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罪人を招くイエス

1.取税人について
2.罪人について
3.パリサイ派の律法学者たちについて
4.なぜ人は自分が罪人であることを理解しないのか

4-1.他人と比べて自分は正しい
4-2.みんなが悪いので自分も悪くてよい
4-3.神の罰はそんなに悪いものではない
4-4.「不義をもって真理をはばんでいる」
5.「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか」
6.「医者を必要とするのは...」
6-1.だれが医者を必要とするのか?
6-2.自覚の問題
7.罪人を招くイエス


僕たち夫婦は直美と安娜が生まれてからずっと、寝るときには必ず、添い寝をしてあげていたので、直美ちゃんは今、3歳半ですが、未だに、一人で寝る、ということができません。

僕が一人、ルイースが一人、受け持つわけですが、そうすると、夜は8時くらいにはベッドに入って、早いときには5分くらい、時間のかかるときには、背中が痒いとか水がのみたいとか言い出して、寝かせるのに 1時間くらいかけてしまうこともあります。

時には、もうこのまま寝てしまおう、と僕たちも一緒に8時か9時くらいに寝てしまうことも少なくないです。

問題は僕が寝てしまうことのほうが、ルイースが寝てしまうことより圧倒的に多いことなのですが、朝は僕が起きるほうがルイースが起きるより早いことが圧倒的に多いのでバランスがとれていると言えるかもしれません。 :)

この間、友だちを一人、夕食に誘いました。

女の子の友だちで、女性同士で話したいこともあったでしょうからと、僕は早めに失礼させていただいて、直美と安娜を二人同時に寝かしつけることをしてみました。

直美と安娜を右手と左手に抱えてベッドに横になって、「直美ちゃん、安娜ちゃん、今日の一日を神様に感謝しましょう。」「アーメン」「じゃあ、目をつぶって寝てくださーい。」「はーい」「目を開けちゃだめですよ〜」「はーい」

で、しばらくして、直美が言ったんですね。

「あ〜、安娜が目を開けてる〜」

おそらく、直美は、目を開けようとしていたときには、パパに気づかれないように、なんて思っていたかもしれませんが、安娜が目をあけているのを見て、パパに気づかれないように、なんて思いは消えてしまったでしょう。

安娜が悪い事をしている、ということをとにかく早くパパに伝えて、安娜を叱ってもらいたかったようです。

私たちは、どうやら、他の人の悪いところを見ると、自分の悪いところを忘れやすくなるようです。

人々がどんなに悪い事をしているのか、知れば知るほど、自分はそういうことしない、なんて正しい人だろう、と無意識にも考えるようです。

今日の聖書箇所には取税人や罪人と呼ばれる人たちとパリサイ派の律法学者と呼ばれる人たちが登場します。

まず取税人について見てみましょう。

1.取税人について

イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。

マルコの福音書2章13節と14節(新改訳聖書)

この14節の内容が前の13節にそのまま続いているのだとしたら、おそらく、イエスは歩きながら、ついてきた人たちに教えていたのではないかと思われます。

それは当時のユダヤの教師の教え方としてはめずらしくなかったようです。

座っていると眠くなりますし、最近は健康不足が問題になっているので、お勧めしたい限りですが、それはおいておいて...:)

そのころローマ帝国の支配下に置かれていたユダヤの人たちは、ローマにいろいろな税金を支払わなければなりませんでした。

道端にあった収税所というのはおそらく通行税や関税を取り立てるところであったでしょう。

人々を直接取り立てに行く取税人は普通、その民族の事をよく知っていることが便利だったので、同民族のものがローマの取税人になりました。

この税金をローマに支払う手伝いをしている者、として取税人はユダヤ人でしたが、他のユダヤ人たちにひどく嫌われていました。

もちろん、税金を支払う、ということ自体には、普通、なにも悪いことではなくて、聖書によればむしろその国の支配下に住むものの義務で、あとでマルコの福音書の12章でも見ますが、イエスは私たちが税金を収めることも教えています。

むしろ取税人が嫌われていたのは、彼らのほとんどが、税を集める名目で実は自分の利益を増やしていたことです。

バプテスマのヨハネが悔い改めのメッセージをしたとき、彼のメッセージを信じた取税人たちがいました。

取税人たちはヨハネに聞きました。「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」

ヨハネは彼らに言いました「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」

取税人は決められたもの以上に人々を取り立てて裕福になっていましたが、そのため人々には大変嫌われていました。

このアルパヨの子レビは取税人でした。

誰々の子、誰々という紹介の仕方は、例えば同じ名前の人がいるときに父親の名前をつけて区別する時などに用いられます。

例えばイエスの十二弟子にはヤコブが二人いますが、それぞれゼベダイの子ヤコブとアルパヨの子ヤコブ、と呼ばれています。

レビという名前が最初に登場したのは旧約聖書のヤコブとレアの3番目の子供で、ヤコブに愛されていなかったレアが、「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから。」と言って名づけた、「結びつく」の意味だそうです。 (創世記29章34節)

この箇所に並行するマタイの福音書によれば、ここにはマタイという取税人が登場しています。

すなわち、マタイの福音書を書いた、十二使徒の一人、マタイです。

伝統的にはレビという人がマタイと同一人物で名前を二つ持っている、といわれています。

例えば、もともとシモンという名前であったペテロがイエスによりケパ、すなわちギリシア語でペテロという名前をつけられたように、もともとレビという名前であったのが、マタイという名前をつけられた、という具合です。

マタイとは「神のギフト」という意味だそうです。

しかし、マルコの福音書、ルカの福音書にはペテロの時にはあった、そのようなレビに名前をつける説明がありません。

マルコとルカの福音書だけを読んだら、レビとマタイが同一人物であるかどうかは分からなかったでしょう。

実は、マタイが取税人であった、というのはマタイの福音書にしか書いてありません。

取税人は多くの人に嫌われていたので、もしかしたらマルコとルカは意識してマタイが取税人であったことを伏せたのかもしれません。

しかし、マタイは自分が取税人であったことを隠さずに述べています。

興味深いことに、マタイの福音書には他の福音書には使われていないようなお金の単位が多く使われているのですが、これは取税人であったマタイならではの記録であることを思わせます。

同じようなことはルカの福音書にもいえます。

ルカは医者でしたから、病気の症状などに専門的な言葉が使われているそうです。

またペテロの言葉を記したとされるマルコの福音書では、ペテロが実に失敗ばかりしているように描かれています。

初期の教会が形成されていく中で多大な尊敬を得ていたペテロでしたから、ペテロの口から直接言われた言葉でなければ、なかなかペテロの失敗談を記録するのは難しかったでしょう。

ここで、イエスは取税人、アルパヨの子レビ、あるいはマタイに目を留め、「わたしについて来なさい。」と言われました。

14節後半、すると彼は立ち上がって従った、とあります。

ルカの福音書によると、「レビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」とあります。

すでにペテロ、アンデレ、ヤコブとヨハネに対して、同じように弟子たちを招いていたイエスでしたが、ここでは少なくとも二つの点で、前回の招きをさらに越えるものであると僕は考えます。

どんな点が、前の招きと異なるでしょうか?

一つは、イエスはここではっきりと一般の人たちに嫌われているような人を弟子に招いたことです。

ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは言わば、まっとうな漁師で、アンデレは人々から尊敬されたバプテスマのヨハネの弟子、はっきりとは書いてありませんが、ヨハネもバプテスマのヨハネの弟子であったようです。

彼らは人々から尊敬こそされ、嫌われることはなかったでしょう。

ですが、イエスは人々から嫌われていた取税人を弟子に招きました。

なにがマタイをして、イエスの招きになにもかも捨てて応じさせたのでしょうか?

イエスはこの前の箇所で、イエスが罪人の罪を赦す権威を持っていることを人々に示しました。

マタイはもしかしたらこのことを聞いていたのかもしれません。

マタイは取税人という人々から嫌われる職に従事していましたが、もしかしたら、このままではいけない、と、自分の罪についてよく理解していたのかもしれません。

罪を赦す権威を持っているイエスが一言、声をかけただけで彼は、何もかも捨てて、従いました。

取税人がイエスに弟子としてついていく、ということは、マタイは自分の職業を完全に捨ててしまったことを意味しているそうです。

漁師であった前の4人の弟子も自分の職業を捨てましたが、実は漁師の場合は戻ってやり直すことが比較的簡単にできたようです。

ヨハネの福音書の最後の章によれば、イエスが復活された後、ペテロたちは少なくとも一度、漁に出かけています。

しかし、取税人はその職務を放棄すれば、二度と同じ職には戻れなかったようです。

マタイは実に「何もかも捨て」イエスに従うことを決心しました。

2.罪人について

それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。

マルコの福音書2章15節(新改訳聖書)

この日本語の訳から読むと、「こういう人たち」とは取税人や罪人たちのことでそういう人が大ぜいいて、イエスに従っていた、と解釈するのが自然ですが、原語では「大ぜいの取税人や罪人たちが食卓に着いていた、イエスや弟子たちと一緒に、なぜなら大勢がイエスに従っていたのである。」と訳せます。

すなわち、マルコはここまで、イエスの弟子が大勢いることを言っていなくて、ここで大ぜいいて、イエスに従っていたと言われているのはイエスの弟子たちのことで、取税人や罪人ではなかったと思われます。

新共同訳では15節は、「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」と訳されています。

ルカの福音書によるとマタイは「自分の家でイエスのために大ぶるまいをした」とあります。

当然、イエスの弟子たちもそこに招かれたのでしょう。

それではどうして、そこに大ぜいの取税人や罪人たちも食卓に着いていたのでしょうか?

それはもしかしたら、この食事は、マタイの取税人サヨナラパーティーだったか、マタイが他の取税人や罪人と呼ばれる人たちにもイエスに出会って欲しくて呼んでいたからだったからかもしれません。

ここでマルコの福音書で初めて「罪人」と呼ばれる人たちが登場します。

あれ?ちょっとおかしいな?と思われないでしょうか?

私たちは聖書のほかの箇所から、すべての人が神に逆らおうとする罪人であることを知っていますが、ここの箇所で「取税人や罪人たち」というフレーズを見ると、まるでその場で「罪人」と呼ばれた人たちだけが罪人であって、イエスの弟子たちやパリサイ派の律法学者は罪人でないという印象を受けます。

この場合の「罪人」は、神に逆らっている人たちすべて、という意味ではなくて、ユダヤ人社会の中で、神の律法に従うことを放棄してしまった人たちを指して、「罪人」と呼んでいるからです。

例えば、神の目にはすべての人が罪を犯していわゆる「不良」であるのに、私たちはある特定のライフスタイルや外見を持っている若者を一まとめにして「不良」とレッテルを貼ります。

同じように、ユダヤ人、特にここに出てくるパリサイ派の人たちは、自分たちの決めたおきてを守らない人たちを一まとめにして「罪人」と呼んでいました。

この「罪人」たちが、詳しく、どのような人たちであったのかは書かれていないのですが、例えば安息日に奇跡を持って人々を癒していたイエスをパリサイ人は「安息日をやぶる罪人」と呼んでいたので、安息日をパリサイ人の決めた通りには守らなかったり、パリサイ人の決めたしきたりに従わなかったりした人たちであったと思われます。

3.パリサイ派の律法学者たちについて

パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」

マルコの福音書2章16節(新改訳聖書)

パリサイ派は当時のユダヤ教の宗派の一つで、彼らは律法を厳格に守ることでイスラエルの国が再興される、神の国がおとずれる、と考えていたそうです。

彼らの多くはまた律法学者で旧約聖書を丹念に学んでいました。

それはうっかりしたり知らなかったりして破ってしまわないようにと、旧約聖書に与えられている神の戒めを生活の細部にまでわたって明確に規定するためでした。

彼らの中には真摯に神を愛して、その神の戒めを守りたい、という気持ちが動機になっている人も全くいなかったわけではありませんが、彼らの多くは規定された戒めを表面的に守ることで自分は神の前に正しい人間であることを誇って、他の人に対する愛やあわれみをなくしてしまっていました。

実に私たちは自分が正しい、と思ったときに一番、他の人に対するあわれみをなくすようです。

そのようなとき、私たちは自分も同じ罪人である、ということを理解しません。

4.なぜ人は自分が罪人であることを理解しないのか

なぜ人は自分が罪人であることを理解しないのでしょうか?

僕はここに思いつくまま4つの典型的な考え方を並べてみました。

4-1.他人と比べて自分は正しい

まず一つ目、他人と比べて自分は正しいので罪人ではないという考え方です。

ルカによる福音書18章9節を開いてください。

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。

『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

ルカの福音書18章9節から14節まで(新改訳聖書)

ニュースを見れば、どんなにか痛ましい事件、人の心の荒みよう、人の自分勝手さ、人を人とも思わないような事件が報告されています。

歴史を見てみれば、ある時代、ある場所でどんなにか人が心を失って他の人を死に追いやったのか、覚えさせられます。

また、自分と関係する人たちでも、ああ、私はこれほど悪いことはしていない、と思うことはないでしょうか?

人は他の人の悪いところを見ると、心が痛むと同時に、自分はこれほど悪くはない、と奇妙な安心感を持つようです。

それは全く根拠のない安心感だと言わなければなりません。

「僕はまだなにも悪い事をしていないません。」

そう、思われていないでしょうか?

ある伝道師が伝道集会で集まった人たちに聞きました。

「あなたがたのなかで、嘘をついたことのない人はいるでしょうか?」

誰も手を挙げなかったのを見た伝道師は、言いました。

「するとこの部屋はうそつきでいっぱいだ、ということですね」

メッセージを話し終えた後、二人の人が来て、伝道師に言いました。

「すばらしいメッセージをありがとうございます。ただ、一つ言わせていただければ、私たちは確かにうそをついてしまったことはありますが、うそつきではありません。」

伝道師は言いました。

「それではこれから二週間、嘘をつかないように努力してみてください。」

二週間後に二人の人がまた伝道師のところに来たので伝道師は聞きました。

「どうでしたか?」

一人の人が言いました。

「確かに嘘をつかないではいられませんでした。でもフェアじゃありません。実は先々週から不動産屋の仕事をしてたからです。」

もう一人の人が言いました。

「僕は一言も嘘を言いませんでした。」

伝道師は聞きました。

「ほう、二週間なにをしていたのですか?」

その人は答えました。

「家でずっとビデオを見てました。」

もし私たちがなにも嘘をつかなかったとしたら、それは単に機会がなかったからです。

もし私たちがなにも他の人のものを盗むことがなかったとしたら、それは単に機会がなかったからです。

もし私たちがだれも他の人を死に至らしめたことがなかったとしたら、それは単に、機会がなかっただけのことです。

600万人とも言われているユダヤ人を殺したのはナチス・ドイツでしたが、そのころヨーロッパに住んでいてユダヤ人殺害に協力した一般市民の人たちです。

彼らはなにか私たちに比べてより罪人に生まれついた、ということがあるでしょうか?

他の人の悪事を見たとき、私たちはそれが実に自分にも可能性のあることを知るべきです。

人は罪を犯して罪人になるのではありません。

だれも罪人だから、機会さえ与えられれば、どんな罪でも犯すことができるのです。

他の人の悪事を見て、自分は正しい、と思いこむことは全く根拠がありません。

4-2.みんなが悪いので自分も悪くてよい

二つ目はみんなが悪いので自分も悪くてよい、という考え方です。

赤信号、みんなでわたれば怖くない、の考え方ですね。

私たちは大勢が正しい、と判断したことが正しい、という民主主義の考え方の社会に住んでいるので、ともすれば、これだけ多くの人が聖書の教えを信じていないのだから、きっとそれは間違いであるだろう、とさえ思ってしまうかもしれません。

実に99%の日本人はイエスが人となった神だなどとは信じません。

これだけ多くの人がみんな救われない、などということが本当にあるのでしょうか?

神はすでに、そういうことがありえることを私たちに示しています。

すなわちノアの時代、地上に人の悪が増大して、その心に計ることがみんな、いつも悪いことだけに傾くようになったとき、そのとき救われたのはノアの家族8人だけでした。 (創世記6章)

マタイの福音書7章13節、「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

神はすべての人が自分が罪人だと理解して悔い改めることを望んでいますが、すべての人がこれを受け入れるわけではありません。

皆がそれが正しいと考えているからといって、それが本当に正しいという証拠には必ずしもならないのです。

4-3.神の罰はそんなに悪いものではない

またある人たちは神の罰はそんなに悪いものではない、と考えます。

もし本当に地獄、といえるようなところがあって、私はそこへ行くのなら、私だけでなくてあの人もあの人も一緒に行くのだから、そこでお茶でもして過ごそう、などと当てのない期待を抱くかのようです。

ですが、そのように例えば友人関係を楽しめるのは、神がこの世界でよいものを神を信じる人にも神を信じない人にも誰にでも与えてくださっているからです。

マタイの福音書5章45節、神は「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださ」います。

地獄とは神との関係を一切に断たれることです。

主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。

第二テサロニケ人への手紙1章8節と9節(新共同訳聖書)

私たちが神などいらない、と神と離れた生き方を望んだので、そのとおりに神は終わりの日に私たちを神から切り離してしまいます。

すべての良いものは神から来ました。

神から切り離されては人はなにも良いものを得ることができません。

地獄とはそのような場所です。

そこでは人々は神を憎み続け互いに憎みあいつづけます。

4-4.「不義をもって真理をはばんでいる」

なぜ人は自分が罪人であることを理解しないのでしょうか?

ある人たちは、自分が自分で正しいと理解できることを選ぶことのできない弱いものであることを、認めたくないために、この事実を無視しようとします。

聖書に次のように書かれています。

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

ローマ人への手紙1章18節(新改訳聖書)

自分が神の前に正しくない、ということを認めることのできない人がいます。

それは自分が実は悪い事をすでに行ってしまった人たちと、なんらかわりがないということを認めることです。

私たちは自分が不義、すなわち神に正しいと認められないので、あえて、この真理を無視しようとするのです。

自分は罪人でない、自分は何も悪い事をしていない、と考える人は、まるで二週間一人で家にいてビデオを見ていたので誰にも嘘をつかなかった、と言っている人のようです。

あなたは自分が本当に罪人であることを理解しているでしょうか?

5.「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」

パリサイ派の律法学者たちはまさか自分が罪人であることを理解していませんでした。

彼らはイエスの弟子たちに聞きました。

「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」

先週、イエスが中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言っているのを聞いた律法学者たちは心の中で文句を言っていました。

今日の箇所では心の中の文句を口に出しましたが、イエスにではなくイエスの弟子たちにでした。

僕は思うのですが、イエスの弟子たちもおそらく、自分たちが取税人や罪人と呼ばれている人たちといっしょに食事をするのが、恥ずかしかったのではないかと想像します。

「食事をする」というのは単に物を食べておなかを満たすことだけではありません。

クリスチャンたちが「交わりの時」と呼ぶように、食事を一緒にすることは自分と相手が交友関係を表わします。

実に、パリサイ派の人たちは、ローマに加担しつつ私腹を肥やすような取税人やパリサイ人の定めた戒めに従わない罪人と食事をするようなことはしませんでした。

彼らにとって罪人は救われるものではなくて罰せられるだけのものであったのです。

イエスが罪人たちと交わりをもつのを見て、パリサイ派の人たちはイエスも罪人であるのかと暗に非難しているように思われます。

6. 「医者を必要とするのは...」

しかしイエスは言われました。

イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

マルコの福音書2章17節(新改訳聖書)

6-1.だれが医者を必要とするのか?

医者は病人を癒すのではなくて病人に備わっている病気から自己回復する力を手助けする、と現在の医学ではよく言われますが、この箇所の医者はイエスが行っていたように、病人を癒す医者のことです。

普通、病人が病人を治療はしないように、罪人が罪人を救うことはできません。

病人の間で働く医者が病人では務まらないように、罪人の間にいるからといってイエスは罪人ではありません。

罪人と交わるイエスは罪人であるという非難に、イエスはこのようなたとえで答え返しました。

6-2.自覚の問題

うろ覚えなのですが、オーストラリアでは30歳以上の男性の30%以上が糖尿病にかかっているそうです。

しかしその半数以上に自覚症状がなく、まず検査をすることが勧められています。

もし自覚症状がなくて、しかも糖尿病の人が増えていることも知らなかったとしたら、そのひとはきっと自分が医者を必要としていることを理解できなかったでしょう。

医者を必要とするのは自分が病気にかかっていることを理解している人です。

病気の自覚のない人は医者を必要としません。

罪も同じように、自覚がなければ、その人は救いを必要としないでしょう。

あなたは救いを必要としているでしょうか?

7.罪人を招くイエス

自分は神の前に正しくない。

本当はなにが善いことでなにが悪いことか神に教えられ知っているのにその通りに生きれない。

自分は自分で自分を救うことができない。

自分は救いを必要としている。

イエスはそのように自分が罪人で救いを必要としている人を招いています。

イエスの招きを受け入れるのなら、その人の代わりにイエスが罰を受けたことによって、神はその人の罪を赦されています。

祈りましょう。

もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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