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人を汚すものとは?

マルコの福音書7章1節から23節まで

1.人は「きよめられる」ためになにをするか?
2.ユダヤ人は「汚されない」ためになにをしたか?
3.「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」
3.1.なにが神のことばでなにが人の言い伝えなのか?
3.2.なぜ神のことばは捨てやすく、人の言い伝えは受け継ぎやすいのか?
4.「あなたの父と母を敬え」vs「コルバン(すなわち、ささげ物)」
5.なにが人を汚すのか?
6.神に受け入れられるためには?
6.1.自分が神に受け入れられない者であることを認める
6.2.神のことばを受け入れる
6.3.イエスに信頼し続ける


さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、 ─パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。─パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。

「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」

イエスは彼らに言われた。

「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』

あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」

また言われた。

「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。モーセは、

『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』

と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」

イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。

「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」

イエスが群衆を離れて、家にはいられると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。イエスは言われた。

「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」

イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。また言われた。

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

マルコの福音書7章1節から23節まで(新改訳聖書)

1.人は「きよめられる」ためになにをするか?

ここ数週間、木曜日の夜8時半からABCで Body Snatchers という番組が放送されているのですが、ごらんになった方はいますか?

パラサイト、寄生虫が人の体にどのように住み着いてどのような影響を与えるのか、という番組です。

最初のプログラムでは、人の鼻の中に住み着いた二十センチほどのヒルの話、人の頭の表皮に住み着いた3,4センチほどのウジの話、そして人の腸の中に住み着いて3メートルにも成長するテープワームの話など、興味のある人には大変興味深い番組です。

テープワームの幼虫はすでに成虫を腸の中に住まわせている人がトイレに行ってから手をよく洗わないでテープワームの卵を手に付着させた状態で、他の人の食べ物に触れたりすることで感染するのですが、食事の前、食事の支度の前にはよく手を洗うことで簡単に感染を防ぐことができるそうです。

寄生虫のほかにもウイルスやバクテリアなどを体に取り込まないために、私たちは食事の前には手をよく洗うことが薦められています。

それは病気にならないように、病気の原因となる生物を体に取り込まないように、体をきよめることですが、ある場合に、物理的には観測することのできない、しかし、なにかの病気や災難の原因となるなにか悪い霊と呼ばれるような存在を取り除くために、体や環境などをきよめる、ということが行われます。

世界中にはいろいろな宗教があって、それぞれの宗教には人を「きよめる」ための儀式があるように思います。

日本でも家の前に塩を盛ったり、水をまいたり、お札を貼ったり、神道の神主さんを呼んで、厄除け、とか、お祓い、とか呼ばれる儀式を行います。

なにか、霊とか神とか言う存在の前に立つときに、あたかもそのままの自分では受け入れられない、ということが誰に言われなくても心の底で分かっているかのように、人は受け入れられるためのいろいろな儀式を行うように思います。

2.ユダヤ人は「汚されない」ためになにをしたか?

イエスの時代のユダヤ人たちにも自分を霊的にきよめるためのいろいろな儀式がありました。

旧約聖書によれば、ユダヤ人は神にご自身の民として特別に選ばれた民族でした。

このユダヤ人が神に選ばれた特別な民族であった、というのはどういうことなのかは、次回、取り上げたいのですが、この神に特別に選ばれた民、ユダヤ人には特別に神の律法が与えられました。

それが旧約聖書の最初の5つの書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。

その中にはいろいろな教えがありますが、ある教えは「あなたの父と母と敬いなさい」というような、現在の私たちにも当てはまるような教えであったり、ある教えは「豚を食べてはならない」というような、ユダヤ人だけに当てはまる教えであったりします。

律法の中で、神はユダヤ人にとってなにが「汚れたもの」であるのかを定めました。

例えばレビ記の11章にこのような記述があります。

「地に群生するもののうち、次のものはあなたがたにとって汚れている。すなわち、もぐら、とびねずみ、大とかげの類、やもり、わに、とかげ、すなとかげ、カメレオンである。すべて群生するもののうちで、これらはあなたがたには、汚れたものである。これらのものが死んだとき、それに触れる者はみな、夕方まで汚れる。また、それらのうちのあるものが死んだとき、何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器はみな、水の中に入れなければならない。それは夕方まで汚れているが、そうして後きよくなる。」

レビ記11章29節から32節まで(新改訳聖書)

なぜ神がこのようにこと細かく、ユダヤ人に対して、なにがユダヤ人にとってきよいものでなにが汚れているものなのかを定めたのか、はっきりとした理由を僕は知りません。

ある場合に、それは確かに人に病気を移しやすいような動物が汚れていると言われているようにも思われますが、それだけではないようです。

僕にはむしろ、神がエデンの園に「善悪の知識の木」を生えさせ、なおかつ人に「その木からは取って食べてはならない」と言われたように、このような律法を与え、人が果たして神に従うのかどうかが問われる機会となっているようにも思われます。

どのようなわけであれ、ユダヤ人たちは神がユダヤ人にとって「汚れたものである」と定めたものによって汚されないために、また汚れたときには水で洗ってきよめられるようにしました。

神は律法のなかでこと細かく、なにが汚れているもので、なにがきよい物なのかを定めましたが、実生活の中である特定の物質が、例えば僕が今、手にしているこの机は果たして汚れているものなのか、きよいものなのか、ということに対していろいろな解釈の仕方があったようです。

ある人たちは神が言われているとおり、もし例えば、死んだとかげがいたなら、それは汚れたものである、と解釈しますが、ある人たちはその死んだとかげがいた地面も、その上を歩く人も、その上を歩いた人に触った人もみな汚れる、と解釈する、というような具合です。

このように律法の解釈をある場合により厳格に行おうとしたのがパリサイ人たちでした。

今日の聖書箇所にもパリサイ人たちのことが言われていますが、マルコの福音書7章1節から見ていきましょう。

1節:さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。

パリサイ人というのは日本人、ユダヤ人というような人種を指しているのではなくて、ユダヤ教のある一派の教えに従う人たちのことを指します。

聖書を含む当時の文献から、イエスの時代のユダヤ教には大きく分けてパリサイ派、サドカイ派、エッセネ派という三つの宗派が知られていました。

辞典によると、「パリサイ」という言葉は「分離する者」という意味で、律法を守らない人たちから自分たちを分離することを意味するそうです。

エルサレムにあった神殿での祭司による儀式を重んじたサドカイ派に比べて、パリサイ派は一人一人、個人の神に対する姿勢を重視して、各地にユダヤ人たちが集まる会堂を建設するのに貢献しました。

エッセネ派はパリサイ派に似た教えを保っていましたが、パリサイ派が積極的に民衆と関わったのに対して、エッセネ派は一般の生活から離れて荒地で共同生活をしていたそうです。

1947年に死海のほとりにある洞窟で見つかったいわゆる死海文書は紀元前2世紀から紀元一世紀のころの、まさにイエスの時代から直接に私たちの時代に残された文書ですが、それらはエッセネ派のグループによるものだと考えられています。

サドカイ派もエッセネ派も紀元70年にローマ軍によってエルサレムの神殿が破壊されてからはその影響はほぼなくなったものとなり、パリサイ派の教えが事実上、現在のユダヤ教の教えとして受け継がれています。

このパリサイ人とともに律法学者と呼ばれる人たちがイエスのもとに来ました。

マルコの福音書2章でパリサイ派の律法学者と呼ばれる人が登場しましたが、律法学者の中にはパリサイ派もいればサドカイ派もいたようです。

律法学者は旧約聖書や旧約聖書に付随するいろいろな教えに詳しい人たちでした。

エルサレムというのはユダヤ人にとっては神の神殿のある世界の中心のようなものであって、そこから来た、というのはそのようなパリサイ人や律法学者がなにか特別な権威とともにやってきたことを感じさせます。

2節:イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、─パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。─

日本人のように箸を使って食べるのではなくって、特に手で食べ物をつかんで直接に口に入れるような食事の前に手を洗うことは衛生面では当然のことですが、当時のユダヤ人が食事の前に手を洗ったのはそれによって手に付着したウイルスやバクテリアを取り除くためだけではありませんでした。

先ほど説明したように、自分の食べるもの、触れるもの、すべてが汚れたものではないように、また、汚れたものであったなら、水で洗う儀式を行うことで自分にとってきよいものになるようにと、食事の前に洗うようにとパリサイ人たちは人々に教え、また自身でも実践していました。

この教えは旧約聖書には記されていませんが、それを正しく解釈した「昔の人たちの言い伝え」としてユダヤ人に伝えられていました。

旧約聖書の律法が「書かれた律法」であるのに対して、そのような教えは「口伝律法」─口で伝えられた律法として旧約聖書に次ぐ権威を与えられていました。

パリサイ人は旧約聖書を神のことばと認めていましたが、それは時代に合わせて解釈されるべきだという立場をとり、旧約聖書のほかに「昔の人たちの言い伝え」を堅く守っていました。

この言い伝えは時代によって加えられたり修正されたりしましたが、紀元3世紀にまとめられ、ミシュナと呼ばれるようになりました。

このミシュナは現在でもユダヤ人たちに受け継げられ、旧約聖書に次ぐ神の権威のある教えであると考えられています。

3.「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」

5節:パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」

パリサイ人と律法学者たちが「昔の人の言い伝え」を自分たちの正しさの根拠として持ち出したのに対し、イエスはパリサイ人と律法学者たちも神のことばであると認めていた、旧約聖書、イザヤ書に記された神のことばを取り上げます。

そのことばは自分は神に受け入れられていると考えていたパリサイ人、律法学者にとっては大変なショックであったでしょう。

パリサイ人と律法学者たちは、イエスによって「神の教えを捨てている」と言われました。

3.1.なにが神のことばでなにが人の言い伝えなのか?

ここでいくつか問題があると思います。

まず第一の問題は、なにが神のことばでなにが人の言い伝えなのか、という問題です。

クリスチャンは聖書が神のことばであると考えますが、ある人たちは、聖書そのものも、人の言い伝えである、と考えます。

例えば聖書の最初の5書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は伝統的にモーセが神に示されて神のことばを記した、と言われていますが、しかし、それがモーセが勝手に考え出したものではなくて、確かに神のメッセージであるという証拠がどこにあるでしょうか?という問題です。

もし聖書そのものも人間の言い伝えであるのなら、そこに書かれていることは、例えどんなに著名で知識、経験があって物事を理解するすぐれた能力のある人が書いたとしても、僕が今日、ここで適当に考え出したことと同じ程度の権威しかないのではないでしょうか?

書いた人も人、僕も人、そこにはなにも決定的な違いがないように思えるからです。

ある人たちは、それが神からのものであるのか、人からのものであるのか、実際に読んでみれば分かる、と考えます。

創世記の第一章第一節、「初めに、神が天と地を創造した。」ということばを読んで、その一言で神を信じたという人の話を僕は聞いたことがあります。

確かに、あるメッセージが本当に神からのものであるのなら、誠実に真実に神を求める人にはそれが神からのものであるのか人が勝手に考え出したものであるのか、分別がつく、そうであって欲しいと僕も願うのですが、しかし、例えばモルモン書が神のことばであると考える人もいますし、コーランが神のことばであると考える人もいます。

僕がモルモン書やコーランが人が作り出したものである、と考えるように、ある人たちが聖書は人の言い伝えである、と考えるのとどのような違いがあるでしょうか?

ある意味、私たちはここで、自分の選択を迫られます。

それは聖書は神からのものである、神のことばである、と聖書に信頼するのか、それとも聖書は人が作り出したものである、と聖書に信頼しないのか、のどちらをあなたは選ぶのか、ということです。

もし、聖書が証言するイエス・キリストに信頼するのなら、イエスが神のことばと認めている旧約聖書、そしてイエスに権威を与えられてイエスのメッセージを伝えた使徒たちによる新約聖書は神のことばであると信頼することができると思います。

しかしそれ以外の文献、例えばカソリック教会で用いられている第二聖典、ユダヤ教で用いられているミシュナ、イスラム教で用いられているコーランなどは神のことばではないと僕は考えます。

3.2.なぜ神のことばは捨てやすく、人の言い伝えは受け継ぎやすいのか?

第二の問題は、人は神のことばを捨てやすく、人の言い伝えを受け継ぎやすい傾向にある、ということです。

ある場合に、人は神のことばを知っていながら、それを受け入れたくなくていろいろな方法で神のことばに従わなくても良いようにと工夫を凝らします。

例えば同性愛は実は罪ではない、聖書は同性愛が罪であるとは言っていないと主張する人たちがいます。

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

ローマ人への手紙1章26節と27節(新改訳聖書)

ここで「自然の用を不自然なものに代え」と言われていますが、同性愛が罪ではないと主張する人たちはこの箇所を取って、自然なものを不自然に変えるのがいけないのであって、もし生まれつき同性愛の傾向があるのなら、それが自然なことであって、同性愛は罪ではない、とこの聖書箇所の意味を摩り替えようとします。

同様に、「あなたの父と母を敬いなさい」という神のことばを聞いて、私たちはいろいろな理由をつけてそのことばに従わなくてもよいように工夫を凝らします。

「姦淫してはならない」「盗んではならない」「うそをついてはならない」ということばを聞いてなお、愛し合っているのだから姦淫ではない、皆がやっているのだから盗みではない、うそも方便と言われるのだから悪くない、と神のことばを捨てようとします。

なぜ神のことばは捨てやすいのでしょうか?

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」

詩篇51篇5節(新改訳聖書)

人は誰でも生まれながらにして罪びとです。

生まれながらにして自然に、人は神のことばに従いたがらないものです。

機会があれば神のことばに従うよりも、神のことばを捨てようとしています。

そのような人が考え出した教えは、人が自分がやりたいことをやろうとするのに実に都合がよいので受け継ぎやすいのです。

4.「あなたの父と母を敬え」vs「コルバン(すなわち、ささげ物)」

その一つの例をイエスは取り上げました。

9節:また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」

「あなたの父と母を敬え」「父や母をののしる者は、死刑に処せられる」という律法は出エジプト記の20章、21章に言われています。

自分の親族を大事にすることはユダヤ人だけでなくクリスチャンたちにも言われていて、第一テモテへの手紙5章8節には「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」と言われています。

「コルバン」とはもともとへブル語で神へのささげものという意味だそうです。

神に自分のもちものをささげることは確かによいことですが、しかし、自分の両親を敬うことを無視して、両親に物質的な必要があるのに、神にささげようとすることは、「あなたの父と母を敬え」と言われた神にそむくことになります。

なぜ神を敬うはずの人が自分の両親を敬わないようになったのか、分かりません。

ですが、自分は神を敬うと言っている人が、自分と神との関係だけしか考えられずに、神の「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」「あなたの父と母を敬いなさい」というような人と人との関係に関する教えを無視しようとするのなら、その人は本当に神を敬っているのではありません。

神を敬う、ということはなによりもこの神のことばに耳を傾けることであるからです。

5.なにが人を汚すのか?

14節:イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」イエスが群衆を離れて、家にはいられると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

食べ物はものによっては人を病気にさせてしまうかもしれませんが、なにを食べたから、食べなかったからということで、神に受け入れられる、受け入れられない、ということはありません。

イエスは確かにこの文脈では食べ物のことを言っていましたが、「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません」ということばは、食べ物だけにとどまらず、どんなことにでも当てはまると僕は考えます。

たとえ話ではなく本当の話なのですが、直美とあんなはうそをつきます。

今はまだ、うそをついていることが見て取れるので、「うそをついてはいけない」と二、三回問い直すと、「ごめんなさい、うそをついていました」と言ってくれるのですが、そのうちきっとうそを突き通すことを覚えてしまうでしょう。

それはもうどうしようもないので、うそをついてもパパとママには分からないけど、神様は知っている、うそをついてはいけない、ということを教えて、僕たち自身が子供たちにうそをつかないように努力するしかないと思っているのですが、とにかく、直美とあんなは会話ができるようになったころにはもううそをつくことができました。

誰に教わらなくてもうそをつくことができるのはおどろくべきことだと思います。

もしうそをつくことは悪いことだと誰も教えることがなかったのなら、子供たちは生まれながらにして誰に教わらなくても行えることを行うようになるのだろうと思います。

悪い環境に育った子供は悪事を行う、と言われて、統計的にも環境とその環境に育った人がどのような行いをするのかを関連付けることができますが、僕は環境が人を悪くするのではないと考えます。

むしろ自分の周りの人に対して、どう振舞うべきなのかを誰にもなにも教わらなければ、人は生まれたままに誰に教わらなくても行えることを行うのではないでしょうか?

外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。

人の内側、人の心のそのものが、汚れているからです。

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

6.神に受け入れられるためには?

そのような人が神に受け入れられるためには、いったい、どうすればよいでしょうか?

6.1.自分が神に受け入れられない者であることを認める。

人の第一の問題は、口では神に従いたいと言いながら心の中で「いや、神に従いたくはない」と思っていることで、これは偽善と呼ばれます。

心の中で思っていることと、口に出すことが違うのは、単純に言えばうそをついていることで、これが悪いことであることを私たちは知っています。

語弊があるかもしれませんが、偽善はある意味でまだ救いようがあります。

なぜなら偽善を行っている人は多くの場合、少なくともそれが悪いことであることを知っているからです。

悪いことであることを知りながら行うなんて、より悪いことではないですか?と思われるかもしれません。

ですがより深い人の第二の問題は、人が神に対して悪を行っているということ自体にまったく気がつかない、もしくは無視することです。

ある人は自分が心の中で真摯に、誠実に神を求めるのならば、神はきっと自分を受け入れてくれる、と考えるでしょう。

しかし、イエスのたとえ話に出てきたパリサイ人はこのように祈りました。

『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

ルカの福音書18章11節と12節(新改訳聖書)

だれか、他の人を脅してその人の正当な持ち物を奪ってしまったことがあるでしょうか?

なにか倫理や法律に反するようなことをしたことがあるでしょうか?

自分の結婚相手以外の人と性的な関係を持ったことがあるでしょうか?

ある人たちは実に、そのどれも行ったことがない、だから私は神に受け入れられるはずだ、と考えて疑いを持ちません。

世界にはいろいろな人たちがいて、少なくとも私は平均以上、もしかしたらトップ10パーセントには含まれるまともな人ではないですか?

もし誰かが神に受け入れられるなら、私だって受け入れられるはずです...

残念ながらそのように考える人は、たとえそれがどんなに裏表のない真心からの思いであったとしても、神に受け入れられることはありません。

神に受け入れられたのは次のように祈った人です。

『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

ルカの福音書18章13節(新改訳聖書)

イエスは言われました。

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。」

ルカの福音書18章14節(新改訳聖書)

人が神に受け入れられる第一のステップは自分の罪を認め、自分がそのままでは神に受け入れられないものであることを認めることです。

6.2.神のことばを受け入れる。

神に受け入れられる第二のステップは神のことばを受け入れることです。

次の聖書箇所を考えてください。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

第一ペテロの手紙2章22節から24節まで(新改訳聖書)

神は私たちの罪ために私たちを罰するのではなく、イエス・キリストを代わりに十字架の上で罰して、私たちの追うべき罰を免除してくださったと聖書は教えています。

この神のことばを受け入れるのなら、今日、誰でも神に受け入れられます。

この神のことばを受け入れないのなら、あなたが、神の用意した救いの道を受け入れなかったので、神はいずれ、あなたのすべての罪を罰されます。

ある人たちは神に受け入れられるのならと喜んでこの神のことばを受け入れますが、神のことばを受け入れるのに、自分の好きな箇所だけを選んで受け入れることはできません。

神のことばを受け入れるとは、聖書を神のことばとして受け入れることです。

その中にはあなたが従いたくない教えもあるかもしれません。

それを無視しようとすることは、あなたを救う神のことばを無視しようとすることです。

もし従いたくないのなら、無視しようとするのではなく、従えるようにと神に願うべきです。

6.3.イエスに信頼し続ける。

これまで神のことばを無視してきた人がこれからは神のことばに従おうとするなら、多くの場合、考え方や、生活のいろいろな面で改めなければならないことに気づかされると思います。

古い神に喜ばれない習慣、例えば貪欲や怒り、自己中心などを捨てて、新しい神に喜ばれる性質、例えば親切、思いやり、愛、忍耐などを身につけていく必要があります。

この考え方、生き方を改めることは生涯続くものです。

誰も「私は完全になった」ということはできません。

人が完全に神に従えるようになるのは、イエスがまた再び来られて人をまったく新しくしてくださるときです。

とはいえ、考え方や生活の中で、人がより神に喜ばれるものへと変えられていくとき、「私は良い人間になったので神に受け入れられる」と思ってしまうことがあるかもしれません。

人が神に受け入れられるのは、ただイエス・キリストの身代わりの死によるものです。

私たちの罪は私たちが善いことをしようとすることで埋め合わせられるものではなく、もしあなたに本当に見る目があるのなら、クリスチャンになった後でも日々、罪を犯してしまう自分に気づかされるであろうからです。

自分の行いに頼るのではありません。

しかし人がイエス・キリストのみに頼るのなら神はその人を受け入れてくださいます。

神に受け入れられる第三のステップはこのイエスに信頼し続けることです。

祈りましょう。

もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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Produced by Hajime Suzuki
Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience