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「あなたはわたしを知らないと三度言います」

マルコ14章66節から72節まで

1.なぜ人は神という存在を信じるのか?
1.1.苦しいときの神頼み?
1.2.迷信?
1.3.存在意義?
1.4.罪悪感?
1.5.なぜ人は神という存在を信じるのか?
2.前回までの復習
2.1.「あなたはキリストです」
2.2.「たとい死ななければならないとしても...」
3.ペテロの失敗
4.ペテロはどのようにして立ち直ったのか(マルコ16:7)
5.「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」(1ペテロ5:5)
6.あなたはなぜ神を信じますか?


ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。

「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」

しかし、ペテロはそれを打ち消して、

「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」

と言って、出口のほうへと出て行った。すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、

「この人はあの仲間です。」

と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。

「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」

しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、

「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」

と言った。するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、

「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」

というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。

マルコによる福音書14章66節から72節まで(新改訳聖書)

みなさん、こんにちは。

ジョディー・フォスター主演、97年に上映された「コンタクト」という映画があるのですが、観たことのある方はいるでしょうか?

地球外知的生命体探査、早い話が宇宙人は存在するのか、ということを科学的に調べるプロジェクトですが、そのプロジェクトに関わる科学者エリーは、宇宙から電波を使って送られてくるメッセージを解読して、宇宙の星に行ける瞬間移動装置─どこでもドア、とは言われませんでしたが、そのような装置─を作り上げます。

その移動装置のパイロットにふさわしいかどうか、委員会にインタビューを受けたとき、最後にエリーは、「あなたは神を信じますか」と問いかけられます。

エリーは「私は科学者なので、観察することによって得られる証拠に依存します。神が存在するかしないかは、そのような証拠がないので、どちらともいえません」と答えます。

すると委員会の一人が「人類の95%は、神のような、人を超越した存在をいろいろな形で信じています。」と言います。

もし僕が、20数年、さかのぼって、例えば中学2年生のときのクラスの人たちに、「あなたは神を信じますか」という質問をしたら、おそらくは大部分の人が信じない、と答えるのではないだろうかと想像します。

どうやら僕の育った世代の教育では、「神」という存在をまったく教えない、議論しない、言わば神を無視することで、実は「神は存在しない」ということが暗黙的に教えられているのではないかと考えます。

ですが、地球的規模で見たら、どうでしょうか?先の「95%」という数字が本当かどうかは知りませんが、地球に生きている人全体で見れば、確かに、大部分の人が「神」というような存在を信じている、というのは当たっているのではないでしょうか?

なぜ人は神という存在を信じるのでしょうか?

アウトラインの1の1ですが、

1.なぜ人は神という存在を信じるのか?

1.1.苦しいときの神頼み?

あるとき人は、自分ではどうしようもないような問題に突き当たった時、なんだか分からないけれども、自分の力を超えた「神」というような存在に思いを向けます。

あれ財布がどこにあるのか分からない。

どこかに忘れたか、落としたかしたのでしょうか?

神さまどうか、僕の財布が良い人に拾われて、運転免許証がありますから、住所を見て届けてくれますように!

なんて普段は神のことなんて考えないのに、思わず神にすがりつこうとしたことのある人もいるのではないでしょうか。

インターネットには全国ご利益別神社ガイドなるものがあります。

恋愛成就、健康長寿、金運上昇、商売繁盛、合格祈願、家内安全、交通安全、(焼肉定食)なんで四文字熟語にするのか分かりませんが、必勝祈願なんていうギャンブル関連のものまであるようです。

 「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、もしかしたら日本人はとくにその傾向が強いのかもしれません。

普段は「神」なんて存在には目も向けない、考えもしませんが、いざ自分に問題が降りかかってくると、なにか「神」という特別な存在に頼りたくなる、そのときは─これは大変自分に都合のよい、自分勝手なものではないかと思いますが、そのときは─神を信じる、という人もいるでしょう。

1.2.迷信?

アウトラインの1の2ですが、また自分にはなにか理解できないようなことが起こったとき、「神」という存在を信じたりします。

昔は津波が起こったり、火山が噴火したり、なにか大きな災害をもたらすような自然現象が起こると、海の神さまが怒っている、とか山の神さまが怒っていると、多くの人が思ったことでしょう。

現在では津波は海底での地震によって起こるもの、噴火はマグマの活動によって起こるものと科学的理解が進んで、津波が起こったからといって、神が怒っていると信じる人は、いわゆる先進国では少なくなったのではないかと思いますが、ですが、普段神を全然信じない人も、圧倒的な自然の力を目の当たりにして、目で見える存在、以上の存在、神の存在のことを信じたりもするでしょう。

1.3.存在意義?

アウトラインの1の3ですが、もうすこし哲学的になってくると、別になにかとても困ったことが起こった、とか、大きな自然現象を体験した、とか言うことでなくても、一人で静まって、なぜ自分は存在するのか、とか、なぜこの世界は存在するのかとか、いろいろな問いに答えようとするとき、「神」という存在のことを考える人もいるでしょう。

ちょっと考えていただきたいのですが、今、僕が心の中に考えていることを、皆さんは観察することができるでしょうか?科学的に知ることができるでしょうか?

すました顔をして、僕はいったい何を考えているのでしょうか?

それともとぼけた顔をして、僕はいったい何を考えているのでしょうか?

分かる人いますか?

今日のゆうごはんはなんにしようかな?なんてありがちなことを考えているのではありません。

科学が進歩すれば、例えば脳波を観測すれば、人の心の中まで分かる、なんて、考える人もいるにはいますが、観測すればすべてが分かる、また逆に観測ができないなら、それは存在しない、という考え方は必ずしも正しくはないのではないでしょうか?

僕が考えていることは確かに僕の心の中に存在します。しかしそれは僕が真実をもって心の中にあることを皆さんに伝えなければ、科学的にどう観察したって皆さんには分からないわけです。

なぜ人は存在するのか、科学はその問いに答えることはできません。

いろいろもっともらしい証拠を集めて、人は猿が進化して人となったものだ、と科学が主張することはできますが、それでは、なぜ、猿が進化して人という生物がこの地球に存在しなければならないのか、もっと大切なのは、なぜ自分はこの世界に生きているのか、なんのために生きているのか、科学に問いかけてみても、科学はそんなものは観察できない、観察できないものは存在しない、だからあなたが生きている意味もない、とそのような答えにしかたどり着けません。

しかし、この世界をある目的をもって創りあげた神という存在があるなら、たしかにその神があなたが生きる目的も与えられたでしょう。

人は自分の存在意義を与えるために、神という存在を信じるかもしれません。

1.4.罪悪感?

アウトラインの1の4ですが、また人はある場合に罪悪感というものからのがれるために、神を信じる、ということもあります。

僕たちは生まれてからいろいろなことを親から先生から環境から教わります。

人のものを盗んではいけない、嘘をついてはいけない、赤信号を渡ってはいけない、教会でいねむりをしてはいけない、なんていうのもありますね。

そのように教えられたことを守れなかったとき、人は「罪悪感」というものを感じます。

教会で居眠りをしても、献先生は、お疲れの方は御霊に導かれるままに、といわれるほどですから、罪悪感を感じる必要はないでしょうが─これは冗談ですと言っておきますが─そのほかの場合には、良心の痛み、とでも言いましょうか、そういう気持ちが心の中に起きるものです。

罪悪感はある場合には、忘れることができたりもしますね。

またはなにか理由をつけて正当化しようとしたりします。

あのとき自分のしたこと、あれは間違いだと思っていたけれども、実は間違いではなく、正しいことだったんだ、とか あれは、自分にはどうしようもなかったことなんだ、だから自分は悪くないんだ、とか。

聖書が僕たちに教える神は「赦しの神」とも言われます。

神は僕の悪かったところを赦してくださる、と教えています。 とすると、人はどうやら、自分の罪悪感に対処するために、自分は悪かったけれども、神は赦してくださると信じたいと思うのかもしれません。

1.5.なぜ人は神という存在を信じるのか?

自分が苦しいとき、困ったとき、どうしようもないとき、そんな存在は本当には存在しないのだけれど、気休めに「神」というものに頼ってみたり、

そんな存在は本当には存在しないのだけれど、自分に理解のできない、自分の力をはるかに超えた自然の力の前に、人の力を超えた「神」という存在を信じてみたり、

本当にはそんな意味などはないのだけれど、自分が何のために生きているのか、その目的は?自分のいのちの価値は?と意義を与えるために「神」というありもしない存在に頼ってみたり

もしくは自分の罪悪感、これをどうすることもできなくて、神というありもしない存在に頼ってみたくなったりする。

神が本当には存在しないのなら、神を信じる人たちは、なんてむなしいことをしているのだ、という気になってもらえたら、今日のイントロダクションはその役を終えたわけですが、神が本当には存在しないのだったとしたら、そのありもしない神に頼ろうとしても確かにむだですね、意味がありません。

自分の気休めにはなるかもしれませんし、気休めが欲しい人にはそれでいいのかもしれませんが、それってなんだかどうでしょうか?

高いところで綱渡りをしている人に向かって「落っこちても網がはってあるから大丈夫だよ」って言っているようなものではないでしょうか。

事実は、実は網なんて張っていないんですね。

でも気休めに、そう言っておけば安心して、綱渡りできるし、もし落ちたら死ぬかもしれない、どきどき、状態で綱渡りしても緊張して失敗しやすくなるでしょう?だから気休めが欲しい人には気休めの言葉をかけてあげるべきです。

でも、つるっと足を滑らせて、あ〜網がはってあるっていったじゃないですかぁ〜グエって痛い目に合うのが落ちでしょう。怪我したりいのちを落としたりしたらしゃれでは済まされません。

もし本当に神が存在しないのなら、苦しいときに神に頼んでみたって、自分の存在に意味を与えようと思ったって、ましてや自分の罪悪感から逃れようとしたって、そんなの全部嘘、むなしい、気休めでしかないんです。

さて、果たして、この世界に神は存在しないのでしょうか?

と問題定義をしたところで、今日の聖書箇所を見ていきたいと思います。

2.前回までの復習

2.1.「あなたはキリストです」

アウトラインの2番目ですが、まず、前回までの復習をしたいと思います。

ずっとマルコによる福音書を学んできました。

月に一度ずつ、今回で第41回目、もう三年以上やってるんですが、まずマルコによる福音書ですが、これは誰によって書かれたかでしょうか?どのようにして書かれたかでしょうか?

これはイエス・キリストの一番弟子であるペテロ、そのまた弟子のマルコによって書かれました。

二世紀前半のパピアスという人の文献では、マルコはイエスの行い、イエスの言葉について語ったペテロの言葉を忠実に書きとめたと言われています。

ですからマルコによる福音書は、ペテロによる福音書と言っても良いようなものですが、確かにマルコによる福音書と、例えば使徒の働きに記録されているペテロのスピーチや第一、第二ペテロの手紙などには、共通する点が多く見られます。

マルコによる福音書は大きく二つに分けることができます。第1章から第8章29節までは、イエスがいったい誰であるのかということがテーマになっているようです。

イエスは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音─すなわち、神の救いのメッセージ─を信じなさい」と人々を教えました。

イエスは不思議な力で病人を癒し、悪い霊を─霊はスピリットですね、example の例ではなくて─人々から追い出し、風や波をしたがわせ、目の見えなかった人を見えるように死、耳の聞こえなかった人の耳を聞こえるようし、歩けなかった人を歩けるようにし、死んだ人をよみがえらせることまでしましたが、人々はいったいこの人はどういう人だろう、とびっくり仰天しました。

イエスの行いを見、イエスの言葉を聞いて、イエスは神から送られた偉大な預言者だ、と今でもイスラムの人たちが言うように、イエスをその前のモーセやエリヤなどと同じく、神に送られた預言者だと言う人たちもいましたが、イエスはただの預言者ではありませんでした。

8章の29節で初めて、ペテロが言います。

「あなたはキリストです」

キリストというのは、イエスの苗字、ではなくて、これは神に選ばれたイスラエルの王をさす称号です。

キリストはギリシア語でヘブル語ならメシア、どちらも油注がれた者、という意味だそうです。

ペテロがイエスに向かって、「あなたはキリストです」と言ったのは、ペテロがイエスは神に選ばれたイスラエルの王です、と言ったことを意味します。

2.2.「たとい死ななければならないとしても...」

アウトラインの2.2.ですが、ペテロは、この王のためなら、自分は「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言いました。

イエスの前にもまた後にも、あれは神から遣わされたイスラエルの王だ、と人々に信じられ、ローマに反乱を起こし、結局はローマ軍に敗北、指導者は処刑され、弟子たちも処刑か、流刑になったことがありました。

使徒の働きの5章にそのような人たちのことが伝えられていますし、1世紀後半の歴史家ヨセフスの書にもユダヤ人のローマに対する数々の反乱のことが伝えられています。

ですからおそらく、ペテロはイエスがこれからローマに対して反乱を起こすような、そんなことを期待し、戦いの中でたとえ、ごいっしょに死ななければならないとしても、と心から本当にそう思ったかもしれません。

しかしイエスはペテロに言いました「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います」

果たしてどうなったでしょうか?

前回の箇所で、イエスは十二弟子のひとりであったユダに裏切られ、イエスの人気をねたんだユダヤ人の指導者たちによって捕らえられてしまいました。

イエスの弟子たちは、みなイエスを見捨てて、逃げてしまったのですが、ペテロは、それでも、人目を避けつつ、捕らえられたイエスについていったのでした。

今日の箇所を読んでみましょう。

3.ペテロの失敗

66節「ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。

もし僕が、「献先生、昨日先生は淳さんと一緒にいましたね」と聞いたとき、「いえ、いませんよ」と先生が単に言うならなにも怪しいことはありませんが、別に一緒にいてもなにも怪しいことはないんですけど、もしここで、献先生が、「何を言っているのか、分からない。見当もつかない」ともし言ったらどうでしょうか?

なんだか怪しい、嘘をついているのではないかと疑ってみたくなるでしょう。

ペテロは冷静に嘘をつけるような性格でもそのような状態でもなかったようですね。

それでもペテロはここで「イエスを知らない」と直接言葉では言いませんでした。

ペテロは「何を言っているのか、分からない、見当もつかない」と言ったのでした。

しかし結局は自分はイエスと関係ない、自分はイエスを知らない、と言っていることと同じです。

マルコによる福音書はもともとマルコが書いたもので、マルコが一冊だけ書いたのかそれとも何冊も書いたのか、何冊も書いたのなら全く同じものを書いたのか、少し違ったものを書いたのか、分かりませんが、マルコが記したと考えられるようなオリジナルの原本と認められるような書物は現在には残っていません。

現在ではその原本を書き写したとされる写本、その写本を書き写した写本の写本、がたくさん残っているだけです。

それらの写本は比べてみると所々に違いがあって、そのような違いがある場合には、教会で用いている新改訳聖書の場合には下に注釈で、そのような違いがあることを示してあるわけですが、この68節の二つ目の注釈を見てみると、そこには「異本に「すると、鶏が鳴いた」を加えるものもある」と書かれています。

今となっては、マルコがもともと記した原本に、もしくはペテロの証言に、この言葉が含まれていたのかどうか、分かりません。

もしもともとは含まれていなかったのだとしたら、それはおそらく写本を作った人が、勝手に加えたのかもしれません。

イエスは「鶏が二度鳴く前に」と言いましたから、その言葉とつじつまを合わせるため、かもしれません。

もしもともと、マルコの書いたものに含まれていたのだとしたら、写本を移した人が「鶏が鳴いたのにペテロがここで、イエスの言葉を思い出さなかったのはおかしい」と、この文を省いてしまったのかもしれません。

それはもう分からないわけですが、もし含まれていたのだとしたら、あたかもよく練られた映画の脚本のように、ペテロが一度イエスを否定し、鶏が一度鳴き、イエスが予め言われたとおり、出来事が起こっていくわけです。

なんともドラマチックな場面ではないでしょうか。

69節「すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」

ガリラヤというのはイエスとペテロが育ったユダヤの田舎の一地方なのですが、並行するマタイの福音書では「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」といわれています。

関西出身の方、いらっしゃるでしょうか?

あなた関西出身でしょう?なにゆうてんねん、そんなんちゃうわ。とかなんとか、僕は関西弁をちゃんと知らないので、本当にどうなるのかは関西出身の人に聞かなければなりませんが。

あなたはガリラヤのナザレ人イエスの仲間でしょう?と言われてガリラヤ地方の方言で「違います」と答えてもちょっと、漫才か?というようなユーモアならありますが、説得力はまるでないわけです。

ペテロはここでも嘘をつくのが下手なわけなのですが、 71節「しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。」

ついに、ペテロは「イエスを知らない」とはっきり言ってしまいます。

72節「するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。」

たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを─イエスを─知らないなどとは決して申しません。」と言っていた自分の思いとは裏腹に、ペテロはイエスを否定してしまいます。

それは、ペテロの失敗でした。

4.ペテロはどのようにして立ち直ったのか(マルコ16:7)

アウトラインの4ですが、その後、ペテロがどうしたのか、マルコによる福音書にはもう触れられていません。

ただ、一箇所だけ、ペテロについて触れられている箇所があります。

マルコによる福音書16章7節ですが、開いてください。

この場所はイエスが死から復活した後、天使が現れていった言った言葉です。

6節から読みますが、「青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」

ヨハネの福音書によれば、ペテロは復活したイエスと再び会い、イエスに三度、「あなたは私を愛しますか」と問われ、三度「私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と答えます。

その後は、使徒のはたらきに記されていますが、ユダヤ人の指導者たちを恐れない、捕らえられることや、拷問や死さえも恐れずに、復活したイエスはユダヤ人だけでなく、すべての人を救う、神の救い主であることをのべ伝える人となりました。

ペテロはイエスを三回否定するという、大きな失敗をしましたが、しかし、その後、立ち直り、確信をもって生きる人となりました。

ある人はこのことを、ペテロはイエスを否定したことで、非常な罪悪感を感じていましたが、それをイエスに赦されることで、その後の活動の原動力となったと、分析します。

そうすると、なにか心理学的な心の働きが問題であるかのように、読み取られてしまうこともありますが、しかし、そうではないと僕は考えます。

5.「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」(1ペテロ5:5)

アウトラインの5番ですが、神の前に、人は本当にどのような存在でしょうか?

なにか誇れるものがあるでしょうか?

なにも悪いことをしていない、と言える人がいるでしょうか?

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛せよ、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、と教えた神に向かって、私はそのような教えを守れています、と言える人がいるでしょうか?

人はだれも神に対して罪悪感を持つべきです。

もし持たなかったのだとしたら、それは事実を知らない、事実に目を向けない、事実を無視していることです。

この罪悪感を人はいろいろな方法で無くそうとします。

努力してなにか人に役立つ良いことをしようとしたり、どこかの宗教にたくさん献金したり、しかし、この罪悪感は結局、真実の神に赦されなければ、なくならないものです。

人は罪悪感を感じるために、ありもしない神という存在を信じるのではありません。

神が本当に存在し、人はその神に対して罪を犯したので、悪いことをしてきたので、罪悪感を感じているのです。

いつも成功している人、道徳的に周りの人から、あの人はいい人ですね、と言われ続けている人、失敗のしたことのない人、表には現しませんが、心の中では自尊心が高く、自分はまとも、この世界の多くの人に比べてずっと、良い人だと思っている人は、実は、神の前に、自分の本当の状態に気づいていません。

むしろ、なにか失敗をすることによっても、もし、そのことをきっかけに、自分は神に赦されなければならない存在であるということに気づかされたのなら、それこそが本当の成功であるでしょう。

「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」とペテロは1ペテロの手紙5章5節で言っています。

6.あなたはなぜ神を信じますか?

あなたは神を信じますか?

なぜ神を信じますか?

苦しい時の神頼み、といいますが、神が実にこの世界を創造し、この世界を支配しているので、人はその神に頼るしかない存在です。

苦しいときだけでなく、いつも神に頼るべきです。

人は自分の存在意義を見出すために、神という概念を創りあげたのではなく、神が真に、神と人とを愛することという目的をもって人を作られたので、その目的なくしては、この世界に生きる意味がないのです。

神の前に真に私たちは罪を犯したので、私たちは罪悪感を感じるべきなのです。罪悪感に対処するために、神を創りあげたのではありません。

この神は今、私たちがへりくだり、私の罪を赦してください、と願うのなら、確かに赦してくださる神です。

祈りましょう。

今日、イエスに頼って、イエスが自分の罪をおって、十字架に死んだことを信じるのなら、一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の神として生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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