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1.生まれながらに死んでいる?
2.サタンとは?
2-1.サタンの目的は?
2-2.どのようにして働いているか?
2-3.サタンはすでに打ち負かされている?
3.キリストとともに?
4.恵みのゆえに
4-1.なぜ私たちは救われましたか?
4-2.恵みとは?
5.信仰によって
5-1.どうやって私たちは救われましたか?
5-2.信仰とは?
6.行いによるのではないのなら、なにもしなくてもよいのですか?
7.よい行いとは?
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、─あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。─キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
エペソ人への手紙2章1節から10節まで(新改訳聖書)
しばし、赤ん坊は生まれた時、心の中は真っ白で、なにも罪がない、というようなことが聞かれます。
しかし、この箇所は私たちになにを伝えているでしょうか?
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
エペソ人への手紙2章3節(新改訳聖書)
私たちは「生まれながらにして神の怒りを受けるべき子らであった」とあります。
自分が生まれながら、神の怒りを受けるべきであった、というメッセージを人々は受け入れたがりません。
それはどんなに自分が頑張って良い生き方をしていると思っていても、実は最初から、生まれた時から、神に裁かれるべきであった、というメッセージだからです。
あなたは、自分が、生まれた時から、実は、神に裁かれるべきであったというメッセージを受け入れているでしょうか?
なぜ私たちはだれも、神の怒りを受けるべきであったでしょうか?
上の箇所には、私たちが、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なうような罪人であったから、とあります。
肉の欲とはどのようなものでしょうか?
確かにこの「肉」という言葉は、私たちのこの体のことを指すこともありますが、もしそれだけであると、たとえば食欲とか性欲とかなにか生理的に欲する欲の事だけを言っているかのようです。
ある人たち、ある宗教は生理的な欲が悪いものであるかのように考えますが、必ずしもそうではありません。
肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、めいてい、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
ガラテヤ人への手紙5章19節から21節まで(新改訳聖書)
不品行や偶像礼拝や争いなどだけが「肉の行い」なのではないのです。
心の働きである「敵意」「そねみ」「憤り」「ねたみ」なども「肉の行い」と言われています。
肉とは、人の罪深い性質を現す言葉でもあるのです。
人をうらやんだことがあるでしょうか?
自分だけがよければよい、と思ったことがあるでしょうか?
こんな人なんていなければいいのに、と思ったことがあるでしょうか?
神以外の何物かを神以上に求めたことがあるでしょうか?
私たちは罪人として生まれ、罪の中に生きてきました。
私たちは肉体的には生きてはいましたが、霊的には神の前には死んでいたものなのです。
生まれながらにして死んでいるもの、私たちはそのような者たちでした。
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
エペソ人への手紙2章2節(新改訳聖書)
今も神に従わない人たちの中に働いている霊─彼は「サタン」と呼ばれています。
「サタン」とはヘブル語で「サターン」、ギリシア語で「サタナス」、「敵対するもの」という意味です。
神に敵対するもの、これが「サタン」です。
サタンはまたギリシア語で「ディアボロス」とも呼ばれ、それは「告発するもの」という意味です。
また「ベルゼブル」とも呼ばれ、定かではありませんが「蝿の王」という意味ではないか、と言われています。
サタンの目的は一体、なんなのでしょうか?
サタンは神に敵対するものです。
サタンの運命はすでに定まっているのです。
マタイによる福音書25章41節、また黙示録の20章10節によると、永遠の火が悪魔とその使いたちのために用意されている、とあります。
サタンの運命は、永遠の火。
サタンは自分が定められている永遠の火に、できるかぎり多くの人を道連れにするべく、働いているのです。
サタンはどのようにして私たちに働きかけているでしょうか?
サタンをイメージしてみてください。なにが浮かぶでしょうか?
なにか角と尻尾が生えていて二本足の動物で大きなフォークをもっている、これがサタンでしょうか?
あなたがたは、─これはイエスがイエスを信じないユダヤ人たちを指して言っているのですが─あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
ヨハネによる福音書8章44節(新改訳聖書)
「嘘」─これがサタンの武器です。
人が「嘘」を信じるとき、サタンは力を得て、人に働きかけることができます。
なにか私たちに事故がおきたり、だれかが病気になったり、なにか気味の悪い不思議な現象を見たりすると、ああ、これは悪魔の働きではないだろうか、と不安になることがあります。
そういう出来事がなかったでしょうか?
しかし、事故が起きる事、病気になること、また不思議な現象が起こること、これらはもしかしたら確かに悪魔が起こしているのかもしれないですが、しかし、もしかしたら、神が私たちの理解を超えて、私たちのために、起こしているものかもしれないのです。
神は私たちが事故に会わない、とは約束されませんでした。
病気にならない、とは約束されませんでした。
また不思議な出来事に出会わない、と約束されませんでした。
悪い事をすべて悪魔のせいにすることはできません。
しかし、人が嘘を信じるとき、これこそ、悪魔の働きであり、神の働きではありえません。
人が嘘を信じるとき、私たちは悪魔の支配下にいます。
しかし、クリスチャンにとって、悪魔は警戒することはあっても、恐れるべき相手ではありません。
悪魔はすでに打ち負かされているのです。
そこで、子たちは─クリスチャンたちは─みな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
ヘブル人への手紙2章14節と15節(新改訳聖書)
イエスの十字架上での身代わりの死によって、私たちが犯した罪の罰の報酬はすでに支払われています。
真理を信じるクリスチャンたちは、もう悪魔の支配下にはいないのです。
ヤコブの手紙4章7節には、悪魔に対して立ち向かうだけで、悪魔がわたしたちから逃げ去ってしまう、と書かれています。
神など存在しない、という嘘。
神が私たちを愛していない、という嘘。
私たちは好き勝手に生きていれば良いのだ、という嘘。
あなたは嘘に惑わされてはいないでしょうか?
私たちもまた、かつてはいまだに嘘に惑わされている人たちと同じように、神に従わず、自分勝手に生きていたのでした。
エペソ人への手紙2章に戻りましょう。
神の前に死に、悪魔の支配下にいた状態を変えたのは、一体なんだったでしょうか?
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
エペソ人への手紙2章5節と6節(新改訳聖書)
この箇所には三回「ともに」という言葉がでてきます。キリストと「ともに」
5節、キリストとともに生かし、6節、キリストとともによみがえらせ、キリストとともに天の所にすわらせてくださいました。
この状態を変えたのは、キリストです。
私たちはキリストを抜きにしては、神との正しい関係を持つことができません。
罪に死んでいた私たちを神は、キリストとともに、生かし、よみがえらせ、天のところにすわらせてくださいました。
私たちは肉体的には未だ、この地上に残っていますが、霊的にはすでにキリストとともに天のところにすわっているのです。
それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
エペソ人への手紙2章7節(新改訳聖書)
二千年間、神はキリストにあって、私たちに対する愛を示しています。
そしてこの愛は、キリストが再び来られるまで、人々に示され続け、この愛を知り、受け入れた人たちが、死からいのちへと移されています。
あなたは、死からいのちへとうつされているでしょうか?
それともまだ、他の人たちと同じように嘘に従い、神を忘れ、自分勝手に行き続け、神の前に死んだものとなったままでしょうか?
前回、「救われる」とは来たるべき審判の日に、神の怒りから救われることでしたが、この箇所の「救われる」は罪人であるのに、キリストの身代わりのゆえに、神に「あなたは正しい」─すなわち「義」─と認められることです。
もし、あなたが、私も神に救われて、神は私の罪を赦してくださいました、と言えるのであれば、是非、ご自分に問いかけていただきたい質問があります。
前回もこのたとえを、使いましたが、今日、あなたは神の前に立っているとします。
神はあなたに尋ねます。なぜ私はあなたを天国に入れなければなりませんか?
あなたはなんと答えるでしょうか?
「私は良い人間だからです。」
と答える人は、自分が生まれながらにして罪人であるということも、まだ理解していません。
「私は確かに悪いこともやったけど、全体としてそんなに悪くないです。平均以上です」
と答える人は、いるでしょうか?
神は少しの悪をも天国に入れることができません。もし少しでも悪が入り込めるのであれば、そこは天国ではありません。
典型的な「クリスチャン」の答えはなんとなるでしょうか?
「私はイエスを信じているからです。」
確かに、ヨハネによる福音書3章16節にもあるとおり、イエスを信じる者が、永遠のいのちを持つ、と言われています。
しかし、私はイエスを信じているから、という答えは、なにかまだ、「自分自身から出た」答えではないでしょうか?
私たちが救われたのは、自分自身から出たことではないのです。
なぜ、私たちは救われたのでしょうか?
今回の聖書箇所をもう一度見てください。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
エペソ人への手紙2章8節(新改訳聖書)
8節、恵みのゆえに、とあります。
恵み、とは一体なんでしょうか?
どうぞここで立ち止まって、 恵み、という言葉を、なにか別の言葉に言い換えてみてください。
広辞苑によると「恵み」とは「なさけをかける」こと「あわれむ」こと、また「恩恵をあたえる」こと、とあります。
このうち「恩恵」とは「恵み」とあるので役に立ちませんが、それでは、恵み、とはなさけをかけること、あわれむこと、でしょうか?
僕はそれでは「恵み」という言葉を十分に表していないと思います。
もし、誰かが僕の心の奥底、僕がなにを考えているのかのすみからすみまで知ることが出来たとしたら、その人は僕のことを愛することができない、と思います。
自分勝手、自己中心、わがまま、自尊心、人を蔑む心、自分だけよければよい、という思い、もしかしたら上手に外に表さないでいられたかも知れませんが、そのような闇の、悪い思いを僕は持っているのです。
これらを知ってなお、愛せる人がいるでしょうか?
ですが、ルイースは僕の事を愛してくれることができます。
なぜでしょう?
ルイースには僕の心の中までは見えないからです。
ですが、僕の心の奥底まで、僕の考えていることすべてを知っている方がいます。
神は一人一人の心の奥底まですべてご存知です。
罪の中に死んでいた私たち、自分の欲の中に生き、神を忘れ、自分の好き勝手をしていた私たちを、神はすべてご存知です。
こんな私たちを神は愛してくださるでしょうか?
4節、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに!
恵み、とは、値しない者を愛する、その愛のことだと思います。
ただ、神の愛、値しないものをも愛する、その愛のゆえに、私たちは救われたのです。
8節、それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物、神から私たちに与えられた贈り物なのです。
私たちが救われた理由はただ、神の愛によりますが、もう一つ、私たちが救われるために必要不可欠な要素があります。
それはなんでしょうか?
8節、恵みのゆえに、信仰によって、救われました、とあります。
信仰によって。
私たちが救われた「理由」はただ、神の恵みのゆえですが、その「過程」には私たちの信仰が不可欠なのです。
信仰とはなんでしょうか?
ここで是非、もう一度立ち止まって、 信仰という言葉を別の言葉に置き換えてみてください。
広辞苑によると、信じ尊ぶこと、これが信仰、だそうです。
それでは、信じる、とはどういうことでしょうか。
今度は信じるという言葉を別の言葉に置き換えてみてください。
広辞苑によると、第一に正しいとして疑わない、第二に信仰する、とでています。
それでは、正しいと信じて疑わないことが信仰でしょうか?
この、自分の信じる力によってなにか事を成そうという考え方が、クリスチャンの間にもあるようです。
しかし私たちは、自分が信じて疑わないことによって救われたのではありません。
ただ、イエスが私たちのためになしたことによって救われました。
神が、「なぜ私はあなたを天国に入れなければなりませんか?」と訪ねた時、「私はイエスを信じているから」ではなく、「あなたの恵みのゆえに」「イエスが私の身代わりに死んだから」と答えられる人は、自分自身のなにものにも頼らず、ただ、イエスの十字架の死に頼っているのです。
信仰とは信頼することです。
自分のなにものにも頼らず、ただ、神の恵みにのみ頼る─これが信仰です。
私たちのどんな行いにもよるのではないのです。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
エペソ人への手紙2章9節(新改訳聖書)
自分自身から出たことではない、ですから誰も自分が救われたことを誇りにすることができません。
救いは自分自身から出たことではない、と初めて聞いた人が、ほぼ必ずする質問があります。
「それでは、救われるために、なにもしなくてよいのですか?」
救われるために、なにもしなくてよいのでしょうか?
そうです?
いえ、ちがいます?
救われるために、私たちはなにもしなくてよいのです。
正確には、私たちは救われるために、なにもすることが、できません。
私たちは罪の中に死んだもので、自分で自分を救うことが出来なかったのです。
救いは自分自身から出たことではありません。
ただ、神の愛により頼むしかない...
しかし、私たちが神に信頼するなら、この信頼は、私たちの行いとなって表わされるべきです。
私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
ヤコブの手紙2章14節から26節まで(新改訳聖書)
あなたは神に信頼していますか?
神に信頼するなら、神の言葉にも信頼するはずです。
神の言葉に信頼するなら、神の言葉を実行するはずです。
もし、あなたが神の言葉を実行するつもりがないとしたら、それは、あなたが実は、神に信頼をしていないからではないでしょうか?
行いのない信頼は、本当の信頼ではありません。
パウロとヤコブはここで、同じ事を言っています。
人が救われる理由は神の恵みですが、人が救われる過程には行いを伴う信仰が必要です。
あなたが神を信頼していることが示されるような行いが、あなたにはあるでしょうか?
エペソ人への手紙2章に戻りましょう。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
エペソ人への手紙2章10節(新改訳聖書)
良い行いとはなんでしょうか?
この書の読者に宛て、パウロはエペソ人への手紙4章、5章、6章にて、なにが良い行いなのか、細かく指導を与えています。
もちろん聖書の他の箇所にも、読めば読むほど、私たちクリスチャンたちがどのように生きるべきなのかを学ぶことができます。
私たちはそれぞれ与えられた能力の限り、神の言葉を学び、なにが良い行いなのかをわきまえなければなりません。
しかし、もし、今、あなたが、なにが良い行いなのかを全く知らなかったとしたら、どうか、この二つの戒めだけは覚えてください。
すべてのよい行いは結局、この二つの戒めに集約されるのです。
律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。
「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
イエスは答えられた。
「一番たいせつなのはこれです。
『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
次にはこれです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
マルコによる福音書12章28節から31節まで(新改訳聖書)
この二つの戒めを思うなら、今日、あなたがなすべき良い行いがなんであるかを示されると思います。
それは今日、神に感謝をささげることかも知れません。
それは今日、あなたがあなたと関わりあう人たちを思いやることかもしれません。
神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
もし、私たちがすでに、神の愛によって救われたのであるならば、なぜまだ、私たちは天国でなく、この世界に生きているのだろうか、と問う人がいます。
なぜ私たちはまだ、この世界に生きるのですか?
10節、 それは、私たちが、神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたからです。
祈りましょう。
天の父なる神様。
ただあなたの恵みのゆえに、罪に死んでいた私たちをよみがえらせてくださり、ありがとうございます。
キリスト・イエスにあって示された、あなたの愛に信頼します。
あなたがあらかじめ備えてくださるとおり、今日、良い行いに歩めますように、助けてください。
主イエスの名によって祈ります。
アーメン。
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Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience