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マルコの福音書11章26節から12章12節まで
1.前回の復習
2.「何の権威によって...」
3.「ヨハネのバプテスマは天から来たのですか?人から出たのですか?」
4.ぶどう園の農夫のたとえ
5.「これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」
6.神の権威によって...
彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。そして、イエスに言った。
「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」
そこでイエスは彼らに言われた。
「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」
すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。
「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。 32 だからといって、人から、と言ってよいだろうか。」
・・彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで彼らは、イエスに答えて、
「わかりません。」
と言った。そこでイエスは彼らに、
「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」
と言われた。それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。
「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、
『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』
と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。
『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。
『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」
彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕えようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。
マルコによる福音書11章27節から12章12節まで(新改訳聖書)
みなさん、こんにちは。
月に一度ずつ、マルコによる福音書をずっと見てきました。
今日は最初に、前回の復習を少し、したいのですが、前回は11章の初めで、まず、イエスがユダヤの首都、エルサレムに入場した場面を見ました。
そのときイエスは立派な馬車、ではなくて、小さなろばの子にのって来ましたが、それは旧約聖書のゼカリヤ書に記された預言を成就するためでした。
その預言を知っていた人たちは、ついに神に選ばれた王がエルサレムに来た、と喜びイエスを歓迎しました。
ところが、エルサレムにあった神の家と呼ばれた宮に入ったイエスを迎えた人は誰もいなく、その日、イエスはエルサレムから出てしまいます。
その翌日、イエスは葉は茂っているのに実のないいちぢくの木をのろわれますが、それはイエスがおなかが減ってイライラしてた、のではなくて、豪華に見えるのに実のない神の宮─神のと言われているのに強盗の巣と化してしまったその宮─をイエスが裁かれたことを意味することを見ました。
そしてイエスは弟子たちを教えて言いました。「神を信じなさい。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ」と言って、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」
そのことばの意味は、自分の心から疑いを消すことができればなんでも思い通りになる、というようなことを言っているのではなくて、「この山」とはオリーブ山のことを指して、オリーブ山が動く、というのは旧約聖書のゼカリヤ書に書かれている、神の裁きと救いの日のことを言っていることを見ました。
神に選ばれた王、イエスがエルサレムに来られることで、神の裁きと救いの日がその日すでに彼らの前に訪れていましたが、それは目に見えるような形で訪れたのではありません。
人がそう信じ受け入れるなら、神の救い、すなわち、神が自分の罪を赦し、神の裁きから救われるという、その救いは、信じる人に与えられるのです。
信じ疑わなければ与えられる、とはそういう意味だと考えます。
もし、そうであるなら、神が私たちの罪を赦してくださったように、私たちも他の人が自分に対して犯したどのような罪も赦すべきです、とイエスは続けて弟子たちに教えました。
イエスがエルサレムに入城し、伝統的にはそれから一週間後には、イエスはユダヤの指導者たちに訴えられ、ローマ兵の手によって十字架にかけられ、処刑されました。
イエスは実は、これから自分が十字架上で死ぬということを知っていて、弟子たちになんどもこれからユダヤの指導者たちの手によって殺されなければならない、と言ってきました。
十字架で死ぬことを予期しつつ、この一週間という時間に、イエスが弟子たちに教えたこと、人々に語ったことを、今日を含めてこれから数回のメッセージの中で見ていきたいと思います。
今日は11章の27節からになります。
27節、「彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」」
この「宮」と呼ばれる建物は、前回も見ましたが、ユダヤ人にとっては神と出会う場所でした。
その宮は「すべての民の祈りの家」と呼ばれるべき場所でしたが、実際は商人たちが献金のための通貨を交換したり、いけにえのための動物を売り買いして、それによって宮の管理者であった祭司たちが利益を得るような、強盗の巣とも言うべき場所となっていました。
前回、イエスは宮で商売をしていた人たちをそこから追い出しましたが、そのときは、祭司たちがなにかイエスを止めるようなことをしたのか、しなかったのか、伝えられていません。
代わりに、そのときは、これは前回の11章18節に当たりますが、こう書かれています。
「祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群集がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。」
自分たちが宮の中で商売するように許可した商人たちを追い出すようなイエスを、多くの群集が支持するようになる、それは祭司長たちには脅威であって、そのためイエスを殺そうと考えたのでした。
イエスの前に来て祭司長たちがイエスに「何の権威によって」と質問をしているのは、実はイエスが本当に何の権威によって、宮から商人たちを追い出すようなことをしたのか知りたくて聞いているというよりは、むしろ何とかしてイエスを宮から追い出したい、いや、殺したいという心をもって聞いているのではないかと考えます。
アウトラインの3番です。
その問いに対するイエスの答えはこうでした。
29節、「そこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」」
「天から来たのですか」「人から出たのですか」という問いは、すなわち、神によって遣わされたのか、それともそうでないのか、という問いであると考えます。
「なんの権威によって」と尋ねられて、「ヨハネのバプテスマは」という答えは、一見するとなにか関連性のない話題のようにも見えますが、そうではないと考えます。
バプテスマのヨハネはマルコによる福音書の1章で見ましたが、イエスが神から来た方であることを証言できる人でした。
もしバプテスマのヨハネが神から来たのであるなら、ヨハネの証言するイエスも神から来たということになるでしょう。
ここで、「バプテスマのヨハネ」は天から来たのですか?とはイエスは言わず、「ヨハネのバプテスマ」は天から来たのですか?ときいています。
それはすなわち、なんの権威によってヨハネはバプテスマを授けていたのですか?という問いであるように考えます。
31節、「すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。だからといって、人から、と言ってよいだろうか。」彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません。」と言った。
祭司長たちは結局、ヨハネが神から遣わされた預言者であることを信じていませんでした。
いえ、もしかしたら、ヨハネは神から遣わされた預言者であったかもしれないが、そんなことは自分たちには関係ない、と考えていたかもしれません。
もしかしたら、自分たちに都合の悪いことを教えるヨハネは決して神の預言者などとは認めてはならない、と考えていたかもしれません。
しかし、祭司長たちは、それをおおやけにはそれを言うことができませんでした。
なぜなら群集がヨハネが神からの預言者であることを認めていて、それに対してあからさまに反対することは自分たちの群集の支持を失うこととなったであろうからです。
この祭司長たちの「わかりません」という答えは、人の本質をついているものであると考えます。
聖書は神のことばですか?
読んでみれば確かにすばらしいことが書いてある、でも自分に都合の悪いことも書いてある、そんなことばを神のことばと認めては都合が悪い、だから聖書は神のことばではないとしよう。
イエスは人類の救い主ですか?
確かにそうかもしれないけど、自分の周りの人はたいていそうではないと考えている、だから自分もそうでないと考えよう。
しかし、もし、心を改め、自分たちの都合などは考えずに、祭司長たちにとっては、ヨハネが一体何を教えていたのか耳をかたむけ、考えたならば、ヨハネは確かに神から来た神の預言者であって、それを信じなかった自分たちは非を認めるしかないでしょう。
もし、心を改め、自分の都合などは考えずに、私たちにとっては、イエスが一体何を教えているのか耳をかたむけ、考えるならば、イエスは確かに神から来た人の救い主であって、それを信じてこなかったとしたら、自分は非を認めるしかないでしょう。
もし、心を開かずに、ヨハネが一体、神の預言者であったかどうか、「わかりません」と答えるのなら、イエスがたとえ、自分が一体なんの権威によってこれらのことをするのか、祭司長たちに示したとしてもきっと、祭司長たちがそのイエスの答えを受け入れることはなかったでしょう。
33節の後半、「そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。」
アウトラインの4番です。
12章1節、「それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。」
イエスのたとえ話は、普通考えられるように、なにか物事を分かりやすく教えるための物ではなくて、実はむしろなぞなぞに近いものだ、ということを、だいぶ前、マルコの福音書4章で見ました。
もし興味のある方はそのときのメッセージを録音したものがあるので、聴いてみていただきたいのですが、ここの箇所のたとえも、どちらかといえばなぞなぞに近いものであったのではないかと考えます。
なぞなぞといえば、昨日インターネットで引いてみたのですが、こんな問題がありました。
朝には絶対食べられない物が2つあります。それは何でしょう?
(昼食と夕食)
頭ががちがちに固い僕は3分考えてみても分かりませんでした。
そこでは、四季─春夏秋冬の四つの季節ですね、その四季─が秋、夏、春、冬の順になってます。しかも、正月が秋と夏の間にあります。そこはどこでしょう?
(辞書)
なぞなぞとは面白いものですね。
答えが分からない間は聞く人の注意をひきつけます。
このイエスのたとえは、例えば、この農夫とは一体誰のことを指すのか、もう答えの分かってしまっている人には、なにかあまり面白くのないものですが、当時、このたとえを初めて聞いた人たちにとってはとても新鮮な、とても不思議ななぞなぞであったでしょう。
このなぞなぞ、もしくはたとえは、一体何を言っているのでしょうか?
「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て」という箇所は、旧約聖書、イザヤ書5章の箇所を思い出させます。
開かなくてよろしいのですが、その箇所で言われている「ぶどう園」とは神に選ばれたユダヤの人々のことを指しています。
とすれば、そのぶどう園の主人とは神、ご自身のこと、そのぶどう園を主人にゆだねられた世話するべき農夫たちとは、ユダヤの指導者であった祭司長、律法学者、長老たちのことであったでしょう。
このたとえの最初の部分を聞いて、イザヤ書5章を思い浮かべた人は、ぶどう園の主人は神、農夫はユダヤの指導者たち、という、おそらく、そこまではなぞのときあかしができたのではないかと考えます。
2節、「季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。」
ぶどう園の主人が神、農夫がユダヤの指導者たちを指すと理解した人たちは、神が遣わすしもべとはユダヤに送られた神の預言者たちのことを指すと理解できたと思われます。
このたとえ話にでてくる最初のしもべは袋だたきにされました。
二番目のしもべは頭をなぐられ、はずかしめられました。
三番目のしもべは殺されてしまいました。
さらに多くのしもべが送られましたが、袋だたきにされたり、殺されたりしました。
ユダヤに送られた神の預言者たちは、みな一様に、神に立ち返りなさい、というメッセージを伝えましたが、このたとえのしもべたちのように、ユダヤの指導者たちに受け入れれず、時には迫害にあい、また時には殺されてしまうこともありました。
アハブという王の時代にはエリヤという預言者一人を除いて、神の預言者は全員殺されてしまったことがあります。
ユダヤにはソロモン王の後、神に従わない王が何人も現われましたが、彼らについて、例えば第二列王記36章にはこのように書かれています。
開かなくてよろしいのですが、第二列王記36章11節から16節まで、読みます。
11節、「ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。」
ユダヤの指導者たちが神の預言者たちに耳を傾けず、迫害してきた歴史を知っている人にとっては、イエスのこのたとえが何のことを指すのか理解できたでしょう。
しかし、イエスの次のたとえはなんのことを言っているのでしょうか? 6節、「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。」
神の愛する息子に当たる人とは誰のことでしょうか?
神の子ということばが必ずしも、子なる神、のことではなくて、文脈によっては、神に選ばれた王のことを指す、ということを前に見ました。
例えばイスラエルの王、ダビデが神に愛される子と呼ばれたように、神の子、とは神に選ばれたイスラエルの王のことを指します。
その王がユダヤの指導者たちの所に来たとき、なにが起こるのでしょうか?
ユダヤの指導者たちはその王を殺してしまいます。
このたとえを理解した人は、イエスが、その神に愛される息子であることを言っていることを理解したでしょう。
そしてそのイエスを殺そうと相談していたユダヤの指導者たちは、農夫たちとはイエスが自分たちのことを指して言っていることを理解したでしょう。
それほどイエスの言っていることが正しく、的を得ているのに、それでもなおイエスの言葉に耳を傾けないのは、「息子を殺してしまえば財産はこちらのものだ」、と全く自分勝手に考えている農夫に似ています。
私たちはこのたとえ話を聞いて、この農夫たちはなんておろかな悪い人たちなのであろうか、と考えるのではないでしょうか。
もしかしたら、自分なら、こんな悪いことはしない、と考えるかもしれません。
しかし、よく考えてみていただきたいのですが、人、とはそういうものではないでしょうか?
神が神の預言者、そしてイエスの使徒たちを通して語った神の言葉、すなわち聖書のことばを、私たちは何度も聞いているのに、そのことばに本当に耳を傾けているでしょうか?
神の預言者を物理的に殺すようなことはもちろんなかったとしても、そのメッセージを無視し、自分勝手なことをし続ける点ではユダヤの指導者たちも、私たちも同じです。
そのようなことを続けていれば、いずれどうなるかは、このたとえのとおり明らかです。
9節、「ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」
農夫どもを打ち滅ぼす、とはなんとも恐ろしい出来事ですが、多くの人は、きっと、この農夫たちはその行いに値する罰を受けたと考えられるでしょう。
もし、そうなら、神を無視し続けた私たちにはどんな結末が残されているのでしょうか?
神が私たちを造り、私たちを愛し、私たちがどう生きるべきなのかを教えているのに、そのことばに耳を傾けず、自分勝手に行き続けるのなら、その結末はこの農夫たちのようではありませんか?
そして私たちはその罰に値することを神に対してし続けているのです。
私たちは神に滅ぼされて当然であるものたちでした。
しかし、神はそのような私たちをなおも愛して、救ってくださる道を備えてくださいました。
10節、(イエスは言われました。)「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」
この聖書のことばとは、旧約聖書の詩篇118篇、22節、23節の引用です。
この詩篇は神が恵み深い方であり、私たちの救いは神から来ることが言われていますが、その中に、この二つの節があります。
伝統的にはこの節は、サウル王をはじめユダヤの指導者たちに受け入れられなかったダビデがやがてはイスラエルを治める王となったことを言っていると受け止められたそうです。
しかし、イエスはこの聖書のことばをもって、イエスがユダヤの指導者たちに見捨てられたその石であり、しかし神によって、人々に救いをもたらす礎の石となることを言っていると考えます。
このたとえを初めてきいたイエスの弟子たちはおそらく、その意味を理解することはなかったと考えられます。
しかし、イエスの預言どおり、イエスが祭司長たちに殺され、しかし3日後にはよみがえったことによって、この聖書の預言が成就したことを、イエスの弟子たちは理解しました。
イエスがよみがえって後、イエスの弟子たちはイエスが神の救い主であることを人々に伝えましたが、あるとき、ペテロとヨハネが生まれつき足のきかない人を癒します。
そのことのために、ユダヤの指導者たちによって捕らえられ、ペテロとヨハネは彼らの前でこう、証言しました。
開かなくてよろしいのですが、使徒のはたらき4章5節から12節までをお読みします。
5節、「翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」」
悔い改め、神に罪の赦しを願う人たちを救うために、神はイエスをこの世界に送り、十字架の上で私たちの代わりにイエスを罰して、私たちの罪を赦してくださいました。
そのことが起こったのは、ユダヤの指導者たちが自分たちの都合でイエスを訴え、十字架の上で殺したからですが、神はそのような人の悪さえも用いて、ご自分の計画を成し遂げられる方です。
それは、まさに、「私たちの目には、不思議なこと」ですが、しかし、神はこのような不思議な方法をもって、神を信じる人たちを救ってくださいました。
しかし、イエスのことば、イエスの行いを信じない人たち、神が人を救おうと行っていることを信じない人たちにとっては、イエスは「家を建てる者たちの見捨てた石」でした。
12節、「彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕えようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。」
アウトラインの6番です。
今日のこの箇所から二つのメインポイントを挙げたいと思います。
最初の一つはもうすでにクリスチャンである方へのメッセージです。
きょうのこのたとえ話は、もし人が自分勝手に生き、自分勝手な理由で、たとえ、神の子、イエスを殺してしまうというようなことがあったとしても、神はそれを超えてまですべてを支配しておられるということを教えていると僕は考えます。
とすれば、もし、今、私たちがなんらかの困難、なんらかの試練、なんらかの迫害に会うようなことがあったとしても、私たちは神が私たちが会っている困難のことも知り、それさえも用いてご自分の計画をなすことができる方であることを知るべきです。
すべてを支配しておられる神、この神に信頼するなら、私たちはどんな困難に会ったとしても、神を知らない人のようには希望を失うことがありません。
「私たちの目には、不思議なこと」を成されるこの神に、今一度信頼できるように心を改めたいと願います。
もう一つのメインポイントはまだクリスチャンでない方へのメッセージです。
「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」 とたずねられ、イエスは「神の権威によって」と当然答えることができたはずです。
実際、マルコによる福音書の2章において、イエスははっきりと自分には神の権威が与えられているということを示されました。
しかし、今日のこの箇所ではイエスはそうなされませんでした。
なぜでしょうか?
それは、イエスの言葉を聞き、イエスの行いをもう見てきた人が、なお、イエスが神から来た方であることを認めることができずに、「なんの権威によってこれらのことをするのか」と聞くならば、たとえ、イエスが「神の権威によって」と言って奇跡をもって示しても、受け入れることはなかったからではないかと考えます。
ある人たちにとって、イエスは今日も、自分と関係ない、見捨てられるべき石であるでしょう。
神のことをずっと無視し続けることはできます。 神を忘れて、自分の欲のために生き、自分勝手に生きようとし続けることは確かにできます。
しかし、その結末は一体なんでしょうか?
今日のたとえ話の農夫たちは私たちの目にはあまりにもおろかな人たちに映りますが、もし私たちが神のことを無視し続けるのなら、私たちも同じ結末に会うことは明らかであるでしょう。
その結末は、いずれ、正しく神に裁かれ、罰せられ、滅ぼされるでしょう。
もしそんな生き方がよくないものだと思われるのなら、今日、神に自分の罪を言い表し、神がその罰をイエス・キリストが十字架にかかることによってもうすでに赦してくださったことを感謝して、神のために生きる人生を歩もうとは願われないでしょうか?
祈りましょう。
もし、今日、イエスに頼って、自分の罪を神に赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の王として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience