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1.イエスの再臨と現在の生活
1-1.なぜイエスの再臨が教えられないのか?
1-2.クリスチャンにとってイエスの再臨とは?
1-3.信仰と愛はイエス再臨の希望に基づく
2.神の恵みが私たちを教えさとす
2-1.すべての人を救う?
2-2.不敬虔を捨てる
2-3.この世の欲を捨てる
2-4.慎み深く、正しく、敬虔に生活し
2-5.イエスの再臨を待ち望む
3.クリスチャンの生き方
3-1.年上の男性
3-2.年上の女性
3-3.若い女性
3-4.若い男性
3-5.奴隷
4.神の望まれるように生きるとは?
しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。
老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。
同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。
そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。
同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい。
また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。
奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、盗みをせず、努めて真実を表わすように勧めなさい。それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。
というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から購い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。
あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。
テトスへの手紙2章1節から15節まで(新改訳聖書)
今日の箇所は大きく、前半と後半に分けることができます。
前半は1節から10節まで、クリスチャンがどのような生き方をするべきなのかを具体的に教えています。
後半11節から15節は、なぜ、このような生き方をするのか?その動機について教えています。
具体的な生き方の教えを見る前に、まず、そのような生き方をするその動機についてみて見ましょう。
11節、というのは、──なぜこれらのような生き方をするのか、ということですが──というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
イエスの現われを待ち望む、とあります。
クリスチャンがクリスチャンでない人に─ときにはクリスチャン同士でも─イエスが再びこの地上に戻ってくることについて語ることは、どうもタブー視されているように思われます。
ある教会ではイエスの誕生や復活について語っても──まあ、クリスマスとイースターがあるので誕生や復活に触れないでいることは大変難しいわけですが──イエスの再臨についてはほとんど、もしくは全く教えないそうです。
中国で政府に認められた教会では次の二つのことについて語ることはタブー視されているそうです。
一つは政府の批判をすること。
もう一つはイエスの再臨について語ること。
そのように、公に抑圧しないまでも、ある人たちは、イエスが再び来られることの教えに触れたがらず、むしろそんな、いわば夢物語について考えるより、現実の生活に役に立つことを教えるべきだ、と考えるようです。
しかし、この箇所は私たちになにを教えているでしょうか?
祝福された望み、すなわち、大いなる神であり──ここにはイエスが神であることが明言されています──大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとした、とあります。
イエスが再び来ることの望みはクリスチャンのもっとも基本的な要素です。
私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。
コロサイ人への手紙1章3節から5節まで(新改訳聖書)
国語の問題です。上の箇所の「それら」とはなにを指しているでしょうか?
キリスト・イエスに対するクリスチャンの信仰と兄弟姉妹に対してクリスチャンが抱いている愛です。
それでは、これら信仰と愛は、なにに基づいていますか?
クリスチャンのために天にたくわえられてある望みです。
イエスが再び来られると、まず、すでになくなっている人たちがよみがえり、次にその人たちと一緒に、生き残っている人たちが雲の中に一挙に引き上げられ、空中でイエスと会う、とテサロニケ人への手紙、第一、4章にあります。
こうして、私たちは、いつまでもイエスとともにいることになります。
天にたくわえられてある望みとは、永遠に神とともに過ごすことです。
この望みを、あなたは今、自分のものとしているでしょうか?
この世界にあって、非常な困難に合っている人は、実にこの永遠のいのちの望みを自分のものとしやすいのではないか、と僕は思うのです。
困難であるからこそ、イエスの訪れをいつも、毎日、心から待ち望むようになるのではないでしょうか?
逆に、この世界での生活があまりに楽な人、あまりに忙しい人は、この望みについて忘れがちです。
この永遠の命の望みをもしあなたが忘れていたとしたら、あなたのイエスに対する信仰も、兄弟姉妹に対する愛も、基礎のないものとなってしまいます。
信仰のために、また兄弟姉妹に対する愛のために、困難を招いたとき、私たちがより頼むものはこの永遠の命の望みしかありません。
イエスを信じれば、この世界での暮らしが充実したものになるから、とか兄弟姉妹を愛すれば、それは自分に返ってくるとか、それは、実に、そういうこともあって、然るべきですが、私たちがどんな困難に合ってもクリスチャンとして信仰と愛を続けていく基礎とはなり得ない。
この永遠の命の望みがあって初めて、私たちの信仰と愛は生きたものとなるのです。
あなたは、イエスの再臨を心から待ち望んでいるでしょうか?
テトスへの手紙に戻りましょう。
というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
テトスへの手紙2章11節から13節まで(新改訳聖書)
「というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ」とあります。
この「 すべての人を救う神の恵み」という言葉をもって、ある人たちは、神が人を罰して、永遠の裁きをもたらすことを認めたがりません。
神は全くの愛なのであるから、すべての人を最終的に神の元へと導くのだ、と考えたがります。
それは非常に魅力的な教えではないでしょうか?
すべての人を愛し、赦し、自分の下へと導く神。
裁かれ永遠の罰を受ける人は一人もいない...
しかし、この教えには問題があります。
神は、実に、すべての人を愛し、赦し、自分の下へと導くことを望んでおられます。
神は「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」とペテロの手紙第二、3章9節に書かれています。
しかし、すべての人が、この神の愛を受け入れるわけでは、ないのです。
この神の愛に信頼しようとせず、自分勝手に生きようとする人たちが、天国に入ることを神は許すべきでしょうか?
いいえ、すべての人が救われるわけではないのです。
それでは、この箇所にある「すべての人を救う神の恵み」とはどういう意味でしょうか?
この「すべての人」という言葉は原語で3回、新約聖書にでてきます。
そのうちの一つはピリピ人への手紙4章5節で、「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい」と言われています。
さて、この言葉を聞いて、部屋を出ていって、出会う人一人一人全部に、果ては世界のすべての人を訪問して、寛容な心を知らせなければ、この言葉に従ったことにならないのでしょうか?
いいえ、すべての人とは、どのような人でも、ということですね。
神の恵みは、ユダヤ人でもギリシア人でも、奴隷の人も自由の人も、男性も女性も、どんな人でも救うのです。
しかし、全部の人、という意味ではない...聖書のほかの箇所を読めばこれは明らかであると思います。
というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
テトスへの手紙2章11節から13節まで(新改訳聖書)
この、どんな人でも救う神の恵みが、私たちに不敬虔とこの世の欲とを捨てることを教えさとす、と書かれています。
不敬虔、とはなんでしょうか?
この、敬虔、という言葉は実に理解されていない言葉ではないか、と思います。
敬虔を別の言葉で言い直してみてください。
敬虔とは広辞苑によれば「うやまいつつしむこと。」だそうです。
新共同訳聖書では、同じ言葉が「信心深い」と訳されています。
この「敬虔」という言葉が、聖書の中で、いかに深い意味を持っているかは次の聖書箇所を見ていただければ分かると思います。
確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
テモテへの手紙第一3章16節(新改訳聖書)
ここで、敬虔とは、キリストの生涯そのものを指しています。
敬虔とは、なにか信心深い、というクリスチャンとしてたった一つの性質を表わす言葉なのではなく、クリスチャンがイエスを模範として生きるその生き方そのものを指す言葉です。
信心深い、ましてや、うやまいつつしみ深い、という言葉ではとても表すことができていない、と思います。
英語では「Godliness」と訳されています。神と似せられた性質。
このように理解すれば、例えば、以下のような箇所も理解しやすいのではないかと思います。
肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔──クリスチャンとしての生き方──は、すべてに有益です。
テモテへの手紙第一4章8節(新改訳聖書)
違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔──クリスチャンとしての生き方──にかなう教えとに同意しない人がいるなら ...
テモテへの手紙第一6章3節(新改訳聖書)
神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ──私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔──クリスチャンとしての生き方──にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。
テトスへの手紙1章1節(新改訳聖書)
不敬虔とはこの敬虔という言葉の反対、クリスチャンとして相応しくない生き方のことです。
そのような生き方を捨てるようにと教えられています。
というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
テトスへの手紙2章11節から13節まで(新改訳聖書)
この世の欲、とあります。
イエスの4つの地のたとえを思い出します(マルコの福音書4章1節から20節まで参照)。
ある人たちはいばらの地のようです。せっかくみことばがまかれても、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、実を結びません。
この欲は物質的なものかもしれません。
大きな家、大きな車、大きなテレビ、小さな携帯電話...
またはなにか感情的なものかもしれません。
自慢したい、人に認められたい、人並みになりたい、あの人に愛されたい...
これらの欲がない状態でないと、クリスチャンではない、と考える人もいますが、そうでは、ない、と思います。
クリスチャンにはこれらの欲がない、というのではないのです。
もし私たちにこれらの欲がないといえばうそになります。
この、欲を捨てる、という言葉は欲を拒否する、とも訳されます。
クリスチャンは心の中に、そのような欲があったとしても、それらの欲を拒否します。
ある種の欲はまったく悪いものです。
例えば人に意地悪したい、というような欲が心に起こるときには、それを消してください、と神に祈るべきです。
ですが、例えば「あれがあると便利になるから欲しい」というような欲はそれ自体は悪いものではないでしょう。
食欲、性欲、人に愛されたいというような欲は、神が人に与えたものであって、それそのものが悪いということはありません。
しかし、このような欲にとらわれて、神が与えられないものに対して不満を言い続けるのならば、それは悪いことです。
このような欲によって心の中が一杯になってしまい、神にすでに与えられたものに対して感謝を忘れてしまっているのならば、それは悪いことです。
私たちの目を、天にある望みに向けるならば、そのような欲がいかにむなしいものであるかを知り、真に捨て去ることもまた、できるのではないでしょうか。
というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
テトスへの手紙2章11節から13節まで(新改訳聖書)
この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、とあります。
慎み深く、とは同じ言葉が2節、5節、6節にも使われています。
6節の「思慮深く」は原語では「慎み深く」と同じ言葉です。
すなわち、老人たちには「慎み深く」、年をとった婦人たちには「慎み深く」、若い婦人には「慎み深く」、また若い人々には「慎み深く」と言われているのです。
大事な言葉です。
慎み深く、とはどういうことでしょうか?
広辞苑には「差出がましいところがなく、控え目である。」などとでていました。
これも誤解を招く訳だと思います。
新共同訳では「分別がある」と訳されていました。
レギオンという霊に取り付かれた人の話を覚えているでしょうか?(マルコの福音書5章1節から20節参照)
イエスはこの悪霊を追い出して、きちがいじみていたこの人を正気にもどしましたが、この「正気」という言葉が「慎み深い」と同じ言葉です。
すなわち正しい心の状態のこと。
クリスチャンは心の状態をいつも正しく保つことを求められています。
性格が控えであるかどうかは問題ではありません。
というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
テトスへの手紙2章11節から13節まで(新改訳聖書)
祝福された望みを待ち望むようにと教えさとした、とあります。
もう一つ、国語の問題です。
なにが教えさとしたのでしょうか?
この箇所によれば「神の恵みが」です。
神の恵みを理解している人は、この恵みによって、永遠の命の望みを待ち望むこと、またこの不完全な世界にあって、不敬虔とこの世の欲とを捨て、慎み深く、正しく、敬虔に生活することを教えさとされています。
このように教えさとされていない人は、実は神の恵みを本当には理解していないのです。
ここに、本当のクリスチャンと、自分はクリスチャンであると告白しつつ、実は本当のクリスチャンではない人とが区別されます。
どのようなクリスチャンでもこの世界にあっては完全にはなりえません。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」と第一ヨハネの手紙1章9節に書いてあります。
ところが同じ手紙の3章6節に「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」とあります。
罪を犯さない、と言っているのではないのです。クリスチャンもクリスチャンでない人もどちらも罪を犯してしまいます。
外から見れば、もしかしたら、なにも変わりがないように見えるかもしれません。
しかし、クリスチャンは、罪のうちを歩みません。罪を犯しても良い、犯し続けてもよい、と思うことはできないのです。
もし、あなたが、罪を犯してもよいのだ、と思ってしまうのであれば、あなたは神があなたにしてくださった事を忘れてしまっています。
もし、あなたが、罪を犯してもよいのだ、と思ってしまうのであれば、あなたは、今もまだ、罪の奴隷となっています。
神はあなたを罪の奴隷の状態から解放して、自由に神に従えるようにされたのです。
あなたには、なにか、やめたいのに、変えたいのに、続けて犯し続けてしまう罪があるでしょうか?
神がご自分の御子を捧げてまであなたを愛した恵みを思い出してください。
この恵みは、私たちが罪のうちに歩まないようにと教えさとすはずです。
それでは、この神の恵みがクリスチャンたちに具体的になにを教えるか、見ていきましょう。
老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。
テトスへの手紙2章2節(新改訳聖書)
年を経るごとにクリスチャンの男性は、自分を制することができ、尊敬を受けるに相応しい性質を備えなければなりません。
分別があり、健全な信仰、健全な愛、健全な忍耐を保ちます。
同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。
テトスへの手紙2章3節(新改訳聖書)
神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、とは新共同訳では、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、と訳されています。
婦人たちの生き方も、尊敬を得るようなクリスチャンとしての生き方が求められています。
悪口を言わず...この悪口を言うという言語は diabolos 、悪魔を指す言葉と全く同じ言葉です。すなわち他人を中傷すること。
どんな人をも中傷するべきではありません。
大酒のとりこにならず...
クレテ島の人たちの生活は確かにだらしのないものであったようです。1章12節でパウロはこう言っています「クレテ島の同国人であるひとりの預言者がこういいました。「クレテ人は昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう。」」
どうやらクレテ島では女性がアルコールにおぼれてしまうことが一般的な問題であったのかもしれません。
しかし、アルコールだけでなく、なにかに夢中になってしまい、分別を忘れるなら、しかし、それは、クリスチャンとしてふさわしくありません。
良いことを教える者であるように...悪いことに心を奪われにくくするには、良い事に専念することです。
「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」とピリピ人への手紙4章8節に書いてあります。
そうすれば、年上の婦人たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。 それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。
テトスへの手紙2章4節と5節(新改訳聖書)
夫や子供に対する愛は自然に湧き出てくるものだと、まだ結婚をしていない女性は思うかもしれません。
結婚をして妻となっている人は、これがいかに現実離れしているかを知っているのではないでしょうか?
夫を愛すること、子供を愛することは教えられるものなのです。
愛は単に感情的なものではなく、相手の最善を尽くすことを目指す、意思の事を言います。
敬虔なクリスチャン─イエスを模範として生きるクリスチャンの年上の婦人─は若い婦人たちに、困難があっても夫を愛すること、子供を愛することを教えることができます。
また、分別があり、清く──貞潔の言語の意味はなにも性的に潔白なだけではなく罪と離れた清さを意味します──
家事に励み、
優しく──この優しく、という言葉はイエスが、なぜ私を善いと呼ぶのか、と言ったあの善い、という言葉と同じです。新共同訳では善良、と訳されています。心優しいことはもちろんのこと、行いと心が善であるように──
そして、自分の夫に従順であるようにと教えることができます。
この「自分の夫に従順に」という言葉を嫌う人がいます。
歴史的に、また現在でも、男性が女性を暴力で抑圧してきたことは、確かに知られています。
そのような歴史を知る人は、夫に従順に、とはまるで奴隷のような扱いであると感じるようです。
しかし、エペソ人への手紙5章にあるように、教会を愛して自分のいのちを捨てたキリストのように、夫は自分を捨てて妻を愛することが求められています。
もし妻が奴隷であると言うのなら──それは全く例えばの話ですが──夫はその奴隷のために命をささげる主人であることが求められています。
同様に、神は妻に自分を捨てて夫に従順であることを求めています。
1節から5節までが原語ではひとまとまりであり、このように年上の人たちと若い婦人たちに教えることの一つの理由が「神のことばがそしられるようなことのないため」です。
すなわち、このような生き方は、私たちがこの世界で生きる最もよい生き方であるだけでなく、このようにクリスチャンたちが生きることによって、クリスチャンでない人たちがみて、非難するところがないように、という理由です。
同じように、若い人々は分別があるように勧めなさい。
テトスへの手紙2章6節(新改訳聖書)
この手紙の直接の受取人であったテトス自身が若いものであったので、若い人々には直接に模範となることができました。
教えにおいては純正で──なにものをも加えない、なにものをも差し引かない、純正な教えを、威厳を持ち──尊敬されるべき性質を持ち、非難すべきところのない健全なことばを用いることが教えられています。
敵対する者とは全く教会の外にいる人たち、というよりはむしろ、パウロが1章に述べたように、自分たちをクリスチャンであると呼びつつ、違う教えをする人たちのことであると思います。
教師は、そのような人たちが非難することができないように、健全なことばを話すことが教えられています。
奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、盗みをせず、努めて真実を表わすように勧めなさい。それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。
テトスへの手紙2章9節と10節(新改訳聖書)
最後に奴隷に対して、教えられています。
私たちは「奴隷」と聞くと、なにか肉体的にひどく虐待され、鎖につながれた奴隷のイメージを持つかもしれません。
しかし、パウロが手紙を書いた1世紀のころの奴隷は、必ずしもそのように肉体的虐待に直接結び付けられた奴隷たちばかりではありませんでした。
法的に一人の主人に支配され、自由はありませんでしたが、ある程度の技術や知識をもち、家の管理を任されるような奴隷もいたのです。
機会があれば、奴隷から自由人になることもできました。
しかし、奴隷である間は、奴隷はその主人に従うことが教えられています。
そのように私たちがなにか法的な支配の下にいるとき、クリスチャンたちはその権威の下に従うことが求められています。
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
ローマ人への手紙13章1節から5節まで(新改訳聖書)
クリスチャンは自分の上に立つ権威に従うことを教えられています。
なぜなら神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。
例えばもし、あなたがなにか会社に勤めるようになって、法的に雇用者の権威の下に入るのなら、あなたはいわばその雇用者の「奴隷」となった、と言えると思います。
雇用者が気に入らなくなれば、いつでも会社を辞める、すなわち自由人になることができます。もちろん法的な手段にそってですが。
しかし、雇用者の権威の下にいる間は、その雇用契約にのっとって雇用者に従わなければなりません。
今日のこの箇所は私たちになにを教えるでしょうか?
すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、盗みをせず、努めて真実を表わすように──新共同訳では、常に忠実で善良であることを示すように、と訳されています──
反抗せず、盗まず、働く時間に尽力して働くことがクリスチャンには求められています。
自分の雇用者は良い雇用者ではないから、というのは理由になりません。
しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
第一ペテロの手紙2章18節から20節まで(新改訳聖書)
もちろん雇用者がなにかクリスチャンとしてできないようなこと──たとえば不正をすること──を求めるならば、私たちはその雇用者に従うことができません。雇用者のさらに上にいる神に従うべきです。
使徒の働き4章では、使徒たちがそのときの権威者によって福音を述べ伝えることを禁止されましたが、「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」といって従いませんでした。
権威者が要求することが、神が要求することと一致しない場合、クリスチャンは神に従うべきです。
しかしながら、そうでもない場合に、クリスチャンは自分の上に権威を持つ主人に誠意を持って従いことが教えられています。
それは、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。新共同訳では、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります、とあります。
クリスチャンたちが、もし不当な苦しみを受けつつ、それでもなお善を飽きずに続けるならば、そのような教えが一体なんであるのか、クリスチャンでない人たちをひきつけることができるのです。
もしかしたら神はあなたの行いを通して、ある人を救いへと導いているのかも知れないのです。
最後に一つ、質問させてください。
あなたは、クリスチャンとしてこの世界で生きていくことに、喜びを感じていますか?
それとも困難を感じていますか?
もちろん喜びに決まっています!でしょうか?
イエスは私が支払いきれなかった罪の報酬を私の代わりに支払いました。
イエスはすべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます、といっています。
クリスチャンなら喜びであふれているはずです...
それは本当です。
しかし...
あなたが本当に自分の罪の性質をすべて捨てようとするなら、必ずなにかの困難を感じているはずです。
クリスチャンとして、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活しようとすれば、かならず、なにかの困難に出会うのではないでしょうか?
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とテモテへの手紙第二3章12節に書かれています。
もしあなたがクリスチャンとして生きようとしたときに、なにかの困難を感じていたとしてもまた、それは真実であるのです。
もしこの世界の生活になにも問題がなかったとしたら、僕はそのような人が本当にイエスの再臨を待ち望むことは難しいのではないかと思います。
困難があるからこそ、私たちには本当の希望が生まれるのです。
キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から購い出し、ご自分のためにきよめるためでした。
主、イエスの再臨を待ち望み、今日、神があなたに望んでおられるように、生きることができますように。
祈りましょう。
天の父なる神様。
今一度、イエスの十字架での身代わりの死を感謝します。
あなたの恵みが私たちにこの世界にあって、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、イエスの再臨を待ち望むようにと教えさとしました。
あなたの望まれるように生きることができるように助けてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience