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悔い改めを説き広め

1.悔い改めとは?
2.「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め」
3.なぜ悔い改めが必要か?
4.なぜ悔い改められないか?
4.1.「神」なんていない
4.2.考えたくない
4.3.悔い改めない自分を神は受け入れてくれる
4.4.悔い改めてもなにも変わらない

5.今が悔い改めのときです


多くの場合、人から「あなたは間違っています」と言われるのは嫌なものです。

「あなたは間違っています」と言われて、「そうなんですよ、僕、間違ってるんですよ、もっと指摘してください」と言うような人に会った覚えがありません。

「あなたは間違っています」と言われて、4種類の応答の仕方があるように思います。

みなさんはどんな種類の応答をされるでしょうか?

一つ目は「あなたは間違っています」と言われて、瞬間的に頭に血が上ってしまい、その後のコミュニケーションが成り立たなくなる場合です。

僕の周りにもそのような傾向のある人がいるのですが、特定するとその人とのその後のコミュニケーションが難しくなるので、仮にAさんとしておきましょう。

僕がAさんに、「Aさん、人から『あなたは間違っている』と言われてすぐにカッカしてしまうのはよくないですよ」と言うと、Aさんは「カッカなんてしないわよ、うるさいわね !」とカッカしてしまうんですね。

この場合、Aさんはどうして僕が「Aさんは間違っている」なんて考えるのか、その根拠を説明するチャンスもなく、またAさんも僕が「Aさんは間違っている」なんて考えるのは間違っている、と反論することもありません。

その後のコミュニケーションがとても難しくなってしまうのです。

二つ目は「あなたは間違っています」と言われて、「あなたが私のことを間違っていると言うのはあなたの勝手です。同じように私が自分の事を正しいと思うのは私の勝手です」と結論して、やっぱりその後のコミュニケーションが成り立たなくなる場合です。

他人が自分の事をあることないこと取り上げてでたらめな批判をすることを止めさせることはなかなか難しいですから、ある場合にはそのような批判は気にしないことが精神衛生上良い場合もありますが、これは度が過ぎると、事実に基づいた、妥当な指摘にも耳を傾けなくなってしまうと言う危険があります。

三つ目は「あなたは間違っています」と言われて、え、それは気がつかなかった、どこがどういう風に間違っているのか説明してくれますか?と言える場合です。

この場合、間違っていると指摘した人は指摘された人が理解できるように説明すること、また指摘された人が批判に対して反論するというようなコミュニケーションがなされるでしょう。

四つ目は「あなたは間違っています」と言われて、前のどの三つにも当てはまらないような応答をする場合ですが、どのような応答の仕方があるのか、千差万別であろうと思われます。

みなさんはどのような傾向があるでしょうか?

「あなたは間違っています」

今日のメッセージは、端的に言うと、「あなたは間違っています」と言われて、みなさんがどのような応答をするのかによって、建設的なメッセージにもまた非建設的なメッセージにもなるものです。

もし一番目と二番目の応答をされる傾向があって、それではよくないと思われるのでしたら、どうか三番目のなぜ、僕が「あなたは間違っている」なんていうメッセージをしなければならないのかをまず理解していただければと願います。

1.悔い改めとは?

さて、教会ではよく、「悔い改め」という言葉を用いますが、普段はほとんど耳にしない言葉ではないでしょうか?

試しに infoseek というウェブサイトで「悔い改め」という言葉でインターネットを検索してみましたが、初めの50件は全部、キリスト教関係のページで用いられていました。

僕は確かめるのに50で辞めてしまったのですが、もしちゃんと調べればおそらくほとんどがキリスト教関係のページで用いられている言葉なのでしょう。

「悔い改め」とはなにをすることでしょうか?

これまで広辞苑を引用する時には、広辞苑の言葉の説明が聖書的な言葉の意味とは少し違う、ということを確認することが多かったのですが、「悔い改め」については、こう書かれていました。

「キリスト教で、神に対して罪を悔い、心を改めて霊的生活によみがえる誓いをすること」

ずいぶん良い説明だな、と思います。

広辞苑で、悔い改める、の次の項目が、食い合わせる、であったことはどうでもいいことなのですが、悔い改める、とは、

これまで神を知らないで、自分の好きなように生きていたことは間違いでした。

これまで神を無視して、神に聞き従わないで、生きてきたことは間違いでした。

これからは神に従って生きていきます。

という決心をすることである、と考えます。

神と関係なく生きてきた、あなたの生き方は間違っています、と言われて、そのとおりだ、これからは神と共に生き、神に聞き従おう、という決心をすることです。

悔い改める、とは過去に自分のしたこと、考え方、生き方を悲しく思う、残念に思う、後悔する、ということだけではありません。

それは悔いること、ですね。

悔いるだけで改めることがなければ、どんなに悔いてもそれは悔い改めではありません。

使徒パウロは言っています。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

第二コリント人への手紙7章

悔い改める、とはむしろ「改める」ということの方に、その言葉の本質があると思います。

2.「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め」

さて、マルコの福音書をずっと学んできました。

1章でイエスが宣教を始めたこと、最初の弟子たちの招いて、人々の病気を治し、悪霊を追い出し、権威をもって人々を教えたことを見ました。

2章ではイエスが人の罪を赦す権威を持っていること、罪人を招くために来られたこと、また安息日の主であることを見ました。

3章ではイエスが十二弟子を任命したエピソードから十二弟子について少し学んで、また聖霊を汚す罪とは何のことであるのかを見てみました。

4章ではいわゆる四つの地面のたとえを学んで、神の真理を人々が理解しやすいようにイエスはたとえを用いたのでは必ずしもなくって、たとえを聞いて理解出来ない人たちがイエスの元に来てイエスに頼るようになるためにたとえが用いられたことを学びました。

5章ではイエスがレギオンという多くの霊に取り付かれた人を解放したこと、12年間出血し続ける病気にかかっていた女性をいやしたこと、そして会堂管理者ヤイロの娘を生き返らせたことを学びました。

前回は6章の初めでイエスが自分が育った街に戻って宣教したとき、多くの人がイエスを受け入れなかったことを見ました。

今日は6章の7節から見て行きましょう。

(イエスは)また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。また、彼らにこう命じられた。

「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」

また、彼らに言われた。

「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」

こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、 13 悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。

マルコの福音書6章7節から13節まで(新改訳聖書)

実は、この箇所には僕の理解出来ないことがたくさん記されています。

なぜ、イエスは弟子たちを一人ずつや三人ずつではなく二人ずつ遣わしたのか、なぜ旅のためには杖一本のほか、何も持って行ってはいけないのか、なぜ、二枚の下着を着てはいけないのか、なぜ、一軒の家にはいったら、その家にとどまっていなければならないのか、なぜ足の裏のちりを払い落とすことが、悔い改めのメッセージを受け入れない人々に対する証言となるのか、病人に油を塗っていやすとはどういうことなのか、などなどなどです。

それら一つ一つのことについて妥当な理由を考えることはもちろんできますが、ほとんどの場合、それらは推測の域を出ることのないもので、なかなか聖書的な確信を持つのは難しいです。

ですからむしろ、この箇所から次のことを学びたいです。

イエスは十二弟子を選び、特別に彼らに汚れた霊を追い出す権威を与えた、ということ。

宣教に際して、イエスは弟子たちに特別な指示をした、ということ。

弟子たちはイエスの指示通り、旅に出て悔い改めを説き広めた、ということ。

そして、これはこの箇所からの応用ですが、悔い改めのメッセージはメッセージを伝える人がどんなに不完全な、欠点だらけなものであっても伝えられる、ということです。

順番に見て行きましょう。

7節、イエスは、「また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。」

イエスの十二弟子については、3章でイエスが立候補した者たち、ではなくて、イエスが望まれた者たち、12人を十二弟子として任命したことが記されています。

ここと並行するマタイの福音書には、ここで十二弟子が二人ずつ紹介されています。

すなわち、ペテロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダです。

なぜイエスがふたりずつ弟子たちを宣教のために遣わしたのか、書かれていません。

ある教会では今でも、例えば家々を訪問して伝道をするときは、必ず、二人ずつ組にして行うことが聖書的に正しいことだ、と考えるそうです。

イエスを信じるクリスチャンたちにとって、イエスを模範としてその行いから学ぶことには重要な意味があることは確かですが、僕は必ずしも、イエスがそれを行ったから、また弟子たちがそれを行ったからという理由だけでは、現在、私たちが同じように行うことが神の御心にかなっていると考える事はできないと思います。

例えばイエスが弟子たちの足を洗い、弟子たちに仕えた模範を見て私たちも他の人たちに仕えるべきです。

それはイエスご自身がそのようにするようにと弟子たちに言葉で教えられているからです。

しかし、例えばイエスが水の上を歩いたからと言って、自分も水の上を歩くべきだと思う必要はあるでしょうか?

ないですね。

イエスや弟子たちがそれを行ったから、と言ってそれがそのまま私たちに当てはまるわけではないと思います。

また、このとき、イエスは十二弟子たちに汚れた霊を追い出す権威を与えられた、とあります。

イエスが3章で、自分の身近に置き、遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるために特別に望まれた者たちを十二弟子に選んだ、という箇所から、全てイエスに従う人たちが、例えば汚れた霊を追い出す、という特別な権威を与えられたのではないことが分かります。

イエスは時にイエスの直接の弟子たちに対して、時にイエスを信じるすべてのクリスチャンたちに対して教えらる、と思います。

8節、「また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」

ここでちょっと問題があるのですが、実は宣教に十二弟子たちが何を持って行ってよいのか、いけないのか、マルコの福音書に記されていることと、マタイ、ルカの福音書に記されていることが多少、異なる点です。

マルコの福音書ではくつと杖を持っていくことが赦されていますが、マタイの福音書では、くつも、杖も持たずに行きなさい、と言われています。

どうしてそんな違いがあるのか、推測するしかないのですが、もしかしたらイエスは二人ずつ送り出した弟子たちにその行く地域別に個別の指示を出したかもしれません。

これは天国に行ってからペテロとマタイに聞いてみたいところです。

どうであっても、弟子たちはこれ以下はないというほど─これ以下はおそらく下着一枚か裸で行きなさい、と言っているようなものです、それほど─なにも持たないで宣教をすることが求められました。

なぜなのか、はここには書いてありません。

並行するマタイの福音書では「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです」と言われていて、必要なものは旅先で人々から与えられることが期待されているようです。

10節、「また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。」」

同じくどうして一軒の家にはいったら、その家にとどまっていなければならないのか、説明されていません。

もし、一軒の家に入ったらその家にとどまるべき、と言われていたなら、弟子たちは、とどまるべきもっとよい家はないか、と宣教のためでなく、泊まり心地のいい家の値踏みのために家々を回ったりする誘惑に陥らないですんだのかもしれません。

もしかしたら、受け入れてくれる人々が多くて、是非、家に泊まってください、いや、是非家に泊まってください、と人々の間に対立を起こさせないようにするためだったかもしれません。

11節、「もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」

なぜ足の裏のちりを払い落とすことがメッセージを受け入れない人々に対する証言となるのか、よく分かりません。

マルコの福音書には書かれていませんが、マタイの福音書によると、このとき弟子たちは特別に、ユダヤ人たちにまず宣教をするようにとイエスによって指示を受けました。

すなわち、この証言というのは悔い改めのメッセージを受け入れなかったユダヤ人たちに対するものです。

当時のユダヤ人が旧約聖書の神を知らない人たちが住んでいる地域から帰ってきたとき、足の裏のちりを払い落としていた、という風習があったとしたら、悔い改めのメッセージを受け入れないユダヤ人たちを、神を知ろうとしない人たちである、と証言することであったかも知れません。

これらはすべて推測です。

大切なことは、イエスの弟子たちが、イエスのこれらの指示に従い、宣教に出て行ったということです。

12節、「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。」

この時点で弟子たちはまだイエスの事をちゃんと理解をしてはいないような、大変に不完全な人たちでした。

ペテロはこの後なんども失敗し、イエスにいさめられ、イエスが捕らえられた時には3度、イエスを知らない、と言ってしまいます。

他の弟子たちも欠点だらけでした。

そしてイスカリオテのユダはこの後、イエスを裏切り、イエスが捕らえられた後、自殺してしまいます。

悔い改めのメッセージを伝えた弟子たちは、とても完全、とも、聖人、とも言えるような人たちではありませんでした。

これは今、悔い改めのメッセージを人々に伝えようとしている僕にとって、とてもホッとすることです。

弟子たちのような、また僕のような、不完全な欠点だらけなものを用いて、神は神の悔い改めのメッセージを人々に伝えています。

3.なぜ悔い改めが必要か?

さて、イエスの十二人の弟子たちが実際に、どのような言葉でもって、人々に悔い改めを説いたのか、書かれていません。

ですが、もし、彼らが二千年の時を超えて、また文化や言語の壁を越えて、今日、あなたに、悔い改めるべき事を言ったとしたら、どうでしょうか?

ある人たちは、まず、聞くでしょう、「なぜ悔い改めが必要なのですか?」

なぜ悔い改めることが必要なのでしょうか?

いろいろな理由が考えられると思います。

神を無視して生きていくことは間違っています。

神を知らないで生きていくことはむなしいです。

私たちが悔い改めないのであるなら、神はいつか、裁きの日に私たちが悔い改めなかったことを罰するでしょう。

ですが、僕が一番、人は悔い改めなければならない、と感じるのは、この世界のいろいろなかなしみ、くるしみを見るときです。

聖書の一番最初の本、創世記によると、神が世界を造られたとき、その造られたものすべてが非常によかった、と言われています。

神が世界を造られたとき、人は神に聞き従い、造られたものは人に従い、そこにはあらそいも、かなしみも、くるしみも、憎しみも、うそも、恐れもありませんでした。

しかし、今日、世界を見てみれば、どうでしょうか?

心の痛む出来事があまりにも多いです。

ここ一週間、日本の新聞の社会覧からいくつか取り上げてみました。

16日、2000年10月、当時20歳の女性を数日間にわたって監禁・暴行し、生き埋めにして殺害したとして殺人罪などで起訴された6被告のうち3被告の初公判が行われました。

17日、文部科学省が発表した問題行動の調査で、小中高校生の自殺が5年ぶりに増加して、昨年度は137人が自殺したことが分かりました。

18日、奈良市の小1の女の子が誘拐、殺害された事件で、家族に新たに脅迫メールが送られてきた14日未明、女の子の携帯電話から、奈良県外に住む親類にもメールが送信されていたことが警察の調べで分かりました。調べによると、親類に送られてきたメールは、14日午前1時過ぎ、「今度は妹をもらう」との内容で家族にメール送信されたのと同じ時間帯だったとそうです。

19日、2000人以上の小学生を対象にしたアンケートで、暴力や虐待など残虐な画像をインターネットで見た小学生の30%が「何も感じなかった」8%が「もっと見たい」と答えました。

20日、法相の諮問機関である法制審議会の刑事法部会は外国人女性や児童の人身取引の撲滅に向け、人身売買罪の創設や逮捕監禁罪の罰則強化を柱とする刑法などの改正案要綱を決定しました。

21日、消防庁がまとめた2004年版消防白書によると、集中豪雨や台風上陸が相次いだ今年の風水害による死者・行方不明者は、11月10日までに計230人と1983年以降で最悪を記録しました。

22日、20歳の男性と少年3人が強盗をしようとして顔を見られ、17歳の女子高生の首をしめて殺害しました。

これは日本のニュースですが、世界にはもっと悲惨な、もっと悲しい出来事が毎日、毎時間、毎分毎秒、起こっています。

もし神がいるのなら、なぜ、こんなにも悲しい出来事が起こるのでしょうか?と神に問いかけたくなりはならないでしょうか?

しかし、この世界の多くの悲しい出来事は、神が悪いのではなく、人が悪いのではないでしょうか?

実に、聖書は、例えば台風などの天災なども含めて、この世界のいかなる苦しみも、その原因は人が神からはなれて自分勝手に生きるようになったことであることを教えています。

なぜ悔い改めることが必要なのでしょうか?

世界のすべての苦しみは、人が悔い改めない、神からはなれて生きていることの結果であるからです。

4.なぜ悔い改められないか?

この神の悔い改めのメッセージを聞いて、二つの応答が考えられます。

一つは悔い改めたい、という応答。

もう一つは悔い改めたくない、という応答です。

どうして人は悔い改めたくないのでしょうか?

4.1.「神」なんていない

ある人たちは、「あなたは神を無視しています」と言われて、「だって神なんて、いないじゃないですか、そんなの人が創りあげたものではないですか、どこに神がいるという証拠がありますか?」と反論します。

神がいるという証拠はなんでしょうか?

聖書にはこう書かれています

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

ローマ人への手紙1章18節から20節まで(新改訳聖書)

世界をみてみれば、それを創造した神という存在が明らかである、と聖書は述べています。

確かにこの世界が自然がどんなに調和して存在するのかということを学び、考えたとき、これは偶然ではなく、デザインされた方がいると僕なら考えます。

でもそんなの、科学的にすべて説明できるものではないでしょうか、と言われるかもれません。

なにか科学で説明できないこと、超自然的なことが起これば、神がいることを認められるでしょうか?

ルカの福音書16章には生きている間悔い改めることのなかった金持ちの話が出てきます。

そこでは、もし聖書の教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、人は聞き入れはしない、と言われています。

聖書の教えに耳を傾けようとしないのなら、たとえ不思議な出来事が起こったとしても、悔い改めることはない、と言われています。

4.2.考えたくない

ある人たちは、そんな神がいるとかいないとか、私が神を無視して生きているとかいないとか、そういうことは考えたくない、と言われます。

そんなこと考えても、どうせ確信のある結論なんて出てこないのだから、考えるだけ時間の無駄です、私は今、そんなことを考えずに、自分の好きなことができるのが楽しいのです、という考え方です。

ある人が僕に言いました、「聖書の教えはとてもよいものだけど、地獄とか裁きとかそういうことで脅かすことだけはやめてください」

そこには、真実とはなにか、という問いに答えようとする姿勢はありません。

考えたくないから...

ですが、もし本当に神が裁きの日を定めて、その日、悔い改めることのなかった人たちをすべて罰するのだとしたら、あなたが考えなかったからといって、その事実が変わることはないでしょう。

オーストラリアの海ではときどき、サメが人を襲います。

海辺には「危険、サメ、泳がないでください」というサインが立てられます。

そのサインをみて「私は気持ちよく泳ぎたいのです、こんなサインを立てて脅かさないでください」と言っているようなものかもしれません。

4.3.悔い改めない自分を神は受け入れてくれる

またある人たちは、神は悔い改めなくても自分を受け入れてくださる、と考え、悔い改めることがありません。

それは、神、という存在は認めますが、聖書で表わされている神は受け入れない、という考え方です。

これだけ自分以外に悪い人たちがいるのだから、誰かが受け入れられるのなら、自分は当然、受け入れられる、という考え方です。

もしあなたがこれまでなにも悪い事をしたことがなかったとしたら、それは果たして、あなたが特別、正しい、善い人だったからでしょうか?

それとも単に、これまでそのような悪い事をする機会がなかったからではないでしょうか?

人は機会が与えられれば、どんな悪い事さえも、実現してしまうものであると考えます。

例えば第二次世界大戦中、日本の兵士たちが他の国に出かけていって抵抗しない一般市民をも殺してきました。

あのころ、日本に生まれて兵士となった人たちは私たちよりも特別になにか悪い人たちだったのでしょうか?

いいえ、もし僕があの時代に生まれていたのだとしたら、あの時代に生まれた人たちと同じように、抵抗しない人たちを殺していたであろうと思うのです。

よく、生まれたばかりの赤ちゃんを指して、罪がまったくない、ということが言われますが、この赤ちゃんが育って、果たして、なにも悪い事をしないでいられる、ということがあるでしょうか?

いいえ、人は結局、機会が与えられれば、それだけ悪い事をしてしまいます。

それは、人は罪を犯して罪人になるのではなく、人は生まれながらにして罪人なので、罪を犯してしまうからです。

さきほど、いろいろな事件のニュースを読みました。

6人でまとまって、一人を暴行、生き埋めにして殺害した事件、しかしそのような事件を起こした加害者の生い立ち、家庭環境を見ると、もし自分がそのような環境にいたら、おなじような機会が与えられたら、果たして同じように悪を行わないでいられたかどうか、僕には分かりません。

罪を犯した罪人と、まだ罪を犯していない罪人とは、根本的になんの違いもないのです。

すべての人は神に対して悔い改めることが必要です。

4.4.悔い改めてもなにも変わらない

またある人たちは、過去に、悔い改めて、神に聞き従って生きる決心をしたのに、いつのまにかまた、神を無視して生きる生き方に戻ってしまい、悔い改めてもなにも変わることがない、だから今、悔い改めたくない、と考えます。

どうせ悔い改めても、またもとにもどってしまうのならば、今、果たして悔い改める意味があるでしょうか?

十年ほど前になりますが、僕自身が、このような考え方をしていました。

悔い改めようとしても、また後で神を無視して生きようとしてしまうのなら、悔い改める必要がない。

そんなとき、僕が集っていた教会の宣教師先生にある聖書の箇所を頂きました。

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、─私たちの罪だけでなく全世界のための、─なだめの供え物なのです。

第一ヨハネの手紙2章1節と2節(新改訳聖書)

私たちが悔い改められたから、神は私たちを赦してくださる、というメッセージは間違ってはいませんが、完全ではないと思います。

なぜならもし、悔い改めたのに、また罪を犯してしまったらどうするのでしょう?

私は悔い改めていなかったことになるのでしょうか?

私たちが悔い改めたから、ではなく、もし私たちがまた罪を犯してしまったとしても、その罪のために、イエスが代わりに、罰を受けてくださったから、神は私たちの罪を赦してくださいます。

たとえ悔い改めたとしても、罪をまったく犯さないようになるのではありません。

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

第一ヨハネの手紙1章8節から10節まで(新改訳聖書)

5.今が悔い改めるときです

今、悔い改めのときです。

祈りましょう。

もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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