| Prev | Next | Go Up | English Page |
1.なぜ人はイエスのもとに集まるのか?
2.信仰って?
3.罪と病気の関係
3-1.当時のユダヤの考え方
3-2.現在では?
3-3.この箇所では?
4.「子よ。あなたの罪は赦されました」
5.「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」
6.「どちらを言うことがやさしいか?」
7.なぜイエスは罪を赦すことができるのか?
8.私たちはなぜイエスのもとに集まるのか?
結婚されている方は、自分のパートナーと一番最初に交わした言葉を覚えているでしょうか?
別に、愛のテストでもなんでもないのですが、僕は覚えています。
種明かしをすると、ルイースが覚えていて、あとで言われて思い出したのですが、あれは96年のときですから、8年前になります。
ルイースはそのころもう大学を卒業していましたが、続けて、ニューサウスウェールス大学にある留学生向けの教会に集っていました。
その教会は Fellowship of Christian University Students と言って、頭文字をとってフォーカスと呼ばれていました。
僕はというと、そのころはまだ学生で、ニューサウスウェールス大学ではなくて、シドニー工科大学で学んでいました。
セントラルステーションのすぐ近くにある32階建ての孤立した四角いビルを見たことがあるでしょうか?
一番上に UTS と書かれています。
あそこの20階のオフィスに机を頂いて、無線通信の研究をしていました。
で、僕は大学のすぐ近くのアパートで他の留学生たちと部屋を借りて住んでいたのですが、その留学生がフォーカスに集うクリスチャンでした。
さて、そのフラットメイトが僕をフォーカスに誘ってくれました。
僕はクローズネストの日本人教会に集っているからいいよぉ、と言っているのに、絶対気に入るからおいで よ、一度来て気に入らなかったらもう来なくていいから、なんて言ったのでした。
幸いなことに、というか、神の導きであった、というか、フォーカスは午前中、日本人教会は午後のサービスでした。
そこで、僕はじゃあ、一度だけ、と思って行きました。
フォーカスでは日曜日に賛美したりメッセージを聞いたりする時間のほかに、グループスタディ、という場がありました。
みんなで輪になって座ってディスカッションするのですが、そのとき隣に座ったのが、ルイースでした。
結婚する、と考えるどころか、好きになる、ということさえ意識もしませんでしたが、それは8年前の話です。
さて、バイブルスタディのリーダーが「人間に一番必要なものはなんだと思いますか?」という話題で隣の人とディスカッションしてください、と促しました。
簡単に自己紹介してから、ルイースが「どう思いますか?」と聞いたんですね。
僕は間髪いれず、一言「愛」と答えました。
まるでプロポーズしているんじゃないかというような台詞ですが、そのときは単純にそう思ったから答えた、という次第でした。
もし、誰かがあなたに、「あなたに一番必要なものはなんだと思いますか?」と聞かれたら、なんと答えるでしょうか?
人に一番必要なものはなんでしょうか?
あなたならなんと答えるでしょうか?
人に一番必要なものはなんでしょうか?
このページの最後に、またこの質問に戻って来たいと思います。
前々回から、マルコの福音書を続けて学んでいるところでした。
前回はイエスが様々な権威を持っていることを学びました。
「私について来なさい」と言って、人を従わせる権威
「悔い改めて福音を信じなさい。」と言って、人を教える権威
「だまれ、この人から出て行け」と言って、悪霊を従わせる権威
「わたしの心だ。きよくなれ」と言って、病気を癒す権威
イエスのように病気を癒したり、悪霊を追い出したりすることのできる人がいることが知られれば、人々は病人や悪霊につかれた人をみなイエスのもとに連れてこようとするでしょう。
しかし、イエスの一番の目的は病人を癒すことでも悪霊を追い出すことでもなく、福音を知らせることでした。
マルコの福音書1章28節、イエスは言われました。
「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」
今日の聖書箇所、マルコの福音書2章1節から12節を読んでみましょう。
1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。
9 中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。
マルコの福音書2章1節から12節まで(新改訳聖書)
なぜ人はイエスのもとに集まるのでしょうか?
1章32節、33節では「人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。」とあります。
2章2節でも、「多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。」とあります。
おそらく多くの人は、イエスが病気を癒すことを、また、悪霊を追い出すことを期待して来ていたのではないかと思います。
しかし、2章2節、この人たちに、イエスはみことばを話しました。
ルカの福音書によれば、ある人たちは確かに、病気を癒されることだけでなくて、イエスの言葉を聞きに来ていました。
しかし、3節、そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた、とあります。
中風とは辞書によれば、脳に出血があって急に意識を失って倒れて、体の半分が動かなくなる病気のことだそうです。
何年か前、僕の父の姉が、まったくこのとおりに、半身不随になってしまいました。
2000年前の中風にどれだけ当てはまるのか、僕には分からないのですが、この箇所の中風の人も、動くことができず、床に寝たままであったでしょう。
4節、群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした、とあります。
半身が動かないことの苦しさは、僕にはきっと推しても計り知れないのであるとは思うのですが、しかし、今すぐに、容態が悪くなる、ということでもなさそうなのに、イエスがみことばを教え終わるのを、この人たちは果たして待てなかったものでしょうか、と思うのです。
これはカペナウムにあったペテロの家だったようですが、屋根をはがしてまで、イエスの前に中風の人をつり降ろしたのはどうしてだったのでしょうか?
この前の箇所でイエスは人々がイエスを捜しているのに「別の村里へ行こう。」と言って、カペナウムから出て行きました。
もしかしたらこの中風の人たちは、またイエスがいなくなってしまう前に、という危機感があったかもしれません。
彼らは時を逃さず、イエスに頼って行動しました。
5節、イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。
「イエスは彼らの信仰を見て」とあります。
中風の人だけでなく、かついでいた4人の人の信仰を見たのです。
信仰、とはなんでしょうか?
ともすれば「信仰」という言葉は、なにか、誰かを信じる自分の力、というような意味で用いられることがあります。
自分を信じて、とか、みんなが信じてくれたから、とか、なにか信じることによって特別な力が発生する、というのが信仰、という意味であるかのようです。
この中風の人をかついだ4人の人がイエスを一生懸命、疑わずに信じたから、イエスに病気を癒す特別な力が与えられ、イエスはこの中風の人を癒すことができた、という考え方です。
もしくはイエスに「あなたの罪は赦されました」と言われた中風の人がそのとおり疑わずに信じたことで、体の中に特別な力が与えられ、歩くことができた、という考え方です。
信仰、とは自分の信じる力、ではありません。
信仰、とは頼ることです。
イエスには病気を癒す権威が与えられているので、イエスに頼るなら病気が癒される、ということです。
イエスには悪霊を追い出す権威が与えられているので、イエスに頼るなら悪霊が追い出される、ということです。
イエスには人をきよめる権威が与えられているので、イエスに頼るならきよめられる、ということです。
権威を与えられていない人にいくら頼ってみても、いくら自分の中に「信仰」を持ってみても、それは最終的には、頼るのに足る人ではなかった、という結果しか残っていません。
私たちには、私はイエスに頼ります、か、いいえ、私はイエスに頼りません、の二つの答えしかありません。
マタイとルカの福音書に言われていますが、いわゆる、からしたねほどの信仰、とはなにか信仰の力の大きさが問題なのではなくて、信仰があるのか、ないのか、イエスに頼っているのか、頼っていないのかが問題である、と思うのです。
あなたは、イエスに頼っているでしょうか?
自分の信仰の力に頼ろうとはしていないでしょうか?
この中風の人たちはイエスに頼りました。
だからイエスは彼らの信仰を見た、彼らがイエスに頼っていることを見て、その信仰に応えたのです。
ある人たちは、病気になると
「ああ、なにか自分のあの罪が原因で神が私を罰しているのだ」
と考えるようです。
「ああ、病気になってしまった、きっとあのとき、神に従わないで嘘を言ってしまったのが原因だろうか、神様、どうか病気を癒してください、そうすれば、もう嘘を言いません...」
確かに私たちのある特定の罪が原因でこの世界にあって神が私たちを罰する、ということはあります。
例えば、バプテスマのヨハネの父、ザカリヤは神の御使いのことばを信じなかったので、口がきけなくなりました。
これは、神が私たちの特定の罪のために、直接、病を持って罰っした場合です。
では、だからといってすべて口の聞けない人が、なにか罪を犯してその罰で口がきけなくなった、というかというと、そうではありません。
病気はすべて、私たちのなにか特定の罪が原因なのか、というとそうではありません。
例えば旧約聖書のヨブは聖書に書かれている通り、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていましたが、しかし、神の目的から、足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物を患いました。
何か特別に罪を犯したから、病気になる、ということでは必ずしもありません。
当時のユダヤの人たちは、どちらかといえば、病気をしている人は、それは神がその人の特別な罪を罰しているのだ、と考えていたようです。
例えば、生まれつき目の見えない人を見てイエスの弟子たちは、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と聞きました。(ヨハネの福音書9章1節から3節まで)
その箇所でイエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」と答えました。
ある人たちは今でも、自分が病気になったり、誰かが病気になったりすると、それは罪を犯したからだ、と考えがちです。
ある意味、それは悪いことばかりではないと思います。
自分の罪を思わされて、悔い改めに導かれるのなら、ああ、あのとき、罪を犯したから、今、自分は病気なのだ、と考えることは、霊的に善いことかもしれません。
しかし、その反対に、
「あの人が病気なのは、なにか特別な罪を犯しているからだ」
と考えたり、
「自分は病気でないから、あの人より罪がない」
と考えたり、または、
「自分は病気が癒されないので、神は私の罪を赦してくだっていない」
と考えたりするのなら、それは間違っている、と言わなければなりません。
すべての人が罪人で、アダムから始まってすべての人が神に逆らったので、私たちはこの世界で苦しむようになったのです。
それは苦しみの中で神を信頼することができるようになるためです。
パウロは言いました。
患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
ローマ人への手紙5章3節(新改訳聖書)
この世界での苦しみは、神に信頼するのなら、忍耐を生み出します。
忍耐は、クリスチャンとしての練られた品性を生み出し、品性はイエスを待ち望む希望をより確かなものへと成長させます。
それでは、この中風の人は自分の罪と病気の関係をどう、捉えていたでしょうか?
それは、この中風の人に聞いてみなければ本当のところは分かりませんが、おそらくは自分の罪が自分を半身不随の病にしている、と考えていたのではないか、と考えます。
イエスはこの人にまず「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言いました。
その意味はなんでしょうか?
「あなたの罪は赦されました。」
この中風の人は罪を犯していました。
どんな罪であったか、書かれていません。
しかし人であるなら誰でも覚えのあることではないかと思います。
神を認めない、神に感謝しない、神に従わない...
半身不随の病にかかって、この人はきっと、神に対する自分の罪を思わされていたことでしょう。
いわゆる不幸がおとずれた時、私たちも自分の罪を思わされるときがあります。
それは実は幸せなことであるかもしれません。
ある人たちは一生、神に対する自分の罪など意識しないで、意識しても無視して過ごそうとします。
神に対して自分の罪を理解しないよりは、困難にあって自分の罪を理解するほうが、ずっと幸せだとあえて言いたいです。
あなたは自分が神に対して罪を犯したことを理解しているでしょうか?
この世界のすべての人がそうであるように、この中風の人も神に対して罪を犯していました。
それならば、この中風の人の罪を赦すことができるのは神だけなのです。
6節、ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
この律法学者たちの理屈は実は筋が通っていると思います。
人が神に対して犯した罪は、神だけが赦せるのです。
それなのにイエスはあたかも神をさしおいて「あなたの罪は赦されました」と言いました。
もしイエスが神と関係なく、勝手に言っているだけなのなら、この律法学者の言うとおり、まさに「神をけがしている」ことです。
神を全く信じない人は、イエスが神であることももちろん信じません。
また神を信じる人でも、イエスが人となった神である、とは信じない人が多いです。
そういう人たちは、イエスはなにか人として偉大な教師であったことは認めますが、イエスが神であったということは当然認めません。
しかし、ここでのイエスの主張を聞いてください。
イエスは神にかわって人の罪を赦しました。
これが神に関係なく言われているのだとしたら、まさに、神を冒涜することです。
そのような人を偉大な教師、と認めることはできません。
しかし、もし、イエスが人となってこの世界にきた神ご自身なら、まさに、彼には罪を赦す権威があるはずです。
8節、彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。」
この福音書の著者マルコがおそらくはペテロの言葉を記して福音書としたことを前々回みましたが、どうやってペテロはイエスの心の中の働きや律法学者の心の中の理屈が分かったのでしょうか?
イエスの使徒として神から特別の啓示を受けてこれを理解した、と言っても構いませんが、しかし、そんな超自然的な能力でなくても、イエスの「あなたの罪は赦されました」という言葉を聞いて、ペテロもおそらくは心の中で「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」と思ったかもしれません。
そして、イエスが律法学者たちに向かって「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。」と言われたなら、イエスが自分の霊で律法学者たちの心の中の理屈を見抜いた、ということが理解されると思います。
9節、イエスは問いかけました。「中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」
どちらがやさしいのでしょうか?
このやさしい、は当然、にんべんに憂うの優しいではなくて、簡単である、のやさしいです。
ある人は「あなたの罪は赦された」というほうがたやすいと考えるかもしれません。
中風の人に「起きて、寝床をたたんで歩け」と言っても、普通なにもおこらないからです。
もしかしたら中風の人が侮辱されたと怒ってしまうだけです。
しかし、誰かの罪が赦された、ということは目に見えません。
それこそ神を怖れないのなら、Aさん、あなたの罪は赦されました、Bさん、あなたの罪は赦されました、と唇を動かすことがたやすくできるかもしれません。
逆に、律法学者に代表されるユダヤの人たちの理解からは、中風の人に「起きて、寝床をたたんで歩け」と言って、中風の人の怒りを買うほうが、「あなたの罪はゆるされました」と言って、神の怒りを買うことよりたやすいことかもしれません。
しかし、中風の人を癒そうとすることも、中風の人が神に対して犯した罪を赦そうとすることも、本当に実現しようとするなら「どちらも難しい、いや実際のところ私たちには不可能である」が私たちの答えなのではないでしょうか?
10節、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。
この不可能と思われる、中風の人を癒すということができたのなら、人の罪を赦すという、不可能と思われることも、イエスには可能である、ということがここで示されています。
イエスは人が神に対して犯した罪を赦す権威を持っています。
なぜイエスは、人が神に対して犯した罪を赦すことができるのでしょうか?
それはイエスが、人となった神、ご自身であるからです。
もしイエスが人となった神であるのなら、イエスが人の罪を赦すことができるのはごく、当たり前のことです。
逆に、神、以外には、いや、イエス、以外には、人の罪を赦すことのできる方はいません。
しかし、それだけではありません。
ここでイエスは自分の事を「人の子」と呼んでいます。
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」
この「人の子」という言葉はマルコの福音書に14回、使われています。
すべてイエスが自分を指して使った言葉です。
8章31節、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」と言われました。
8章38節、「人の子は神の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来る。」
10章45節、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、購いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
14章62節、「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」
イエスがこの世界で、罪を赦す権威を持っているのは、実にイエスが私たちの代わりに、受けるべき罰を受けたからです。
私たちはなぜイエスのもとに集まるのでしょうか?
病気が癒されるため、でしょうか?
30を過ぎて今までよりは体が思うとおりにならないことを痛感していますが、しかし、第一テモテへの手紙4章8節には次のように書かれています。
肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。
第一テモテへの手紙4章8節(新改訳聖書)
体が丈夫であることは確かに有益です。
しかし敬虔はすべてに有益です、と言われています。(敬虔、とは広辞苑にでているように「うやまいつつしむこと」ではなくて、イエスキリストを模範としたクリスチャンとしての生き方そのものの事を指します。詳しくは「神が望まれるように生きる」 を参照してください。)
病気が癒されることは素晴らしいことです。
そのために私たちは祈るべきです。
しかし、たとえ病気が癒されなくても、それは信仰が足りないことでも、罪が赦されていないことでもありません。
イエスは中風の人を「子よ。」と呼びかけました。
この「子よ。」ということばに興味をもって調べてみたのですが、よく分かりませんでした。
もしかしたら、よく使われている、普通の呼びかけの言葉なのかもしれません。
もしかしたら、この中風の人はイエスよりずいぶん若い人だったのかもしれません。
しかし、イエスが新約聖書で「子よ。」と呼びかけているのは、どうやらこの箇所だけのようです。
僕にはここに、神が人を呼びかけるような、なにか優しい思いを感じます。
「子よ。あなたの罪は赦されました。」
人に一番必要なものはなんでしょうか?
「子よ。あなたの罪は赦されました。」
人には神の赦しが一番必要なのです。
祈りましょう。
もし、今日、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
| Prev | Next | Go Up | English Page |
Produced by Hajime Suzuki
Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience