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イエスの神宣言

マルコ14章43節から65節まで

1.イエスは弟子たちによって祭り上げられた救い主?
2.イエスはヨハネとパウロによって作り上げられた人となった神?
3.亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた青年?
4.夜中の裁判について
5.「わたしは、それです。」
5.1.神の呼び名「わたしはある」(出エジプト3:13,14)
5.2.「わたしは、それです」=「わたしはある」
5.3.「神をけがすことば」とは?(ヨハネ10:31−33)
6.イエスの神宣言


そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。

「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」

それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、

「先生。」

と言って、口づけした。すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。イエスは彼らに向かって言われた。

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」

すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。

「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造って見せる。』と言うのを聞きました。」

しかし、この点でも証言は一致しなかった。そこで大祭司が立ち上がり、真中に進み出てイエスに尋ねて言った。

「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」

しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。

「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」

そこでイエスは言われた。

「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」

すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。

「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」

すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、

「言い当てて見ろ。」

などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。

マルコによる福音書14章43節から65節まで(新改訳聖書)

みなさん、こんにちは。

毎週日曜日に9チャンネルで20 to 1という番組が放映されているのですが、観ている方はいるでしょうか?

僕とルイースは実は 20 to 1 ではなくって、その後の60 minutes という番組を見るのが好きなのですが、普段 60 minutes を録画して、子どもたちが寝た後に一緒に見ます。

先週意図せず、60 minutes を録画したら、20 to 1 の最後の部分が録画されていたので、観てみたのですが、コメディ映画トップ20をカウントダウンしていたようです。

トップ3の部分だけ観れたのですが、このトップ3のコメディ映画はどれも古めの映画で僕は見たことがありませんでした。

せっかくのトップ3ですし、コメディ映画は嫌いではないので、いつか見てみたいですが、トップ1に輝いたのは「Life of Brian」という1979年の映画でした。

日本語で言えば「ブライアンの生涯」となるでしょうか。

Internet Movie Database では10点満点中8.1点でした。

イエスの生涯のパロディ、とは直接言えないようなひねりが加えられていて、イエスと同時代に生きたブライアンという架空の人物の話です。

僕は見たことがないのですが、一つの場面が紹介されていて、そこでは、群集がブライアンに向かって、「あなたはメシアです」と言っています。

ブライアンは「私はメシアなんかではない」と言いますが、群集は「あなたはメシアです」と言います。

群集があまりにもしつこいのでブライアンが「分かった、分かった、俺はメシアだ」と言うと、群集は「ああ、やっぱりあなたはメシアです」と言います。

つまりは群集の期待を裏切れず、ブライアンはメシアであることを心ならずも認めた、ということらしいのですが、ある学者によれば、イエスも自分が救い主だなどとは主張せず、それは弟子たちがイエスが生きているとき、もしくはイエスの死後に祭り上げたものだ、と主張されることがあります。

イエスという人物が2千年前パレスチナの地に歴史的に存在した、ということを認めない学者は現在では少数派ではないかと思いますが、その歴史に存在したイエスという人物が、はたして、自分のことを「救い主」だと主張したのか?また、もし自分は救い主だと主張したとして、それではこのイエスは自分のことを実は「人となった神」だなどと主張したのか?という問題について今日は考えて見たいと思います。

この問題は「そんなことはどうでもいい」という人には全然興味のない問題なのですが、世の中にはいろいろな本や考え方がでてくるもので、ある学者が、いやイエスは実は自分が救い主などとは主張しなかった、と主張する本をもっともらしく書いたりすると、クリスチャンでも、え、本当?と全然根拠のない話や、なにかしらの根拠があってもどこまでいっても推測の粋をでない話を信じてしまうこともあります。

それは聖書をちゃんと知ることによって予防できるものです。

1.イエスは弟子たちによって祭り上げられた救い主?

ある歴史学者や宗教学者に言わせると、歴史に存在したイエスという人物は、実は自分が救い主だなどとは言わなかった、それはイエスの周りの弟子たちがイエスが死んだ後に作り上げた作り話だ、と主張します。

ここで、救い主、というのはギリシア語ではキリスト、ヘブル語ではメシア、その意味は油を注がれたもので、神に選ばれた王のことを指しています。この王はまた「神の子」とも呼ばれています。

たしかに「自分は救い主だ」などと自分から主張する人たちは、例えば、現在の日本人になじみがあるとしたら、オウム真理教の浅原彰晃や統一教会のムン・ソンミョンなどでしょうか、ちょっと信頼するのに欠ける人たちばかりですね。

イエスもそんな人たちの仲間だ、と思われるよりは、人々の期待から、救い主となったのであって、自分から「自分は救い主だ」などとは言わなかった、と考えるほうがなにか人間的に崇高である、などと考えられたりもするかもしれません。

マルコによる福音書8章27節を見てください。新改訳聖書、新約聖書の75ページになります。

27節、「それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。」

この箇所だけを読んでみると、なるほど、イエスはまるで自分がいったい誰であるべきなのか知らないのではないか、と思われることもありそうです。

弟子たちから「あなたは、キリストです」と言われて初めて、ああ、自分は人々からキリストであると期待されているのか、とイエスが理解した、というような読み方ができてしまうかもしれません。

実に真面目にそのように主張をする学者もいて、そのような線で書かれているリベラルな注解書も少なくないのではないかと思われます。

ですが、ここに集ってずっとマルコによる福音書を学んできた皆さんなら、この箇所がそのようなことを言っているのではないことが、分かっていらっしゃいますね?

ここでイエスが、「人々はわたしをだれだと言っていますか?」「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?」と聞いているのは、自分がいったい誰であるべきなのかをイエスが知らないわけではありません。

どういうことであったでしょうか?

マルコによる福音書6章52節を見てください。71ページです。

「というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」と言われています。

「パンのこと」というのはイエスが5つのパンと2匹の魚で五千人プラス女性と子どものおなかを満たした奇跡です。

その奇跡をみて弟子たちはなにを悟ることがなかったのでしょうか?

次に8章17節を見てください。74ページです。

「それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」」

イエスは弟子たちにいったい何を悟ってもらいたかったのでしょうか?

ここまで、イエスは自分がいったい誰であるのかを自分からは言いません。

ですが悪霊たちはイエスがいったいだれであるのかを知っていました。

マルコ3章11節を開いてください。63ページです。

「また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫ぶのであった。イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。」

イエスは悪霊が、イエスは神の子である、と言うのを許さず、人々がイエスの言葉を聞き、その行いを見て自分で、イエスが誰であるのかを理解することを求めていたようです。

ですから、イエスとともにいてイエスの教えを受けていた弟子たちが、イエスが本当には誰であるのかを理解しなかったとき「まだ悟らないのですか」と戒めます。

1章から8章まで、弟子たちがイエスがいったい誰であるのか分からない状態が続きますが、8章の最後で、弟子たちのうちペテロが「あなたはキリストです」と言うことができて初めて、それでは、キリストである自分がいったい何のためにこの世界に来たのかをイエスは弟子たちに教え始めました。

そう理解することができれば、この8章27節の箇所が、イエスが自分が誰であるのかを知らなかったと言う議論にはならないはずです。

今日の聖書箇所の14章61節はどうでしょうか?91ページです。

「大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。」」

イエスは自分から「私はキリストです」と言わなかった、という学者に対して、ここで確かにイエスは自分から私はキリストです、と言っているではないですか、と言ってみると、おそらくこの箇所はイエスをキリストに祭り上げたかったクリスチャンたちの後世の作り話か、もしくはイエスが拷問に耐えかねて言ったことか、というような理由をつけるかもしれません。

しかし、マルコの福音書を初めからちゃんと読んでいけば、イエスがいろいろな教え、いろいろな行いから、自分が神に選ばれたキリストであることを示している、イエスは人々がそれを見て自分からイエスがキリストであることを理解することを望んでいることが理解されると思います。

2.イエスはヨハネとパウロによって作り上げられた人となった神?

それでは、2番目の問題ですが、イエスが「自分はキリストである」と主張した、というのはよいのですが、ですが、「自分は人となった神である」とは、とても主張なんてしなかった、それは、イエスが死んだ後になって、ヨハネやパウロによって作り上げられた話だ、と主張する学者もいます。

ヨハネによる福音書1章1節を開いてください。157ページです。こう書かれていますね。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

そして14節、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

さらに17節「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」と言われています。

ここで「ことば」は「神であり」それは人となって、人々の間に住まわれ、恵みとまこととを表した、イエス・キリストのことであることは、この箇所から明らかです。

でも、ヨハネの福音書は他の福音書に比べ後に書かれた、というのが通説のようですね、ですから、これは実際にイエスが言ったこと、行ったことに基づいているわけではなく、ヨハネの考え方で、イエスの考え方ではなかった、というような主張がされます。

同じように、イエスは人々の罪の罰を代わりに負って死ぬために来た、というのはイエスの考え方ではなくて、新約聖書に含まれる27の書物のうち13もの書物を書いたパウロの考え方であって、イエスはただ、神と人とを愛することを教えた、と言われることもあります。

実際、福音書を呼んでみると、イエスが「私は人となった神です」と言葉で言う場面は一度もないわけですね、それなら、学者が、イエスがそんなことを言った証拠はない、それはイエスが死んだ後、弟子たちが作り上げた作り話だ、と言うことにもある程度の説得力があります。

しかし弟子たちがもしイエスの死後にイエスを神に祭り上げる宗教を作りたかったのなら、なんで、もっと直接に、イエスに「私は人となった神である」と言わせなかったのか、不思議ですね。

そうではありません。聖書に含まれる書物を書いたイエスの弟子たち、ペテロ、ヨハネ、パウロなどは自分たちが信じたことのため、自分たちが書いたもののため、迫害を受けました。

迫害を受け、死の直前になっても彼らは自分の言った事を変えようとはしませんでした。

それは彼らが作り話を言っているからではないでしょう。実に彼らが真実を語っているからではないでしょうか?

今日の箇所は、しっかり掘り下げてみると、確かにイエスが、「自分は神である」といういわばイエスの神宣言ともいえる主張していることが読み取れるのではないかと、考えます。

それでは、今日の箇所を読んでみましょう。

43節「そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。」

ユダヤ人の歴史家ヨセフスの書によれば、そのころの祭司長たちが宮の税金を取り立てるために乱暴な人たちを雇っていたことが伝えられています。そのような人たちが、ここでも差し向けられたのかもしれません。

44節「イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけした。すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。」

祭司長たちに差し向けられた群集はもしかしたらイエスのことを全然知らなかったかもしれません。また知っていたとしても、夜の暗がりでイエスを見つけることは大変、困難であったでしょう。

しかし、イエスの弟子であったユダにとって、暗がりの中でイエスを見つけることは難しくなかったでしょう。

また、遠くからあいつがイエスだ、と暗がりの中で指を指してもいったい誰のことをさしているのか、あまり効果がありませんね。

イエスが誰であるのか暗がりの中でも群集に分かりやすいように口づけの挨拶が合図となりました。

47節「そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。」

ここには書かれていませんが、ここで剣を抜いたのはペテロであったと、ヨハネの福音書には記されています。

イエスはこのとき、ルカによる福音書では「やめなさい、それまで」、マタイの福音書、ヨハネの福音書では「剣を納めなさい」と言われました。

「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」と言ったペテロでしたが、イエスに戦うつもりのないこと、そしてイエスが「こうなったのは聖書のことばが実現するためです」と言ったとおり、イエスはこれから起ころうとしていることを受け入れていたことが、ペテロにとっては考えられないことであったかもしれません。

ペテロはこのときまで、イエスを守ろうとするために勇敢に戦いましたが、このあと、他の弟子たちと同じように逃げ出してしまいます。

3.亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた青年?

51節「ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。」

この箇所はルカにもマタイにもヨハネにも記されていなくて、マルコだけに伝えられています。

いったい、この青年が誰であるのか、なぜマルコはわざわざこの青年のエピソードをこの箇所に加えたのか、ここに書いてあること以上に、はっきりしたことは分かっていません。

ある学者によれば、これは実は著者であるマルコ自身が、自分がそのとき、その場所にいたことを示すために書き残したことではないか、と言われています。

開かなくてよろしいのですが、使徒の働きの12章12節によればマルコの母親の家がエルサレムにはあって、そこが弟子たちの集まる場所となっていたことが伝えられています。

ある学者によれば、このマルコの母の家がイエスが弟子たちと最後に食事をした場所であったのではないか、と言われています。

そうでなかったとしても、イエスがエルサレムに来ていた夜、マルコもエルサレムにいた可能性はあったでしょうね。

マルコの家は比較的裕福でしたが、もしかしたら、マルコは亜麻布を一枚だけまとって自分の正体を隠したままイエスについていこうとしたかもしれません。

本当に貧しい人は、最後の一枚である亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げることは、あまりしないでしょう。

むしろ家まで逃げ帰れば他にも服はあると言うような人がはだかで逃げる、というようなことをするかもしれません。

それはどこまでも推測の域をでないのですが、もしこのマルコによる福音書が後のクリスチャンたちの作り話であったのなら、このようなエピソードはまったく意味がないものではないでしょうか。

そうではなく、確かに、この箇所はその場にいた人たちの証言を集めたものであると考えられます。

4.夜中の裁判について

53節「彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造って見せる。』と言うのを聞きました。」しかし、この点でも証言は一致しなかった。そこで大祭司が立ち上がり、真中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」」

裁判官、というものは本来なら被告が有罪であるか無罪であるのかまず中立の立場から被告を告発する側からの証拠、証言、被告を弁護する側からの証拠、証言を吟味して、その上で判断をするものですね。

このときの裁判はどうであったでしょうか?

55節、「祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めた」とあります。

裁判官は被告が有罪であると決めてかかり、そのために証拠をそろえようとしていました。

ある注解書によれば、15章1節にありますが、ユダヤ人の議会は日が明けるまで集まることはできなかったそうです。また、議会は祭司長の家で集まる、と言うことも許されていなかったそうです。さらに、ユダヤ人の一日は日が沈む夕方から始まるので、イエスが捕まった時からイエスが死刑を宣告されるまでは同じ一日になるわけですが、その同じ一日に被告を罪に定めることも許されていなかったそうです。

ここでは、そのすべてが行われているわけですが、そのような不正な裁判、そのような不正を行う人の罪をも神は用いて、ご自分の計画を実行されようとしていました。

5.「わたしは、それです。」

5.1.神の呼び名「わたしはある」(出エジプト3:13,14)

61節「しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当てて見ろ。」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。」

この箇所を理解するのに、まず、出エジプト記3章13節を読んでみましょう。

この箇所は、神がエジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエル人を救うために、モーセを選び、そのモーセに燃える柴の中から語りかける場面です。

13節「モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」

神の名は「わたしはある」というものですが、この箇所はもちろん、言語はヘブル語で書かれているわけですが、英語では「I AM WHO I AM」となります。

「わたしはある」「I AM」が神の名である、と神はこのときモーセに言いました。

旧約聖書を読んでみると、ところどころ太字で書かれている「主」という漢字がありますね。

この言葉はヘブル語ではエホバ、エホバはおそらく間違った読み方ではないかと言われていて、正しくはヤーウェ、でもこの発音も本当にそう発音するべきなのかどうかはどうも学者の中でもはっきりしていないようですが、この言葉はこの出エジプト記3章で神が神の名は「わたしはある」であるとした、その言葉から導かれたものと言われています。

5.2.「わたしは、それです」=「わたしはある」

旧約聖書によれば「わたしはある」が神の名なわけですが、さて、これが今日の箇所となんの関係があるのでしょうか?

今日の箇所では、イエスが「わたしはそれです」と大祭司に答えていますね。

原語のギリシア語ではこれは「」とかなんとかなると思うのですが、この語は英語では「I AM」となります。すなわち日本語なら「わたしはある」という言葉です。

これは、推測の域を出ませんが、イエスの時代、パレスチナに住んでいたユダヤ人は話し言葉としてヘブル語ではなく、主にアラム語を使っていたそうです。

マルコによる福音書に記されているイエスが用いた「タリタ・クミ」とか「アバ」とかいう言葉はアラム語だそうです。

ですが、もしこのユダヤ人の裁判の場で、彼らはヘブル語を用いていたとしたら、もしかしたら、イエスはこの大祭司の問いに答えるとき、神が出エジプト記3章14節で用いたヘブル語の「わたしはある」という語を用いて答えたかも知れません。

それは推測の域を出ませんが、もしそうなら、それはイエスが自分は神であることを宣言する、イエスの神宣言であると僕は考えます。

この議論はもちろん、僕の憶測の域を出ません。

イエスがヘブル語の「わたしはある」を使った確証はありませんし、使ったとしてもそれが本当に神としての宣言の意味を持つのかどうかは議論の余地があると思われます。

もしそうでなかったとしても、僕はイエスの次の言葉、すなわち「人の子が、力ある方の右の座に着き」という言葉に神としての宣言を見ます。

それは、イエスが「人の子が─すなわち自分が─力ある方─神─の右の座に着く」と言っています。

神の右の座に着く人は詩篇110篇、マルコ12章によればこれはキリストのことを指しますが、このキリストは神の右の座に着く、と言われています。

神の右の座とは神とほぼ等しい位置を占めることを意味するのではないでしょうか?

イエスの言った言葉がどのような意味をもつのか、それはその言葉を聞いた大祭司がどのような反応をしたかを観ることによって理解することができます。

5.3.「神をけがすことば」とは?(ヨハネ10:31−33)

大祭司はイエスのこの言葉を聞いて、「あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです」と言いました。

もし「自分は神に選ばれたキリストである」と言うだけなら、それは偽りを言うことですね。

神が言っていないことを、神が言っていると偽りの証言をしているので、それは神を汚している、ということもできると思いますが、ここで言われている「神をけがすことば」とはそれ以上のことを言っていると考えられます。

この「神をけがす」という言葉は原語のギリシア語では ブラスフェミア、英語では blasphemy、覚えやすいですね、新共同訳聖書では「冒涜」と訳されています。

ヨハネによる福音書10章31節を開いてください。182ページです。

31節「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」

ここの「冒涜」という言葉は先ほどの「神をけがす」という言葉と同じ言葉です。

ここで、冒涜という言葉の意味は、人間でありながら自分を神とすること、とあります。

すなわちこれこそが確かに神に対する冒涜、神をけがすことばであるでしょう。

とするならば、イエスは、「私は神である」という言葉を直接には用いませんでしたが、確かにそのように主張をした、そのように主張したために、イエスが神を冒涜しているという非難を受けたということになるでしょう。

イエスは生涯、自分が神であるなどという主張はしなかった、という学者の主張は、少なくともマルコによる福音書を読む限りでは、間違っている、といえると考えます。

問題は、イエスのその「自分は神である」という主張が正しかったのか正しくなかったのか、ということです。

大祭司、祭司長、長老、律法学者たちは初めから「イエスはキリストではない」と考えていました。

自分たちを批判するような人物はキリストであるわけがない、そのように考えていたかもしれません。 そ

してどのユダヤ人にとっても、自分は神であるなどと主張することはその時点では思いもよらないことだったでしょう。

そのような主張がなされたとき、あまりの憤りか、大祭司は自分の衣を引き裂きました。

彼らはイエスの主張が間違っている、と考えました。

あなたはどうでしょうか?

6.イエスの神宣言

神はとても不思議な方です。

もし神がそう望むのなら、人が否定しようのないほどの証拠を持って、この世界が神に作られたこと、イエスが人の救い主であること、イエスが人となった神であることを人に教えることができるはずですが、そうはされませんでした。

神が人に与えた証拠は、もし人がそう望むのなら、いつまでも、否定し続けることができるほどの曖昧さを持っています。

あたかもイエスが弟子たちに、「自分は救い主です」と言わずに、弟子たちが自分たちでイエスの言葉を聞き、イエスの行いを見て理解することを望まれたように、神は私たちがイエスの言葉を聞き、イエスの行いを見て、自分たちで理解することを望まれているかのようです。

もしあなたがそう望むのなら、あなたはいつまでも、イエスは人となった神ではない、イエスはそのようなことを主張さえしなかった、と言っていられますが、しかし、もし心を変えるのなら、イエスが自分の罪の罰を消し去ることのできる唯一の救い主であると受け入れるのなら、今日のこの聖書箇所をもってしても、イエスが自分は神であると教えていることが分かるのではないでしょうか。

祈りましょう。

今日、イエスに頼って、イエスが自分の罪をおって、十字架に死んだことを信じるのなら、一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の神として生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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