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マルコ14章32節から42節まで
1.「キリストなくしていのちはない」?
2.なぜイエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれたのか?
3.「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません」
4.「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」
5.神にできないことはない。それなのになぜイエスが苦しまなければならないのか?
5.1.神にはすべてのことが可能か?
5.2.神には罪を見過ごすことが可能か?
5.3.神が正義を保ちながら罪を見過ごすためには?
5.4.イエスが神であるとは?
6.「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」
ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。
「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」
それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。
「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。イエスは三度目に来て、彼らに言われた。
「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
マルコによる福音書14章32節から42節まで(新改訳聖書)
みなさん、こんにちは。
水曜日の夕方から、どうやら直美は学校ではやっているウイルスにかかってしまったようで、木曜日には直美が、金曜日には直美と安娜が、そして昨日は安娜と諾亜が40度近い高い熱が出ていました。
子どもがウイルスにかかると、大抵親である僕たちにも伝染して、ルイースは今日は具合が悪いのですが、幸い、ウイルスはまだ、僕のところまで来ていません。
そのようなわけで、今回もメッセージに用いられることに感謝します。
今、私たちの教会では看板と教会案内カードを作っているところですが、そういうとき、なにか聖書の言葉なり、メッセージを一句載せたりしますね。
ある教会でこんなスローガンを掲げたそうです。
「KNOW CHRIST, KNOW LIFE」
「キリストを知ることは、いのちを知ることである」
このメッセージを聞いたクリスチャンでない人たちはどんな反応をするでしょうか?
それはよかったですね、あなたはキリストを知ったことによっていのちを知りました。
わたしはゴルフを知ったことによって生きがいを見つけました、あなたはキリスト、私はゴルフ、どちらも人生を充実させるには良いものですね、というような、反応かもしれません。
それはまあ、あたりさわりもないものなのですが、しかし、もし、この K と W を取ってしまったらどうでしょうか。
「NO CHRIST, NO LIFE」
「キリストなくしていのちはない」
これはクリスチャンでない人たちにとっては─そしてある場合にはクリスチャンと呼ばれる人たちにとっても─大変、無礼なメッセージだと思われるのではないでしょうか?
ある大学の先生がこのメッセージを見て、なんて無礼な言葉だ、これではクリスチャンでない人たちは死んでいる、と言っているようなものだ、とそのメッセージを掲げた教会に抗議したそうです。
自分ではなくある他人がキリストによっていのちを知った、というメッセージは特段、自分には関係がないですまされますが、キリストなくしてはいのちはない、というメッセージは、これは他の人のことを言っているだけでなく、自分個人に対してのメッセージでもありますね。
私はキリストなくしてはいのちがない?
楽しく生きている人たちに、「キリストなくしていのちはない」なんて気分を害することを言うのは、言うほうが間違っている、とおそらく日本に住む大部分の人が考えると思われます。
うろ覚えなのですが、「山の頂に通ずる道はたくさんありますが、頂上は一つであるように、たくさんの宗教が世界にはあるが、どれも同じ神にたどり着く」というようなことを言った人があったようです。
たしかマハトマ・ガンジーの言葉だと思ってインターネットを検索してみたのですが、ちょっと誰が言ったのか正確なところが分かりませんでした。
ある一つの宗教だけが正しくて、他の宗教が間違い、というような考え方は大変見方の狭い考え方、そしてなによりもそんな考え方が人々の、また国々の争いの原因になる、と特に日本では受け入れられない考え方であると思われます。
この言葉が誰のものであるのかをインターネットで捜しているうちに、実は日本には「山の頂に通ずる道はたくさんあるが、頂上から見る月の景色は一つである」ということわざがある、と英語のサイトに載っていました。
僕はそんなことわざは知らなかったのですが、どの宗教も実は良いもので、どの宗教も神に通ずるものである、という考え方は大変魅力的ですね。
「私はキリスト教を信じています。あなたは仏教を信じています。どちらも真実であって、どちらがよりよいということはありません。私はあなたにキリスト教に改宗しなさい、なんていう必要はないし、あなたも私に仏教に帰依しなさい、という必要はないです、自分にあった、自分の好きな宗教を選べばよいでしょう。」
それは大変魅力的な考え方ですが、しかし、私たちにとっての問題は、聖書はなんと教えているか、ということです。
聖書は確かに─例えば使徒のはたらきの4章12節ですが─「イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」と言われています。
聖書が、キリストなくしていのちはない、というメッセージをしていることは実は明らかです。
もし誰かが、世界の宗教はどれも神に通じる、というのなら、その考え方は、聖書の教えが正しいか、正しくないかに関わらず、間違っています。
もし世界の宗教はどれも正しい、すなわち聖書の教えも正しいというのなら、その聖書によれば世界の宗教はどれも正しい、ということにはならないからです。
キリスト教をのぞくすべての宗教が正しい、ということはありえるでしょう。
しかしもし聖書が正しいのなら、神に通ずる道はキリストだけです。
その場合は他のすべての宗教は神に通じる道ではない、ということになります。
しかし、聖書も、他の宗教も正しい、すなわち、世界の宗教はどれも神に通じる、ということは簡単な論理の観点からもありえないことになります。
さて、なぜ今日のメッセージの初めにこんな話をしたのかといいますと、今日の箇所には、なぜイエス・キリスト以外に人に救いはないのか、そのことが教えられていると思うからです。
今日の箇所を読んで見ましょう。
マルコによる福音書14章32節からです。新改訳聖書をお持ちの方は、新約聖書の89ページです。
32節「ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
イエスはゲツセマネと呼ばれる場所に祈りに来ました。
並行するルカによる福音書、またヨハネの福音書によれば、この場所はイエスが弟子たちとよく会合をする場所であったと言われています。
裏切り者のユダはこの場所を知っていました。夜の暗いときにユダが導かなければ、イエスを捕らえに祭司長たちが差し向けた人々がこの場所に来れることはなかったでしょう。
イエスはここまで、ユダを除くおそらく11人の弟子たちを連れてきましたが、今度はペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れてさらに場所を移しました。
なぜこの三人だけを連れて行ったのか、言われていませんが、この三人はイエスとは特に親しい関係を持っていました。
5章でヤイロの娘が死からよみがえらされたとき、そばにいることを許されたのはこの三人だけでした。
また9章でイエスの姿が変わってモーセとエリヤと語るという不思議な出来事が起こったとき、その場にいることを許されたのはこの三人だけでした。
イエスはこの三人が自分のそばにいることで、励まされたのかもしれません。
あるいは、イエスがいったいなにを祈っているのか、この三人には知ってもらいたかったのかもしれません。
どのような理由であれ、イエスがこの三人を連れて行ったために、三人がイエスの祈っていることを聞くことができ、彼らが新約聖書に記録し、今、私たちがイエスの祈った言葉を知ることができます。
残念ながら、といいますか、神の導きによって、と言いますか、イエスは1時間以上も─もしくは41節には3度目に来てと言われていますから、もしかしたら3時間以上も─祈っていたのに、伝えられているイエスの言葉はほんの数行だけですね。
三人は眠かった、と言われているので、おそらくイエスの祈っていた大部分の時間を三人は寝てすごしたようですが、それでもこの数行だけ伝えられたイエスの祈りから私たちは多くを学ぶことができます。
イエスは祈りました。
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」
アバ、とはイエスが普段用いていたアラム語で子どもがお父さんを呼ぶときに用いる言葉だそうです。
日本語で言えば、父ちゃん、パパ、などに相当すると思います。
イエスはおそらく普段から父なる神のことを祈りの中で「アバ」と呼びかけていたと思われますが、ユダヤ人にとって、神をあたかも自分の父であるかのように親しみをこめて「アバ」と呼ぶことはなされていませんでした。
このときのイエスの言葉を弟子たちはよく覚えていたのでしょう。
弟子たちはイエスが用いた「アバ」という言葉を今、私たちにも伝えています。
「アバ、父よ。あたなにおできにならないことはありません」
そのとおりですね。 神はこの世界を創られた方、この世界のすべてを支配しておられる方です。
神にとってできない、ということはありません。
マルコの福音書10章27節にも、イエスが「どんなことでも、神にはできるのです」と言われています。
その神にイエスは願っています。
「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」
この杯とはなんのことでしょうか?
旧約聖書では─例えばエレミヤ25章15節、ハバクク2章1節─杯が神の怒りまた神の裁きを象徴するものとして用いられています。
イエスの前に神の怒りと神の裁きの杯が備えられました。
この杯をイエスが受けるとは、マルコによる福音書10章45節に言われていますが、イエスが、多くの人のための購いの代価として─人が罪を犯した罰をイエスが代わりに受けるため─自分のいのちを与えることです。
しかし、その杯をイエスは取りのけてください、と神に願いました。
その杯を受けることはイエスにとって大変な苦しみでした。
イエスは、33節、「深く恐れもだえた」とあります。
また、34節、「悲しみのあまり死ぬほどです」と言われました。
神の怒りと神の裁きを受ける、ということはそういうことでしょう。
イエスにはなんの罪もありませんでしたが、罪を犯した私たちの代わりに、イエスが、神の怒りと神の裁きを受けようとしています。
15章で学びますが、神の裁きとは神から見捨てられ、神から完全に切り離されることです。
それは子なる神として、父なる神と永遠の関係を持っていたイエスにとって特に恐れるべき状態であったでしょう。
なぜ、そのように神はイエスが苦しまれる道を選んだでしょうか?
アウトラインの5番ですが、神にできないことはありません。それなのになぜイエスが苦しまなければならなかったでしょうか?
確かに神にはどんなことでも不可能ではありません。
しかし、どんなことでもできるといっても、すべてのことを神はするべきではないですね。
例えば神には「うそをつく」ということができません。
ヘブル人への手紙6章18節には「神は、偽ることができません」と言われています。
もしかしたら、神がもしそう望むならば、神には偽りを言う事だってできるかもしれませんが、それは真実なる神の性質と相容れません。
そのようなわけで、神にはすべてのことが可能だ、と単純に言うよりは、神の性質と反しない、すべてのことが可能だ、と言ったほうが良いかもしれません。
神は自分で持ち上げることが不可能なほどの岩を作ることは不可能だ、だから全能なる神などという存在はありえない、と無神論を唱える哲学者は真面目にそんな議論で神の存在を否定しようとしますが、なんのことはない、神には自分の性質を否定するようなことは確かに不可能です。
ですが、神の性質と反しない、すべてのことが可能である神は確かに存在するでしょう。
それでは、アウトラインの5.2ですが、神にはすべての人の罪を赦す─イエスが十字架で死ぬことなしに、すべての人の罪を赦す─ということができなかったのでしょうか?
神には罪を見過ごす、ということができません。
アダムとエバが神の言葉を無視して神に逆らったとき、神は彼らの罪を罰し、彼らとその子孫─私たちも含めて人─はこの世界にあって苦しみ、そして最後には死ぬものとなりました。
神はアダムとエバの罪を見過ごすことができませんでした。神は彼らの罪を罰さなければなりませんでした。
アダムとエバの子、カインがアベルを殺したとき、神はカインを罰さなければなりませんでした。
カインは罰せられ地上をさまよい歩くさすらい人となりました。
罰せられた人々は悔い改めることなく、ノアの時代には、人々の悪は増大し、その心に図ることがみな、いつも悪いことだけに傾くようになった、と聖書に記されています。
神はそのような人々をノアの家族を除いてすべて、罰しなければなりませんでした。
人が罪を犯したとき、神はその罪を犯した人を罰します。
とすると、神はなんて心の狭い方であろうか、もし人が罪を犯しても、赦してやるだけの寛大さというものはないのだろうか、と思われる人もいるかもしれません。
しかし、罪を犯した人を罰せずに、なにもなかったことにすることは本当に正しいことでしょうか?
ある事件が起きました。
ある少女が拉致されて暴行され拷問され最後には殺されました。
そのような罪を犯した人を、私たちは寛大な心をもって赦してやるべきです、と言ったとき、はたしてすべての人が、その通りだ、と思うでしょうか?
いえ、それはなにか間違っている、それではいったい、正義というものはどこにあるのか?
そのような罪を犯した人はその罪にふさわしく、罰せられるべきだ、と考えないでしょうか?
人が神に対して犯した罪も同じです。
私たちは私たちが神を無視すること、神の言葉に逆らうこと、この私たちの罪を大変軽く考えます。
しかし、もし、神が私たちを創り、私たちが住めるようにとこの世界を創り、私たちに必要なものをすべて与え、なおかつ限りのない愛でもって私たちを愛していてくださるのに、 その私たちがなにも神を省みず、感謝もせず、神が私たちのもっとも良いことのために与えてくださった教え、戒めに耳を傾けず、いやむしろ、そのような言葉にはさからい、自身に災いを招いているのに、そのような不都合があったときには神をのろい、自分勝手に生きていることに対して、そのような罪を神は寛大にただ赦してやるべきだと考えられるでしょうか?
もし人のこのような罪を、神が罰しないのだとしたら、神は正義の神ではありません。
いえ、神は確かに、人の罪を一つ残らずすべて罰します。
今は人が神を忘れ自分勝手に生きていくことをそのままにしていますが、神は日を定め、その日にすべての罪は罰せられるのです。
アウトラインの5.3です。
神はその豊かな愛でもって、人の罪を赦すことを望まれました。
しかし、神が神の正義を保つために、罪は罰せられなければなりませんでした。
この二つの問題を解決するために、神はイエスをこの世界に遣わしました。
それは、今、神に自分の罪を悔い改める人、神に自分は罪を犯しました、どうか赦してください、と告白する人の罪を赦すために、罪を告白する人を罰する代わりに、イエスが罰せられるためです。
罪は罰せられなければなりません。
しかし、イエスが私たちの代わりにその罪の罰を負ったのです。
ですから神は罪を罰して正義を保つことができると同時に、罪を犯した人を赦すことができるのです。
アウトラインの5.4ですが、それでは、ちょっと待ってください。
罪を犯した人ではなく、その代わりに罪を犯さなかった人を罰する、というのはそれもなにかおかしな話ではありませんか?
そんなことが正義なのでしょうか?と、ある人は考えるでしょう。
あるとき直美が─これは友だちの家で、だったらしいのですが─スプレー式の洗剤を床に吹きかけることを見てきました。
そこで家に帰ってきて家で一番強力なしつこい油も取れるようなスプレー式洗剤を自分の部屋ではなくて安娜の部屋の床に降りかけました。
まあ、自分の部屋はカーペットで安娜の部屋は木の床なので、さすがにカーペットにはしてはいけないと思ったのか、安娜の部屋の床にそういうことをしました。
そうやって自分でなにか新しいことをやってみるのは、まあ、親としてはどんどんやってみなさい、と言いたい気持ちもあるのですが、もちろんなにをしでかすか、分かりませんから、危ないですね。
そのようなわけで、もし、なにか新しいことをやって見たかったら必ず、パパかママに聞いてからやりなさい、もし聞かないで、自分で勝手にやったら、次のときは罰を与えます、と直美に言い聞かせました。
で、次の日だったんですが、このリキッドペーパーを黒い棚の所に置いておいたんですね。
まあ、そんなところに置いておく方もちょっと悪かったと思っているのですが、直美はこのリキッドペーパーを開けて、その黒い棚に塗りました。
いったいどんな顔をしてやっていたのか想像すると微笑ましいのですが、しかし、昨日、次にパパかママに聞かないでやったら罰を与えますと言ったばかり。
直美は言いつけは覚えていたけどとにかくやってみたかった、と言うので仕方がなく、6ヶ月ぶりくらいだったのですが罰を与えました。
家の罰は手にしっぺです。
さて、ここで直美に罰を与えずに、安娜を呼んできて、「安娜、直美がこれこれこういうことをしてパパの言いつけを守らなかったので、安娜に罰を与えます」と言っても、安娜は納得しないでしょうね。
直美は大喜びかもしれませんが、それでは多くの人は納得しない。
罰を与えるのに全くその罰と関係ない、罪を犯さなかった人を罰するのはそれもまた正義ではないのではないでしょうか?
それは罰を与える相手が、全く関係のない人だったとしたら、そうですね。
しかし、実はイエスは神ご自身が人となった方です。
神は全く関係のない第三者を罰せられたのではなく、神ご自身が人となって、その人であるイエスを罰しました。
神はいわば人の罪を赦すために、自分自身にその罰を負った、苦しみを負ったと言えます。
そして、もしイエスがただの人であったなら─罪を犯さなかったとしても、一人の人間だけであったのなら─イエスを罰することで代わりとなれるのは、他のある一人だけ、であったでしょう。
罪を犯した一人について、罪を犯していない人一人を罰するなら、それは割りにあいます。
しかしもし、十人罪を犯した人を罰する代わりに、ただ一人だけ罪を犯さなかった人を罰してもそれは割に合わない。
ですが、イエスは罪をおかさなかったただの一人の人、ではありません。
イエスは神が人となった方です。
この神一人に対して、何人の人の罪を代わりに罰することができたでしょうか?
人と神を比べるのなら、おそらくは無限大、この世界に存在した、またこれから存在するすべての人の罪であっても、イエスは一人で負うことができたでしょう。
このようなわけで、イエスが人の罪のために死ぬ、という道は、神にとってただ一つの、人の罪を赦すことのできる道でした。
もし他に神が人の罪を赦すことのできる方法があったなら...
イエスは十字架で死ぬ必要がなかったでしょう。
イエスは「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました。
もし、他に方法があったなら、子なる神を愛した父なる神は当然、この杯をイエスからとりのけたことでしょう。
しかし、神が人の罪を赦すことのできる他の道はなにもありませんでした。
クリスチャンにとって、イエス以外にも神に通じる道がある、というメッセージはとても残念なものです。
それは、イエス以外に救われる道があったので、イエスが実は死ぬ必要はなかった、イエスの死は実はむだであった、というメッセージと同じだからです。
いえ、イエスのほかに神に通じる道はありません。
イエスが悲しみのあまり死ぬほど恐れた神の裁きをイエスが受けなくてもよかったのなら、神はきっと、イエスを十字架上で苦しませることなく、人を赦すことができたでしょうからです。
イエスは続けて祈りました。
「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」
信仰をもって神に祈るのなら、どんな願いも神にかなえてもらえる、という考え方が、あるクリスチャンたちの中にもあるようです。
もしかなえてもらえなかったのなら、それは自分の信仰が足りないからだ、と言われることもあります。
それでは、イエスの願いは神にかなえられたでしょうか?
イエスは、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください、と祈りました。
イエスの祈ったとおり、この杯はイエスから取りのけられたでしょうか?
いいえ、イエスの願いとは反して、神の裁きは、私たちの代わりにイエスに与えられました。
どんなに信仰があっても、イエスほどの信仰があったとしても、神に祈る人の願うとおりにすべて神が行ってくださる、ということはありません。
神は神の計画を行われる方です。
イエスはまた「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈りました。
「この杯をわたしから取りのけてください」というイエスの祈りはかなえられませんでした。
しかし「わたしの願うところではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」というこのイエスの願いはそのとおりに神にかなえられました。
神に信仰をもって祈るとは、そういうことであると思います。
自分ではなく、自分がよいと思っていることではなく、神がすべてを知り、神が最善を知っていることに信頼して、「わたしはあなたにこう願います。しかし、わたしの願うところでなく、神のみこころのままを、なさってください」という祈りです。
そのような祈りこそ、神を信頼する祈りであり、神に聞かれ、神にかなえられるのだと僕は考えます。
私たちはときに、神はわたしの苦しみを知らない、理解してくださらない、と嘆くことがあります。
しかし、私たちはイエスが、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言ったこの苦しみを知っているでしょうか?理解しているでしょうか?
この苦しみをイエスは私たちの罪が神に赦されるために、受けてくださいました。
もしこのイエスに頼るのなら、神は私たちのどんな罪をも赦し、私たちを受け入れてくださいます。
祈りましょう。
今日、イエスに頼って、イエスが自分の罪をおって、十字架に死んだことを信じるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の神として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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