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イエスはどのような王か

1.人を従わせる権威
2.人を教える権威
3.悪霊を従わせる権威
4.病気を癒す権威

5.イエスの来た目的は?
6.イエスに従うとは...


実は僕は大変な泣き虫です。

小学校6年生まではちょっと怪我しても、ケンカしても大きな声でワンワン泣いてました。

中学生になって少しはマシになって、あまり泣かないようになりましたが...

今考えるとそれはつまり怪我やケンカをあまりしなくなっただけに過ぎなかったかもしれません。

実は30歳を過ぎても実によく泣きます。

映画を観て泣きます。

ニュースを見て泣きます。

一人でも、他の人と一緒でも、祈るとき泣きます。

一番困ったのは、メッセージをする時にも泣くことです。:)

さて、昔の経験話を一つしようと思います。

あれは確か96年のクリスマスの前のころだと思いました。

そのころ僕はクローズネストにある日本人教会に集っていたのですが、クリスマスのお祝いのパーティーを開いて、キリストのことを知らない人にもクリスマスの本当の意味を知ってもらおう、とマーチンプレイスでトラクトを配ってました。

「クリスマスのお祝いをするのでよかったら来てください」

と日本人と思えた人にトラクトを手渡していました。

ある若い女性がトラクトを受け取ってしばらくして僕たちのところに戻ってきて、こう言いました。

「わたし、キリスト教、大嫌いなので、これお返しします」

確か、「あ、済みませんでした」とか言ってトラクトを受け取ったんだと思いますが...

なにがそんなに悲しかったのかよく分かりませんが、それからしばらく涙が止まりませんでした。

その人は、「キリスト教」と言っていましたが、ここで大きく分けて二通りの場合があると思います。

一つは、その人が本当に、本当のキリストの教えを知っていて、なおかつ、その上で、その人はキリストの教えを受け入れない、と結論していた場合...

その場合は、なんというか、とても残念ですが、ある人がキリストに心を開くかどうかは、僕たちの努力に関わらず、神の働きなので、それは残念だけど「仕方がない」と完結してしまいます。

ですが、もう一つは──そしておそらくこちらの場合のほうが多いのではないだろうかと思うのですが──その人が、本当には本当のキリストの教えを知らないで、なにか人がとってつけたようなことが、その人にキリスト教に対する否定的な思いを起こしてしまっていた、という場合です。

人が本当のイエスのことを知らないで、イエスに関する間違った教えを基にイエスを否定するのだとしたら、それは二重に残念です。

もし本当のイエスのことが伝わっていたのなら、もしかしたらその人は受け入れていたかもしれないからです。

本当のイエスのことが伝えられて、その人がイエスを受け入れるかどうかは、その人の責任であり、神だけの働きです。

ですが本当のイエスのことが伝えられるのは、伝える人の責任であり、本当のイエスのことをすでに知っているのなら、それは私たちの働きでもあります。

イエスに関する本、映画、歌、色々な情報があります。

そのどれもが本当のイエスを伝えているわけでは決してないでしょう。

ですが、残念ながら、ある人たちはそのようなもので得た、イエスの情報、間違った情報を基にして、イエスを否定してしまいます。

本当のイエスのことをどうやったら知ることができるでしょうか?

ここに、イエスと共に生きた、使徒たちの記した書物が福音書として伝えられています。

前回からマルコの福音書を続けて見ていきたいと予定しました。

前回はマルコの福音書1章1節から15節までをみてみました。

創世記、出エジプト記、イザヤ書、マラキ書をつなげてあたかも旧約聖書全体がバプテスマのヨハネとイエスが現れることを預言していることをみました。

イエスが旧約聖書で言われている主であって、それは実は神を表わす固有名詞であることをみました。

イエスがバプテスマを受けた時、天から「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という声がした、とありますが、

「あなたは、わたしの愛する子」とは詩篇2篇の引用で神に選ばれた王を指すこと、「わたしはあなたを喜ぶ」はイザヤ書42章の引用で人々の罪のために代わりに神によって罰せられる神の僕を指すことを見てみました。

今日はマルコの福音書1章16節から見ていきたいと思います。

1.人を従わせる権威

ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」

マルコの福音書1章16節から18節まで(新改訳聖書)

シモンはヘブル語でシメオン、聞かれる、の意味、アンデレはギリシア語で男らしい、の意味だそうです。

シモンは後にイエスによってヘブル語でケパ、ギリシア語でペテロ、岩、という意味の名で呼ばれるようになります。

ルカの福音書にはイエスとペテロのもう少し詳しい対話が記されています。

ヨハネの福音書にはアンデレが実はバプテスマのヨハネの弟子で、ヨハネがイエスについて証言するのを聞いてペテロをイエスのもとに連れて行ったことが書かれています。

しかし、マルコは、もしくは前回見てみたようにこれはペテロの福音書とも呼べる書ですが、マルコ、もしくはペテロはそういう詳細を伝えることには興味がなくて、ペテロとアンデレがイエスの言葉一つで従ったことが言われています。

「人間をとる漁師にしてあげよう」

この言葉をペテロから直接聞いた人は、ペテロがその通り、人にイエスの福音を伝えて神のもとへと導く、人をとる漁師となったことが理解されます。

まだイエスの福音を信じていない人がこの言葉を聞けば、自分は果たして、この先、今この福音を伝える人によって「とられる」ものだろうか、と気に留めるのではないでしょうか?

また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

マルコの福音書1章19節(新改訳聖書)

イエスが呼ばれると後の使徒となるヤコブとヨハネも自分の職業も自分たちの父も捨てて、イエスに従ったことが書かれています。

もちろん「雇い人たちといっしょに」と言われているので、老いた父が生きるために必要なサポートも顧みず、ということではないことが示唆されます。

それでもイエスが呼ばれると人がすべてを捨てて従うとは、なんと言う権威でしょうか?

2.人を教える権威

それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。

マルコの福音書1章21節(新改訳聖書)

カペナウムはガリラヤ湖、北の湖畔にあった街でした。

二十世紀の初めにこのカペナウムにあったとされる会堂が発掘されていて、福音書がなにかの作り話でないことがさらに裏付けられています。

人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

マルコの福音書1章22節(新改訳聖書)

ここでイエスがどんな言葉を用いて教えられたのか私たちには伝えられていません。

ここには、ただ、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられた、と言われています。

どのような教え方だったのでしょうか?

律法学者たちとは旧約聖書に精通していた当時のユダヤ教の先生たちでした。

町々にあった会堂は律法学者たちを中心として建てられたそうで、そこで律法学者たちは人々を教えていました。

律法学者たちはどのように人々を教えていたでしょうか?

僕の注解書によると律法学者たちは「昔の偉い先生、だれだれがこう言った」というような他の人の権威にあずかるような教え方をしていた、そうです。

そうでなくても、おそらくは旧約聖書を引用して、神が、こう言った、というような教え方をしていたのではないでしょうか?

ところがイエスは、誰の権威にもよらず、自分自身に権威があるものとして、「わたしはあなたがたに言います。」という教え方をしました。

例えば

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

マタイの福音書5章43節44節(新改訳聖書)

イエスは誰の権威にもよらず、人々に教えました。

時に私たちは人に教えられます。

あなたにはなにかあなたと敵対してしまう人がいるでしょうか?

「わたしはあなたに言います。あなたの敵を愛しなさい。」

敵を愛しなさい?

わたしの敵をあなたは知らないからそんなことを言えるのです、

わたしの敵はひどい人でわたしにいやがらせするのです、

いったい、なんの権利があってわたしにそんなことを言えるのですか?

そう思われるかもしれません。

わたしはあなたの先生だから、わたしはあなたの親だから、わたしはあなたをまかせられているから...

いろいろな権威によって人は人を教えようとしますが、誰の権威にもよらず人を教えられる人は一人だけです。

誰でしょうか?

わたしたちを造られた神だけが、神である、という理由だけで、教え、従わせることができます。

イエスは実に誰の権威にもよらず、人々に教え、それはあたかも神、のようでした。

ですから人々は「その教えに驚いた」のでした。

この「驚いた」ということばの原語は物理的に「ぶったたかれた」という意味の言葉が使われています。

彼らはイエスの教えに驚愕したのでした。

3.悪霊を従わせる権威

すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

マルコの福音書1章23節と24節(新改訳聖書)

汚れた霊につかれた人に出会ったことがあるでしょうか?

人がイエスのことなど信じない、信じない、信じない、とかたくなに思い続けられるなら、それはパウロによれば、エペソ人への手紙2章、「今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、生きている」ことです。

汚れた霊は目にみえませんが、今も人々のうちに働いています。

この箇所に登場する悪霊は、イエスの権威ある教えを聞いてか、イエスが神の聖者であることを理解します。

聖者とは聖なる方、旧約聖書では神のことを指すか、神に選ばれた王の事を指しました。

イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」

マルコの福音書1章25節から27節まで(新改訳聖書)

現在でも汚れた霊を追い出すことができる、と主張する人たちがいます。

私は実際に出会ったことがありませんが、話に聞くことによると、時間と場所を整えて、何時間もかけて、なにかの儀式をしたりする場合が多いようです。

イエスにはそんな儀式は必要ありません。

一言、汚れた霊に命令すれば、霊が従ったのです。

なんという権威でしょうか?

それを見て人々は驚きました。

この「驚く」は先の言葉と違う言葉です。

恐れをもっておののく、という意味が含まれているそうです。

4.病気を癒す権威

こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。

マルコの福音書1章28節と29節(新改訳聖書)

カペナウムにはペテロの家がありました。

初期のクリスチャンたちはこの家のあったところに教会を建てたとされますが、20世紀になってその教会の跡も発掘されています。

ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。

マルコの福音書1章30節と31節(新改訳聖書)

イエスには病気さえも従わせる権威がありました。

イエスがペテロのしゅうとめの手を取って起こされるだけで、熱がひき、すっかり元気になったことが、彼女がすぐにイエスたちをもてなすことができたことから伺えます。

イエスのように、悪霊を追い出し、病人を癒すことができる人がいることが知れ渡れば、当然、多くの人がそのもとにやってくるでしょう。

夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。

マルコの福音書1章32節から34節前半まで(新改訳聖書)

はい、次のひと、悪霊、出て行きないさい、はい、次の人、熱、立って起きなさい、はい、次の人、とやったことはもちろん、ないと思いますが:)、会堂で汚れた霊を追い出してからこのかた、イエスは人々の病気を癒し、悪霊を追い出すことで手一杯になってしまいました。

福音を宣べ伝えることができなかったのです。

そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。

マルコの福音書1章34節後半(新改訳聖書)

なぜ、イエスは悪霊たちがものを言うのを許さなかったのでしょうか?

悪霊たちがイエスをよく知っていたから、とあります。

イエスが人となった神、ではなく、あくまでも人なだけであって、なにか宗教的な指導者のみとしてみなしたい人たちは、イエスが宣教の初め、自分の使命がどんなものであるのか分からなかった、と論じます。

後にマルコの福音書の8章で話題にしますが、イエスは弟子たちに質問します。

「人々はわたしをだれだと言っていますか。」

あたかもイエスは自分が誰であるのか知らないかのようなことばです。

ですが、イエスは自分が誰であるのか知らないので、聞いているのではありません。

弟子たちが自分の事を理解しているかどうかを聞いているのです。

イエスは宣教の初めから、天からの声で、自分が神に選ばれた王であること、また人々の罪のために罰せられる僕であることを理解していました。

ルカの福音書によれば12歳の時にはすでに、神を自分の父であると理解していました。

自分が神に選ばれた王である神の子、また人々の罪を負って罰を受けに来た子なる神であることを、イエスは十分に理解していました。

そして悪霊たちもそのことをよく知っていたのです。

しかし、イエスの周りの人々はまだ誰も、このことを理解していませんでした。

イエスは悪霊の言葉によって人々がこれを理解するのではなく、イエスの言葉と行いによってこれを理解するようにと、悪霊がものを言うのを許しませんでした。

5.イエスの来た目的は?

イエスがこの世界に来た目的はなんでしょうか?

もしあなたがイエスのように病人を癒すことができるとしたら、どうするでしょうか?

おそらくは大々的に宣伝して、もしくは宣伝しなくても人々のほうからやってくるので、朝から晩まで可能な限り、病人を癒すことに専念するのではないでしょうか?

人々はそういうことに必要を感じているからです。

しかし、イエスははっきりと、この必要以上の必要を理解していました。

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスをを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております。」と言った。イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。

マルコの福音書1章35節から39節まで(新改訳聖書)

イエスの使命は人々に福音を知らせることでした。

ある教会では癒しのサービスがあります、といって宣伝します。

もし本当に癒しの賜物があって、イエスやイエスによって権威を与えられた使徒たちのように、頼ってくる人すべてを癒すことができるのならすばらしいことです。

しかし、そのような癒しの賜物があったとしても、イエスも、イエスの使徒たちも、癒せることを宣伝して人々を集めようとはしませんでした。

彼らの一番の目的は福音を知らせることでした。

しかし、彼らには病気を癒す権威が与えられていたので、求められれば必要に応じて人々の願いに答えていました。

それでも癒しを宣伝することは彼らのやり方ではありませんでした。

二重に悲しいことは、現在のそのような癒しのサービスで本当に癒しの賜物をもった人がいない場合です。

癒されない時、それはあなたに信仰がないからだ、と暗示することは全く聖書の教えではありません。

イエスには病気を癒す以上の使命、福音を知らせるという使命がありました。

そしてもちろん、マルコの福音書を見ていけば、彼が人々の罪を負って代わりに神に罰せられるという使命を負っていることが分かります。

6.イエスに従うとは...

さて、ここまで、イエスには人を従わせる権威、人を教える権威、悪霊を追い出す権威、病気を癒す権威があることを見てみました。

イエスはそのすべてで神の子、子なる神に相応しく、すべてをつかさどっているように伝えられています。

しかしここで、大変興味深い、一人のらい病人のエピソードが与えられています。

さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」

マルコの福音書1章40節(新改訳聖書)

らい病人は旧約聖書の教えによって人々から隔離されていました。

しかしこのらい病人はイエスの癒しの権威を人々から聞いて信じたのか、イエスが癒せることに確信をもってイエスのみもとにきました。

イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」

マルコの福音書1章41節(新改訳聖書)

イエスの優先順位は福音を知らせることにありましたが、しかし、病気に苦しんでいる人を前にしてイエスはその人の必要を無視せず、むしろ深くあわれみました。

イエスはおそらく、触らなくても言葉だけで癒すことができたでしょう。

しかし、あわれみの気持ちを表すためか、イエスは自分が感染する危険も顧みず、このらい病人にさわって、彼を癒します。

すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。

「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」

マルコの福音書1章42節から44節まで(新改訳聖書)

らい病人は癒されました。そしてイエスはその人にきびしく、二つの戒めを与えます。

一つは誰にも何も言わないこと。

もう一つは旧約聖書の教えに従ってらい病人が癒された場合、隔離の状態から解放されるために、祭司に見せてきよめの供え物をすることです。

二つ目の戒めはその人自身のためです。

このようにあかししなければ人々は続けて彼を隔離しようとするでしょう。

ですが、なぜ誰にも何も言わないことを言いつけたのでしょうか。

それは、彼が癒されたことが知れれば、人々はまた、イエスに癒されるために集まり、福音を伝えることができなくなってしまうからです。

このらい病人はイエスに癒されたのに、イエスの言葉を守ることができませんでした。

人はそのようなものです。

たくさんの人が癒され、悪霊から解放され、後に見ていきますが、5千人、4千人の空腹が満たされましたが、イエスが十字架にかかった後、集まっていた弟子たちの人数は120人ほどでした。

物理的な必要を満たすことは霊的な信仰を生じさせることにあまり関係がありません。

このらい病人はおそらくイエスを単なる病気を癒せる人、としてしか見ておらず、彼の言葉を守ることの重要性を全く理解していませんでした。

ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。

マルコの福音書1章45節(新改訳聖書)

イエスには人を従わせ、人を教える権威が備わっていましたが、人がイエスに従い、その教えを守ることは、人の意思にゆだねられています。

ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはイエスに従いました。

このらい病人はイエスが癒せることを信じましたが、その言葉に従うことができませんでした。

あなたはイエスがあなたを神のもとへと導くことができることを信じているでしょうか?

もし信じているなら、さらに彼の言葉に従って生きているでしょうか?

もしかしたらあなたは、

「そんな、二千年も前に死んだ人になぜ従わなければならないのでしょうか?」

と思っているかもしれません。

「私は自分でやりたいことを決めて、自分の思うままに生きて行きたいのです。」

と思っているかもしれません。

しかし、あなたの人生とは一体なんなのでしょうか?

なぜ、そもそもあなたは存在するのでしょうか?

神が世界を、あなたを創造したのでないならば、あなたの存在は一体、なんなのでしょうか?

あなたが神を無視して生きようとするなら、いつか神があなたを無視するようなことになってもなにも言えないと思います。

聖書はイエスが、人となってこの世界にこられた神であり、彼に従って生きるべきであることを教えています。

あなたはイエスに従っているでしょうか?

もしかしたらあなたは、

「はい、従っています。私はイエスにたがわず従って生きています。」

と思っているかもしれません。

それならば、あなたは今日、隣人に自分の愛を示すことができたでしょうか?

自分の家族に愛を示すことができたでしょうか?

自分の敵に愛を示すことができたでしょうか?

神が聖書で教えていることをすべて守ることができたのでしょうか?

いいえ、あなたがもし、僕と同じような人間であるならば、なにかしらの失敗、なにかしらの愛のなさ、なにかしらの、自分勝手をしてしまったのではないでしょうか?

ヨハネの手紙第一1章8節、「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」

しかし、イエスは実にこのために来たのです。

僕たちが神に完全に従うことができないから、僕たちの代わりに十字架にかかり、神に罰を受けるために。

イエスは実に、このような王です。

もし今日、このイエスを信じて、彼に従いたいと願うのであるならば、僕と一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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