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マルコの福音書10章46節から52節まで
1.復習:「信仰」とは?
2.この癒しの出来事のユニークな点は?
2.1.テマイの子のバルテマイ
2.2.「ダビデの子のイエスさま」
2.3.人々の対応
2.4.イエスに癒された後、バルテマイはどうしたでしょうか?
3.バルテマイは救われるためになにをしたのか?
4.「上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって」
5.信頼 -> 従う
今日の聖書箇所では、イエスが「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言っています。
実は今日とおなじタイトルで一年半前にマルコの福音書5章の「十二年の間長血をわずらっている女性」の癒しの箇所でメッセージをしたことがあったのですが、覚えておられる方もいるでしょうか?
そのとき、信仰というのはどういう意味であるのか、ということを考えてみました。
もし信仰という言葉を、他の言葉で置き換えてみたとき、どのような言葉に置き換えられるでしょうか?
どんな言葉が思い浮かぶでしょうか?
信仰は信頼という言葉に置き換えることができると思います。
信仰というのは思い込むことではありません。
信仰は頼ることです。
それはどれだけ自分が相手を信じて疑わないか、ということが問題になるよりもまず、どれだけ相手が信頼に足るものであるのか、ということが問題になります。
昨日はフォーカスで出会ったインドネシアの男性と香港の女性の結婚式だったのですが、このようなものをもらいました。
ここには「平安」と書かれていて、なんだか日本のお守りみたいですね。
日本のお守りが中国のものをまねているのか、どうなのかそれは定かではないのですが、人によってはこのようなお守りが自分を災害から守ってくれると信じて、そして疑わない人がいます。
この人は、クリスチャンがイエスを自分の救い主として信じて疑わない人と、いったいなにか違うでしょうか。
信じる、ということにはなんの違いもないと思います。
どれだけ誠実に、どれだけ真実に、どれだけ心の奥底から相手を信じているのかどうか、確かにそれは大切なことです。
しかしその前に、果たして自分の信仰する対象が自分の信頼に本当に足るものであるのかどうか、ということのほうがまず問題になるのではないでしょうか?
このお守りは本当に自分を災害から守ってくれる、という自分の信頼に足るものでしょうか?
イエスは本当に人となって来た神で、自分を救ってくれる、という自分の信頼に足るものでしょうか?
相手の事をなにも知らないで、相手を信頼することはできないでしょう。
このお守りが果たしてどのように造られたのか、どこかの工場で人に受けるようにデザインされ大量生産されているのを知って見ると、それはどこまで行っても人が、売って利益を得るために造ったものなのだ、ということを知るでしょう。
もしイエスに信頼してみたい、と考えるのなら、私たちはイエスの事をまず正しく、よく知らなければならないでしょう。
そのようなわけで、イエスの生涯を伝える、マルコによる福音書をずっと読んできているのですが、今日は10章の最後、46節から52節になります。
マルコによる福音書10章46節を開いてください。新約聖書の81ページになります。
今日のこの箇所にはいわゆる「癒し」と呼ばれる出来事が記されています。
これはマルコの福音書で伝えられている最後の癒しの出来事なのですが、この癒しの出来事にはこれまで伝えられていた癒しの出来事と比べて大変ユニークな点がいくつかあります。
それはなんでしょうか?
教会にきてまで国語の授業のようなことをやりたくない、と言われるのももっともなのですが、こういう質問を考えることで、この箇所で伝えられていることがより理解されるのではないかと思いますので、このことを考えつつ、もう一度、この箇所を読んでみましょう。
この癒しの出来事のユニークな点はなんでしょうか?
彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、
「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」
と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、
「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」
と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、
「あの人を呼んで来なさい。」
と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、
「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」
と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。
「わたしに何をしてほしいのか。」
すると、盲人は言った。
「先生。目が見えるようになることです。」
するとイエスは、彼に言われた。
「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
マルコによる福音書10章46節から52節まで(新改訳聖書)
どんなことがユニークだったでしょうか?
なにかピンと来た方はいませんか?
実はアウトラインに4つ、ユニークな点を載せようと考えているのですがいかがでしょうか?
ここで癒された人はバルテマイという名前でした。
イエスの十二弟子にはバルトロマイという人がいて、ややこしいのですが、別の人ですね。
マルコによる福音書で癒された人々のうち、その人自身の名前が言われているのは実はこの箇所だけだと思います。
5章にはレギオンという名前が出てきましたが、あれは悪霊に苦しめられていた人の名前ではなくて、悪霊の名前でしたね。
さらに5章にはヤイロという会堂管理者のことが言われていましたが、ヤイロが癒されたわけではなくて、ヤイロの娘が癒されました。
わざわざここでテマイの子のバルテマイと癒された人の名前が言われているのはどうしてなのでしょうか?
それはもう一つのユニークな点とつながっているので、そのときにもう少し掘り下げてみようと思います。
他に、どのようなユニークな点に気がつかれたでしょうか?
バルテマイはイエスのことを「ダビデの子」と呼びました。
彼が本当にどのようなつもりでイエスのことを「ダビデの子」と呼んだのかは分かりません。
マルコは47節、バルテマイが人から「ナザレのイエスだと聞くと」と言っています。
ナザレというのはイエスの故郷の名前ですが、エルサレムやエリコに比べればずっと田舎で、オーストラリアで言えばメルボルンやブリスベンではなくてワガワガの誰か、とか言うのに似ているでしょう。
ヨハネの福音書にはイエスの弟子ピリポがナタナエルという人に「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と言うのですが、ナタナエルは「ナザレから何の良いものが出るだろう。」と言っています。
ナザレのイエス、という言い方はどちらかといえば、なんでナザレからそんな力ある預言者があらわれるものか、というような意味が含まれています。
ですが、バルテマイは「ナザレのイエス」と聞いて、イエスを「ダビデの子」と呼びました。
旧約聖書には、イスラエルの王、神に愛されたダビデ王の子孫がいずれ再び王となってイスラエルを救うことがで言われていました。
「ダビデの子」という言い方には、イエスが神に選ばれた王であることをバルテマイが言っていることになります。
これまで癒された人たちの中で、イエスのことを、「ダビデの子」「神に選ばれた王」と言っている人はひとりもいません。
バルテマイはまた、51節でイエスのことを「先生」と言っていますが、ここで使われている「先生」という言葉の原語ではラボニ、新約聖書で2回だけ、マルコの福音書ではここだけに用いられています。
ラボニとは確かに物事を教える教師を指す言葉でもありますが、自分より位の高い人を指す言葉でもあって、「主よ」と訳すこともできます。
並行するマタイの福音書とルカの福音書では「主よ」という言葉が使われています。
バルテマイはイエスを「ダビデの子」と呼び、単なる預言者、単なる教師以上の存在であることを理解していたように考えます。
この点でもバルテマイはユニークであったことが分かります。
他にユニークな点はあるでしょうか?
今までは、人々は病気の人、悪霊につかれた人がいたら、そのような人たちをイエスのもとに連れてきていましたが、ここでは人々はまず、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫ぶバルテマイを黙らせようとしていることが言われています。
なぜ人々がバルテマイを黙らせようとしたのか、ここでは言われていません。
イスラエルの王、ヘロデ王の領地であったエリコの近くで、ヘロデ王以外の人物を「ダビデの子」と呼ぶことは大変危険なことであったからかも知れませんし、単にバルテマイがうるさかったからかもしれません。
ですが、ここで人々が進んでバルテマイをイエスのもとにつれてこなかった、イエスに言われるまで、人々がバルテマイを助けようとしなかったことは、イエスがこのすぐ前の箇所で弟子たちに教えたことが、弟子たちには理解されていなかった、弟子たちが実践することができなかったことが思わされます。
イエスは43節でこう言いました「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」。
みなに仕える者、こじきであったバルテマイのような人に対してでも、ということですが、しかし、弟子たちはイエスの教えを聞いていながら、そのように人に仕える機会が与えられつつ、しかし、イエスの言葉を実践することができませんでした。
逆にイエスは、確かに自分がそう教えたように、自ら仕える者となってバルテマイの願いを聞き、その通りにします。
わざわざイエスが51節でバルテマイに「わたしに何をしてほしいのか」と聞いていることは、イエスがバルテマイに仕える姿勢を示していることが思わされます。
他にユニークな点はあるでしょうか?
他の癒された人たちは、イエスに癒された後、だれもイエスについて行ったとは言われていません。
しかし、52節、バルテマイは「見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」と言われています。
これはただその日、バルテマイは癒された後、イエスについていった、という意味にもとれるかもしれませんが、どちらかといえば、僕はバルテマイがイエスに従う弟子となったと考えるほうが自然だと思われます。
なぜバルテマイの名前がわざわざ伝えられているのか、もしかしたら、バルテマイはその後、イエスの弟子となり、弟子たちの中でも名が知られるような活躍をした人物のではないか、だからわざわざ名前が伝えられているのではないか、そのように想像します。
この箇所にはいろいろなメッセージが詰め込まれていると思うのですが、その中で、三つのことを考えてみたいと思います。
アウトラインの3,4,5ですが、まず、バルテマイは救われるためになにをしたでしょうか?
52節でイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言っています。
ですから簡単に言えば、バルテマイには信仰があった、と言えそうですが、それは一体どういうことでしょうか?
前にもお話したかもしれませんが、「The Greatest Story Ever Told」というイエスの生涯を描いた映画があるのですが、ご存知でしょうか?
1965年の作品で、僕もテレビで一度しか見たことがなかったのですが、イエスが足の動かない人を癒すシーンがありました。
そこでイエスは、足の動かない人に「信じれば動くようになる、信じなさい、信じなさい」と励まし、その人は立つことができるようになりました。
それは、自分は立つことができる、目が見えるようになる、と信じればそのようになる、というようなメッセージであったと思います。
しかし、聖書で言われている「信仰」とはそのようなものではありません。
もし「信仰」が「信じればそのようになる」というものであったなら、バルテマイは、イエスと関係なく、自分は目が見えるようになる、と信じて疑わなければそのようになったでしょう。
そうではありません。
バルテマイはイエスを信じてイエスに頼りました。 バルテマイはイエスをダビデの子とよび、イエスには自分の目を見えるようにすることができることを信じていました。
「あなたの信仰があなたを救った」というのは「あなたが私に信頼したのであなたは救われた」という意味だと僕は考えます。
バルテマイが救われるためにしたこと、それは、なにものでもなく、ただイエスに頼ったこと、それだけです。
私たちはどうでしょうか?
イエスの言葉を聞いて、時に、そんなことはない、自分の考えの方が正しい、と思ったりはしないでしょうか? 自分の考え、自分の能力、自分の道徳観、自分の財産、どのようなものでもなく、ただイエスに頼っているでしょうか?
アウトラインの4番です。
50節、バルテマイがイエスに呼ばれ、「上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって」イエスのところに来た、と言われていることは興味深いです。
なぜわざわざ「上着を脱ぎ捨て」と言われているのか、これもまたユニークな点だったわけですが、なぜ上着を脱ぎ捨てなければならなかったのでしょうか?
これは想像でしかありませんが、物乞いをし道端にずっと座っている人は動く必要がないのでいろいろなものを自分の上着に入れておいて、ひどく上着が重たかったかも知れません。
そのような上着は、イエスに呼ばれたとき、すぐに立ち上がってイエスのもとに来ることに妨げとなります。
私たちもイエスに呼ばれたとき、イエスのことを知り、イエスがなにを自分にしてくれたのかを理解しても、いろいろなことが妨げとなってすぐ立ち上がってイエスの元にくることができないことがあります。
それは人によってさまざまですね。
「日曜日に教会で時間をつぶすくらいなら、他の人たちと同じように遊んだり、もっと仕事をしてお金を稼いだりしたいです。」
「自分の結婚している人以外の人とセックスできなくなるのですか?」
「どうしても許せない人がいます、クリスチャンは誰でも赦さなければならないのでしょう?」
「金持ちになりたいんです。教会なんていっている暇がありません。」
僕はいままで、イエスのことを一緒に学んだ人たちがこのように言って、イエスのもとに来ることができなかったことを見てきました。
イエスのもとに来ることを妨げる人の願いというものは、自己中心だったり、人を赦せない心だったり、果てしのない人の欲であったり、結局、その人自身にとってよくないことであることも見てきました。
イエスのもとに来ることを妨げるものがあったとしたら、あなたにとってそれはなんでしょうか?
この前の箇所に言われている、金持ちで議員の若者は、社会的にはいわばバルテマイの対極に位置する人です。
しかし彼は、自分の財産が妨げになり、イエスの元に来ましたが、イエスに従うことができませんでした。
バルテマイは「上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって」イエスのもとに来ることで、イエスに癒されました。
アウトラインの5番です。
バルテマイがイエスのもとに来てイエスに癒され、それで物語がおしまい、ということではありませんでした。
52節、「彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」といわれています。
イエスについて行った、ではなく、イエスの行かれる所について行った、という言葉は興味深いです。
イエスの行かれるところ、それは、イエスがこの前の箇所で預言した、イエスの苦難の道を思わせます。
33節、イエスは言いました「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
バルテマイがこのイエスの預言を知っていたかどうか分かりません。
おそらくは知らなかったのではないかと思います。
しかし、彼はイエスにより頼み、その行く道がどうであったとしても、イエスに従っていったことでしょう。
私たちはどうでしょうか? クリスチャンである、ということはすばらしいことです。
私たちはなにをするべきなのか、なにが正しいことなのか、神から教えられ、その教えにより頼んで生きていくことができます。
何のために生きているのか、死んでどこへ行くのか、分からないような生き方ではありません。
しかし、クリスチャンである、ということは必ずしも人生ばら色、苦しみ、悲しみのない生き方、ということではありません。
いやむしろ聖書はこう言っています。第二テモテへの手紙3章12節、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に─すなわちイエスに倣って─生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」
それでもクリスチャンたちがイエスに従って生きようとするのは、バルテマイがそうであったように、イエスに救われたから、イエスが自分に代わって、十字架の上で罪の罰を受けたために、どのような自分の罪も、神によって赦されたことを知っているからです。
私たちはイエスの行いによって、救われました。
このイエスにあなたは頼り、従いたいと願われるでしょうか?
祈りましょう。
もし、今日、イエスに頼って、自分の罪を神に赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の頼るところとして生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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Produced by Hajime Suzuki
Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience