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二人の王

マルコの福音書6章14節から44節まで

1.クリスチャンとして生きるとは?
1−1.楽しめない?
1−2.好きなことできない?
1−3.視野がせまくなる?
2.なぜサンドウィッチにしてあるのか?
3.悔い改めることのなかったヘロデ
4.群集を深く憐れむイエス
5.イエスの教え
6.どちらの王に仕えたいですか?


イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にもはいった。人々は、

「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ。」

と言っていた。別の人々は、

「彼はエリヤだ。」

と言い、さらに別の人々は、

「昔の預言者の中のひとりのような預言者だ。」

と言っていた。しかし、ヘロデはうわさを聞いて、

「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」

と言っていた。実は、このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、─ヘロデはこの女を妻としていた。─人をやってヨハネを捕え、牢につないだのであった。これは、ヨハネがヘロデに、

「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」

と言い張ったからである。ところが、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、ヘロデヤの娘がはいって来て、踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。そこで王は、この少女に、

「何でもほしい物を言いなさい。与えよう。」

と言った。また、

「おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。」

と言って、誓った。そこで少女は出て行って、

「何を願いましょうか。」

とその母親に言った。すると母親は、

「バプテスマのヨハネの首。」

と言った。そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。

「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」

王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女は、それを母親に渡した。ヨハネの弟子たちは、このことを聞いたので、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めたのであった。

さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。そこでイエスは彼らに、

「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」

と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。

「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」

すると、彼らに答えて言われた。

「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」

そこで弟子たちは言った。

「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」

するとイエスは彼らに言われた。

「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」

彼らは確かめて言った。

「五つです。それと魚が二匹です。」

イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは、男が五千人であった。

マルコの福音書6章14節から44節まで(新改訳聖書)

最近、日本の新聞やコラムなどを読んでいると「自分らしさ」という言葉をよく目にするように思います。

別に前からよく使われていて、僕が最近気にするようになりだした、ということかもしれないのですが、例えば、こんな質問をしたとします。

「どのような生き方をしたいですか?」

その答えは

「自分らしく、生きたいです。」

という感じです。

「自分らしく」という言葉は、例えば「自分は自分らしく、他人と自分を比べて嫉妬したり卑屈になったりする必要がない」という大変肯定的な心の状態を促すようにも思うのですが、しかし、間違えると、「自分は自分らしく、なにも目指す必要もなく、変えようと努力する必要もなく、今のままの自分でよい」という、なにかさらに良いものを目指そうというような向上心をなくさせてしまう言葉でもあるように思います。

ですが「自分らしく」という言葉は一般に大変肯定的に受け止められているようで、「自分らしく」以外のことを言おうとすると、それはもうなにか、聞かなくても間違いである、ぐらいに思われているような感じがします。

現在はどちらかと言えばいわゆる個人主義の時代であるでしょう。

「個人の人生は本人が望むように生きるのが良い」

「他人が個人の人生に口出しするのは個人の権利を─だれがそんな権利を決めるのかは定かではありませんが、その権利を─侵害することだ」

と考えられます。

誰が私に「あなたはいまのままではいけません。あなたはこう生きるべきです」なんて言えるのでしょうか?

あなたが勧める生き方が私が自分らしく生きる生き方より良い生き方だ、なんていったい誰が言えるのでしょうか?

あなたが良い、と思われていることは、今現在この社会では多くの人に良い、と思われているかもれませんが、果たして何十年、何百年後にも同じように良い、と思われ続けているでしょうか?

結局、現在、良い、と呼ばれている事は、歴史や文化に基づいて人が言わば多数決で決めたようなものであって、実はなんの根本的な根拠もないものなのです。

私の生き方は自分で決めるし、もちろんその責任も自分で取ります。

誰にもどう生きるべきだ、なんて指図をされるつもりはありません。

多くの人が、このように考え、また、このように考えることが正しいことである、と考えます。

もし、世界を創造した神、という存在がなければ、確かに誰もどのような生き方がよい、なんて言えないだろうと思います。

もし、あなたは神に造られたものだ、ということが真実でなかったなら、確かにどのような生き方をしても良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか言うことはできないでしょう。

ですが、世界は神が造られ、神はあなたをも造られました。

もし、神があなたを造られたのなら、あなたが、どう生きるべきか、ということも決められるのではないでしょうか?

クリスチャンは、自分らしく自分の好きなように、ではなく、神が望まれるように、神の言葉である聖書に従って生きるべきです。

言うなれば、クリスチャンはクリスチャンらしく生きるべき、とも言えるのですが、これは現在、大変人気のない教えであると思われます。

そういう「クリスチャン」というような型にはめられるのがいやだ、という人も少なくないでしょう。

どうして「クリスチャン」として生きる、ということが嫌われるのでしょうか?

1.クリスチャンとして生きるとは?

1.1.楽しめない?

ある場合に、クリスチャンはなにかこの世界のいろいろな「楽しい」と思われているようなことを楽しんではいけない、と考えられるようです。

例えばテレビのコマーシャルをみているとカソリックのシスターが部屋で隠れてホットチョコレートを飲んでみたり、アイスクリームに「情欲」や「嫉妬」など七つの罪の名前をつけてみたり、なにか美味しいものを食べて楽しむことは悪いことである、という考え方が背景にあるようです。

ですが、聖書によれば、食べ物を楽しむこと、それ自体は罪ではありません。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

第一テモテへの手紙4章1節から5節まで(新改訳聖書)

「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。」

また6章の17節にはこう書かれています。

この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

第一テモテへの手紙6章17節(新改訳聖書)

クリスチャンは神が与えてくださった良いものを正しく楽しむことができます。

しかしそこには与えてくださった神への感謝と、楽しむこと自体が自分の神になってしまわないことが求められます。

例えば、クリスチャンはお酒を飲んで楽しんではいけない、のではなくて、─エペソ人への手紙5:18ですが─「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」と言われています。

食べ物や飲み物を楽しむだけでなく、芸術を楽しんだり音楽を楽しんだりスポーツを楽しんだり、この世界のいろいろな良いものを楽しむことそれ自体はなにも悪いことではないと僕は考えます。

ですが例えば、体を壊すほど食べ過ぎるのはどうでしょうか?他人を負かして優越感に浸るのはどうでしょうか?情欲をもって男性なり女性なりを見ることはどうでしょうか?

楽しむこと、自体には罪はありませんが、神がしてはならないと定めた事を楽しもうとするなら、それは確かに悪いことです。

クリスチャンは確かにこの世界の良いものを楽しむことができますが、神を知らない人たちが、楽しければ何をしても良い、という考えるのとは違って、楽しんで善いことと、悪い事をはっきりと区別する必要があります。

1.2.好きなことできない?

それでは、例えば、神がしてはならない、と言われたことを、自分の感情が、想いがしたい、と思ってしまった場合はどうなるのでしょうか?

好き、というのは自分の感情のことであって、それをコントロールするようなことはできない、と考えられるでしょうか。

「何なにすることが好き」という感情はいろいろあって、なんでもよいのですが、例えば、いわゆる「好き」という感情でおそらくはもっとも強いと思われる恋愛の感情を例に挙げて見ましょう。

僕にも経験があります─はるか昔にですが─。

この異性を「好き」という感情は大変強力なもので、ともすればそれだけで心の中が一杯になって他のことが考えられなくなるようなものですね。

少なくとも僕の場合はそうでした。

例えば、独身のクリスチャンが結婚を求めるのなら、その相手はクリスチャンを求めるべきである、と聖書は教えている、と僕は理解しています。

聖書はそんなことは教えていない、と考える人もいて、議論の余地が十分にあるとは思うのですが、とりあえずそういう理解をしている人が、クリスチャンでない人を好きになってしまったら、どうすれば良いでしょうか?

宗教のために自分の好きな相手と結婚できない、なんてなんてばかげた考え方だ、と多くの人は考えるでしょう。

この異性に対する「愛」と呼ばれる感情が、そのほかすべての感情や考え方に勝るものである、と言う考え方は、現在では大変ポピュラーで、それは揺るぎのない真実であるかのように扱われていますが、果たしてそれは本当にそうなのでしょうか?

これは大変難しい問題だと思うのですが、僕はこのように考えています。

直美と安娜は甘いものが大好きです。

大抵のケンカもぐずつきも「キャンディーをあげる」と言えば直ってしまいますが、だからと言って欲しい時にいつもキャンディーをあげ続けて良いものでしょうか?

直美と安娜はなぜキャンディーを食べ続けてはいけないのか、まだ本当には理解していないと思います。

ただ、もっと経験も知識もあるパパとママが食べ続けるのは体によくないことだ、と言っているのだから、そのことに信頼して、食べたいけど食べない、ということでしょう。

同じように私たちも私たちの体や、感情や、限られた知識によって物事を判断しようとしますが、しかし、その判断は果たして世界を造られた神に勝るものでしょうか?

いいえ、神が定められたことが本当に良い物であるはずで、クリスチャンはそのために自分の思いがもっと神の思いに近くなるように、祈り、目指す必要があると僕は考えます。

1.3.視野がせまくなる?

クリスチャンとして生きることが嫌われる3番目の理由に、ある特定の考え方にとらわれることが嫌だ、と言われることがあります。

例えば、欧米の新聞では時折、キリスト教とホモセクシュアル=同性愛の問題が取りざたされます。

聖書によれば、同性愛は嘘をつくこと、盗むこと、憎むこと、嫉妬すること、そのほかいろいろな罪と同じように神によって罪と定められていて、それが罪ではない、ということはできません。

それはある人たちにとっては大変、視野の狭い、凝り固まった考え方であるようです。

自分たちをクリスチャンと呼ぶ人たちの中にもいわゆるリベラルと呼ばれる人たちは聖書の言葉よりも自分たちの理論、感情、文化、社会的なトレンドを善悪の判断の基準にしようとします。

これだけ多くの人たちが、善いことである、と認めているのだから、聖書を神の言葉と信じるクリスチャンたちが、それを善いことであると認められないのは間違いである、とある人たちは主張します。

ですが、たとえ社会の大多数の人たちが善い、と考えたことが果たして本当に善いことなのでしょうか?

極端な例ですが、例えばナチス・ドイツの時代にはユダヤ人たちを差別して排除しようとすることがドイツ市民の多くにとって善いことである、と考えられていました。

人の社会が判断したことは、世界の造り主である神の判断に勝らないと僕は考えます。

それは視野がせまくなることではなくて、物事を判断する、確固たる基準を得ることであると思うのです。

「クリスチャンとして生きる」ことは「自分らしく生きる」ことより、人にとってずっと良いことであると僕は考えます。

2.なぜサンドウィッチにしてあるのか?

さて、ここまで前置きだったのですが、もしクリスチャンにならないのなら、すなわち、神の悔い改めのメッセージを受け容れられないのなら、それはどのような生き方であるのか、今日の聖書箇所を学んでみたいと思います。

ずっとマルコによる福音書を学んできました。

前回の箇所、6章の7節から13節でイエスに遣わされた12弟子は出て行って悔い改めを説き広めた、とありました。

そして今日の箇所のうち6章の14節から29節まで、ヘロデ王の話があって、30節で12弟子たちがイエスのもとに戻ってきたことが伝えられています。

実はこのヘロデ王の物語は、特にバプテスマのヨハネが殺されたのは、時間的にはもっと前の話しで、弟子たちが出て行って悔い改めを説き広め、そしてバプテスマのヨハネが殺されたわけではありません。

そのようなわけでこの物語はどこに挿入されても良いように思うのですが、マルコはこの物語をイエスが十二弟子を遣わして、その十二弟子たちが戻ってくるという場面によって、いわばサンドイッチのようにはさむ構成を用いました。

どうしてでしょうか?

マルコはこのようなサンドイッチの物語の構成の仕方を福音書の中で何度か用いて、そこには多くの場合、接点があって、内側の物語は外側の物語を理解するために、外側の物語は内側の物語を理解することの助けとなります。

ですが、ヘロデ王の話と弟子たちが悔い改めを説き広めたという話には一見、直接的な関係がないようにも見えます。

もちろん、12人の弟子たちがイエスのもとから出て行って広く、人々に福音を伝えたので、そのことによってイエスの名前が知れ渡り、ヘロデ王の耳にも入った、という繋がりから、ヘロデ王の物語が語られた、ということもありますが、もしマルコがなにかを意図してヘロデ王の話を弟子たちが悔い改めを説き広めた、という話ではさんだとしたら、どのような意図があったでしょうか?

もちろんこれは推測でしかないのですが、弟子たちが悔い改めを説き広めた話の中で、悔い改めることの無かった王の話が語られていることは実に興味深いことだと思います。

ここに人が悔い改めのメッセージに対して、どのような応答をするものなのかが語られているように思えるからです。

3.悔い改めることのなかったヘロデ

それでは、6章の14節から読んでみましょう。

14節「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にもはいった。人々は、『バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ。』と言っていた。別の人々は、『彼はエリヤだ。』と言い、さらに別の人々は、『昔の預言者の中のひとりのような預言者だ。』と言っていた。」

旧約聖書にはエリヤとエリシャという二人の預言者がいました。

エリシャはエリヤの弟子であったわけですが、エリヤがこの世界から去った時、人々はエリシャが起こす奇跡を見て「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言いました。

同じようにイエスの奇跡を見たり聴いたりした人たちが、イエスのすぐ前に現れ、イエスと同じように悔い改めを教えたバプテスマのヨハネとエリヤを結びつけたことは無理もないことでした。

この物語にもあるようにバプテスマのヨハネが死んだことは広く知られていたように思われますが、旧約聖書のエリヤは死んだのではなく、実はエリシャの目の前で生きたまま神によって取り去られたと記されています。

旧約聖書の最後の書、マラキ書の4章5節には、神が世界を裁く前に、この預言者エリヤを遣わすことが言われていて、人々の中にはイエスを見て、「彼はエリヤだ」と言う人たちもいましたし、ヨハネでもエリヤでもない、しかし昔の預言者の中のひとりのような、神の言葉を伝える預言者である、という人たちもいました。

人々はイエスがなにかしらの預言者であることは認めていましたが、しかしイエスが預言者以上の者であることは理解していませんでした。

16節「しかし、ヘロデはうわさを聞いて、『私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。』と言っていた。」

ここで言われているヘロデ王はマタイの福音書にてイエスが生まれた時にベツレヘムの近辺の二歳以下の男の子をすべて殺させたヘロデ大王の子の一人でヘロデ・アンティパスと呼ばれています。

このヘロデがバプテスマのヨハネを殺害したわけですが、ここにはそのときの経緯が詳しく伝えられています。

17節「実は、このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、─ヘロデはこの女を妻としていた。─人をやってヨハネを捕え、牢につないだのであった。」

ヘロデ、ヘロデの兄弟ピリポ、その妻ヘロデヤ、そしてその娘サロメのことは聖書以外のその時代の書物、例えばユダヤ人の歴史家ヨセフスなどの書物によっても知られていて、ここでは聖書以外の書物も伝える歴史が記されています。

18節「これは、ヨハネがヘロデに、『あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。』と言い張ったからである。」

旧約聖書の律法によれば、妻を正当な理由なくして離縁すること、兄弟の妻を兄弟がまだ生きているうちに自分の妻とすることなどは禁止されていました。

これは神がユダヤ人に、神の民として他の民族とは区別されるように与えた守るべき律法でしたが、ヘロデは神の言葉に耳をかさず、このため、預言者ヨハネはヘロデを非難しました。

19節「ところが、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。」

ヘロデはヨハネに非難されながらも、彼の教えに心を完全に閉ざしてしまうことはせず、むしろ喜んで耳を傾けていた、とあります。

逆にヘロデヤはヨハネを恨み、殺したいと願っていました。

聖書には載っていませんが、歴史書によればヘロデヤはその後、自分の兄弟であるヘロデ・アグリッパがローマ皇帝によって別の地方の領主とされたときに嫉妬にかられ、夫であるヘロデをそそのかして皇帝にヘロデ・アグリッパを中傷させようとしますが、皇帝に見抜かれて二人とも追放されてしまいます。

ヘロデヤとは実にそのような人でした。

21節「ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、ヘロデヤの娘がはいって来て、踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。そこで王は、この少女に、『何でもほしい物を言いなさい。与えよう。』と言った。また、『おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。』と言って、誓った。」

ヘロデが本気でヘロデヤの娘に自分の国の半分でも与えたい、と思ったのか、もしくは気が大きくなっていたり酒に酔っていたりして心にもない事を言ったのか定かではありませんが、ヘロデは少女に対してなんとも無責任な約束をしてしまいます。

24節「そこで少女は出て行って、『何を願いましょうか。』とその母親に言った。すると母親は、『バプテスマのヨハネの首。』と言った。そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。『今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。』」

少女がどのような思いで大急ぎで王の前に行き「ヨハネの首を盆に」と言ったのか分かりません。

しかし、この少女は母親にそそのかされ、おそらくは人を殺すことが悪いことであるということを教えられることもなく、ヘロデヤの殺人の凶器の一つとして用いられてしまいます。

26節「王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女は、それを母親に渡した。ヨハネの弟子たちは、このことを聞いたので、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めたのであった。」

ヘロデ王はなにをすることが正しいことなのか、知りながらも、その正しいことをすることを選べず、自分の自尊心、他人の評価を守ろうとするために、ヨハネを殺害することを命令しました。

この話を聞いてどう思われるでしょうか?

ヘロデは悔い改めることができませんでした。

しかし人はそのようなものではないでしょうか?

見栄を張って、人々の自分に対する評価を気にし、自分を守るためならどこかで人が死ぬことも顧みません。

些細なことでも人を恨み、憎しみ、相手が死んだって構わない、とさえ考えます。

神はヨハネ、イエス、そして使徒たちを通して人々に悔い改めることを教えていますが、しかし人は、その悔い改めのメッセージに答えることができません。

物語がここで終わってしまったら、なにか希望も何もないですが、幸いにして、ヘロデ王の物語はもう一人の王の物語へと続いています。30節を見てください。

4.群集を深く憐れむイエス

30節「さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。そこでイエスは彼らに、『さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。』と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。」

前回の箇所で十二人の弟子たちが出て行って悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした、という少し現実離れした、超人間的なはたらきが伝えられていましたが、この箇所は弟子たちがイエスに特別な権威を与えられたけれども、やはり私たちと変らない、仕事をすれば疲れもする人間であったことが分かります。

33節「ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」

「羊飼いのいない羊」という言い方は旧約聖書で正しい王のいないユダヤの人々を指す言葉として何度か用いられていて、そのような群集を深くあわれんだイエスが、待ち望まれた王であることを示しています。

ヘロデは自分の誕生日のために政治的に大きな役割のある人たちを招いてもてなしましたが、それは結局自分の地位を築き、守るためでもあったと思います。

しかし、イエスはヘロデが招いたような偉い人たちではなく、私たちと同じような群集をみて深くあわれみ、彼らを教えられた、とあります。

35節「そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。『ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。』」

弟子たちの言葉は至極理にかなっていると思われますが、そこにはなにか群集に対するあわれみがあまり感じられません。

「どうやってこの人たちに必要なものを与えることができるか」ではなくて

「自分たちで行ってめいめい食べ物を買うようにさせてください」と弟子たちは言いました。

そのような弟子たちにイエスは答えます。

37節「すると、彼らに答えて言われた。『あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。』そこで弟子たちは言った。『私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。』」

デナリウスはローマの銀貨でマタイの福音書の20章にあるぶどう園のたとえではそのころの労働者一日分の賃金に相当したようです。

一日1万円稼げるとしたら、200デナリは200万円くらいになります。

その頃の弟子たちがあわせてそれくらいのお金を持っていたかどうかは分かりません。

持っていたとしてもいなかったとしても、イエスは弟子たちにイエスと同じように群集をあわれむ心を弟子たちに求めていたと思います。

38節「するとイエスは彼らに言われた。『パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。』彼らは確かめて言った。『五つです。それと魚が二匹です。』」

この前の箇所で弟子たちは食事をしたようで、どうやら自分たちが持っていたものはすべて食べてしまったようです。

ヨハネの福音書によれば、この五つのパンと二匹の魚は弟子たちではなくて少年が持ってきたものだからです。

39節「イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。」

初めてこの話を聞いた人はここで息を呑んだことでしょう。二百万円分の食事が必要なのに五つのパンと2匹の魚でどれだけの人が満たされたでしょうか?

42節「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは、男が五千人であった。」

昔、モーセが荒野でイスラエルの民に天からのパン、マナを与えたように、イエスは不思議な奇跡でもって何千人もの人たちの空腹を満たすことができました。

それはイエスが人々の必要を満たすことのできる王であることを示しています。

5.イエスの教え

しかし、人々の肉体的な必要を満たすことがイエスがこの世界に来られた目的ではありません。

34節をもう一度、見てください。

イエスは、人々を深くあわれみ、食事を与えたのではなく、いろいろと教え始められた、とあります。

なにを教えられたのかここには書かれていませんが、並行するヨハネの福音書にはイエスが群集に食事を与えたあとの教えが書かれています。

イエスは答えて言われた。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」

ヨハネの福音書6章26節(新改訳聖書)

パンを食べた群衆は今度はイエスに教えられることを願ったのではなく、単に空腹を満たすためにイエスの下に来ました。

イエスはそのことを見抜いて言われます。

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子─すなわちイエス─があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

すると彼らはイエスに言った。

「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」

イエスは答えて言われた。

「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

ヨハネの福音書6章27節から29節まで(新改訳聖書)

神の望まれるように生きる、とはまず第一に神が遣わした者、イエスを信じることです。

これが神が人に望まれていることです。

6.どちらの王に仕えたいですか?

今日、ヘロデ王の物語で読んで、ああ、あれはなんてバカな王様だ、自分はすくなくとも人を殺させるようなことはしない、と考えられるでしょうか?

しかし、神の前に、人を殺すことと人を愛せないこととは同じく罪です。

私たちは人を憎む、赦せない、ということがあっても、相手を殺すだけの権力も機会もないだけで、機会が与えられれば人はどのような悪い事もできてしまう、どこまでも罪深く愚かなものであると考えます。

しかしイエスはそのような人をあわれみ、人が神の前に悔い改め、神の望まれる生き方ができるようにと教えられます。

ヘロデ王は悔い改めることができませんでした。

彼にとって神は自分の王ではなく、自分の自尊心が自分自身が王であったからです。

神が人類の王として遣わされたイエス、それとも自分自身、どちらの王にあなたは仕えたいでしょうか?

祈りましょう。

もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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Produced by Hajime Suzuki
Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience