考えてしまったようです。
で、あるとき、どうしたんでしょうか、手紙を書いたか直接言ったか、学校の帰り道、一緒に散歩することができたんですね。
そこで、僕はもう何を言ったのかは忘れてしまいましたが、おそらく、好きです、付き合ってください、みたいなことを言ったんでしょう。
結果は、どうだったでしょうか?
もう、皆さんは予想できていそうですが、彼女の答えは「あなたのことはなんとも思っていません」、みたいな答えでした。
ああ、この答えが分かっていれば、告白なんてしなかったのに〜というような経験をされた方はいらっしゃるでしょうか?
ああ、この先自分に、一体、なにが起こるのかが分かっていたら、明日、自分になにが起こるのか分かっていたら、と思ったことはないでしょうか?
クリスチャンでもクリスチャンでない人でも同じようにそう思うようですね。
そして、クリスチャンでもクリスチャンでない人でも、ある場合に、自分がなにをするべきなのか、自分を導いてくれるなんらかのしるしを求めるようです。
「神様、もし、私は今の仕事をやめて、別の仕事につくべきであるのなら、どうかそれが神の御心であるというしるしを見せてください。」
「神様、もし、この人が私の生涯のパートナーとなるべき人であるのなら、どうかそれが神の御心であるというしるしを見せてください。」
神は確かに、もし神がそう望まれるのであるなら、そのようなしるしを見せることのできる方です。
ですが、問題は果たして私たちがそのようなしるしを求めたときに、神は私たちに私たちの求めるしるしを与えてくださると約束されたでしょうか、ということです。
今日の聖書箇所にも、不思議な神の導きとも言える奇跡のような出来事が記されていますが、果たして私たちは同じようなしるしを今も求めるべきでしょうか?
それでは、今日の聖書箇所を見ていきましょう。
ずっとマルコによる福音書を学んできました。
月に一度、1章から初めて今日で、何回目でしょうか、実は38回目です。
3年越しでやっているわけですが、今日の箇所は14章12節から、イエスが十字架で処刑される一日前の箇所です。
12節から読んでみましょう。
12節、「種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」」
おとといはオーストラリア・デイでしたね。
1788年にイギリスから植民船が始めてシドニーに来た1月26日を記念して、200年経った今でも、それをオーストラリア・デイとしてお祝いします。
過越の祭りと種なしのパンの祝い、というのはユダヤ人の記念日です。
今から3300年ほど前に、そのころエジプトを治めていたファラオのもとで、奴隷として苦しめられていたユダヤ人たちを、神が預言者モーセを通して救い出したことに基づきます。
これは何回も映画にされていますね。
最近では、ってもう8年前ですが、スティーブン・スピルバーグのアニメ映画、 Prince of Egypt という映画にもなりました。
この話はもともとは旧約聖書の出エジプト記に記されていて、神は神に聞き従わないエジプトのファラオに対して10の災いをもたらしました。
その第十の最後の災いは人間から家畜に至るまで、「すべての初子(初めに生まれた男の子)を殺す」というものでした。
そのときユダヤ人はあらかじめ自分の家の戸口に小羊の血を塗ることでしるしをつけて、その印のあった家には災いが及ばなかった、すなわち、神の裁きが過ぎ越されました。
それを記念して、過越しの祭りには小羊を殺して、その肉をその日のうちに食べるそうです。
実は、この小羊を殺すことと、その肉を食べる、その場所が旧約聖書には示されています。 申命記の16章に書かれていますが、その場所は神が御名を住まわせるために選ぶ場所と言われています。
それはどこでしょうか、イエスの時代には、それは、すなわちエルサレムにある神の神殿でということであったでしょう。
さらにその時間も定められていて、夕方、日の沈むころ、ユダヤ人がエジプトから出た時刻に、過越のいけにえをほふらなければならない、と言われています。
そして、神が選ぶその場所で、神の神殿で、それを調理して食べなさい、と言われています。
ですから、過越しの祭りのあるとき、エルサレムは過越しの食事をするためのユダヤ人たちでいっぱいになっていたでしょう。
シドニーハーバーのニューイヤーズイブの花火を間近でよい場所でみるために、早めに行って場所を確保しておかなければなりませんね。
この過越しの食事も同じようです。
多くの人がエルサレム内で過越しの食事をしようと来るわけですが、その場所はいったいどこにするのか、それはもしかしたら悩みの種であったかもしれません。
弟子たちはイエスに「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」と聞いたのでした。
もし、僕が「シドニーハーバーのニューイヤーズイブの花火を間近で見るのに、どこで準備をしましょうか?」と、12月31日の夜の6時ごろに誰かに尋ねたとしたらどうでしょうか?
「なに言ってんの?準備するにはもう遅すぎますよ、もうどこもいっぱいですよ」、というのが答えですね。
JGCの皆さんは朝から場所を確保したのでしたっけ、それだけ前もって準備しておかなければならないわけです。
このとき弟子たちはその日になってイエスに「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか」と聞いているわけですが、もしかしたら、普通なら「準備するには遅すぎる」という状態であったかもしれません。
さて、続く次の箇所は興味深いのですが、この次の箇所がいったい何を私たち読者に言っているのか考えながら見てみてください。
13節、「そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」弟子たちが出かけて行って、都にはいると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。」
この二人の弟子が誰であったのか、並行するルカの福音書によればこれはペテロとヨハネのことであったと言われています。
何度か触れましたが、マルコによる福音書はペテロの言葉をマルコが記したものと言われています。
ここで事細かに状態が伝えられているのは、ここでペテロが実際に使いに行ったからでしょう。
さて、ここの箇所は果たして何のことを伝えているのでしょうか?
ある人によれば、ここはイエスがあたかもこれから起こることを予言して─これは予め起こる出来事を言うことの予言ですね─不思議に備えられた場所を見つけることができた、そんな奇跡の話を伝えている、と考えられるようです。
この箇所に書かれているとおり、イエスが弟子たちを導いたように、いまでも預言者と呼ばれる人たちが、これこれこの町に行って、これこれこういう人に出会うから、その人の言われるとおりにしなさい、なんてことを言うことがあることを耳にしますが、果たしてこの箇所はそんな奇跡の話を伝えているのでしょうか?
イエスは確かに、人となった神であって、神であるならばそんな奇跡もイエスが望むのであれば起こすことができますが、この箇所はそんなことを言っているのでは実はないと考えられます。
マルコによる福音書ではイエスはただ一度だけ、この箇所に記されているときにエルサレムに来ましたが、実はヨハネの福音書によれば、イエスはユダヤの祭りのあるたびにエルサレムに来ていたことが伝えられています。
ですから、イエスが予め、この水がめを運んでいる人の主人と打ち合わせをして、主人がイエスとその弟子たちのために過越しの食事ができるための準備をしていたことはなにも奇跡的ではありません。
さらに、イエスの時代、水がめで水を運ぶのは女性の仕事だったそうです。ですから水がめを運んでいる男性、というのはとても目につきやすい、イエスがそんな準備をしていたことをおそらくは知らなかった弟子たちにとってはとてもよい目印になったでしょう。
アウトラインの三番の過越しの食事の用意の「奇跡」はなにを伝えているのか、の答えは、むしろ、ここは奇跡のことを伝えているよりも、準備を全くしていなかった弟子たちとは対照的にイエスが、前からこの過越しの食事を弟子たちと一緒にとるために準備をしていたことが伝えられているのではないかと考えられます。
アウトラインの4番、17節に行きましょう。
17節、「夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」」
イエスは十二弟子の一人、イスカリオテのユダによって裏切られ、イエスを殺そうと機会をねらっていた祭司長たちに引き渡されました。
「裏切り」とは信頼をされていた人が、信頼していた人の期待を裏切って行われるものですね。
普通、信頼している人は、自分の信頼している相手が、自分を裏切る人なんて思いもしません。
ですから「裏切る」なんてことができるわけですが、しかし、イエスの場合、イエスはユダが自分をこれから裏切ることを知っていました。
この箇所では十二弟子のひとり、とまでしか言われていませんが、並行するマタイの福音書、ヨハネの福音書では、イエスが裏切り者はユダの事であることを知っていたことが記されています。
なぜユダの裏切りを知ることができたのか、イエスの神としての超人間的な力か、もしくは人間的にも、ユダのそれまでの行動、言動は彼の裏切りを十分に予感されたものなのか、分かりません。
ユダの裏切りはイエスによって予め知られていましたが、しかし、それは予め知られていただけでなく、神によって予め定められていたものでもあります。
使徒の働き2章ではイエスの十字架での死の後、ペテロがエルサレムにいたユダヤ人たちに対してスピーチをしますが、そこでこのように言っています。
開かなくてよろしいのですが、使徒の働き2章22節と23節を読みます。
これはペテロの言葉です。「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」
この箇所には「神の定めた計画と神の予知とによって引き渡された」と言われています。
すなわち、イエスがユダによって裏切られることは予め知られていただけでなく、そう定められていた、ということになります。
神はユダがイエスを裏切るようにあらかじめ定められていた、あれ、そうすると、ユダがイエスを裏切ったのはユダの罪ではなく、神によってそう定められていたということ?
もしそうならユダに裏切りの罪はあるのですか?
というよく知られた、英語で言うと predestination と free will の関係、日本語なら運命予定説と自由意志との関係でしょうか、そのような神学的な議論になってしまいます。
もし興味のある方は交わり会の時にでも、僕なり小林先生なりヘイマン先生なりに、聞いてみていただければと思います。
しかし、ここで言われていることは、確かに神はユダが裏切ることを予め定めていましたが、だからと言って、ユダがイエスを裏切ったことをの責任を逃れられるわけではない、ということです。
イエスは、イエスを「裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」と言いました。
なぜ神はユダの裏切りを予め定めていたのでしょうか?
続けて、次の箇所を読みましょう。
アウトラインの5番です。
22節、「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。」
私たちは現在、聖餐式として、この箇所で言われていることを守り、パンとぶどう酒、またはぶどうで作られた飲み物、すなわちグレープジュースですが、それらを口にします。
イエスは、パンを取って「これはわたしのからだです」と言い、またぶどう酒を取って「これはわたしの血です」と言いました。
ある教会では、この言葉をもって、聖餐式で使われているパンとぶどう酒は聖餐式のときにその霊的な特性が変化して、実際にパンは「イエスのからだ」に、ぶどう酒は「イエスの血」になるのだ、と考えるそうです。
そのような教会では聖餐式で余ったパンとグレープジュースを捨てたりはしません。
聖職者と呼ばれる人たちが責任もってそれらを食べたり飲んだりするそうですが...
ですがここでは、パンがイエスのからだになる、ぶどう酒がイエスの血になる、などということは言われていないと、僕は考えます。
これは僕の知っている牧師の受け売りなのですが、この箇所のもともとの原語、すなわちギリシア語においては、名詞は男性形、女性形、もしくは中性形に分けられるそうですね。
パンは男性形、ワインも男性形、そして杯は中性形だそうです。
そしてギリシア語で「これ」という言葉は、その指すものの文法的性別によって、男性形、女性形、もしくは中性形の「これ」という言葉を用いるそうです。
もし「これはわたしのからだです」とイエスの言った「これ」がパンを指しているのだったら、男性形の「これ」が用いられるはずです。
そして「これはわたしの血です」とイエスの言った「これ」がぶどう酒を指しているのだったら、男性形の「これ」が用いられるはずです。
実は、この箇所で用いられている「これ」という言葉は、中性形が用いられているそうです。
ということは、イエスがパンをとって、「これはわたしのからだです」と言ったとき、「これ」という言葉はパンそのものをさすものではないと考えられます。
またイエスが、ぶどう酒をとって、「これはわたしの血です」と言ったとき、「これ」という言葉はぶどう酒そのものをさすものではないと考えられます。
文法的にはそれでは中性形である杯なら「これ」が指すものに対応する可能性がありますが、杯がイエスの血であると考える人はまずいません。
それではイエスのいう、「これ」とはなんのことを言っているのでしょうか?
それは「パン」そのものではなく、「パン」によって表現されるもの、アウトラインには象徴するものと言いましたが、パンをもって、私たちが思い起こすこと、それが「イエスのからだ」である、ということではないかと考えられます。
「ワイン」そのものがイエスの血なのではなく、「ワイン」が象徴するもの、それがイエスの血であるということです。
ですから、聖餐式の後、残ったパンとグレープジュースは、あくまでもパンとグレープジュースであって、なにか霊的に変化して聖なるものになった、と考えることはできないと僕なら考えます。
それは、本題とは外れた、寄り道だったわけですが、それではパンが象徴する、イエスのからだとはなんのことを指しているのでしょうか?
これは過越しの食事であり、この箇所の初めで「過越しの小羊」をほふる日に、と言われているのに、この箇所には小羊について、全く触れられていないことは大変、興味深いです。
おそらく、イエスは彼自身が、神の裁きを免れるために殺されるべき、神の小羊であり、彼のからだがその肉であることを象徴しているのではないか、そのように考えます。
また、ぶどう酒が象徴するものについて、イエスは「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」と言いました。
エジプトでの第十番目の災いの日、小羊の血によってしるしのあった人たちは災いから救われましたが、神の小羊であるイエスの血によって、人々が神の裁きから救われる、そのことを言っているのかもしれません。
このイエスの肉と血を食べたり飲んだりすることについては、ヨハネによる福音書では、それはイエスこそが、天から来た生けるいのちのパンであり、いのちの水であることが言われています。
この世界の普通のパンを食べ、ぶどう酒を飲んでもやがて、わたしたちは飢え、渇き、最後には死んでしまいます。
しかし、イエスのからだとイエスの血を食べたり飲んだりすることは、イエスを通して、私たちは本当のいのちを得ることができることを表している、そのようにも考えます。
イエスは言いました。「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
イエスがここで言った、ぶどうの実で造った物、というものが、なにか特別な飲み物のことであったのか、それとも、ユダヤ人たちがそのころ日常的に食事と共に飲んでいたぶどう酒のことなのか、それともなにかを象徴しているものなのか、僕は知りません。
分かっていることは、次にイエスがぶどうの実で造った物を飲むとき、それは神の国が到来している日であること、すなわち、神の国が、もうそこまで来ていたことがいわれていると考えられます。
その後、彼らはエルサレムの外にあるオリーブ山へ向かいます。
もしイエスがユダの裏切りを知り、そしてユダはイエスがイエスを支持する人々があまりイエスの周りにいないような機会をねらっていたとしたら、彼らはまさにそのユダの望む場所へと出向いて行ったということになります。
これもイエスがこれから祭司長たちに差し向けられた群集によって自分は捕らえられ、不法な裁判にかけられ、打ちのめされ、最後には殺されることを知りつつ、そうしたのではないか、そのように考えます。
なぜ神はユダの裏切りを予め定めていたでしょうか?
それは、ユダの裏切りによってイエスが十字架にかけられる、その神の計画が成し遂げられるためであったでしょう。
アウトラインの6番です。
27節、「イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。」
この『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてある、と言われているのは旧約聖書ゼカリヤ書13章7節であると考えられます。
そこには神が羊飼いを打つ、ということが言われていますが、イエスが自分がその羊飼いである、と言ったのは、実に神がイエスを打つ、という意味になるでしょう。
イエスの弟子たちはイエスが捕らえらたとき、確かにイエスを見捨て、イエスの前から逃げ出しました。
「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、イエスを知らないなどとは決して申しません」とペテロと共にイエスの弟子たちはみながそう言った、と言われていますが、しかし、実際に死の恐怖の前に立たされたとき、彼らはみなつまずきました。
今日のこの箇所は実に人間の弱さを伝えている箇所であると考えます。
まず、ユダの裏切りがあります。
なぜユダがイエスを裏切ったのか、その核心を突くような記述は聖書に見られません。
ただ、ユダが弟子たちの公共のお金をごまかして自分のものとしていたこと、また裏切りの報酬に金を要求していたことなどを考えると、神の救い主を裏切ったその理由は単に「金のため」であった、という思いがしてなりません。
しかも、それは世界で一番のお金持ちになる、というような額ではなく、マタイの福音書によれば、銀貨30枚、まったくたいした額ではないお金のためでした。
果たしてそんな少しのお金のために人は神の救い主を裏切るでしょうか?
いや、しかし、実に多くの人が、そんな少しのお金のために、そんな少しの自分のやりたいことのために、そんな少しの自分のわがままのために、神の救い主をないがしろにし、無視し、或いは信じるといいつつ、裏切っているのではないか、と思えてなりません。
それでは、イエスを愛すると言っていた弟子たち、「たとい、死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません」と言っていたペテロや他の弟子たちはどうであったでしょうか?
実際にイエスと共に捕らえられる危険にあったとき、イエスと共に鞭打たれなければならないとき、イエスと共に死ななければならないとき、彼らはみなイエスを見捨てました。
私たちはどうでしょうか?
いま、なにも困難のない状態で、イエスを信じる、イエスについていく、イエスの言葉に従うと言っていても、果たして、実際に現実にイエスを信じることのゆえに困難に会ったとき、それでもイエスを見捨てたりしないでいることができるでしょうか?
ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と言いました。
彼はそのとき、本気に、誠実にそう思っていたでしょう。
しかし現実はどうであったでしょうか?
彼は自分自身の身が危険にさらされたとき、イエスが予言されたとおり、イエスを見捨て、イエスを知らないと言いました。
今、私はイエスを信じています、と言っている私たち、その私たちには、ペテロと同じ弱さが果たしてないものでしょうか?
このように、人間は実に弱いものですが、しかし、神はそうではありません。
今日のこの箇所には神、そしてイエスが、予め過越しの食事の準備をしていたこと、イエスの予言のとおりに、また聖書に書かれているとおりに、すべての出来事が起こったこと、神がイエスの血によって契約を結んだこと、そして、多くの人の罪を負って、イエスは一度死にますが、しかしその後よみがえることが言われ、そのとおりに、イエスはよみがえりました。
この箇所は私たち人間がいかに弱いものであるかを示していると同時に、神が、神の定めた計画がいかに確かなものであるかを示していると思います。
私たちは明日、なにが私たちにいったい起こるのか分かりません。
或いは、これから自分になにが起こるのか、それが分からず、そのことで心の中がいっぱいになってしまうかもしれません。
自分ではどうしようもないような問題を抱え、途方にくれてしまうようなときがあるかもしれません。
私たちは目を上げて、神が私たちになにをしてくださったのかに目を向けるべきです。
たとえ、この世界でなにが起きようとも、神が私たちを愛し、私たちの罪を赦し、私たちとともにいてくださる、そのことを約束してくださったことをもう一度思い起こすべきです。
神は私たちが神に立ち返る道を予め計画し、備え、準備していてくださいました。
この道を私たちは歩むのです。
明日はいったいどうなるのか、そんなしるしを求める必要は実はないのではないでしょうか。
祈りましょう。
今日、イエスに頼って、イエスが自分の罪をおって、十字架に死んだことを信じるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の神として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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