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マルコの福音書6章45節から56節まで
1.「いやし」について
1−1.祈りと薬
1−2.神を信頼している人が必ずいやされるとは限らない
1−3.イエスの名によるいやしがすべて神からのものとは限らない
2.「湖の上を歩いて」?
3.「そばを通り過ぎようと」?
4.弟子たちはパンのことからなにを悟るべきだったか?
5.神が通り過ぎられるとき、あなたはどうしますか?
それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」
と言われた。そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。そして、彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。
マルコの福音書6章45節から56節まで(新改訳聖書)
人はあるとき、創造主なる神の存在に確信を持ちたくて、
「神様、もしあなたが存在するのなら、今、私に存在するという証拠としての奇跡を見せてください」
と祈ります。
このような祈りをしたことはないでしょうか?
自分の知り合いが、もしくは自分自身がなにかの病気から奇跡的に回復するという、いわゆる、いやし、と呼ばれる現象を、神が存在する証拠として求めることがあります。
「神様、どうか御心ならばこの人を回復させてください」
ではなくて、
「神様、あなたが存在するのなら、その証拠としてこの人を回復させてください」
という祈りです。
そのような祈りは果たして神に受け入れられるでしょうか?
いやし、に関して二つの極端な例が挙げられると思います。
一つは、神が私たちの理解を超えるような方法で特別に人をいやすようなことはない、という考え方です。
世界のあちこちで病気の人が奇跡にいやされた、という報告は全部デタラメか、なにかの勘違いか、もしくはなんらかの科学的、医学的な説明ができるものである、と考える人たちがいます。
あるクリスチャンのミーティングに出かけた人がいました。
その人は車椅子を使っていた人の隣に座りました。
賛美の途中、車椅子の人が突然立ち上がったのを見て「奇跡的にいやされた!」と思ったら、実は車椅子の人は普通の人よりは足が丈夫でなくて、歩く代わりに車椅子を使っていたのであって、まったく立てないわけではなかった、という話があります。
いろいろなニュースや報告があって、それらが全部、伝えられるままの事実であった、ということは確かに考えにくいですが、しかし、全部が全部、デタラメなのでしょうか?
世界を創造された神はまた、この世界が存在することを支え続ける神でもあります。
もしこの神が望まれるのなら、私たちの理解を超えた方法で、人をいやすことがあっても不思議はないと思うのです。
聖書には、神はそのように人をいやすことがない、とは言われていません。
一つ目の極端な例、神は奇跡的な方法で人をいやすことはない、と考えることですが、僕はそのような考え方は間違っていると思います。
これは極端な例の一つなのですが、その対極には別の極端な考え方があります。
クリスチャンは病気になったとき、自分自身もまた他の人たちもその人が回復するように、いやされるように祈りますが、それは神にのみ頼るべきで、その他の方法、たとえば薬を使ったり、手術を受けたりするべきではない、と考える人たちがいます。
あたかも薬を使ったり、手術を受けたりすることは、薬も手術もなく奇跡的にいやすことのできる神に信頼しないことだ、とある人たちは主張します。
次の聖書箇所を考えてみましょう。
あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
ヤコブの手紙5章14節(新改訳聖書)
メインの動詞は祈ってもらうことですが、それに付随して「オリーブ油を塗って」とあります。
このオリーブ油を塗る、というのはなにか儀式的なことであるという解釈もありますが、ルカの福音書10章のよいサマリア人のたとえにもあるように、当時、傷の手当てにオリーブ油を塗ることが行われていたことを考えると、ヤコブは祈ることと同時に、与えられた知識内でできる限りの手当てをすることも薦めていると僕は考えます。
また次の聖書箇所を見てください。弟子テモテに対するパウロの言葉ですが、病気がちなテモテにパウロは、祈るだけでなにもしなくてよい、というのではなく
「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」
第一テモテ5章23節(新改訳聖書)
と指示しています。
クリスチャンは神がそう望まれるならいやしていただけるように祈りますが、同時に医者に診察してもらったり薬を用いたりすることはなにも悪いことではありません。
あまりにも当たり前のようなことのように思われますが、ある人たちは今でも医学的な治療を行うことは「神に信頼していない」と考えています。
神はもちろん、私たちの理解を超えた奇跡的な方法で人をいやすこともできますし、私たちが理解できる医学を用いて人をいやすこともできます。
「いやし」に関して別の問題は、「信仰があるなら必ずいやされる」と考えることです。
果たして神は私たちに神に信頼すれば必ずいやされる、と約束されたでしょうか?
「必ず」と言われている箇所を新約聖書の中で僕はマルコの福音書の16章18節しか知らないのですが、この箇所には問題があって、僕は「信仰があれば必ず病気がいやされる」と聖書は言っていないと考えます。
(マルコの福音書16章の問題、というのは、16章に行ったときにお話しようと思います。)
たとえばパウロはもちろん、神に信頼する、信仰の人でした。
ですがパウロが願えば彼の病気は必ずいやされたでしょうか?
次の聖書箇所を考えてください。
また、その啓示1があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげ2を与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」
と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
第二コリント人への手紙12章7節から9節まで(新改訳聖書)
1その啓示:この前の箇所で言われているパウロが特別に神に見せられた幻のこと
2とげ:おそらくはなんらかの病気であったであろうというのが多くの人の解釈です。
神はパウロが高慢になることのないように、という良い目的でパウロになんらかの病気を与えました。この病気はパウロが3度も願ったのに取り去られませんでした。
信仰があれば必ずいやされる、という考え方は大変残念ながら間違っていると思います。
もし願ってもいやされないのであるならば、神はなにか良い目的のために私たちに病気を与えることもあるからです。
3番目の問題はある人たちにとってはとてもショッキングなことで、ぜひ心をやわらかくして聖書が言っていることに耳を傾けていただきたいのですが、人がいやされるとき、すなわち何らかの病気が急に回復したり異常であった体の器官が正常になったりしたとき、たとえそれがイエスの名において行われても、それらがすべて神の御心にかなうものとは限らない、ということです。
次の聖書箇所を考えてみましょう。いわゆる「山上の垂訓」と呼ばれる有名なイエスの言葉の一部です。
わたしに向かって、
『主よ、主よ。』
と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。
『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
マタイの福音書7章21節から23節まで(新改訳聖書)
この箇所はいったい何を言っているでしょうか?
たとえ誰かがイエスの名によってまったく不思議な驚くべき奇跡を行ったとしても、それがイエスに認められたものであるとは限らない、ということが言われていると思います。
いったい、そのような奇跡を行った人たちが、心の中でイエスに信頼することなく不思議な技を行って見せたのか、それとも彼ら自身もイエスに信頼していると思っていたのになにかイエスを自分の都合の良いように考えていたのか、よく分かりません。
言えることは奇跡があった、ということ自体はそれが神からのものであるかもしれないと同時に、もしかしたら人を欺く悪魔からのものであるかもしれない、という可能性がある、ということです。
イエスはこの前の箇所で、にせ預言者たちはその実を見ることで見分けることができる、と言われています。
私たちは奇跡があった、という出来事だけでなく、長い期間を経てその奇跡が人になにをもたらしたのか、その実で、神からの奇跡なのか悪魔からの奇跡なのかを見分けることができます。
さて、ここまで前置きだったのですが、それでは今日の聖書箇所を学びたいと思います。
ずっとマルコによる福音書を学んできました。
前回は悔い改めることのなかったヘロデ王と人々を哀れんで5つのパンと二匹の魚で5000人以上の空腹を満たすことのできたイエスの箇所を学びました。
今日は6章45節から学んでいきたいと思います。
45節、「それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。」
なぜイエスが「弟子たちを強いて」せかして舟に乗り込ませたのか、その理由は書かれていません。
マルコの福音書はイエスの一番弟子ペテロが伝えたことをペテロの弟子マルコが伝えたもの、ということを何度かお話しましたが、伝えたペテロ自身もなぜイエスがこのとき、弟子たちを強いて舟に乗り込ませたのか分からなかったかも知れません。
並行するヨハネの福音書には、イエスが行った5つのパンと二匹の魚で5000人以上を養ったという奇跡を見て、人々がイエスを王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、山に退かれた、とあります。
46節「それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。 夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」
ここでいくつか問題があります。
まず第一の問題は「イエスが湖の上を歩いた」と言われていることです。
そんな日本の忍者でもできないようなことを行ったのは信じられない、なにか科学的な説明ができるはずだ、といろいろな人がいろいろな提案をしています。
月が出ていたとしても夜中の3時で暗かったので、船で湖の上にいた弟子たちには山から下りてきて、陸地にいたイエスが水の上を歩いていたように見えた、というような具合です。
そのように解釈しようとする人は当然、イエスがなにか特別な力をもっていた、ということを認めず、単なる宗教的な指導者であったということで話をまとめようとしますが、しかしイエスがなにか特別な力を持っていたということを認めるのなら、水の上を歩こうが雲の上を歩こうが不思議はないはずです。
イエスは、湖に舟で出かけた弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねいているのをご覧になり、とあります。
問題は、イエスは弟子たちに近づいて、弟子たちを助けるのかと思うと、そうではなくて、48節、「そのままそばを通り過ぎようとのつもりであった」ということです。
そんな、なんでドラマチックに湖の上を歩いて見せて、そのまま弟子たちのそばを通り過ぎるつもりであったのか、なんだかとても拍子抜けしてしまう記述ですが、果たしてこの箇所はなにを伝えているのでしょうか?
湖の上を歩く、という行為はもしそれが弟子たちを助けるためであったなら、必要に迫られての行為であって意味がありますが、もしイエスが弟子たちをそばを通り過ぎるだけであったのなら、いったい何の意味があるのでしょうか?
イエスが湖の上を歩く、という行為はある人たちにとって旧約聖書でモーセとエリヤがそれぞれ紅海とヨルダン川を渡った記述を思い起こさせます。
そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。
出エジプト記14章21節と22節(新改訳聖書)
エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。
第二列王記2章8節(新改訳聖書)
モーセがイスラエル人を連れてエジプトから逃れるとき、神がモーセを通して紅海の水を二つに分けてかわいた地をつくり、その上を渡らせました。
エリヤはエリシャをつれてヨルダン川を渡らなければならないとき、自分の外套を取ってそれを丸めて水を打つと水が両側に分かれてかわいた地をつくり、二人はその上を渡りました。
旧約聖書のこれらの出来事を知っている人にとっては─そして弟子たちは当然旧約聖書の物語をよく知っていたはずですが─イエスが湖の上を歩いているのを見て、イエスがモーセやエリシャと同じような神の預言者である、ということを理解したはずです。
しかし、イエスはモーセやエリシャと同じように、神に使わされた預言者、ということだけではありませんでした。
モーセもエリシャも水を分けてかわいた土の上を歩きましたが、イエスは水の上を歩きました。
旧約聖書で水の上を歩いたのは僕の知る限り─もしどなたか僕の知らなかった箇所があったなら是非指摘していただきたいのですが─神だけです。
初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
創世記1章1節と2節(新改訳聖書)
イエスが湖の上を歩いた記述はそれが単にイエスにはなにか不思議な力が備わっている、というだけでなく、なにかイエスが神に似るものであることを示しているように僕は思います。
それはイエスが必要に迫られて湖の上を歩いた、ということではなく、弟子たちのそばを通り過ぎるために湖の上を歩いた、ということともつながります。
弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねいているのを見て、なおかつイエスが彼らのそばを通り過ぎるつもりであった、という記述はあまりにも筋が通っているように見えないため、いろいろな人が、いろいろな解釈の提案をしています。
通り過ぎるつもりであったのではなく、弟子たちにはイエスが通り過ぎられるように見えたとか、弟子たちがイエスをみて幽霊だと叫び声を上げたので、これ以上怖がらせてはいけないと通り過ぎるつもりであったとか です。
しかし、湖の上を歩いていたのが、単なる人ではなく、人となった神であったのなら、この神が弟子たちの前を通り過ぎようとのつもりであった、という記述は旧約聖書の二つの出来事を思い起こさせます。
主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。
「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
出エジプト記34章6節と7節(新改訳聖書)
主は仰せられた。
「外に出て、山の上で主の前に立て。」
すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。
第一列王記19章11節と12節(新改訳聖書)
一つは出エジプト記で神がモーセの前を通り過ぎられたとき、もう一つは第一列王記で神がエリヤの前を通り過ぎられたときです。
旧約聖書で神がモーセとエリヤの前を通り過ぎられたように、イエスは弟子たちの前を通り過ぎられるつもりであったのではないか、イエスは湖の上を歩くこと、弟子たちの前を通り過ぎられることで、イエスがいったい誰であるのかを示そうとされた、そのように僕は考えます。
ですが、このときの弟子たちにはまだ、イエスがいったい誰であるのかを理解できませんでした。
49節、「しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。」
湖の上を歩くイエスをみて、弟子たちがイエスだと分からず幽霊だと思って怖がったことは理解できます。
しかし、イエスが自分であることを告げ、舟に乗り込み、風がやむのを見た弟子たちの驚きは非常なものであった、とあり、それは弟子たちがまだパンのことから悟ることがなく、その心は堅く閉じていたからである、とあります。
パンのこと、とはもちろん、この前の箇所でイエスが5つのパンと二匹の魚で5千人以上の空腹を満たした出来事のことだと思いますが、弟子たちははたしてその出来事からなにを悟るべきであったでしょうか?
もう何度も言ってきているので、あまりにも明らかな答えであると思いますが、それはイエスが人となった神である、ということでしょう。
実に、人々の病気をいやし、悪霊を追い出し、罪を赦す権威を持ち、風と波を静め、湖の上を歩き、5000人の空腹を不思議に満たすことのできたイエスをみてなおかつ、弟子たちには彼が人となった神であることが理解できませんでした。
それはなにかおどろくべき弟子たちの理解の遅さであると思わされると同時に、人は実にそのようなものであることも思わされます。
イエスのこのような行いをイエスを信じた弟子たちが伝えても、ある人たちはいつまでたってもイエスを信じようとはしません。
ルカの福音書16章の金持ちとラザロの話しですが、聖書の言葉を聞いてその言葉を受け入れない人はたとえ死人がよみがえって話しかけたとしても信じない、とイエスは言われました。
しかし、ある人たちはこのマルコの福音書の記述を読んで、イエスこそ人となった神であると受け入れるでしょう。
するとその次の質問は、「神はいったい、なんのために、この世界に来られたのだろうか」ということではないでしょうか?
53節「彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。そして、彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。」
イエスの着物の端にでもさわるだけで、人々はいやされました。
それはさわった人の信仰の力、というよりは、イエスの神としての力を示していると僕は考えます。
この箇所の最後で使われている「いやされた」という言葉は他のほとんどの箇所で「救われた」と訳されている言葉です。
神がこの世界に来たのは実に、神に頼る人を誰でも救うためであることが思わされます。
人は神に向かって「神様、もしあなたが本当に真の神であるのなら、どうか私に示してください」と祈ります。
それは素朴で純粋な祈りかもしれません。
しかし、間違えると、それは神がすでに示してくださったことに目を向けず、自分の好きなように、自分の好きな方法で神にご自身を示していただきたい、という自分勝手な祈りとなってしまいます。
人が神の証拠としての奇跡を求めるとき、イエスはこう言われます。
「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほか─すなわちヨナが三日三晩魚の腹の中ですごした後人々に現れたように、イエスが三日三晩地に葬られた後に人々に現れた復活の奇跡のほか─には、しるしは与えられません。」
マタイの福音書16章4節(新改訳聖書)
「神様、御心ならばこの人を回復させてください」という祈りは良い祈りです。
その祈りは神に確かに聞かれ、神は最善の方法をもって答えてくださいます。
それは祈られたようにその人が回復することかもしれないですし、病気を通して神が良いことを行うことかもしれません。
しかし「神様、あなたが存在するのなら、この人を回復させて、私にその証拠を見せてください」という祈りは悪い祈りです。
そのような祈りは聞かれず、イエスに向かって「主よ、主よ」と叫んでみても、イエスは終わりの日に「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われるでしょう。
神はいわば、すでに私たちの前をイエスという人となって通り過ぎられました。
あの時、弟子たちにはそれが理解できませんでした。
心が堅く閉ざされていたからである、といわれています。
あなたはイエスをあなたの神であると受け入れられているでしょうか?
それとも弟子たちと同じように、心を堅く閉ざしたままでしょうか?
祈りましょう。
もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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