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1.「神の」福音
2.「マルコによる」福音書
2-1.マルコって?
2-2.「ペテロによる」福音書
2-3.ペテロの証言
3.「イエス・キリストの」福音
4.イエス=主=神?
5.「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」
6.「時が満ち、神の国は近くなった、悔い改めて福音を信じなさい」
あなたは神という存在を信じているでしょうか?
なにかしらの「神」という存在を信じている人は少なくありません。
ですが、多くの人にとって、この「神」は、なにか遠くにいて普段の自分の生活とはあまり関係のないものであるようです。
なにか特別な出来事が起こった時、
例えば大変に困った状況に陥った時、
自分に理解の出来ない、不思議な出来事が起こった時、
あるいは山の上に上って壮大な大自然の美しさに感動した時、
または、洪水や津波や地震で自然の驚異を知らされた時、
もしくは戦争や犯罪など人間の愚かさ、醜さを見せ付けられた時、
はたまた、たまたま教会に来てみて「あなたは神という存在を信じているでしょうか?」などと問われて初めて、「神」という存在のことを考えるようになるのかもしれません。
世界を創造した神
あなたを創造した神
世界を支配している神
あなたの周りの出来事を支配している神
この神の事を知りたい、とは思われないでしょうか?
この神がなぜあなたを創造したのか、あなたになにを求めているのか、知りたいとは思われないでしょうか?
神を無視し続けて生きることは確かにできます。
ですが、その先は一体なんでしょうか?
あなたが神を無視し続けたのなら、いつか、神があなたを無視することになっても、なにも文句は言えないと思います。
もし私たちが神に聞き従いたくないとしたら、それはどうしてでしょうか?
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と神は言われました。
この教えが悪いものだ、と考える人はほとんどいないでしょう。
もしあなたの隣人が自分自身を愛するようにあなたのことを愛してくれたのなら、あなたのほとんどの悩みはなくなっているのではないでしょうか?
もちろん、あなたがあなたの隣人に愛してもらいたいことを望むのなら、自分があなたの隣人を愛することが求められるべきです。
ですが、他人を自分自身のように愛せる人とは果たしてどれだけいるでしょうか?
私たちはこれがとてもよい教えであることを理解できるのに、自己中心、自分勝手、わがまま、な気持ちで一杯になってそれを行うことができません。
自分でよい、と思っていることを行えず、逆に悪いと思っていることを行ってしまう、これが人間です。
神のことを完全に無視してしまった人たちは、とにかく自分がやりたいと思っていることが良いことだ、と考えるようになるようです。
それは神から逃れて自由になったのではなく、自分の欲の奴隷になってしまったことです。
自分の欲ではなく、神に聞き従いたい、とは思われないでしょうか?
神は私たちになにを伝えているでしょうか?
どうしたら私たちは神の意思を知ることができるでしょうか?
このマルコの福音書は神の福音を伝えていると主張しています。
福音、とは原語のギリシア語でユアンゲリオン、ユは良い、という意味、アンゲリオンはエンジェル、天使、神の使い、という言葉と同じ語源でメッセージという意味です。
神の良いメッセージ
なにが「良い」のでしょうか?
それは、このメッセージが、神を忘れてしまった人たち、神を無視し続けてきた人たち、神に逆らって生きてきた人たち、自分の欲の奴隷となってしまった人たちを、神のもとへと立ち返らせる救いのメッセージだからです。
あなたはどうやって神のメッセージを受けたい、と思われるでしょうか?
どうしたらこれは、神のメッセージなのだと確信することができるでしょうか?
天を見上げると雲が開けてまぶしい光が差し込んで、神の声が心に響いてくる、ことでしょうか?
なにかメッセージと一緒に急に病気が癒されたとか、困難な状況から奇跡的に救われたとか、自分に説明のできない不思議な出来事が起こったときでしょうか?
いいえ、なにも物理的に不思議なことは必要ないと思います。
神は人を通してこの神のメッセージを伝えることを選びました。
この書物には人の言葉で神の良いメッセージが伝えられています。
人の言葉である、ということは、それが私たちに理解できるメッセージであるということです。
ですが同時に、人の言葉であるということは、その言葉が伝える意味を理解するために、言葉の背景、文化の背景、著者の背景を理解することが求められると思います。
例えば今日の聖書箇所にはバプテスマのヨハネという人が「らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」とあります。
ある人はこれを読んでどう思うでしょうか?
「らくだの毛?なんて野性的な」と思うだけかも知れません。
しかし旧約聖書に親しんでいる人なら、これが神の選ばれた王の来る前にもう一度来ると言われた、預言者エリヤと同じ服装であることが思い出されます。
神のメッセージなのだから、なにも学ばなくても十分に理解できるはずなのではないだろうか、と思われるかもしれません。
しかし私たちがなにも学ばず、読んでみて自分の感じたように理解しようとするなら、私たちは神のメッセージを曲解する危険にさらされます。
第二ペテロの手紙3章16節には「無学な人や心の定まらない人は、聖書を曲解して自分の滅びを招いています」と書かれています。
聖書を読むとき、私たちはまず第一に聖書の言葉を正しく理解することが求められます。
そうして初めて、それでは私たちはその聖書の言葉を理解したのなら、どうするべきか、という考察ができるのです。
それでは最初にまず、マルコの福音書の著者について考えてみましょう。
「マルコの福音書」─この書物は二世紀のクリスチャンたちにはすでに「マルコの福音書」として知られていました。
ですが、これは「マルコの」福音では当然なくて、1章1節にあるとおり、「イエス・キリストの」福音を伝えるものです。
マルコはこのイエス・キリストの福音を書き記したに過ぎません。
新共同訳聖書のように「マルコによる福音書」と呼んだ方がふさわしいかもしれません。
マルコ、とはいったい誰でしょうか?
マルコは何度か新約聖書に名前が出てきますが、第一ペテロの手紙5章にはペテロによって「私の子」と呼ばれ、ペテロを通して信仰を持ったペテロの弟子であったようです。
マルコはイエスから直接に教わったことはありませんでしたが、ペテロの言葉を忠実に書に記した、とイエスの十二弟子の一人、ヨハネ、その弟子であったパピアスという人物の書物に書かれています。
すなわち、マルコによる福音書はイエスの一番弟子ペテロによる福音書である、と言えます。
ペテロはイエスと共に生きて、イエスの行い、イエスの言葉を伝えるのに相応しい人物です。
イエスの事を伝える福音書と呼ばれるものはマルコの福音書を含めて4つ、私たちに伝えられていますが、ある人たちは、福音書がイエスを信仰している人たちによって書かれたもので、正しくイエスの行い、言葉を伝えていない、と考えるようです。
ある書が正しく物事を伝えているかどうかを確かめる方法の一つは、著者が一体どういう人物であったのかを考察することです。
以下はペテロがクリスチャンたちに宛てた手紙の一部です。
私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。
「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。
第二ペテロの手紙1章16節から18節まで(新改訳聖書)
マルコの福音書9章でこの出来事について学びますが、ペテロは大変に不思議な体験をしました。
この話を聞いて、人々が自分の話を作り話だと思ってしまうであろうことをペテロは十分承知していました。
それだけ信じがたい経験をペテロはしたからです。
ペテロにとってイエス・キリストの福音を伝えることには人間的になんのメリットもありませんでした。
逆に、イエスの事を伝えようとすることでユダヤ人から迫害に会い、鞭で打たれ鎖につながれ牢に入れられ、2世紀のクリスチャンたちの書物によれば最後はローマで処刑されたと言われています。
それでもペテロは自分の見たこと、聞いた事を伝えずにはいられませんでした。
なぜでしょう?
それはそれが真実であったから、としか言いようがありません。
ペテロの手紙を読んで、彼がクリスチャンたちに教えていることを理解すれば、彼が嘘をつくような人ではないことが分かると思います。
マルコの福音書にはペテロがいのちをかけて人々に伝えようとした神の福音が記されています。
それではマルコの福音書のはじまりを見てみましょう。
1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
4 バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
6 ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
14 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
マルコの福音書1章1節から15節まで(新改訳聖書)
マルコの福音書は最初の一節でこの書物が一体なんであるのかを伝えています。
すなわち、これは「神の子、イエス・キリストの福音」です。
「神の子」とはなにかそう呼ばれた人が「神」であるかのような印象を受けますが、聖書の理解では必ずしもそうではありません。
旧約聖書で「神の子」という言葉は神の御使いのことを指したり、神に選ばれたイスラエルの民の事を指したりしますが、もっとも適当な理解は神に選ばれた王のことを「神の子」と呼ぶことです。
イスラエル王、ダビデ、ソロモンはそれぞれ神の子と呼ばれました。
神の子、という言葉だけではそれは人を指すのであって必ずしも神を指すものではありません。
イエス・キリストは「神の子」、すなわち神に選ばれた王であることがここで言われました。
イエスが来られることは旧約聖書によってあらかじめ預言されていました。
マルコは「預言者イザヤの書」にこう書いてある、と言っていますが、3節の「荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」」がイザヤ書 40章3節の引用になります。
その前の「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし」は出エジプト記から「あなたの道を整えさせよう」は旧約聖書の最後の書「マラキ書」からの引用です。
1節の「福音のはじめ」という言葉から創世記の1章1節の「初めに、神が天と地を創造した」という言葉を連想させて、旧約聖書をよく知る人にとっては、あたかも1節と2節で旧約聖書すべてがこの時を預言していたかのような印象を受けさせます。
是非、この聖書箇所をよく読んで、読み取っていただきたいのですが、小学校高学年の国語のレベルですが、イザヤの書、すなわちこの3節では「荒野で叫ぶ者」の後に誰が来ることが期待されているでしょうか?
「荒野で叫ぶ者」は「主」の道を用意せよ、と言っています。
「主」が来られることが言われています。
マルコは3節で、「そのとおりに」と言っています。
イザヤの書の「荒野で叫ぶ者」とはイエスの時代の誰の事を指しているでしょうか?
「バプテスマのヨハネ」のことです。
それではバプテスマのヨハネの後にあらわれたのは誰でしょうか?
イエスでした。
マルコはイザヤ書で言われている「主」が誰の事を指していると主張しているでしょうか?
イエスが主である、と主張していると思います。
問題はこのイザヤ書の「主」が一体誰であるか、ということです。
二千年前、この箇所を読んで「預言者イザヤの書」なるものをよく知らなかった人はおそらくユダヤ人の友人にこの箇所で言われている「主」とは誰のことなのか尋ねてみたことでしょう。
するとユダヤ人の友人はそれは創造主なる神のことであると答えるはずです。
イザヤ書40章3節には次のように書かれています。
荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」
イザヤ書40章3節(新改訳聖書)
言葉遣いが違いますが、イザヤ書はヘブル語を日本語に直したもの、マルコの福音書はギリシア語を日本語に直したものの違いです。
3節、「主」という字が太字で書かれています。
これはヘブル語でヤーウェもしくはエホバという「神」をあらわす固有名詞だからです。
すると、イエスは主、すなわち神なのだろうかと、読者はマルコの福音書の初めからそのような期待をするのではないかと思うのです。
クリスチャンはイエスが子なる神であることを信じていますが、実に興味深いことに、新約聖書の中には「イエスは神である」というような言葉そのものはありません。
例えばヨハネの福音書1章1節、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」そして14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。
このことばとは誰のことであるのか、文脈を読めばイエスのことであることが明らかです。
すなわち、ヨハネは「イエスは神とともにあり、イエスは神であった」と言っていいるに等しいのに、それでも「イエスは神である」という言葉自体は使われていません。
ですが、新約聖書の著者たちが、イエスは人となってこられた神であることを信じていることは明らかです。(詳しくは「イエスは神か (1)」を参照してください。)
これからマルコの福音書を読んでいくとき、テーマの一つはイエスが神の子である、すなわち神に選ばれた王であることを理解することですが、同時に、この福音書は、イエスが人となってこの世界にきた、神ご自身であることを言葉にせずに読者に伝えようとしているように思われます。
なぜはっきりと「イエスは神である」と言ってしまわないのでしょうか?
それはマルコの福音書8章までのお楽しみ、ということにしておきましょう。
今日の箇所に戻りましょう。
旧約聖書の預言の通りに、主の道を用意するもの、バプテスマのヨハネが現れました。
「バプテスマ」とはギリシア語で「水に沈めて洗う」ことを意味します。
旧約聖書でも新約聖書でも人が神に自分の罪を告白して悔い改めるなら、その罪が赦されることが言われています。
しかし、なぜ正義なる神が人の罪を見逃すことができるのか、旧約の時代、人々は知りませんでした。
イエスが来て、その答えを明らかにします。
ヨハネのメッセージは自分のあとに自分よりも力のある方が来られる、ということでした。
その方は聖霊のバプテスマを授けられる...
旧約聖書に人々が聖霊によって満たされる記述があるのはヨエル書の2章、神が人々に神の霊を注ぐ預言がされているところです。
ここでも神が行うことをイエスが行うように記述されているように思われます。
そうしてイエスはヨハネのところに来てバプテスマを受けるのですが、そのとき、10節「天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。」そして、天から声がした、とあります。
ヨハネの福音書によると、このようなことが起こったことをバプテスマのヨハネが人々に証言しています。
なぜ御霊がイエスの上に下り、天から声が聞こえたのでしょうか?
イザヤ書42章1節を見てみましょう。
見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
イザヤ書42章1節(新改訳聖書)
「わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者」とはマルコの福音書の声で「わたしはあたなを喜ぶ」と同じ意味です。
マルコの福音書で御霊がイエスの上に臨んだことは、ここで述べられている神のしもべには神の霊が授けられていることが思い起こされます。
イザヤの書を読み進めていくと、53章でこの神のしもべは人々の罪のために代わりに神によって罰せされることが書かれています。
また「あなたは、わたしの愛する子」とは詩篇2篇7節にあるように、神に選ばれた王のことを指します。
ですが、この箇所はこの神に選ばれた王が、同時に人々の罪を負って神に罰せられる神のしもべであることが言われています。
イエスは神に選ばれた王でしたが、その王は軍隊や戦争によってイスラエルの国を打ち立てるためにきたのではなくて、人々の罪を負って、神に罰せられることで人々を神へと導くために来たことが言われています。
これがイエス・キリストの福音でした。
彼は単に偉大な宗教家、人類愛を説いた人、キリスト教の創始者、というような方ではありませんでした。
全人類の罪をその身に負って十字架の上で人々の代わりに神に罰を受けるために来た、神の子です。
そうして12節、わたしたちと同じようにサタンの誘惑を受けるために御霊はイエスを荒野に追いやります。
私たちと異なるのはイエスは試みを受けても屈することなく罪を犯さなかったことがマタイの福音書、ルカの福音書に記されています。
14節、バプテスマのヨハネはヘロデ王に捕らえられてしまいます。マルコの福音書6章で、なぜヨハネが捕らえられたのか詳しく説明されていますが、その後、イエスはユダヤの地方ガリラヤで宣教をはじめます。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
時が満ち、旧約聖書に預言された神の王が来られる時が来ました。
神の国が近くなった、とはもうすぐ来る、という意味よりは、すでに近くに来ている、という意味が強いようです。
原語に近い訳とされる New American Standard Bible では Kingdom of God is at hand と訳されています。
すなわち、イエスが神に選ばれた王であるなら、イエスのいるところが神の国である、ということです。
このイエスのところに来たのなら、自分の罪を告白し、悔い改め、イエス・キリストのメッセージを信じなさい。
自分の悪かったところを悔やむ人は多いです。
ああ、あのとき、あんなことをしなければよかったのに、と人は悔やみます。
しかし、悔い改める、とは自分の罪を悔やむことだけではありません。
原語はむしろ「改める」という意味が強調されます。
考え方、生き方を変えることが悔い改めです。
自分は今まで神を無視して生きてきたが、これからは神に聞き従って生きていこう、これが悔い改めです。
僕は21年間、神のことを教わってはいましたが、イエスのメッセージを本当には理解していませんでした。
聖書の事を教わってはいましたが、イエスがなぜ死ななければならなかったのかも理解していませんでした。
イエスが僕の罪のために、代わりに十字架にかかり、神に罰を受けたのだと理解した時、初めて、なぜこんなにも自分は罪人なのに神に赦されることができるのか理解することができました。
それはこの世界で神に従って生きることの動機になります。
そして初めて、生き方を変えようと思いました。
あなたは今、神に聞き従って生きたい、と思われるでしょうか?
もし思われるなら、僕と一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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