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1.神の声を聞くには?
1-1.経験によって神の声を聞く?
1-2.理性によって神の声を聞く?
1-3.権威によって神の声を聞く?
1-4.聖書によって神の声を聞く!
2.聖書とは?
3.なぜ聖書が神の
ことばなのか?
3-1.神はイエスを通して語られた
3-2.イエスは使徒を通して語られた
3-3.イエスは旧約聖書を神の
ことばと認めている
4.聖書はすべて神の霊感によるもの
5.聖書の「使い方」
5-1.教え
5-2.戒め
5-3.矯正
5-4.義の訓練
6.神の声を聞くとは?
日本には八百万(やおよろず)の神々がいる、などといいます。
やおよろず、は八百万と書きますが、八百万きっかり、という意味ではなくてとにかく数が多いこと、だそうです。
日本に限らず、世界には「神」と呼ばれる多くの信仰の対象が存在します。
しかし聖書には次のように書かれています。
私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。
また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
コリント人への手紙第一8章4節から6節まで(新改訳聖書)
世界には「神」と呼ばれるものがたくさんありますが、本当の神、まことの神、真実の神はただ一人であって、神は唯一です。
この唯一である神の声を聞くにはどうしたらよいでしょうか?
クリスチャン、と呼ばれる人たち、または自分たちを、クリスチャン、と呼ぶ人たちの中でも、いろいろな考え方があるようです。
ある人たちは、そんな、神の声を聞く、なんて、個人の信仰の問題なのだから、自分に合っていれば、どんな考え方でもいい、と考えるようです。
しかし、本当にどんな方法でも良いものなのでしょうか?
大きく分けると、次の4つの考え方があるようです。
1.経験によるもの ─ 自分が見たこと、聞いたこと、感じたことにによるもの。
2.理性によるもの ─ 合理的な判断によるもの。
3.権威によるもの ─ なにか特定の人や組織や伝統などによるもの。
4.聖書によるもの。
あなたはどんなときに、特に神の声を聞きたい、と思われるでしょうか?
約束の時間に遅れそうなのに、道に迷った時...
右と左のどちらに行かなければならないか、迷った時...
神様、右でしょうか、左でしょうか...
神の声を聞きたい、と思ったりしないものでしょうか。
神様、約束の時間に遅れそうなのです、助けてください、と祈ってから2ドルコインを取り出して
表だったら右、裏だったら左...とくじを引いてみるでしょうか?
くじなんか引かなくても、
「あなたは右へ行くべきです」
と、天使の声が聞こえてくるまで祈り続けるでしょうか?
あるクリスチャンたちは、実にこのような方法で神の声を聞こうとします。
この例えでは、
右へ行って約束の時間通りに目的地に着いたとしても
左へ行って約束に遅れて謝って、次からはもう少し準備をして出かけるようにしても、
どちらにしても、神のみこころを外れてしまう、ということはありません。
ですが、しかし、次のような場合はどうでしょうか?
例えば、僕にはルイースという素晴らしいパートナーがいますが
「最近、ルイースは冷たい、ルイースよりももっと僕に優しくしてくれる女性がいる、ルイースと別れて、彼女と結婚したい、神様、どうすれば良いでしょうか?」
と思ってしまったとしたらどうでしょうか?(例えですから、心配しないでください。:)
でもこのように祈ると、天使の声が聞こえる...
「ルイースと別れて、その女性と結婚しなさい...」
このような声が本当に聞こえたとしたら、どうでしょうか?
聖書は次のように教えています。
私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
ガラテヤ人への手紙 1章6節から9節まで(新改訳聖書)
「私たちであろうと、天のみ使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべき」と言われています。
もちろん使徒パウロや本当の神のみ使いが、パウロがすでに宣べ伝えた神のメッセージに反することを言うことはないのですが、しかし、もし、私が、今、天使からメッセージをもらったと思ってしまったとしても、それが、使徒たちがすでに伝えたメッセージに反するのなら、それは神からのメッセージではありません。
聖書ははっきりと
創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。
マルコの福音書10章6節から9節まで(新改訳聖書)
と教えています。もしこのメッセージに反することを言うのならば、それが使徒であろうと天使であろうと神からのメッセージではありません。
同様に、なにか不思議なことが起こったから、なにか素晴らしい経験をしたから、なにか不思議な夢を見たから...このようなことが起こったからといって、それが確かに神からのメッセージであるかどうかは、私たちには分からないのです。
そのメッセージをイエスの使徒たちから受け継いだメッセージ──すなわち聖書──に照らし合わせて、それが本当に神からのメッセージであるのかどうか、確かめなければなりません。
あるクリスチャンたちは、自分が理解したいように、納得できるか否かで、神のことばを判断しようとします。
例えばマルコの福音書6章にはイエスが湖の上を歩く記述があります。
なんの道具もなしに湖の上を歩ける人を知っていますか?
世界中のどの人を捕まえてきて、湖の上に立たせてみても、大抵は首から上が水の上にでるだけ、シンクロナイズドスイミングのチャンピオンでもせいぜい腰から上が水の上にでるだけで、水の上を歩くことはできません。
だから、イエスも実際に湖の上を歩いたのではなくて、それは夜中のことであったので、山の上から湖の岸辺まで歩いたイエスが、弟子たちには湖の上を歩いていたように見えたのだ、と理解しようとします。
しかし、もし、聖書のことばどおり、イエスが人となって来られた神ご自身であることを受け入れるならば、水の上を歩こうが、雲の上を歩こうが不思議ではないのではないでしょうか。
次の聖書箇所を考えてください。
愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。
それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。
まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 次のように言うでしょう。
「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
ペテロの手紙第二3章1節から7節まで(新改訳聖書)
「 キリストは地上を去ってから二千年も経ったのに、まだ帰ってこないではないか。 いや、キリストが物理的な体をもってこの地上に帰ってくるなどとは実はないのだ。 このかなわない約束を胸に、キリストが人々の心の中でずっと行き続けることが大事なのだ...」そのように唱える人もいます。
そのように唱える人は、二千年前、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」と言った人たちのようです。
その言葉は一見、筋が通っているように見えますが、都合の良いように、神のことばを無視しようとします。
すなわち、聖書によれば、何事も創造の初めからのままではなく、神は一度、洪水によって地上を裁かれたのでした。
自分の合理的な理解で、神のことばを判断しようとする人たちは、自分に都合のよい箇所は、神のことばとして受け入れますが、自分に都合のわるい箇所は、なんとか曲解して合理的に受け入れられるものに変えようとします。
理性を用いること自体はなにも悪いことではありません。
むしろ、クリスチャンたちは与えられた能力に応じて、物事の理解を理性をもって深めることを薦められます。
しかし、自分の都合の良いように、神のことばを無視して、理解しようとするのなら、それは、神の御心ではなく、自分のお心を神のことばと勘違いしていることだと言えるでしょう。
また、あるクリスチャンたちは、なにか聖書以外の、特定の人であるとか、組織であるとか、伝統であることを神のことばであると考えます。
ローマ法王は使徒ペテロから歴代、使徒として神のことばを語る権威を受け継いだ、といいます。
しかし、例え天使であろうと、使徒と呼ばれる人たちであろうと、すでにキリストの使徒たちが伝えたメッセージに反するメッセージを伝えるならば、それは神のメッセージではありません。
また、例えば、どの教会にも、伝統、というものがあって、それはあるとき誰かがおそらくは良かれと思って加えたですが、それが、何十年、何百年経って伝統となり、あたかも、神の意思であるかのように、扱われ、変えることができなくなることもあります。
イエスは次のように言われました。
さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、──著者注:パリサイ人とはとても宗教心に厚いと思われていた教派の人たち、律法学者は旧約聖書にとても通じていた、いわば専門家たちでした。──イエスの回りに集まった。
イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、─パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。─パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。
「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
イエスは彼らに言われた。
「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。
『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
また言われた。
「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。 モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。 それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」
マルコの福音書7章1節から13節まで(新改訳聖書)
僕は友人のお宅にお邪魔するとき、こんにちは、お邪魔します、そしてその次に、ついいつも言ってしまうことがあります。
「手を洗わせてください。」
多分、子どもの頃から外で遊ぶと手を真っ黒にしていて、おそらくは母が、まず友達のうちに行ったら、手を洗いなさいと、言っていたからだと思うのですが、32ににもなって、まだこの癖は抜けません。
これはもちろん、衛生面で手を洗いたいわけですが、この箇所で言われている、「汚れた手」とは衛生面ではもちろんなくて、宗教的な配慮でした。
この儀式は、旧約聖書で定められているものではなく、その解釈の仕方によって後から加えられたものでした...
人が神の前に清いと認められるのは─誰もイエスなしには神の前に清いと認められることはありませんが─外見の儀式ではなく内面の心の問題です。
伝統は、もしかしたら、本当に良い、動機で始められたのかもしれません。すなわち、このような儀式を行うことで、自分の心を吟味することをうながすために...
ところがその動機はいつしか忘れられ、ユダヤ人たちは自分の心を吟味することなく、うわべの儀式で、自分は神に認められるのだと、考えたかったのです。
私たちにもそのようなところがないものでしょうか?
他人をねたむこと、悪く思うこと、嫌うこと、蔑むこと、高慢になること、そのような心の問題に目を向けずに、教会に来て、なにか儀式をして、帰ることで、神に受け入れられていると勘違いはしていないでしょうか?
さらに悪いことに、このような儀式をすることによって、今度は神が戒めていることを無視しようとするようになります。
9節、イエスは言いました。
「 あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」
この箇所の例で、神の戒めは、あなたの「父と母を敬え」です。
もし、人が、両親を敬うのであれば、両親が年おえたとき、必要な時、両親の世話をするはずです。
テモテへの手紙第一5章には、年老いた自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、クリスチャンでない人よりも悪いのです、とあります。
ところがこの箇所で、当時、尊敬されていた宗教者たちが、なにを教えていたでしょうか?
コルバンはヘブル語で、ささげ物、の意味です。
僕の注解書によれば、誰かが自分の物に対して、これはコルバンです、と言ってしまったならば、その誓いは覆すことができない、というような制度であったようです。
例えば年老いた親が、子を訪れて、蓄えがなくて食べるのにも困ってると、ああ、そこにあるパンを分けてくれないだろうか、と言ったとき、子は、これはコルバンです、と言ってしまえば、いや、これはもちろんお父さんにあげたいのですが、コルバンなので、あげられないのです、と言うことができたのです。
このようにして、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしていたのです。
これは伝統によって、神のことばを無視しようとした結果です。
そのような心で神を礼拝しても、全くむだなことである、と神は言っています。
この三つのこと、経験、理性、権威は、それのみでは、実に、神のメッセージであるのかどうか、判断することができません。
神の声を聞くには、どうすればよいでしょうか?
神のメッセージは、聖書によって、私たちに伝えられています。
聖書とは一体、なんでしょうか?
聖書は、神が、預言者と使徒を通して、語られたことばを、記した書物です。
紀元前1500年くらいから紀元100年くらいまでに、約40人ほどの著者が別々の時代に、別々の場所で記した66冊の書をまとめたものです。
紀元前300年くらいまでにヘブライ語および一部はアラム語で記された39冊は旧約聖書、としてまとめられています。
イエスが天に上げられた後ギリシア語で記された27冊は新約聖書としてまとめられています。
いずれの書も、著者自身が記した原本と認められるものは現存していません。
しかし、多くの古い写本が今でも保存されています。
旧約聖書の写本で古いものには、1947年以降、死海のほとりの洞窟で見つかった、有名な、死海文書と呼ばれる、巻物があって、それは実にイエスの時代、そのものまでにさかのぼっています。
私たちは、イエスの時代の人たちが読んだ、そのものの写本を今、見ることができるのです。
この死海文書の一部は何年か前に、シドニーの博物館にも展示されたことがあって見に行ったことがあります。
ヘブル語で書かれているので、もちろん、なにがなんだか、分からないものなのですが、実に感慨深いものがありました。
新約聖書のもっとも古い写本はヨハネの福音書の一部で紀元125年ごろ、その他の書も紀元3世紀ごろの写本が20世紀になって見つかっています。
さて、下の図はもともとのオリジナルの聖書のある書の原本がコピーされていく様子を、簡単に示したものです。
初めに預言者、もしくは使徒が記した、もしくはその弟子たちが、預言者/使徒のことばを記したオリジナルの原本があります。
現在では、聖書の原本とされるものは一つも残っていません。
その原本は預言者や使徒自身、もしくはその弟子、もしくはその弟子の弟子、もしくはその弟子の弟子の弟子、という具合に、受け継がれ、原本から写本、写本からまた写本が作られました。
後で話題になりますが、預言者が、もしくは使徒が、聖霊によって動かされ、語ったことばはそれがそのまま神のメッセージですが、それが書物に書き記され、コピーを作成した時、残念ながら──もしくは実に神がなにか良い目的を持ってなされたことであるかもしれませんが──もとの原本と異なる言葉が加えられる、もしくは差し引かれてしまいました。
通常、多かれ少なかれ、写本を作成する時には、なにかしらのエラーが加わったようです。
それは時にコピーをした人の意図しないうっかりした間違いであったり、または意図され、十分に考えられた、エラーであったりします。
通常は古い写本の方がより原本に近い、とされますが、上の図のように、時には古い写本(写本3)の方にエラーが加わってしまい、新しい写本(写本1−B、2−B)の方が原本に近いという可能性もあります。
問題は、もし、預言者でも使徒でもない人が、勝手に加えたり、差し引いたりしたことは、もはや、神のメッセージではなく、人間のエラーではないであろうか、ということです。
もし注釈付きの新改訳聖書をお持ちの方は是非見てみていただきたいのですが、 例えばマルコの福音書16章9節には注釈がついていて、そこには
「異本9から20節を欠くものもがある」
と書かれています。
すなわち、原本には9から20節がなかったのに後から加えられたのか、それとも原本にはあったのに写本を造るときに差し引かれたのか、もしくは何か別の原因があるのか、私たちはなにがしかの判断を迫られることがあるのです。
このような箇所を理解しようとするとき、原本は果たしてなんと言っていたのだろうか、ということに確信がもてない場合、難しさがありますが、幸いなことに、そのような箇所は現在、私たちに伝えられている聖書のごくごく一部です。
その他の部分はほとんどの古い写本で一致しており、例えば上の図で別々にコピーされた写本1-Bと、写本2-Bが、一致しているのならば、それは原本と全く違いなく同じものであったであろうことが、たとえ現在、原本が残されていなくても、 確かめられるのです。
このほかに、もちろん、私たちへブル語もギリシア語もおそらくは知らない日本人が、聖書を理解しようとする時に、翻訳の問題があります。
翻訳には翻訳者のエラーが加わることが避けられません。
聖書においては、なにが良い翻訳でしょうか?
よい翻訳は、オリジナルの著者の意図を正しく伝えるものです。
しかし、翻訳者ももちろん完全ではないので、翻訳者自身が訳し方に確信がない場合、例えば、新改訳聖書では、注釈に可能性のある別の訳ものせることがあります。
聖書を理解する際に、もっとも一般的なエラーは、ある箇所を文脈に関係なく、読もうとすることです。
どのような箇所も、文脈を読み取らなければ、オリジナルの著者の意図を正しく理解することはできません。
逆に、文脈を正しく読み取り、その本が書かれた時代背景などをよく吟味するのならば、私たちは原本の著者のメッセージ、すなわち神のメッセージを間違って理解してしまうことを避けることができます。
ここで聖書の原本の著者のメッセージが神のメッセージと書きましたが、どうしてそのようなことが言えるのでしょうか?
なぜ聖書というこの書物が、神のことばなのでしょうか?
それはもしかしたら、なぜ、地球には月が一つしかないのでしょうか? というような質問と同じだと考えられる人もいるかもしれません。
すなわち、神が、そのようにしたから、で終わってしまう場合です。
結局どのような理由も、最終的にはそこへ行き着くので、神がそのようにされので、聖書は神のことばなのです、というのも答えの一つだと思われます。
しかし、もし、もう少し、掘り下げた、説明を求めるのであれば、以下のようなことも、一つの答えだと思います。
聖書に次のように書かれています。
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
ヘブル人への手紙1章1節と2節まで(新改訳聖書)
この手紙が書かれたのは約2千年前、そのさらにむかし、旧約聖書の時代に、
神は、多くの部分に分け─神は一度にその意思のすべてを人に伝えたのではなく、多くの部分に分けて伝えました。
また、いろいろな方法で──モーセの前に燃える芝に表れた神、壁に表れた手が書き留めた文字、夢、言葉をしゃべるろば、そしてもちろん、預言者の口を通して──語られましたが、
この終わりの時には──新約聖書において、終わりの時とは、イエスが天に上げられてからまた再び来られるままでを指しています、すなわち、今日、この日も含めて──神は、御子、イエス・キリストを通して、私たちに語られているのです。
旧約聖書を読んで、神がいろいろな方法で語られるので、今でも、夢や、壁の文字や、もしかしたら、しゃべりだしそうなロバを探して、神の声を聞こうとする人がいるかもしれません。
神は私たちに、イエスを通してすでに、語られたのです。
神がイエスを通して語ったとはなにも不思議なことではありません。
もしイエスが人となってこられた神であることを認めるのならば、彼のことばはすべて、神のことばです。
2千年前、イエスの時代に生き、彼のことばを聞いた人たちは実に、神のことばを聞いたのでした。
しかし、イエスはすでに天に上げられました。
私たちはどうやって、イエスに聞くことができるでしょうか?
果たして、イエスは、私たちにどのようにして語りかけているのでしょうか。
次の箇所を考えてください。
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。
「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
イエスは言われた。
「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
使徒の働き1章3節から8節まで(新改訳聖書)
メインポイントは8節、イエスは使徒たちを選び、聖霊を通して、ご自分の証人─証人─とされたのです。
すなわち、使徒たちが、聖霊に動かされ、イエスの使徒として語るとき、それはイエスのことばであり、神のことばです。
イエスはイエスの使徒たちを通して語られました。
こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
テサロニケ人への手紙第一2章13節(新改訳聖書)
使徒によって書かれた、または使徒のことばを記した、福音書と手紙、すなわち新約聖書はイエスのことばであり、神のことばなのです。
そのようにして、新約聖書は神のことばであることが分かりますが、旧約聖書はどうでしょうか?
新約聖書を読めば、イエスが、また使徒たちが、旧約聖書を神のことばと認めていることが分かります。
例えばマルコの福音書7章13節、イエスは旧約聖書に与えられた律法を指して、「神のことば」とよんでいます。
またペテロは預言者たちのことばが神のことばであることを認めています。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
ペテロの手紙第二1章20節と21節(新改訳聖書)
次の箇所を考えてください。
けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
テモテへの手紙第二3章14節から17節まで (新改訳聖書)
これは使徒パウロがその弟子テモテへ宛てた手紙の一部です。
テモテは使徒パウロから学び、また子どもの頃から聖書に──この場合は旧約聖書を意味しますが──その聖書に親しんでいました。
この、旧約聖書は、また聖霊を受けた使徒たちが書いた、新約聖書は、すべて、神の霊感によるもの、と言われています。
すべて、なのです。
先ほど、私たちは、写本の問題に触れ、あとから手が加わった箇所は、人間のエラーであることを見ましたが、そうではなく、預言者もしくは使徒が、記した、オリジナルのメッセージはすべて、神の ことばです。
そこには、この部分は、神のメッセージ、この部分は神でなく人のメッセージ、ということはありません。
自分の理解できるところ、気に入ったところだけでなく、すべてです。
この書は私たちに神の意思を理解する知恵を与えて、特に聖書のメインテーマである、神の救い──すなわちキリスト・イエスに対する信仰による救い(「1.神に救われる」「2.神に信頼する」参照)──を受けることを可能にします。
さらに、ここに、聖書の使い方が4つ示されています。
教えること、戒めること、矯正すること、義の訓練をすることです。
教える、とは、例えば、なにが正しく、なにが悪いことなのかを伝えることです。
また
神がどのような方であるのか。
罪とはなにか。
神の救いとはなにか。
クリスチャンはどのように生きるべきか。
クリスチャンは聖書によって教えられ、成長します。
ペテロの手紙第一2章2節には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳をしたい求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。
あなたは聖書によって教えられることを、求めているでしょうか?
聖書はまた、戒めのために用いられます。
この箇所の、戒める、という言葉は、罪をとがめる、の意味です。
私たちの、ある考え、行いが悪いものであると教えること。
聖書を読むとき、罪をとがめられることは、聖書の役割なのです。
聖書を読めばいつも気持ちよく、心が休まる、ということは必ずしもありえません。
罪をとがめられて、心を痛めることがあってしかるべきです。
聖書は私たちが罪人であることを教え、神の赦しを求めることへと導きます。
自分のやり方が悪い、ととがめられたのであれば、今度は正しい道へと、心と行いを正さなければなりません。
聖書は私たちに正しい道を示し、その道へ歩むようへと私たちを矯正する役割を果たします。
聖書を読み、心も生き方もなにも変らないのであれば、あなたは聖書を読んでいるのではなく、もしかしたらただ眺めているだけなのかもしれません。
こうして私たちは神の前により正しく、生きることができるよう、聖書によって訓練されます。
それは、私たちが、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
神の声を聞くとは、聖書を読み、その著者が私たちになにを伝えているのかを理解することに他なりません。
この世界を創造された全知、全能、すべてをすべ収める唯一の神。
あなたはこの神のことばを聞きたくはないものでしょうか?
この神のメッセージを私たちははっきりと聞くことができるのです。
私たちが神のことばを読み、理解できるということは素晴らしいことです。
聖書を通して、神は私たちに明確な道を示してくださるからです。
今日、今一度、聖書を読み理解する努力に励まされますように。
祈りましょう。
天の父なる神様。
あなたのことば、聖書をありがとうございます。
どうかあなたのことばをしたい求め、あなたの子どもとして成長することができるように、助けてください。
イエス・キリストの名によって祈ります。
アーメン。
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Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience