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1.神によって救われた

1.自分が偶然に発生したと受け入れられますか?
2.神はどうやって自身の愛を私たちに明らかにしたか?
2-1.自分が罪人であるとは?
2-2.キリストが自分のために死んだとは?
2-3.なぜキリストが死ぬことが神の愛を明らかにすることになるのか?
3.神に救われるとは?
4.神を大いに喜ぶ、とは?


1.自分が偶然に発生したと受け入れられますか?

ある人たちは、世界を創られた「神」というような存在を認めようとしません。

そのような人たちは、世界は「偶然」に発生したんだ、と主張します。

もし世界が、誰かによって造られたものではなく、偶然に発生したものだとしたら、どうでしょう?

「偶然」とは、それが起こったことに、なんの目的も、なんの意義もないことです。

すなわち、宇宙は偶然に発生し、地球は偶然に発生し、あなたは偶然に発生した、ということです。

そこには「なんのために存在するのか」というような問いに対する答えはありません。

自分の存在に全く目的も意義も実はないのだ、ということを、本当に受け入れられる人がどのくらいいるのでしょうか?

多くの人は、神が存在しようが、しまいが、関係なく、そんなことは考えずに、目の前の生活に没頭しようとします。

ですが、よく、考えてみてください。

神は、存在する

神は、存在しない

かのどちらかでしかないのではないでしょうか?

もし、存在しないなら、どんなに多くの人が神を求めても、どんなに多くの人が神を愛しても、神は存在しないのです。

しかし、もし、存在するなら、どんなに多くの人が神のことを忘れていても、どんなに多くの人が神と関係ない生活を送っていても、神は存在するのです。

神は自分が欲しい時には存在して、欲しくない時には存在しない、というような方ではありません。

もし神が、あなたを創ったということを認めるなら、あなたが存在する目的をも神は定め、あなたの存在に意義を与えます。

偶然ではなく、目的を持って神があなたを創造したのです。

神を完全に否定してしまえば、行き着くところは全くの無意味です。

無意味といえば、神を知ることなど全く無意味だと考える人たちもいます。

ですが、もし創造主なる神が本当に存在するなら、この神を知らずして、神が自分を創ってくださった目的を知らずして、生きることこそ無意味です。

あなたは、あなたが偶然に発生したと受け入れられますか?

それとも、あなたは創造主なる神を認めていますか?

2.神はどうやって自身の愛を私たちに明らかにしたか?

神という存在を認める人は多いようです。

ですが、この神という存在が私たちとどのような関係をもっているのか、一体この神が、私たちになにを求めているのかを確信している人は少ないようです。

神は愛である、などと言い、神が私たちを愛していることが言われますが、その根拠は一体どこにあるのでしょう?

ある人は、神は私に必要なものを与えてくださったから愛していてくださる、と考えます。

またある人は、神は私が困っていた時に助けてくれたから愛していてくださる、と考えます。

またある人は、自分の願いが聞き届けられたから愛していてくださる、と考えます。

それは確かにその通りかもしれませんが、必要だと思ったことが与えられなかったとき、困難が続く時、願いがかなえられなかったとき、果たして、神は私たちを愛していないといえるのでしょうか?

神は一体、どうやって私たちにその愛を明らかにされたでしょうか?

聖書にはその答えがあります。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

ローマ人への手紙5章6節から11節まで(新改訳聖書)

この箇所から、神は果たして、どのように私たちに神の愛を示してくださったでしょうか?

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ローマ人への手紙5章8節(新改訳聖書)

「キリストが私たちのために死んでくださったことによって」とあります。

この神の愛を理解するにはまず「私たちがまだ罪びとであったとき」とはどういうことかを理解しなければなりません。

2-1.自分が罪人であるとは?

罪人(つみびと)である、とはどういうことでしょうか?

これは仮定の話ですが、例えば今日、あなたは神の前に立って、神があなたに質問をしたとします。

「なぜ、私はあなたを天国にいれるべきですか?」

考えてみてください。

なぜ、神はあなたを天国にいれるべきですか?

「そうですね、それは私は確かに完璧ではありませんが、人に迷惑はかけないし、他人には親切にしてるし、犯罪なんてしたことはもちろんないし、あ、スピード違反はしちゃったことありましたが、それくらいは大したことないし...」

「聖書だって読んだことあるし、祈ったこともあるし、それになんと、教会に行って、つまらない説教まで聴いているんですよ。入れてもらえるべきです...」

もしかしたら、上のように、自分は他人と比べてそこまで悪くないから、きっと入れてもらえるだろうと少しでも思ってしまうことはないものでしょうか?

イエスのたとえ話を思い出します。

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。

『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

ルカによる福音書18章9節から14節(新改訳聖書)

自分は天国に入れてもらえるべきだと少しでも思っている人は、自分が罪人であるということをまず本当に理解しなければなりません。

人は誰も生まれながらにして罪人です。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

エペソ人への手紙2章1節から3節(新改訳聖書)

僕たち夫婦には2歳10ヶ月と1歳2ヶ月の娘たちがいますが、とても可愛いです。親バカの目には特にです。

これだけ可愛いとなんだかなにも罪がないのでは、と思ってしまいますが、よく観察してみれば、洗練されてはいませんが

自分だけよければいいという自己中心

自分のやりたいようにやるというわがまま

なんでも自分のものにしてしまいたいという欲

すべて持ち合わせていることが分かります。

子供は生まれた時、真っ白で、なにも罪がないという考え方は、間違いです。

生まれた時から人は、自分勝手はいけません、他の人を思いやりなさい、と教えられているのに、僕たちは自己中心になります。

それは人は生まれながらの罪人だからです。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
エペソ人への手紙2章3節(新改訳聖書)

人は罪を犯して罪人になるのではないと思います。

人は罪人だから、罪を犯すのです。

ローマ人への手紙5章に戻りましょう。

6節には「まだ弱かった時」とあります。罪人は自分で自分を救うことができません。

10節には「敵であった時」とあります。罪人は神の敵です。創造主である神でなく、自分が自分の神であるからです。

あなたは、自分がこのような罪人であったということを認めていますか?

2-2.キリストが自分のために死んだとは?

それでは、キリストが自分のために死んだ、とはどういうことでしょう?

誰かがいきなりやってきて「はじめさん、あなたのために私は死にます」といって死んでも、なんのことやらと思われるのは無理ないでしょう?

キリストが自分のために死ぬとはどういうことなのでしょう?

キリスト・イエスがどのような生涯を送ったのか、福音書を読んでいただければ、理解いただけると思います。

イエスは病人をいやし、5千人以上の空腹を満たし、水の上を歩き、死人をよみがえらせるほどの力をもっていました。

イエスは神に完全に従い、一つの罪も犯しませんでした。

イエスはただ一人、人でありながら罪人ではなかったからです。

イエスは完全に神に従い通し、神もまた彼を自分のひとり子として認めていました。

それなのに、イエスは十字架につけられ、処刑されたのです。

十字架上の処刑は、そのころのパレスチナでは珍しいものではありませんでした。

イエスとともに二人の犯罪人も十字架で処刑されました。

十字架上の苦痛は当然、大変なものですが、十字架上でイエスが経験した苦難は肉体的、精神的苦痛だけではなかったのです。

イエスは死ぬ時、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。(マルコの福音書15章34節)

イエスは十字架の上で神に見捨てられたのです。

なぜ?

イエスは「多くの人のための購い(あがない)の代価として、自分のいのちを与えるために」この世界に来ました。(マルコの福音書10章45節)

イエスはわたしたちの代わりに神に見捨てられたのです。

私たちこそ、神を忘れ、神に従わず、神を見捨てて、自分勝手に生き、神に見捨てられるべきものたちでした。

それなのにイエスは、私たちが受けるべき神の怒りを、私たちの代わりにその身に受けたのです。

これが、キリストが私たちのために死ぬ、ということです。

2-3.なぜキリストが死ぬことが神の愛を明らかにすることになるのか?

では、なぜ、キリストがわたしたちのために死んでくださったことが、神の私たちに対する愛を明らかにすることになるのでしょうか?

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
ヨハネの福音書の3章16節(新改訳聖書)

上の箇所のように、ひとり子、イエス・キリストを私たちのために与えるほど、神は私たちを愛してくださった、というのはもちろん、一つの答えです。

しかし、ここではさらに別の何か、同じ愛ですが、別の表現がされていると、僕は思うのです。

6節から8節をもう一度読みましょう。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった...
ローマ人への手紙 5章6節から8節前半まで(新改訳聖書)

この箇所で誰の愛が私たちに示されたのでしょうか?

普通に読めば、キリストの愛が私たちに示されたのではないでしょうか?

それなのにこの箇所は、神の愛が示されたとあるのです。

なぜでしょう?

聖書は、キリストが、神のひとり子であるだけでなく、子なる神であることも教えています。

すなわち、神ご自身が、人、キリストとなって、私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を明らかにしているのです。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、(新共同訳:神の身分でありながら)神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
ピリピ人への手紙2章6節から8節まで(新改訳聖書)

神が私たちを救うために人となりわたしたちのために死んでくださったのです。(イエスが神であることを聖書が主張していることについては「イエスは神か(1)」を参照してください。)

神はそれほどの愛を私たちに明らかにしていてくださいます。

あなたはこの神の愛を受け入れているでしょうか?

3.神に救われるとは?

それでは、神に救われるとは、どういうことでしょうか?

ローマ人への手紙5章にもどります。

9節から11節までをもう一度、読みましょう。

読みながら次の三つの質問に答えてください。

a. いつ?救われるのですか?

b. なにから?救われるのですか?

c. どうやって?救われるのですか?

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
ローマ人への手紙5章9節から11節まで(新改訳聖書)

いつ、救われるのでしょう?

日本語では分かりにくいのですが、この「救われる」は原語では未来を表しています。

聖書にはもちろん、この未来の約束があまりにも確定していることなので、イエスを受け入れたときを救われた時ということもありますが、この箇所で救われるとは、はっきりと未来のことです。

それでは、なにから救われるのでしょう?

それは「神の怒り」からです。

神が「怒る」ことを認めたがらない人たちがいます。

確かに人間の罪深い、自分勝手な怒り方を想像してしまうと、無理もない話です。

ですが、神は愛の神であると同時に正義の神でもあるのです。

人が神を認めないのなら、神もまた人を認められません。

人が神を見捨てたので、神もまた人を見捨てます。

造られたのに、すべてを与えられたのに、神を無視し、神を否定し、神に聞き従わずに自分勝手に生きていたいのなら、神の怒りは当然ではないでしょうか。

しかし、この神の怒りから、私たちは救われる、というのです。

どうやって?

キリストによって、です。

イエスが自分の代わりに神の怒りを十字架の上で受けたことを受け入れるなら、僕たちは神と和解し、今、神と正しい関係をもつことができるのです。

この世界で僕たちは完全になることはできません。

しかしどのように不完全であったとしても、終わりの日に、審判の日に、神は私たちをキリストが成したことによって、受けれてくださいます。

あなたには、審判の日に、キリストによって、神があなたを受け入れてくださるという確信があるでしょうか?

4.神を大いに喜ぶとは?

この救いの確信、終わりの日に、キリストによって、神に認められる確信を持つことが、今、神を喜ぶことにつながります。

この世界でなにか必要が満たされたから、なにか困難から救われたから、祈りが聞き届けられたから、神を喜ぶことも確かにあるでしょう。

しかし、クリスチャンは、自分が必要だと思ったことが満たされなくても、困難が続いても、たとえ祈りのなかでの自分の願いがかなわなかったとしても、神がキリストにあって僕たちのためになしてくださったことで、どのようなときにも、神を大いに喜ぶことができます。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ローマ人への手紙5章1節から5節まで(新改訳聖書)

今日、あなたはなにか困難に直面しているでしょうか?

困難があるとき、僕たちはゴールを見つめるべきです。そのゴールとは終わりの日の救い。

この世界での生活が、あまりにも簡単であるなら、そのような人が、終わりの日の救いを待ち望むのはむしろ難しいのではないかと思うのです。

むしろ、困難があるからこそ僕たちには希望が生み出されます。

この希望は失望に終わることがありません。

キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられるからです。

神はあなたを救うために人となり、あなたのかわりに死んでくださいました。

今日、この神の愛をあなたは理解しているでしょうか?

私たちはこの世界でどのように生きるべきですか?

この神の愛を知り、困難にあっても、神を大いに喜び、生きる。

祈りましょう。

天の父なる神様。

主、イエス・キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、明らかにされたあなたの愛を感謝します。

どうかこの愛にふさわしいように、あなたに聞き従い、あなたの救いを喜んで生きることができるように助けてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン。


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