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1.なぜ祈るのか?
2.なぜ祈れるのか?
3.なにについて祈るのか?
3-1.崇拝
3-2.告白
3-3.感謝
3-4.願い
4.なんでも?
4-1.いつも主にあって喜ぶ?
4-2.何も思い煩わない?
4-3.神の平安が守る?
5.神に祈るとは?
普通、クリスチャンが食事の感謝をする時、おそらくは目をつぶってうつむいて祈るのではないでしょうか?
マルコの福音書6章41節には「イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め」とあります。
多くのクリスチャンは祈るとき、手を目の前に組む姿勢をとるのではないでしょうか?
テモテへの手紙第一2章8節には使徒パウロが「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」と言っています。
祈りの物理的な姿勢というものは、おそらくはあまり問題ではありません。
なにが大切なのでしょうか?
それはもちろん私たちの心の思いにあります。
それは他の人に、自分と神との関係を自慢することではありません。
人に見られるためにポーズをとる必要もありません。
心の中で、もしくは実際に唇を動かして私たちは神に語りかけます。
それは自然な行為であり、しかしまた、私たちが忘れがちな行為でもあります。
あ、そういえば、神様の事を考えなかった、と思い起こされることがないものでしょうか。
私たちはどうして祈るのでしょうか?
少し長くなりますが、なぜ私たちが祈るのか、ということに関して興味深い箇所があるので、見てみましょう。
さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。
そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。
イエスは彼らに、
「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか。」
と聞かれた。
すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。
「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」
イエスは答えて言われた。
「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
イエスはその子の父親に尋ねられた。
「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」
父親は言った。
「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
するとイエスは言われた。
「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。
「信じます。不信仰な私をお助けください。」
イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。
「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」
するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。
しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。
イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。
「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
すると、イエスは言われた。
「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
マルコの福音書9章14節から 29節まで(新改訳聖書)
さて、この箇所の前で、イエスは十二弟子を任命して、彼らに悪霊を追い出す権威を与えていました。
弟子たちはイエスに言われたとおりに福音を宣べ伝え、悪霊を追い出していました。
そのような背景があるのに、ここで弟子たちは悪霊を追い出すことができないわけですが、その理由は一体なんだったでしょうか?
イエスは、「祈りによらなければ」と言っています。
弟子たちは祈ることもしないで悪霊を追い出そうとしていた、ということになります。
祈りは信仰の表れです。
私たちが神により頼む時、祈るのです。
それは自分と神との関係を示しています。
祈りとは神に話しかけることです。
神は聖書を通して私たちに語りかけます。(「1.神の言葉を聞く」参照)
私たちは祈りを通して神に話しかけるのです。
もし、あなたが神に話しかけない、としたら、どうしてでしょうか?
祈り、には少なくとも二つの場面があります。
一つは自分一人で神に話しかける場合。
もう一つは他のクリスチャンと一緒に神に話しかける場合です。
もしかしたらあなたは人前で祈ることが苦手かもしれません。
実は僕は人前で話すことが大の苦手です。
大勢の人の前で臨機応変に話すということは実に僕にとって難しい。
ましては、流暢に話すなどということは、できません。
他の人の前でいきなり「祈ってください」と言われても、実に不器用な言葉しかでてきません。
が、ここではそういうことを問題にしているのではありません。
あなたは、独りでいるときに、果たして神に話しかけているでしょうか?
あなたは、あなた自身は、神と個人的な関係を保っているでしょうか?
ある人が言いました。
「私は神に祈れません。自分の悪いところ、悪い思い、悪い生き方を考えると、なんて神とかけ離れたことをしていて、とても聖なる神に話しかけることなんてできません。」
そのような思いをもたれたことがあるでしょうか?
なぜ罪人である私たちが、神に話しかけることができるのでしょうか?
ローマ人への手紙8章14節から27節を見てみましょう。少しずつ読みながら注釈を入れたいと思います。
14節、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
第一コリント人への手紙に「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません」とあります。
もしあなたが、イエスは自分の主である、と信じて、彼に信頼して生きていくことを望むなら、それは御霊の働きであり、あなたは神の子どもである、と言われています。
15節、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」
この御霊によって私たちは、全世界の創り主、支配主、神を「父」と呼ぶことができます。
アバ、とはイエス自身が祈りの中で用いたことが、マルコの福音書に示されていますが、アラム語で子どもがお父さんを呼ぶときに用いる言葉です。
僕は子どもの頃、自分の父をなんと呼んでいたのか覚えていないのですが、いわば、父ちゃん、パパ、などに相当すると思います。
私たちは神の霊を受け、神を単に「父」と呼べるだけでなく、「お父さま」と個人的に話しかけることができるのです。
16節、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」
私たちが神の子どもである、ということが認められないでしょうか?
私たちがそう信じるのであれば、私たち自身だけでなく、神の霊がそうであることを、証してくださる、とあります。
17節、「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
私たちは神によって子どもとされましたが、子どもはまた、親の持っているものを相続するものです。
私たちは神の栄光を神の子、キリストとともに相続するもの、ともされました。
しかし、そこでは、私たちがキリストと苦難をともにしているなら、と言われています。
この世界でクリスチャンとして生きるとき、私たちはなにを期待するべきでしょうか?
クリスチャンとして生きることは素晴らしいことです
私たちはなにが正しいことなのか、なにが大事なことなのか神から教えられます。
私たちはお金や名誉や物質的な豊かさでなく、精神的な豊かさを重んじます。
私たちは自分と他人を比べて卑下する必要も優越感と劣等感に悩まされる必要もありません。
神が私たちを神の子どもとしてくださったのです。
そのような生き方が平安を招き、人間関係も円滑にしやすいことは期待されてもおかしくないと思います。
死ぬことは私たちにとって終わりではなく、神と共に永遠に過ごす一歩となり、死についてなんの希望もない人たちと違った生き方ができるのです。
しかし、それでは、この世界での生活はクリスチャンにとってバラ色の人生とでもいえるものなのでしょうか?
いいえ、イエスにあって敬謙に生きようと願う者はみな、迫害を受ける、と使徒パウロは言っています。
敬謙、とはイエスに従った生き方、イエスに従うのであれば、彼自身が苦難に合ったように、私たちもまた苦難に合うことが予め言われています。
それは直接に私たちの物質的、肉体的、精神的安全を脅かすような迫害であるかもしれません。
または、いろいろな人間関係の中で孤立してしまうようなことかもしれません。
または、自分自身の中にある罪と戦い続けることの難しさであるかもしれません。
この世界にあってクリスチャンたちは神の子どもとして、苦難をも受けることが言われています。
ですがしかし、この苦難は終わりのないものではありません。
18節、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」
苦しみの中にいるとき、私たちはそのことだけで心の中が一杯になってしまいがちです。
しかし、クリスチャンは苦しみの中にあるときこそ、思い起こすべきことがあるのです。
それは、将来私たちに啓示されようとしている栄光...
啓示とは難しい言葉ですが、今まで秘密にされていたことが明らかにされることです。
新共同訳聖書では、現される、と訳されています。
イエスがもう一度、この地上に現れるとき、イエスと共に、クリスチャンたちも栄光を受ける、と言われています。
実は、それが、本当に、どのようなものか、僕には分かりません。
分かることは、今の時のいろいろな苦しみが、この栄光に比べれば取るに足らないもの、と言われていることです。
19節、「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。」
20節、「それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。」
21節、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」
被造物、とは神に創られたものです。
動物や植物、山や海や川や、星や月や太陽、この世界にある全てのものも、私たちが栄光を受けることを待ち望んでいる、と言われています。
創世記の3章でアダムが神にそむいた時、人とともに、世界もまた、神に呪われました。
人にとってだけでなく、世界のすべてのものにとっても、今の時は苦しみの時であるのです。
虚無、滅びの束縛、そのようなものから解放され、私たちと共に栄光の自由の中に入れられることを待ち望んでいる、と言われています。
22節、「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」
23節、「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
私たちは神の霊を受け、神の子とされましたが、私たちのからだが贖われるまで、そのプロセスはまだ完了していません。
贖う、とは奴隷であった人を代価を支払って買い取り、自由にすることです。
私たちは罪の奴隷、神の裁き、死に定められた奴隷でしたが、イエスが自分のいのちを代価として支払ったことにより、私たちの霊は自由にされました。
その証が、私たち一人一人のうちに住む、聖霊です。
しかし私たちの肉体はまだ、この世界にとどまっています。
イエスが再び来られる時、私たちの肉体も完全に自由にされるのです。
24節、「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。」
25節、「もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」
イエスが再び来られること、再び来られて私たちが完全に自由にされること、はいまだ起こっていません。
今はそれらを忍耐を持って待ち望む時です。
望み、は私たちが苦しみの中にあるときに、私たちを神のほうへ目を向ける助けとなります。
26節、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」
27節「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
キリストにある望みが苦しみのときに私たちを助けるのと同様に、私たちのなかに住む聖霊も、苦しみのときに私たちを助けてくださいます。
自分の苦しみの中で、またこの世界の苦しみを見て、私たちはいったいなんと祈るべきでしょうか?
神よ、この世界の苦しみから解放してください──それはイエスの再臨を祈ることです。
しかし、イエスが今、来られるなら、例えばまだ救われていない僕の母はどこへ行くのでしょうか?
神様、まだイエスが来ないようにしてください。母が救われるようにしてください。
しかし、神の救いの恵みを認めない人を、イエスの身代わりの死を受け入れようとしない人を、どうやって神は救うべきでしょうか?
私たちは時に、本当にどのように祈ったらよいのか、わからないのです。
しかしそのような思いであっても、神に祈ろうとするのならば、私たちは神が私たちの思いを全て知っていてくださることを知るべきです。
なぜなら、私たちのうちに住む聖霊が、私たちのために仲介をしてくださるから、と言われています。
なぜ私たちは祈れるのでしょうか?
それは、イエスの贖いの死により、私たちが神の子どもとされたからです。
それは、私たちのうちに住む聖霊が、私たちと神との間をとりもってくださるからです。
私たちは罪人で、この世界にあっては罪を犯し続けるような者ですが、イエスと聖霊の働きにより、神をお父様と呼んで話しかけることができるのです。
聖書は私たちがいろいろなことについて祈ることを教えています。
ちゃんと覚えているのか、ちょっと自信がないのですが、子どもの時、僕は「さかなとねこ」なんて教わりました。
賛美、感謝、なんでも、とりなし、願い、告白、だったと思いますが...
英語でも ACTS などと言われます、Adoration, Confession, Thanksgiving, Supplication だと思うのですが、それらは神を崇拝すること、神に自分の罪を告白すること、神に感謝すること、また神に願うことです。
この四つの項目を簡単に見てみましょう。
まず初めに崇拝。
詩篇にはそのような祈りとも呼べる賛美、崇拝の言葉が記されています。
例えば詩篇42篇には、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」とあります。
またイエスが私たちに教えた、「主のいのり」の中にあるように、神の御名が崇められますように、と私たちは祈ります。
また私たちは、祈りによって自分の罪を神の前に告白します。
例えば詩篇51篇には、
神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
とあります。
主の祈りでは、「私たちの負いめをお赦しください」と祈ります。
また私たちは祈りの中で感謝を表します。
詩篇9篇1節、「私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。」とあります。
ルカの福音書22章には、イエスが杯とパンを取り、感謝をささげて後、とあります。
そして、実に、聖書に示されている祈りの多くは神への願いです。
詩篇5篇1節と2節、「私の言うことを耳に入れてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。」
マルコの福音書14章、イエスは、「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と祈りました。
次の箇所はクリスチャンたちがどのように願いを神に知っていただくのか、教えています。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
ピリピ人への手紙4章4節から7節まで(新改訳聖書)
私たちは先ほど、私たちがまだこの世界に残っている間は苦難がある、ということを見て見ました。
しかし、ここで、パウロは私たちがいつも主にあって喜ぶように、と言っています。
いつも主にあって喜びなさい。
私たちが主にあって喜ぶことを忘れがちであることが示されます。
いつも主にあって喜びなさい。
一度言われて、そんなことができるわけない、と思うことが予想されているかのように、使徒パウロは重ねて、私たちに言っています。
いつも主にあって喜びなさい。
なぜ、いつも主にあって喜ぶことができるのでしょうか?
私たちが主イエスによって、罪の当然の結果、神の罰から、解放されているからです。
私たちが主イエスにあって、彼と共に栄光に加えられる望みがあるからです。
私たちが主イエスにあって、どのような苦難にあったとしても、私たちのゴールが定まっているからです。
これは今の自分の、または他の人の、苦しみからなにか目をそむけることではありません。
なにか頭の中から取り除けて、忘れて、楽観的に、喜びなさい、ということではありません。
苦しみを十分に知りつつ、それでもなお、神が私たちにしてくださった事を思い起こすとき、私たちには主にある喜びが生まれてくるのではないでしょうか。
そのような人には、寛容な心が備わっています。
この「寛容」と言う言葉のもとの言葉は訳すことが難しいそうです。
第一テモテ3章3節には「温和」と訳されており、それに付随して「争わず」とあります。
テトス3章2節には「柔和」と訳されており、それに付随して「すべての人に優しい態度を示す」とあります。
ヤコブの手紙3章17節には「寛容」、それに付随して「純真、平和、温順、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないもの」とあります。
いつも主にあって喜ぶクリスチャンはこのような心を育てます。
この心をすべての人に─自分の気に入っている人、自分と良い関係を持っている人たちだけでなく─すべての人に知らせなさい、と言われています。
知らせなさい、とは宣伝しなさい、という意味では当然ありません。
どの人ともそのような寛容な心をもって接しなさい、そうすればすべての人が知ることとなります。
私たちの主、イエスが私たちに近いことをもう一度、思い起こしましょう。
これはイエスの再び来られる日が近い、とも訳せますし、イエスが私たちと近い関係を持っている、とも訳せます。
どちらにしても、イエスが自分と近いことを思い起こすことは、イエスが私たちを愛したように、私たちも他の人たちを愛することの動機となります。
6節、何も思い煩わないで、とあります。
この思い煩いは、4つの地のいばらの地のたとえで言われた、人がクリスチャンとなることを妨げる、世の心づかいの心づかい、と同じ言葉です。
私たちは時に、神を知らない人と同じように、この世のことで心を煩わせます。
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
マタイの福音書6章19節から34節まで(新改訳聖書)
歴史のなかで、またおそらくは今日でも世界のどこかで、迫害に合い、食事を与えられず、飢え死にしていったクリスチャンたちがいます。
また、迫害でなくても、社会全体が戦争や飢饉や旱魃に合い、他の人たちと同じように、十分に食べるもの、着るものを得られず、死んでいったクリスチャンたちがいるはずです。
実に、クリスチャンたちがこの世界で、いのちに必要なものをすべて与えられると、いうのであったら、病気であろうが、寿命であろうが、すべて死んでいった人たちはクリスチャンでなかった、ということになります。
この箇所は、そういうことを言っているのではない、と思います。
19節、自分の宝をたくわえることができるような社会に生きるとき、クリスチャンたちはどのように生きるべきでしょうか?
この箇所の、一番の教えは一体なんでしょうか?
心配するのはやめなさい、ということです。
私たちのうちだれか、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができる人がいるでしょうか?
心配しない、ということは、何もしない、と同じことではありません。
空の鳥が、種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない、からと言って、クリスチャンたちが種まきも刈り入れも倉に納めることもしなくていい、と言っているのではありません。
野のゆりが働きもせず、紡ぎもしない、からと言って、クリスチャンたちが働きもせず、紡ぎもしなくていい、と言っているのでもありません。
34節、労苦はその日その日に、十分あります、と言われています。
クリスチャンたちは、心配はしなくても、その日、神が私たちに与えられた労苦をこなしていきます。
神を知らない人にとっては、この世界がすべてです。
食べること、飲むこと、着ること、物質的な必要が満たされて後、なお、なにを食べようか、なにを飲もうか、どうやって着飾ろうか、物質的な快楽で心を満たそうとします。
多くの人は 神に仕えるのでなければ、富に仕えています。
この世界で可能な限り楽しもうとすることのほかに、なんの希望もないからです。
クリスチャンはまず第一に神の国とその義とを求めます。
神の恵みは私たちに十分で、私たちが何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと心配しなくても、与えられた労苦を日々こなすことで、私たちの生活の物質的な必要は十分に与えられているのです。
あなたは今、なにか神を知らない人たちが思い煩うようなことで、思い煩っていることがあるでしょうか?
そのようなことで心配するのをやめなさい、とイエスは言われます。
あなたは鳥よりももっとすぐれたもの、野のゆりをこれほどに装ってくださる神が、あなたによくしてくださらないわけがあるでしょうか?
しかし、すべての思い煩いが悪いもの、と言うわけでもないと思います。
コリント人への手紙第二でパウロは「日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります」と言っています。
この心づかい、も思い煩い、と同じ言葉です。
クリスチャンとして神を愛する、他の人を愛するが故の、当然の心づかいもあるはずです。
この世的なことであれ、霊的なことであれ、思い煩いがあったときに、私たちは、なんでも神に祈ることができます。
あらゆる場合に、と言われているからです。
この世的なことで思い煩っているでしょうか?
イエスが、そのような心配はやめなさい、と言われています。
おそらく私たちの願いは、このような心配をしないように助けてください、ではないでしょうか?
なにか霊的なことで思い煩っているでしょうか?
神がすでにあなたを救ってくださったことを思い返して、感謝をもってささげる祈りによって、あなたの願い事を神に知っていただきましょう。
7節、そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます、とあります。
この箇所から、祈って心の平安が得られないとき、ある人たちは、祈り方が悪かった、とか、祈りが足りない、とか考えるそうです。
それはあまりにも残念な考え方だと、私は思います。
第一にこの箇所だけを見ても、平安が「与えられる」と約束が果たしてされているでしょうか?
いいえ、神の平安が心と思いを「守る」と言われているのです。
「平安」とはヨハネの福音書14章27節でイエスの言った
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
あの平安と同じ言葉です。
新共同訳聖書では「平和」と訳されています。
世が与えるような心の安らぎ、というようなものではありません。
イエスが私たちに残した平和とは、敵対していたものであった私たちと神との間の平和のことではありませんか?
この平和が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守る、と約束されているのです。
もし私たちの願い事を神に知っていただこうと祈ったのに平安が得られなかったとしたら、それは祈り方が悪かったのでも祈りが足りないのでもありません。
それはイエスが私たちに残してくださった神との平和を、私たちが忘れてしまっていることなのではないでしょうか?
キリストの平和が私たちの心と思いを守っていることを、私たちが忘れてしまっていることなのではないでしょうか?
もし、このイエスがもたらした神の平和が、私たちの心と思いを守ることを知るのならば、世が与えるような安らぎではなく、神だけが与えることのできる安らぎが、本当に与えられるのではないかと、私は思うのです。
神に祈ることは、私たちが神に信頼していることの現われです。
あなたは神に祈っているでしょうか?
もし祈っていない、としたら、それはなぜでしょう?
もしかしたら、祈っても願った通りが与えられなかったからかも知れません。
今日のこの箇所は、私たちがそのように、神に私たちの願い事を知っていただいたとき、願いが必ずかなえられると約束されているでしょうか?
されていないのです。
ここでの約束は、神の平安が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ることです。
実に、神は約束されたことについては、私たちが願うなら与えられることが、言われていますが、私たちの願うことが何でも与えられるとは、聖書のどこにも言われていないと思います。
だからといって、約束されていないことを願ってはいけない、というのではもちろんありません。
なにも思い煩わないで私たちの願いを神に知っていただきなさい、とあります。
ただし、願ったとおりを与えられなかった時、神に対する信頼をなくしてしまうのであれば、それは間違いです。
神は私たちの最善を知っており、そのために働き続けていてくださいます。
私たちが願ったことが与えられなかった時、それでも忍耐を持って神に祈り続けること、神に信頼し続けることが、私たちの最善であるからかも知れないのです。
祈りましょう。
愛する天のお父様
イエスが私たちを自由にしてくださったことにより、また聖霊を通して、あなたを私たちのお父様と呼べることをありがとうございます。
私たち一人一人を知って、その祈りを聞いていてくださることを感謝します。
どうかあなたに信頼して、祈り続けることができるように助けてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience