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マルコの福音書12章13節から17節まで
1.前回の復習
2.「何の権威によって...」
3.「ヨハネのバプテスマは天から来たのですか?人から出たのですか?」
4.ぶどう園の農夫のたとえ
5.「これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」
6.神の権威によって...
彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。そして、イエスに言った。
「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」
そこでイエスは彼らに言われた。
「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」
すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。
「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。 32 だからといって、人から、と言ってよいだろうか。」
・・彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで彼らは、イエスに答えて、
「わかりません。」
と言った。そこでイエスは彼らに、
「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」
と言われた。それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。
「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、
『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』
と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。
『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。
『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」
彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕えようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。
マルコによる福音書11章27節から12章12節まで(新改訳聖書)
みなさん、こんにちは。
先週のシドニーモーニングヘラルドの記事だったのですが、オーストラリアでは大体一日に平均600人強の赤ちゃんが生まれるそうです。
ところが、2004年6月30日にオーストラリアに生まれて届出のあった赤ちゃんの数は490人だったそうです。
逆に、その一日後の7月1日に生まれた赤ちゃんは978人、7月2日も902人だったそうです。
どうしてそんなことになったのでしょうか?
もちろんそれは、2004年7月1日から Baby Bonus が導入されて、子供を出産した母親に子供を育てるための費用をサポートする3000ドルの支給が政府からなされることとなったからです。
つまり、2004年6月の終わり近くに子供を出産する予定だった人たちのうち、何百人かは、意図的に出産を遅らせた、ということだったようです。
専門家は大体1000人ほどの人が、Baby Bonus のために出産を遅らせたのではないか、と推定しています。
シドニーモーニングヘラルドの記事によれば、この現象は偽って遅れた日を届け出た、というのではなくて、実際の出産が確かに遅れた、ということだったそうです。
たしかに3000ドルの支給があるかないかは、なかなか見過ごせないものであるとは思いますが、しかし、出産を無理に遅らせたりすることは、専門家の観点からは、お母さんの体にも赤ちゃんの体にも危険を増やしてしまうことであるそうです。
政府はもちろん、子供を育てることをサポートするためにこのような Baby Bonus を導入したわけですが、極端な例では、Baby Bonus が導入されたためによって、危険を犯したり、最悪命を失ったりしていたとしたら、大変残念なことです。
詳しいことは分からないのですが、医学的には、もしかしたら、出産を遅くすることよりも、出産を早めることのほうが、しやすいと言うことがあるのではないかと思います。
もし将来、Baby Bonus がなくなる、などということになると、なくなる前に出産を早めるなどということが行われはしないかと大変、危惧します。
出産によって決めるのではなくて、もし技術が発達していつ妊娠したのかその日付が正確に分かるようになるなら、もしかしたらよいのではないかな、どと想像してしまいます。
それはそれで、またなにかの問題があるのかもしれませんが、今週の土曜日、7月1日は3166ドルだった Baby Bonus が今度は4000ドルになるそうです。
1000ドルのために出産を無理に遅くしたりすることのないように願うしだいです。
さて Baby Bonus は私たちの支払う税金によってまかなわれているわけですが、そのように子供を育てることをサポートしようという制度は大変良いものであると考えます。
税金が公共の福祉のため、安全のため、利益のため、発展のため、正しく用いられるとき、税金という制度は大変に良いものではないでしょうか?
税金とはいったいなんでしょうか?
辞典を引いてみると、いろいろな考え方が載っているのですが、国家、または地方政府など、政府と呼ばれる機関がその市民に公共のサービスを行うのに必要な費用を強制的に徴収することと一面では考えられるでしょう。
例えば公共の道路は、ある地点から別の地点まで効率よく、より短時間に移動できるというサービスを提供していて、多くの人がその利益を受けています。
その利益を受ける人は道路を作り、維持するためのコストをまかなわなければなりません、これが税金です、という考え方です。
ほかにもいろいろな目的、意義、考え方があるそうなのですが、取り合えず、短絡的に、公共の利益のための税金、という考え方に絞って今日は話をしますが、もしその考え方に同意していただけるのなら、税金とは正しく用いられるのなら、それはとてもよいものですね。
多くの人のために役立つ、とてもよいもの、そして私たち自身もその恩恵を直接的、間接的に受けています。
それなのに、私は公共のために税金を喜んで払います、という人は、はたして多くいるでしょうか?
あまりいないようです。
この時期、例えばコンピュータなどを販売するお店の広告にはこんな文句がならんでいます。 Tax saving 、すなわち、税の節約、ということですが、それが人をひきつけるわけですね。
税は節約したいものです。
公共のために喜んで税を払いましょう、などという考え方は魅力がないわけです。
なぜでしょうか?
なぜなら人は誰も、自己中心的であるからです。
自分が利益を受けるのはうれしい、しかし、その費用は払いたくない。
自分が利益を受けるのはうれしい、しかし、他人が利益を受けることはなかなか喜べない。
例えば収入の少ない人は、自分は収入が少ないのだから、税金を払いたくない、そのように考えるかもしれません。
それでは収入の多い人はどのように考えるでしょうか?
日本やオーストラリアなどの資本主義国では個人所得は累進税の原則で課税されています。
すなわち多くの収入のある人は多くの額の税金を納めるだけでなく、多くの率の税金を納める制度です。
平均収入より多くの収入のある人はもしかしたら、自分はこんなに高額の率の税金を払っているのだから、と税金を払いたがらないかもしれません。
収入が多くても少なくても結局人は税金を払いたがらないものです。
しかし、聖書はクリスチャンたちになにを教えているでしょうか?
今日のマルコの箇所を理解するために、まず、一世紀のユダヤ人にとっての税金がどのようなものであったのかを見てみましょう。
先ほど、読んでいただきましたが、今日のこの箇所では「カイザルに税金を納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか」と言われています。
カイザルとは英語ではシーザー、日本の辞書にはカエサルとかシーザーなどとでています。
もともとは古代ローマの政治家の家系の名でしたが、紀元前一世紀にローマの単独支配者となったガイウス・ユリウス・カエサル、そしてローマの初代皇帝となったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスを経て、カエサルはローマの皇帝を指す言葉となったそうです。
新共同訳聖書ではこの箇所のカイザルは「皇帝」と訳されています。
ちなみに、新約聖書にはカイザルという語が何度か用いられていますが、時代によって別々の皇帝のことを指しており、アウグスト帝、テベリオ帝、クラウデオ帝、そしてネロ帝のことを指しています。
ユダヤはカエサルによって紀元前63年からローマの支配下に置かれました。
その後、ヘロデ王という血筋によればユダヤ人でない王の下で、名目上は自立していましたが、実質的にはローマの支配下に置かれ、皇帝カエサルに税金を払っていました。
その税金の一部は都市や神殿、劇場や水道の土木工事に用いられ、ある一面は、公共の益、という私たちの税金と同じ役割を果たしましたが、ユダヤ人にとってローマの皇帝に税金を支払うということは、公共の益というよりは自分たちが他国の支配の下にいることを思い知らさせるものとなったでしょう。
この他国の王に税金を払うことは神の目に正しいのか、そうでないのか、ユダヤ人の中でも考え方が分かれていました。
そのような背景を踏まえて、今日の箇所を読み進めて見ましょう。
アウトラインの2番目です。
マルコによる福音書12章13節からです。
13節、「さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。」
ここで「彼らは」と言われていますが、これはおそらく、ずっとさかのぼって11章の27節、「祭司長、律法学者、長老たち」のことであると考えられます。
覚えているでしょうか?彼らの管理するエルサレムの宮、人々の祈りの家と呼ばれるべき神の宮を、祭司長たちが強盗の巣にしてしまった、とイエスは責められました。
群集から多大な支持を得ていたイエスがそのように公に責めたことで、祭司長、律法学者、長老たちは悔い改めるどころか、イエスをなんとかして滅ぼそうとしました。
祭司長たちはそこで、パリサイ人とヘロデ党の者数人という二つのグループの人たちをイエスの元に送りました。
なぜパリサイ人とヘロデ党という二つのグループの人たちが送られたのでしょうか?
実はこの二つのグループは、ローマの税金に関して政治的な立場から言えば、互いに敵同士でした。
パリサイ人たちは武力によってローマに反乱を起こすことはありませんでしたが、ローマに税金を納めることには大きく反対していました。
反対にヘロデ党の人たちはローマに税金を支払うことにはなんの問題もない、という立場でした。
民衆はもちろん、私たちと同じように税金なんてどんなものでも払いたくないと思ったでしょうし、まして他国の支配を表すローマの税金を払うことは望まず、そのようなローマの支配を退ける力のある真のユダヤ人の王を望んでいました。
もし、イエスが、ローマに税金を支払うべきだ、といえば、イエスは民衆の支持を失ったでしょうし、もしイエスが、ローマに税金を支払うべきではない、といえば、ローマによって反乱分子とみなされ、逮捕、もしくは処刑される危険があったでしょう。
イエスを滅ぼそうと願った祭司長、律法学者、長老たちは実に巧妙なわなで持ってイエスに迫ったのでした。
14節、「彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」」
前回、イエスに「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい」と言われた祭司長たちは、民衆の顔色を伺うばかり、答えることができませんでしたが、ここで、彼らはイエスは人の顔色を見ない方だ、と言っています。
さらに、前回、イエスに「なんの権威によって、これらのことをしておられるのですか?」と尋ねた祭司長たちでしたが、ここではイエスが「真理に基づいて神の道を教えておられる」と言っています。
すでに言われたとおり、このパリサイ人とヘロデ党の人たちはイエスをわなにかけるつもりできました。
ですからここで言われていることはまったく心にない口先だけのおべっかですが、たいへん皮肉のかかったものであると言えるでしょう。
これはまるでオーストラリアの人が、「日本はサッカーが強いですね、毎回ワールドカップに出場してまったくうらやましいです。ところで、ドイツでのワールドカップの結果はどうでしたか?」というような、感じでしょうか?
彼らはこう言った後で尋ねました。「ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」
しかし、イエスは、人の悪知恵などたやすく見抜きました。
15節、「イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。」
デナリ銀貨とはそのころ流通していたローマの硬貨で、時代によってそのときの皇帝の肖像と銘が彫られていました。
辞書によればデナリ銀貨は紀元前3世紀末に鋳造が開始されて、イエスの時代にはローマ帝国内の経済活動の中心にこのデナリ銀貨が用いられていたそうです。
このデナリ銀貨を、イエスに質問をしたパリサイ人、ヘロデ党の人々自身が持っていたわけですが、それに対して、イエスは「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と答えました。
それはどういう意味であったでしょうか?
それは、もしかしたら、そんなローマの皇帝の作ったものを持っているなら全部返してしまいなさい、という意味であったかもしれません。
または、ローマの皇帝の作った銀貨を用いて経済活動を効率的に行うことができるという、いわば公共の益を得ているのだから、その見返りの税は払うべきだ、という意味であったかもしれません。
イエスの言葉の細かな意味をこの箇所だけから求めることは大変難しいと考えますが、税金に関して、聖書がなにを教えているのかを考えるならば、私たちはパウロが教えたことに目を向けることができます。
ローマ人への手紙13章1節から8節を開いてください。新改訳聖書、後ろのほうの284ページです。
ローマ人への手紙13章1節から読みます。
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。ローマ人への手紙13章1節から8節まで(新改訳聖書)
ここではいろいろなことが言われていますが、まず、税金、ということに関して、この箇所はなにを教えているでしょうか?
7節、みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納めなさい、と言われています。
ここで「みつぎ」と訳されている言葉は、註解書によれは家や土地に対してローマの支配下にあった人々がローマに対して払わなければならない税金のことをさすそうです。
次の「税」という語は、例えば物品を売ったり買ったりしたときに払わなければならない税のことだそうです。
そしてこれらの税を「納めなさい」と言われているわけですが、この「納めなさい」という言葉は、今日のマルコの福音書の箇所で、イエスが言った「カイザルに返しなさい」の「返しなさい」という言葉と原語では同じ言葉です。
すなわち、「みつぎを納めなければならない人にはみつぎを、税を納めなければならない人には税を納めなさい」という言葉は「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言ったイエスの言葉を思い起こさせたのではないかと考えます。
クリスチャンは税金を喜んで定められているとおり正しく納めるべきです。
なぜでしょうか?
それは、ここにもありますが、なにも税金によって自分が結局益をえるから、というだけでなく、また税金を正しく払わず見つかった場合には罰せられるから、という理由だけでなく、クリスチャンは神がこの世界に存在するすべての権威を立てたということを知っている、その良心のためにも、正しく納めるべきです、と言われています。
しかしある人たちはこう議論するでしょう。
私たちの政府は正しいことを行っていない、そんな政府に税金を払いたくはない、だから税金をごまかしたってそれは悪いことではない。
この世界に存在するすべての権威は神が定めたものですが、その権威を行使する行使者は人であって、その人が私たちと同じように罪のあるものである限り、政府が完全に正しいことを行う、などということはありません。
ですが、政府が正しいことを行っていないからといって、私たちが正しいことを行わない理由になるのでしょうか?
第一ペテロの手紙2章18節から20節までを開いてください。新改訳聖書、新約聖書の417ページになります。
ここの箇所で、ペテロは主人と奴隷の関係について語っています。
それは政府とその市民という関係とまったく同じ、ということではありませんが、しかし、権威の上にあるものに対してどのように振舞うべきなのか、ということについて神がクリスチャンたちに求めていることを知ることができると考えます。
しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
第一ペテロの手紙2章18節から20節まで(新改訳聖書)
自分の主人が悪を行っているからといって、その主人に対して払うべき義務を払わなくてよい、という理由にはなりません。
同様に、政府がかならずしもいつも正しいことをしてないからといって、それは私たちが正しく税を納めない、法律を守らないことの理由にはなりません。
月に一度ずつ、マルコによる福音書をずっと見てきました。
今日は最初に、前回の復習を少し、したいのですが、前回は11章の初めで、まず、イエスがユダヤの首都、エルサレムに入場した場面を見ました。
そのときイエスは立派な馬車、ではなくて、小さなろばの子にのって来ましたが、それは旧約聖書のゼカリヤ書に記された預言を成就するためでした。
その預言を知っていた人たちは、ついに神に選ばれた王がエルサレムに来た、と喜びイエスを歓迎しました。
ところが、エルサレムにあった神の家と呼ばれた宮に入ったイエスを迎えた人は誰もいなく、その日、イエスはエルサレムから出てしまいます。
その翌日、イエスは葉は茂っているのに実のないいちぢくの木をのろわれますが、それはイエスがおなかが減ってイライラしてた、のではなくて、豪華に見えるのに実のない神の宮─神のと言われているのに強盗の巣と化してしまったその宮─をイエスが裁かれたことを意味することを見ました。
そしてイエスは弟子たちを教えて言いました。「神を信じなさい。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ」と言って、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」
そのことばの意味は、自分の心から疑いを消すことができればなんでも思い通りになる、というようなことを言っているのではなくて、「この山」とはオリーブ山のことを指して、オリーブ山が動く、というのは旧約聖書のゼカリヤ書に書かれている、神の裁きと救いの日のことを言っていることを見ました。
神に選ばれた王、イエスがエルサレムに来られることで、神の裁きと救いの日がその日すでに彼らの前に訪れていましたが、それは目に見えるような形で訪れたのではありません。
人がそう信じ受け入れるなら、神の救い、すなわち、神が自分の罪を赦し、神の裁きから救われるという、その救いは、信じる人に与えられるのです。
信じ疑わなければ与えられる、とはそういう意味だと考えます。
もし、そうであるなら、神が私たちの罪を赦してくださったように、私たちも他の人が自分に対して犯したどのような罪も赦すべきです、とイエスは続けて弟子たちに教えました。
イエスがエルサレムに入城し、伝統的にはそれから一週間後には、イエスはユダヤの指導者たちに訴えられ、ローマ兵の手によって十字架にかけられ、処刑されました。
イエスは実は、これから自分が十字架上で死ぬということを知っていて、弟子たちになんどもこれからユダヤの指導者たちの手によって殺されなければならない、と言ってきました。
十字架で死ぬことを予期しつつ、この一週間という時間に、イエスが弟子たちに教えたこと、人々に語ったことを、今日を含めてこれから数回のメッセージの中で見ていきたいと思います。
今日は11章の27節からになります。
27節、「彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」」
この「宮」と呼ばれる建物は、前回も見ましたが、ユダヤ人にとっては神と出会う場所でした。
その宮は「すべての民の祈りの家」と呼ばれるべき場所でしたが、実際は商人たちが献金のための通貨を交換したり、いけにえのための動物を売り買いして、それによって宮の管理者であった祭司たちが利益を得るような、強盗の巣とも言うべき場所となっていました。
前回、イエスは宮で商売をしていた人たちをそこから追い出しましたが、そのときは、祭司たちがなにかイエスを止めるようなことをしたのか、しなかったのか、伝えられていません。
代わりに、そのときは、これは前回の11章18節に当たりますが、こう書かれています。
「祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群集がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。」
自分たちが宮の中で商売するように許可した商人たちを追い出すようなイエスを、多くの群集が支持するようになる、それは祭司長たちには脅威であって、そのためイエスを殺そうと考えたのでした。
イエスの前に来て祭司長たちがイエスに「何の権威によって」と質問をしているのは、実はイエスが本当に何の権威によって、宮から商人たちを追い出すようなことをしたのか知りたくて聞いているというよりは、むしろ何とかしてイエスを宮から追い出したい、いや、殺したいという心をもって聞いているのではないかと考えます。
アウトラインの3番です。
その問いに対するイエスの答えはこうでした。
29節、「そこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」」
「天から来たのですか」「人から出たのですか」という問いは、すなわち、神によって遣わされたのか、それともそうでないのか、という問いであると考えます。
「なんの権威によって」と尋ねられて、「ヨハネのバプテスマは」という答えは、一見するとなにか関連性のない話題のようにも見えますが、そうではないと考えます。
バプテスマのヨハネはマルコによる福音書の1章で見ましたが、イエスが神から来た方であることを証言できる人でした。
もしバプテスマのヨハネが神から来たのであるなら、ヨハネの証言するイエスも神から来たということになるでしょう。
ここで、「バプテスマのヨハネ」は天から来たのですか?とはイエスは言わず、「ヨハネのバプテスマ」は天から来たのですか?ときいています。
それはすなわち、なんの権威によってヨハネはバプテスマを授けていたのですか?という問いであるように考えます。
31節、「すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。だからといって、人から、と言ってよいだろうか。」彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません。」と言った。
祭司長たちは結局、ヨハネが神から遣わされた預言者であることを信じていませんでした。
いえ、もしかしたら、ヨハネは神から遣わされた預言者であったかもしれないが、そんなことは自分たちには関係ない、と考えていたかもしれません。
もしかしたら、自分たちに都合の悪いことを教えるヨハネは決して神の預言者などとは認めてはならない、と考えていたかもしれません。
しかし、祭司長たちは、それをおおやけにはそれを言うことができませんでした。
なぜなら群集がヨハネが神からの預言者であることを認めていて、それに対してあからさまに反対することは自分たちの群集の支持を失うこととなったであろうからです。
この祭司長たちの「わかりません」という答えは、人の本質をついているものであると考えます。
聖書は神のことばですか?
読んでみれば確かにすばらしいことが書いてある、でも自分に都合の悪いことも書いてある、そんなことばを神のことばと認めては都合が悪い、だから聖書は神のことばではないとしよう。
イエスは人類の救い主ですか?
確かにそうかもしれないけど、自分の周りの人はたいていそうではないと考えている、だから自分もそうでないと考えよう。
しかし、もし、心を改め、自分たちの都合などは考えずに、祭司長たちにとっては、ヨハネが一体何を教えていたのか耳をかたむけ、考えたならば、ヨハネは確かに神から来た神の預言者であって、それを信じなかった自分たちは非を認めるしかないでしょう。
もし、心を改め、自分の都合などは考えずに、私たちにとっては、イエスが一体何を教えているのか耳をかたむけ、考えるならば、イエスは確かに神から来た人の救い主であって、それを信じてこなかったとしたら、自分は非を認めるしかないでしょう。
もし、心を開かずに、ヨハネが一体、神の預言者であったかどうか、「わかりません」と答えるのなら、イエスがたとえ、自分が一体なんの権威によってこれらのことをするのか、祭司長たちに示したとしてもきっと、祭司長たちがそのイエスの答えを受け入れることはなかったでしょう。
33節の後半、「そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。」
アウトラインの4番です。
12章1節、「それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。」
イエスのたとえ話は、普通考えられるように、なにか物事を分かりやすく教えるための物ではなくて、実はむしろなぞなぞに近いものだ、ということを、だいぶ前、マルコの福音書4章で見ました。
もし興味のある方はそのときのメッセージを録音したものがあるので、聴いてみていただきたいのですが、ここの箇所のたとえも、どちらかといえばなぞなぞに近いものであったのではないかと考えます。
なぞなぞといえば、昨日インターネットで引いてみたのですが、こんな問題がありました。
朝には絶対食べられない物が2つあります。それは何でしょう?
(昼食と夕食)
頭ががちがちに固い僕は3分考えてみても分かりませんでした。
そこでは、四季─春夏秋冬の四つの季節ですね、その四季─が秋、夏、春、冬の順になってます。しかも、正月が秋と夏の間にあります。そこはどこでしょう?
(辞書)
なぞなぞとは面白いものですね。
答えが分からない間は聞く人の注意をひきつけます。
このイエスのたとえは、例えば、この農夫とは一体誰のことを指すのか、もう答えの分かってしまっている人には、なにかあまり面白くのないものですが、当時、このたとえを初めて聞いた人たちにとってはとても新鮮な、とても不思議ななぞなぞであったでしょう。
このなぞなぞ、もしくはたとえは、一体何を言っているのでしょうか?
「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て」という箇所は、旧約聖書、イザヤ書5章の箇所を思い出させます。
開かなくてよろしいのですが、その箇所で言われている「ぶどう園」とは神に選ばれたユダヤの人々のことを指しています。
とすれば、そのぶどう園の主人とは神、ご自身のこと、そのぶどう園を主人にゆだねられた世話するべき農夫たちとは、ユダヤの指導者であった祭司長、律法学者、長老たちのことであったでしょう。
このたとえの最初の部分を聞いて、イザヤ書5章を思い浮かべた人は、ぶどう園の主人は神、農夫はユダヤの指導者たち、という、おそらく、そこまではなぞのときあかしができたのではないかと考えます。
2節、「季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。」
ぶどう園の主人が神、農夫がユダヤの指導者たちを指すと理解した人たちは、神が遣わすしもべとはユダヤに送られた神の預言者たちのことを指すと理解できたと思われます。
このたとえ話にでてくる最初のしもべは袋だたきにされました。
二番目のしもべは頭をなぐられ、はずかしめられました。
三番目のしもべは殺されてしまいました。
さらに多くのしもべが送られましたが、袋だたきにされたり、殺されたりしました。
ユダヤに送られた神の預言者たちは、みな一様に、神に立ち返りなさい、というメッセージを伝えましたが、このたとえのしもべたちのように、ユダヤの指導者たちに受け入れれず、時には迫害にあい、また時には殺されてしまうこともありました。
アハブという王の時代にはエリヤという預言者一人を除いて、神の預言者は全員殺されてしまったことがあります。
ユダヤにはソロモン王の後、神に従わない王が何人も現われましたが、彼らについて、例えば第二列王記36章にはこのように書かれています。
開かなくてよろしいのですが、第二列王記36章11節から16節まで、読みます。
11節、「ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。」
ユダヤの指導者たちが神の預言者たちに耳を傾けず、迫害してきた歴史を知っている人にとっては、イエスのこのたとえが何のことを指すのか理解できたでしょう。
しかし、イエスの次のたとえはなんのことを言っているのでしょうか? 6節、「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。」
神の愛する息子に当たる人とは誰のことでしょうか?
神の子ということばが必ずしも、子なる神、のことではなくて、文脈によっては、神に選ばれた王のことを指す、ということを前に見ました。
例えばイスラエルの王、ダビデが神に愛される子と呼ばれたように、神の子、とは神に選ばれたイスラエルの王のことを指します。
その王がユダヤの指導者たちの所に来たとき、なにが起こるのでしょうか?
ユダヤの指導者たちはその王を殺してしまいます。
このたとえを理解した人は、イエスが、その神に愛される息子であることを言っていることを理解したでしょう。
そしてそのイエスを殺そうと相談していたユダヤの指導者たちは、農夫たちとはイエスが自分たちのことを指して言っていることを理解したでしょう。
それほどイエスの言っていることが正しく、的を得ているのに、それでもなおイエスの言葉に耳を傾けないのは、「息子を殺してしまえば財産はこちらのものだ」、と全く自分勝手に考えている農夫に似ています。
私たちはこのたとえ話を聞いて、この農夫たちはなんておろかな悪い人たちなのであろうか、と考えるのではないでしょうか。
もしかしたら、自分なら、こんな悪いことはしない、と考えるかもしれません。
しかし、よく考えてみていただきたいのですが、人、とはそういうものではないでしょうか?
神が神の預言者、そしてイエスの使徒たちを通して語った神の言葉、すなわち聖書のことばを、私たちは何度も聞いているのに、そのことばに本当に耳を傾けているでしょうか?
神の預言者を物理的に殺すようなことはもちろんなかったとしても、そのメッセージを無視し、自分勝手なことをし続ける点ではユダヤの指導者たちも、私たちも同じです。
そのようなことを続けていれば、いずれどうなるかは、このたとえのとおり明らかです。
9節、「ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」
農夫どもを打ち滅ぼす、とはなんとも恐ろしい出来事ですが、多くの人は、きっと、この農夫たちはその行いに値する罰を受けたと考えられるでしょう。
もし、そうなら、神を無視し続けた私たちにはどんな結末が残されているのでしょうか?
神が私たちを造り、私たちを愛し、私たちがどう生きるべきなのかを教えているのに、そのことばに耳を傾けず、自分勝手に行き続けるのなら、その結末はこの農夫たちのようではありませんか?
そして私たちはその罰に値することを神に対してし続けているのです。
私たちは神に滅ぼされて当然であるものたちでした。
しかし、神はそのような私たちをなおも愛して、救ってくださる道を備えてくださいました。
10節、(イエスは言われました。)「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」
この聖書のことばとは、旧約聖書の詩篇118篇、22節、23節の引用です。
この詩篇は神が恵み深い方であり、私たちの救いは神から来ることが言われていますが、その中に、この二つの節があります。
伝統的にはこの節は、サウル王をはじめユダヤの指導者たちに受け入れられなかったダビデがやがてはイスラエルを治める王となったことを言っていると受け止められたそうです。
しかし、イエスはこの聖書のことばをもって、イエスがユダヤの指導者たちに見捨てられたその石であり、しかし神によって、人々に救いをもたらす礎の石となることを言っていると考えます。
このたとえを初めてきいたイエスの弟子たちはおそらく、その意味を理解することはなかったと考えられます。
しかし、イエスの預言どおり、イエスが祭司長たちに殺され、しかし3日後にはよみがえったことによって、この聖書の預言が成就したことを、イエスの弟子たちは理解しました。
イエスがよみがえって後、イエスの弟子たちはイエスが神の救い主であることを人々に伝えましたが、あるとき、ペテロとヨハネが生まれつき足のきかない人を癒します。
そのことのために、ユダヤの指導者たちによって捕らえられ、ペテロとヨハネは彼らの前でこう、証言しました。
開かなくてよろしいのですが、使徒のはたらき4章5節から12節までをお読みします。
5節、「翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」」
悔い改め、神に罪の赦しを願う人たちを救うために、神はイエスをこの世界に送り、十字架の上で私たちの代わりにイエスを罰して、私たちの罪を赦してくださいました。
そのことが起こったのは、ユダヤの指導者たちが自分たちの都合でイエスを訴え、十字架の上で殺したからですが、神はそのような人の悪さえも用いて、ご自分の計画を成し遂げられる方です。
それは、まさに、「私たちの目には、不思議なこと」ですが、しかし、神はこのような不思議な方法をもって、神を信じる人たちを救ってくださいました。
しかし、イエスのことば、イエスの行いを信じない人たち、神が人を救おうと行っていることを信じない人たちにとっては、イエスは「家を建てる者たちの見捨てた石」でした。
12節、「彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕えようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。」
アウトラインの6番です。
今日のこの箇所から二つのメインポイントを挙げたいと思います。
最初の一つはもうすでにクリスチャンである方へのメッセージです。
きょうのこのたとえ話は、もし人が自分勝手に生き、自分勝手な理由で、たとえ、神の子、イエスを殺してしまうというようなことがあったとしても、神はそれを超えてまですべてを支配しておられるということを教えていると僕は考えます。
とすれば、もし、今、私たちがなんらかの困難、なんらかの試練、なんらかの迫害に会うようなことがあったとしても、私たちは神が私たちが会っている困難のことも知り、それさえも用いてご自分の計画をなすことができる方であることを知るべきです。
すべてを支配しておられる神、この神に信頼するなら、私たちはどんな困難に会ったとしても、神を知らない人のようには希望を失うことがありません。
「私たちの目には、不思議なこと」を成されるこの神に、今一度信頼できるように心を改めたいと願います。
もう一つのメインポイントはまだクリスチャンでない方へのメッセージです。
「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」 とたずねられ、イエスは「神の権威によって」と当然答えることができたはずです。
実際、マルコによる福音書の2章において、イエスははっきりと自分には神の権威が与えられているということを示されました。
しかし、今日のこの箇所ではイエスはそうなされませんでした。
なぜでしょうか?
それは、イエスの言葉を聞き、イエスの行いをもう見てきた人が、なお、イエスが神から来た方であることを認めることができずに、「なんの権威によってこれらのことをするのか」と聞くならば、たとえ、イエスが「神の権威によって」と言って奇跡をもって示しても、受け入れることはなかったからではないかと考えます。
ある人たちにとって、イエスは今日も、自分と関係ない、見捨てられるべき石であるでしょう。
神のことをずっと無視し続けることはできます。 神を忘れて、自分の欲のために生き、自分勝手に生きようとし続けることは確かにできます。
しかし、その結末は一体なんでしょうか?
今日のたとえ話の農夫たちは私たちの目にはあまりにもおろかな人たちに映りますが、もし私たちが神のことを無視し続けるのなら、私たちも同じ結末に会うことは明らかであるでしょう。
その結末は、いずれ、正しく神に裁かれ、罰せられ、滅ぼされるでしょう。
もしそんな生き方がよくないものだと思われるのなら、今日、神に自分の罪を言い表し、神がその罰をイエス・キリストが十字架にかかることによってもうすでに赦してくださったことを感謝して、神のために生きる人生を歩もうとは願われないでしょうか?
祈りましょう。
もし、今日、イエスに頼って、自分の罪を神に赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の王として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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