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マルコ12章18節から27節まで
1.もしこの世界が目に見えるだけの存在であるのなら…
2.聖書の復活の教え
2.1.正しい人も正しくない人もやがて復活する。
2.2.「肉体」をもって復活する。
2.3.「霊」の体をもって復活する。
3.サドカイ人?
4.七人の兄弟と一人の妻
5.「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか」
6.「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」->「復活」?
7.あなたには復活の希望がありますか?
また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。
「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」
イエスは彼らに言われた。
「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」
マルコによる福音書12章18節から27節まで(新改訳聖書)
僕は普段、CSIROのWireless Technologies Lab、日本語で言えば無線技術研究所というところに勤めているのですが、一年ほど前にあたらしく研究所所長が就任しました。
その人はもともとは中国の人で、とても人当たりが柔らかいのですが、たしか、最初のスタッフへの自己紹介のときだったと思うのですが、こんな冗談話をしました。
あるエンジニア─日本語では技術者でしょうか、このエンジニア─が死にました。
普通、エンジニアは良い人ですから─ってスタッフを持ち上げているんですが─天国へ行くのですが、この人はどういうわけか、地獄へ行きました。
ところが彼はエンジニアだったので、地獄は住みにくいなぁ、なんとか住みやすくしよう、といろいろ改良をして、ついに天国よりもすみやすい場所にしてしまいました。
もはやこの地獄はもともとの天国よりもすみやすいので、これからはこちらを天国と呼んで、あちらを地獄と呼ぶことにしましょう、とエンジニアは神様に提案しました。
ところが神様は言いました。
「そんなことはできません。そんなことをすれば、私は─私は民主主義の神ですから─あなたを裁判所に訴えます。」
そこで技術者は言いました。
「神様、それはできません。なぜなら弁護士は全員こちらに居るからです。」
なにが面白いのか良く分かりませんが、所長ともなる人になると、こういう冗談の言える人でなければならない、ということかもしれません。
それはそれとして、天国と呼ばれる場所は本当にあるのでしょうか?
ジョン・レノンは有名なイマジンという曲の最初にこう歌いました。
Imagine there's no Heaven
天国なんて存在しないと想像しましょう
この歌はそれから、国境なんて存在しない、宗教なんて存在しない、と想像しましょうと続くのですが、ジョン・レノンはおそらくは、宗教の名の下に起こる争い、戦争、殺人を批判して、このようなことを言ったのだと考えますが、もし、本当に、天国なんて存在せず、もし、この世界が目に見えるだけの存在であるとしたなら、どうなるでしょうか?
ジョン・レノンによれば戦争がなくなる、と考えられますが、果たしてそうでしょうか?
旧約聖書、伝道者の書ではこういわれています。1章の2節と3節ですが、分かりやすいので新共同訳聖書から読みます。
(コヘレトは言う。)なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。
伝道者の書1章2節と3節(新共同訳聖書)
太陽の下、というのは、その下で目に見える世界だけを現す言い方、ジョン・レノンに言わせれば「天国のない世界」であると考えます。
神なく、天国も地獄もなく、目に見える太陽の下の世界だけで生きるのが人のいのちなのなら、そのなかで何をしても結局は空しいだけだ、というのがこの伝道者の言葉です。
そして、はたして、それはたしかにその通りなのではないでしょうか?
もし、人は死ねばすべてが終わり、その先には何もない、ということならそれはいったいどういうことでしょうか?
どんなにこの世界で良いことをしても、どんなに悪いことをしても、結局は同じ、何もない、というところへ行き着く、ということですね。
どんなにすばらしいことをしても、どんなに多くの人の尊敬を受けることになっても、死んで全く存在しなくなった人にとってはなんの価値もないでしょう。
またどんなに多くの人を利用して、苦しめて、非道な生き方をしても、死んでしまえばそれまでです。 どんなに虐げられた人も、どんなに虐げた人も全く同様に何もない、というところへ行く、ということです。
そんな考え方を本当に心から受け入れられる人がどのくらいいるのでしょうか?
いいえ、聖書は、人は死んでもそれですべてが終わりではないことを教えています。
聖書は人の死後について、いったい何を教えているでしょうか?
へブル人への手紙9章27節には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。
人は死に、その後にさばきを受けると言われています。
第一テサロニケの手紙4章13節には、聖書は人が死んでいる状態のことを「眠っている」と言います。
その「眠っている」という言葉が果たしてなにを意味するのか正確なところは分からないのですが、眠っている人がいずれ目を覚ますように、人は死んだ後、目を覚まし、神の裁きを受けることが言われています。
この死んだ後に、死んだ状態からよみがえることを聖書は「復活」と呼んでいます。
復活とは、医学的に一度死を宣告された人が蘇生すること、とは違います。
たとえ死んで土の中に埋められ、体が土と同じようになっても、たとえ、肉体は燃やされて灰になってしまっていたとしても、神が定められたその復活の時がくれば、新しい肉体を受けて、人が死からよみがえること、これが、復活です。
復活とは、なにか神に選ばれた人、神に正しいと認められた人、そのような人だけが復活するのではありません。
ヨハネの福音書5章29節には「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです」といわれています。
死ねばすべてが終わり、だから好きなことをやって死のう、とか、どんなに悪いことをしても死ねばすべてが終わり、だからなにをしたってかまわない、と考えられることがあります。
しかし、聖書は正しい人も正しくない人もすべての人がやがて復活し、神の裁きを受けると言われています。
その復活とはどのようなものでしょうか?
ある人たちは、復活とは霊的な存在であって、そこには肉体、というものはない、と考えたようです。
肉体は滅びるが、霊は不滅であって、死んでからも霊は存在し続け、その霊がもう一度意識をもつとき、それが復活である、というような考え方です。
イエスが復活されたとき、イエスの体はどうだったでしょうか?
イエスの他の弟子たちが、復活されたイエスと会ったのに、イエスの弟子のひとり、トマスはそのとき他の弟子たちと一緒には居ませんでした。
他の弟子たちが、イエスが復活された、と言っているのを聞いてトマスは何て言ったでしょうか?
「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言いましたね。
その後、イエスはトマスの前にも現れ、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」と言いました。
実際にトマスが触ったかどうか、聖書には書かれていませんが、もしトマスが実際に触ろうとしてイエスの体の実感がないようだと、話になりませんね。
イエスが霊的な復活だけでなく、肉体をもって復活されたように、私たちも肉体をもって復活することが聖書に教えられていると考えます。
それでは、その肉体とは今、私たちが持っているこの肉体と全く同じものでしょうか?
僕はどちらかといえば病気をしないほうでした。
小、中、高校と病気で学校を休んだことは一回あったかなかったかぐらい、風邪を引いても一晩寝れば朝には直ってしまうようなものでしたが、さすがに30を越えたころから、風邪を引いて一晩休んでも直らない、走ったり、重いものを持ったりすると、その日は大丈夫ですが、二、三日してから影響がでる、とか、ああ、やっぱりこの世界の肉体はガタが来るものなんだなぁと感じるようになりました。
肉体に弱みがあるとき、この肉体をもってまた復活する、と言われても、なんだかそれはうれしくないようなものですね。
しかし、聖書は、私たちは肉体を持って復活するが、その肉体はこの世界の肉体とまったく同じものではない、ということも教えています。
例えば復活されたイエスを、弟子たちがすぐにイエスだと分からなかったことは、復活の体が生前の体とまったく同じものである、ということではないことの表れかもしれません。
第一コリント15章35節を開いてください。新約聖書の312ページです。
パウロの言葉ですが、死んだ人たちが、いずれよみがえる、と聞いて、35節、
ところが、ある人はこう言うでしょう。
「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」
愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
第一コリント15章35節から44節まで(新改訳聖書)
ポイントは私たちの今の体は穀物の種のようなもので、この体が死んで地にまかれた後、この体とは違った天上のからだ、御霊に属するからだを神は与えてくださる、ということです。
「復活」とは本当にどんなものなのか、「復活の体」とはどんなものなのか、聖書からさらに学ぶことはできますが、しかし、結局のところ、そのような復活の教えを聞いても、その教えの基本、すなわち、神はいずれ人を復活させる、ということを信じなければ、意味がないでしょう。
先ほど読んでいただいた、今日の聖書箇所で登場したサドカイ人たちも、そのような人たちでした。
マルコによる福音書12章18節を開いてください。新約聖書の84ページになります。
18節、「また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。」
サドカイ人というのは、パリサイ人、エッセネ派、ヘロデ党などと呼ばれるグループと同じように、ユダヤ人のうち、ある教えに従う人たちのグループを指しました。
当時のユダヤ人の歴史家、ヨセフスの書によれば、サドカイ人たちの多くは宗教的、政治的に大きな影響力を持っていたとあります。
サドカイ人とパリサイ人とは教えの上では大きく対立していました。
使徒の働きの23章8節には、「サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていた」と伝えられています。
サドカイ人は神の存在と旧約聖書の初めの5書が神の言葉であると認めていましたが、そのほかの旧約聖書の書物、そして、人が復活すること、神の御使いが存在すること、霊が存在するなどは認めていませんでした。
そのサドカイ人たちがイエスの前に来て質問をしました。
19節、「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』」
この教えは旧約聖書の申命記25章5節に言われています。
兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
申命記25章5節(新改訳聖書)
じゃあ、私たちがもし結婚したとして、子供を受ける前に相手が死んでしまったら、その兄弟なり姉妹なりと結婚しなければならないのか、というともちろん、そうではなくて、この教えはユダヤ人たちに特別に与えられた教えであって、ユダヤ人が神に選ばれた特別な民であることを示す律法のひとつであると考えます。
この律法は特に、ユダヤ人が子孫を残すこと、そしてその過程の中で人類の救い主であるイエスがいずれ、ユダヤ人の子孫の中から現れることが神の計画であったわけですが、そのようにして、ユダヤ人たちの子孫が絶えないようにするという目的もあったことでしょう。
どのような目的であれ、申命記に与えられたこの律法をイエスもパリサイ人もサドカイ人もそれが神の命令であるということを理解していました。
それでは、その命令を守ろうとするなら、どんな状況が考えられるのでしょうか?
20節「さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」
この女の人にいったいどんな問題があったのか、分かりません。
僕が6人目、7人目の兄弟だったら、もう結婚したくない、と考えるでしょうが、実際にそんな7人兄弟がいたのかどうか、さだかではありません。
おそらくは復活を否定するサドカイ人たちの議論のうえでの仮定の話だったのではないかと考えます。
7人と言わず、二人の兄弟がいて一人を妻にした場合だって、復活の際にははたしてどちらの妻となるのか、という問題があったでしょう。
それを7人、ということはなにか意図的にあざけっているようにも感じられますが、サドカイ人はこのような議論をもって、人がいずれよみがえる、という復活の教えを否定していました。
24節、「イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」」
サドカイ人の議論はある意味、まともなものと言えるかもしれません。
マルコの福音書10章で離婚することを認めるパリサイ人たちに対して、イエスは「ふたりの者が一心同体になるのです」と教えました。
そこでは三人でも四人でもましては8人でもなく、ふたりの者が一心同体となるのです、と言われています。
生きているときには確かに長男が死んでから次男が長男の妻であった人を妻とするのでふたりの者がひとつとなりますが、しかし、もし復活があって、その女の人を神の律法に従って妻とした人たちがみなよみがえるのなら、いったいその女の人は誰の妻になるのか、という問いが起こるのは、それ自体は妥当であると考えます。
しかし、ここでイエスはそのような質問をしたサドカイ人たちに「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」と言われました。
サドカイ人たちがイエスにこの質問をしたのは、おそらく、イエスから学ぼうとしたのではなく、復活は否定する、という自分の考え方が先にあって、その考え方を正当化するためにこんな仮定の状況を作り上げ、イエスに議論を持ちかけたと考えられます。
「復活は否定する」という先入観がなければ、イエスによれば、人がいずれよみがえる、ということは聖書から明らかであるからです。
そのような先入観を私たちももってはいないでしょうか?
聖書がなにを言っても、私はそんなことは信じない。
神がいずれ世界を裁かれるなんて、そんな恐ろしい神は信じられない、だから聖書になんと書かれていてもそれは信じない。
イエスがいずれまたこの地上に戻ってくるなんて信じられない、だから聖書がなにを言っていても、私はそんなことは信じない。
二人の人が愛し合っているのに、それが男と男である、女と女である、というだけで赦されないなんて、間違っている。だから聖書がなにを言っていても、私はそんなことは信じない。
そのような先入観を持っていれば、私たちは神のメッセージも神の力も正しく理解することはできないでしょう。
そんな思い違いをしてしまうのは、聖書も神の力も知らないからです、とイエスは言われます。
25節、「人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」
私たちが死から復活したとき、この世界での結婚の関係はもはやありません、とイエスは教えました。
こう聞いて二つの反応が考えられますね。
結婚の関係がない?それは残念です。
という反応と
結婚の関係がない?それはよかった。
という反応です。
僕とルイースはどちらかといえば最初の反応をします。
良い結婚関係は、この世界のどのような人との関係にも勝る、大変に強く、大変に近しいものです。
その結婚の関係が復活の後にはない、というのはとても残念に思いますが、しかし、聖書の別の箇所によれば─エペソ人への手紙5章32節ですが─私たちは皆、復活の際にはキリストと結び合い、その関係が本当の結婚であることが言われています。
この世界の結婚は、たとえそれがどんなによい関係であったとしても、復活の際、クリスチャンたちに与えられる、人とイエスとの関係を象徴するものにすぎず、復活の際にはその関係に勝る、強い、近しい関係が、人とイエスとの間に与えられる、と考えます。
アウトラインの6番です。
26節、「それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」
ここで「モーセの書にある柴の箇所」というのは出エジプト記3章で、神がモーセの前に現れモーセに語った箇所のことです。
創世記において、人が死ぬようになったのは、人が神の言葉に従わず、その命令に背いたからでした。
ということはもし、人が神にそむかなかったのなら、もし背いた人を神が完全に赦してくださるのなら、人は永遠に神とともに生きることができたのではないか、ということが考えられます。
ですから、人がよみがえることは創世記の初めから期待されてもおかしくないことであったのではないかと考えられますが、人がいずれよみがえることは、旧約聖書にあまり多くは言われていません。
もちろん人がよみがえらない、などとはまったく言われていないのですが、例えばダニエル書12章2節、分かりやすいので新共同訳聖書から読みますが、こう書かれています。
「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」
問題はサドカイ人たちは旧約聖書のうち創、出、レビ、民、申命記の初めの5書、これがモーセの書と言われていましたが、このモーセの書だけを神の言葉として認めていたことでした。
ですからイエスも、ここではモーセの書のうちから引用することで、サドカイ人たちが認めている聖書の箇所にもよみがえりが教えられていることを示したのでした。
しかし、なぜ神が「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言われたことが人がよみがえることを示すのでしょうか?
これは日本語ではもしかしたら分かりにくいと思われるのですが、もしアブラハム、イサク、ヤコブが死んで、まったくもう生きていないのであったなら、神は「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と文法的には過去形になるはずです。
しかし、神は、今生きている者、例えば「私はあなたの神である」と言われるのと同じように、「私はアブラハムの神である」と言われました。
このことから、アブラハム、イサク、ヤコブはこの世界の肉体的には死んで葬られましたが、まったく生きていない、ということではなく、いずれよみがえることが示される、と考えられます。
まとめましょう。
正しい人も正しくない人もいずれ復活し、神の裁きを受けるということを今日は学びました。
もしあなたが今日のこの世界を見て、正しい人が苦しめられ、悪い人が正しく裁かれずに栄えている、と思われるのなら、神がいずれ、神の定めたときに、神が人を正しく裁かれることを知るべきです。
問題は、神があなたを裁かれるとき、あなたは神に認められるのか、それとも認められないのか、ということではないでしょうか?
神は私たちの行い、私たちの心の働き、その奥底までもすべてをご存知で、それによって人を裁かれます。
あなたは神の前に「私は正しい」と言うことができるでしょうか?
もし、できる、と答えられるのなら、あなたはもしかしたら、基本的な神の聖さ、人の罪深さを理解していないと思われます。
神の前に「私は正しい」と言える人は実はだれもいません。
皆が、神を無視し、自分の好き勝手を行い、神のことばにそむいたのです。
私たちには神の赦しが必要です。
そして、幸いなことに、神は確かに私たちを赦してくださいます。
なぜなら、ただ一人、罪のまったくなかったイエスがそれでも十字架にかかって死んだのは、罪びとである私たちの代わりに、イエスが裁かれ、罰を受けるためであったからです。
このイエスに頼るのなら、神は私たちの罪を赦し、私たちは復活のときに神に認められ、神とともに生きる永遠のいのちを受けることを聖書は教えています。
あなたには復活の希望があるでしょうか?
例えこの世界で成し遂げたいと願っていたことができなかったとしても、この世界で恵まれない、報われない、と感じていたとしても、もし復活の希望、永遠のいのちの希望があるなら、この世界にあって、どのような状況であっても、希望と神への感謝にあふれた生き方ができる、と僕は考えます。
祈りましょう。
もし、今日、イエスに頼って、自分の罪を神に赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。 それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の王として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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