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マルコ12章28節から34節まで
1.人が守るべき教えで、なにが一番大切ですか?
2.「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」
3.「神を愛する」とは?
3.1.神のことを思う
3.2.神の国とその義を求める
3.3.神の言葉を実行する
4.「隣人を自分自身のように愛する」とは?
4.1.「隣人」とは?
4.2.「自分自身のように愛する」とは?(マタイ7:12)
5.神の命令を守る動機
律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。
「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
イエスは答えられた。
「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
そこで、この律法学者は、イエスに言った。
「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。
「あなたは神の国から遠くない。」
それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。
マルコによる福音書12章29節から34節まで(新改訳聖書)
みなさん、こんにちは。
僕とルイースは一緒に映画を見て─映画といっても最後に映画館で見たのは確か、トム・クルーズのラスト・サムライでしたが、DVDを借りて家で見る映画です─そして、映画についていろいろな批評をしあうことをします。
批評といっても、この俳優の演技は真に迫っている、とか、この特殊効果はよくできている、とかそういうことではなくて、その映画が伝えようとしているメッセージはどんなものか、もし自分がその演じられている役割におかれたらどうするか、というような批評です。
実に、映画を見ていると、たいてい、そこには何かしらのメッセージが伝えられているように思います。
例えば、人は自分の心に素直になるべきだ、とか、家族の絆が一番大切なものだ、などですね。
映画に限らず、小説を読んだり、歌を聴いたりすれば、そこには「なにが大切なのか」というようなメッセージがあるものです。
人が守るべき教えで、なにが一番大切でしょうか?
昨日、直美に聞いて見ました。
直美が守らなければならない教えで、なにが一番大切ですか?
直美(このとき6歳)は「ピアノをしっかり練習すること」 :) と言っていましたが、皆さんはなにが一番大切だと思われるでしょうか?
今日の箇所から聖書は、人が守るべきどの教えが一番大切であるのかを教えているのか、学びたいと思います。
マルコによる福音書を1章からずっと見てきました。
前回は、サドカイ派と呼ばれる人たちがイエスの前に来て、イエスに質問しました。
「すべて死んでしまった人たちは、完全にいなくなってしまったのではなく、やがて死からよみがえる、という教えは聖書─ここでは特にモーセの五書と呼ばれる、旧約聖書の初めの5書を指しますが、その聖書─にないし、死んだ人がみな生き返る、などという現象は理屈に合わない。この教えについて、イエスさん、あなたはどう考えていますか?」
と、こういう言葉でイエスに質問したわけではありませんでしたが、サドカイ派の人たちがした質問の内容はこのようなものでした。
それについてイエスはどう答えたでしょうか?
「あなたは聖書を読んだことがないのですか?」
もちろんサドカイ派の人たちは聖書を呼んではいたでしょうが、その伝えるところを正しく理解していた、とは言いがたかったでしょう。
むしろ彼らは自分たちの都合の良いように、聖書を解釈し、自分の理解の及ばないこと、たとえば、霊とか、天使とか、復活、などということはない、と主張していました。
私たちも、ともすれば、自分に都合のいいところ、自分の納得できるところだけは、聖書は良いものだ、と同意しますが、自分に都合の悪いところ、自分の気に入らないところは、それは神の言葉ではない、神の意思ではない、としてしまう場合があります。
ときには意図的に、時には無意識に、しかし、そんな思い違いをするのは、結局、聖書を知らない、神の力も信じないから、だとイエスは言われます。
死んだ人がよみがえることは、神がモーセに「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われたこと、すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブはモーセの時代にはもう死んで何百年も経っているのに、神は私は「彼らの神であった」と過去形で言わず、今も彼らの神である、という言葉から、死んでしまった人は完全にいなくなってしまったのではなく、まだ存在し、いずれよみがえることが示されているとイエスは教えました。
このイエスとサドカイ派の人たちとの議論を聞いていたある律法学者が今度はイエスの前に来て、質問しました。
今日はマルコによる福音書12章28節から見ていきます。新改訳聖書の後ろのほう、85ページを開いてください。
28節、「律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」」
サドカイ派の人たちが霊、御使い、復活を信じていなかったのに対して、パリサイ派と呼ばれる人たちはこれらを全部認めていて、サドカイ派とパリサイ派はときには激しい議論をしたということを前回見ました。
マタイの福音書によると、この律法学者はパリサイ派の人で、イエスをためそうとして、たずねた、とあります。
このパリサイ派の律法学者はサドカイ派の人と違って復活を信じていたはずですが、大変に良く知られたこのモーセの柴の箇所から復活があることを教えられたことはおそらくなかったでしょう。
ああ、そんな解釈あるのか、それは大変に納得できるものだ、と、イエスの答えに彼は感心したかもしれません。
彼はイエスがみごとに答えられたのを知って、イエスにたずねた、とあります。
「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」
新共同訳聖書では「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と訳されています。
神の命令の中で、どれが一番大切か、それを知ることは大変有意義ですが、もしそれを知ることができたとしても、もしその命令を守ろうとするのでなければあまり意味がないでしょう。
私たちには神の命令を知って、そしてそれを守ろうとする、動機があるでしょうか?
これからアウトラインの3番と4番でイエスが示した一番大切な神の命令について見ていきますが、しかし、もしこれらの言葉を聴いても、その命令を守りたい、という動機が心の中にないのなら、聴いてもそんな言葉を守ろうとすることはおそらくない、また表面的に守っていたとしても、動機が悪ければ守っていないのも同じではないかと考えます。
この一番大切な神の教え、その教えを守るさらに大切であろう、私たちの動機については、アウトラインの5番でもう一度考えてみたいと思います。
まずはイエスの答えを見てみましょう。
29節、「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」
この言葉は旧約聖書、申命記6章4節と5節の引用です。
旧約聖書は新改訳聖書では全部で1439ページあって、いろいろな神の命令が記されているわけですが、どれが一番大切かと問われ、イエスはこの一句を教えました。
「神を愛する」とはどのようなことを言うのでしょうか?
「愛する」という言葉はいろいろな意味で使われますね。
私はクラシック音楽をこよなく愛しています、なんていうときには、時にはクラシック音楽を聴くことがとにかく好きだったり、場合によってはクラシック音楽を自分で弾くことにいのちをかけていたりするでしょう。
愛する、という言葉はまた、恋人同士の間で「愛しているよ」「愛しているわ」「愛しているよ」「愛しているわ」と何度も交わされる言葉でもあります。
「愛する」という言葉自体はいろいろな感情や行動を含んでいて、それがそのまま神を愛する、というその愛するという言葉に当てはめられるわけではないと思います。
「神を愛する」とは一体、具体的にはどのようなことを言うのでしょうか?
アウトラインに三つ上げてみました。
まずそれは、神のことを思うことではないかと考えます。
神のことを思う。
私たちはともすれば簡単に忘れてしまいますが、聖書の神、ただ一人真実の神は、この世界を作り、支えている方です。
シドニーのような都市に住んでいると、夜、空を見上げてみても薄暗く、まばらに星が小さくあちこちに見えるだけですが、都市を離れて、空を見上げればどうでしょうか?
ブリスベンに車で旅する途中、同僚に誘われて見てきたのですが、すばらしいですね。
空いっぱいに星が輝いています。
山や海、広がる大自然を見て、心が動かされたことはないでしょうか?
いったいこんなに美しい世界を誰が作ったのでしょうか?
聖書はまた、この世界でたとえすずめが一羽、地に落ちるようなことさえも神が許されなければ起こることがない、と教えています。
私たちは神のことを、あたかもちり紙のように、取るに足らないものと、考えさえするかもしれませんが、神は実は私たちのことをすべてご存知です。
皆さんは自分の髪の毛が何本あるか、ご存知でしょうか?
たとえ自分のことであっても普通はそんなことは知らないわけです。
しかし、神は、神と呼ばれるだけあって、私たちの髪の毛の数さえ、知っておられる、と聖書は教えます。
その神を私たちは忘れてしまうのです。
それはなんとも愛のないことではないでしょうか?
神を愛する、とはまず第一に、世界を創造した、私たちを作られた、神のことを思うことだと考えます。
それでは、一日中、なにもしないで神のことをただ考えていれば神を愛することになるのか、というとそうではないでしょう。
神を愛することの第二として、神の国とその義を求めることが考えられます。
イエスは言われました、マタイの福音書6章ですが、神を知らない人たち、神を忘れている人たちが、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかとこの世界のことばかりを考えているのと違って、神を知っている私たちは、神の国とその義をまず第一に求めなさい。
神の国、とは神が王である国のことですが、それはやがて来る、完全な神の国のことでもあり、また、この世界においてすでに、人が神を自分たちの王として生きるなら、この世界にすでにある、目に見えない神の国のことでもあります。
もしあなたがすでに、神は自分の王であり、私はその権威の下でこの世界に生きているのだ、ということを認めているのでしたら、そのあなたにとって神の国とその義を求めることは、少なくとも一面には他のまだ神の国を知らない人たちに、神のことを伝えることが神の国を求めることとなると考えます。
マルコによる福音書の4章で学びましたが、神の国とは小さなからし種が地にまかれ成長して大きくなるように、この世界にあって広まるものです。
そしてその神の国のメッセージが広められるのを担うのは私たちです。
神を愛するとは、自分が聖書から受けた神のメッセージを他の人に伝えることであると考えます。
神の国とその義を求めること、そして第三に、神を愛する、とは神の戒めを守ることであると考えます。
ヨハネによる福音書14章でイエスは言いました、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」
神を愛するとは神の命令を守ることです。
律法学者は「すべての命令でどれが一番、大切ですか」と尋ねましたが、イエスの答えはひとつの命令にとどまらず、一番大事なのは二つです、という答えでした。
すなわち、この一つ目の命令と二つ目の命令は、それ一つだけでは完全でないものであることが理解されます。
その二つ目の命令はこうでした。
31節、「次にはこれです。『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
「あなたのとなりびとをあなた自身のように愛せよ」
これはレビ記19章18節の引用です。開かなくてよろしいのですが、もともとはこう言われていました。
「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」
すなわち、あなたの隣人とはレビ記の文脈では自分の国の人々のことであって、そこには同胞愛とも言うべき、関係があったでしょう。
それでは、現在の私たちにとって、隣人とは一体、だれのことでしょうか?
ルカによる福音書10章25節から37節を開いてください。新改訳聖書新約聖書の122ページです。
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
イエスは言われた。
「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
イエスは言われた。
「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。
「その人にあわれみをかけてやった人です。」
するとイエスは言われた。
「あなたも行って同じようにしなさい。」
ルカによる福音書10章25節から37節まで(新改訳聖書)
これはいわゆる、良いサマリア人のたとえとして知られている箇所です。
サマリア人というのは純粋なユダヤ人ではなく、ユダヤ人とそうでない人との混血でユダヤ人たちからさげすまれていました。
祭司もレビ人も宗教的な指導者たちでしたが、彼らは同胞のユダヤ人が助けが必要なとき、見て見ぬふりをして通り過ぎました。
ところがユダヤ人にさげすまれていたサマリア人がこのたとえでは強盗に襲われたユダヤ人を油やぶどう酒、お金や時間の犠牲をもって介抱します。
もちろんこれはたとえであって、当時のすべての祭司、レビ人が同胞のユダヤ人を哀れまなかったことはなく、またサマリア人がすべてさげすまれつつもユダヤ人を愛し、助けるものであった、ということはありません。
しかし、このたとえはイエスの言う「隣人」とは誰のことを指すのかを教えています。
すなわち、たとえ、それが自分をさげすみ敵対するような人であったとして、自分とかかわりをもったならそれが隣人である、ということです。
「隣人を自分自身のように愛しなさい」
ここではただ、隣人を愛しなさい、と言われるのではなく、「自分自身のように」と言われています。
それはどういう意味でしょうか?
この「隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばはまた、有名なイエスの言葉、マタイの福音書7章12節ですが、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」という言葉を思い起こさせます。
ある人にとってはこの教えは良いものでもなんでもない、と言われることがあります。
何年か前にある知り合いが僕に言ったことだったのですが、例えばここに、自分は自分の頭をたたいてもらうことが好きな人がいたとしましょう。その人にとって、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」という教えは、自分は自分の頭をたたいてもらうのが好きだから、自分も他の人の頭をたたこうという教えになります。そんな教えははた迷惑ではないですか?
当時はなるほど、などと思ってしまったものですが、今考えてみると、この言葉が言われる前提を知っていなかったものだと今では残念に思います。
すなわち、これはエペソ人への手紙5章29節で言われていますが、「自分自身のように愛しなさい」という言葉には、正常な人は自分のからだを愛し、これを養い育てる、という前提がある、ということです。
普通、自分の身を守るとか、自分の益のために行動する、ということは、なにか特別な事情でもない限り、例えば自殺願望があるとか、そのような特殊な場合でもない限り、教えられなくても身に備わっているものです。
自分が傷つけば、教えられなくても自分を可愛そう、と思うものです。
しかし、他人が傷ついたとき、それを自分の痛みと同じように感じることができるでしょうか?
自分の痛みと同じように感じ、助けるために行動することができるでしょうか?
ただ表面的に相手を助けるだけでなく、自分自身がその状態に置かれているように、哀れみをもって、助けること、それが「自分自身のように愛する」ということではないかと考えます。
続けて今日の聖書箇所を読みましょう。
32節、「そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。 」
この律法学者は少なくとも神の命令のなにが大切なのかを理解しました。
儀式を重んじたパリサイ派の人にとって、全焼のいけにえや供え物よりも、神を愛すること、そして隣人を愛することが大切だ、と理解したのは大変良い、結果でした。
私たちはこの二つの神の命令を守れているでしょうか?
もしあなたがクリスチャンであるなら、あるいは私と同じように、私は神を愛しています、と言うことができても、それではその神の戒めをすべて守っているのか、と問われれば、いや、守れてはいない、と言うかもしれません。
なぜでしょうか?
イエスは言われました。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」
もしかしたら私たちは私たちが思っているほど、イエスのことを愛していないのかもしれません。
もしかしたら私たちはなにかほかのことに心を奪われてしまっているのかもしれません。
神が私たちになにをしてくださったのか、今一度思い起こす必要があるでしょう。
神は私たちになにをしてくださったでしょうか?
神は私たちがこんなにも不完全な、こんなにも愛のないものでありながら、見捨てず、私たちの罪を赦すために、イエスをこの世界に遣わし、彼に私たちの罪を負わせて、彼の十字架上での死において、私たちの罪を罰しました。
イエスが私たちの変わりに罰を受けたので、私たちは神に罪を赦されるのです。
ですから、私たちは、もし今日、神を忘れ、もしまた罪を犯してしまったとしても、神は赦してくださり、この世界にあっても、後の世にあっても、神とともに生きる人生を与えてくださいます。
私たちが、神を愛する、また隣人を愛する動機とはいったいなんでしょうか?
それは、まず、神が私たちを愛してくださったことを知ることです。
第一ヨハネの手紙4章19節、「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」
祈りましょう。
もし、今日、イエスに頼って、自分の罪を神に赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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