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マルコの福音書10章32節から45節まで
1.もし…
1.1.ドラえもんにお願いできるなら?
1.2.神にお願いできるなら?
1.3.神は私たちになにを願われているか?
2.イエスの予言(イザヤ書53章)
3.ヤコブとヨハネの願い
3.1.ヤコブとヨハネは何を願ったのか?
3.2.なぜヤコブとヨハネはそんな願いをしたのか?
3.3.ヤコブとヨハネの願いはかなえられたか?
4.イエスの願い
4.1.「あなた方の間では、そうではありません」
4.2.「仕えられるためではなく、かえって仕えるため」
さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。 34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。
「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
イエスは彼らに言われた。
「何をしてほしいのですか。」
彼らは言った。
「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
しかし、イエスは彼らに言われた。
「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
彼らは
「できます。」
と言った。イエスは言われた。
「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
マルコの福音書10章32節から45節まで(新改訳聖書)
みなさん、こんにちは。
僕が小学校2年生のときなのですが、小学館からコロコロコミックという月刊誌が発売されました。
ご存知の方はいますか?
創刊時からそうだったのかは覚えていないのですが、価格が330円、毎月、確か15日だったのではないかと思うのですが、発売日には330円をにぎりしめて本屋さんに買いに行きました。
そのうち別冊コロコロコミックが300円で発売されて月に合わせて630円、小学生には結構な出費だったのに、毎月コロコロコミックを買うことになってしまいました。
コロコロコミックの一番の売りはその頃、他の小学館の雑誌、一年生とか二年生とかありましたが、それらがあのドラえもんを一話しか載せていないのに、コロコロコミックには何話かまとめて載せられていたことでした。
そのドラえもんが特に読みたくて、毎月買っていたのですが、そのうち、ドラえもんの長編連載を始めるようになって、ますますはまってしまいました。
一番最初の長編連載は「のび太の恐竜」でした。 のび太の恐竜は今年、リメイクされて実は今週の土曜日から映画館で見れるそうです。
僕と同年代のおじさんが子どもを連れて見に行くのが予想されますが、26年前の子どもの僕は、毎月、続きがどうなるものかと、わくわくして読んだものでした。
僕は小学生のころ、どちらかといえば泣き虫でいじめられっこでしたから─いまでも泣き虫はかわらないんですが、そういうわけで─のび太くんにはずいぶん感情移入しました。
ドラえもんはのび太くんが困った状況になると四次元ポケットから不思議な未来の道具をとり出して助けてくれるのですが、僕自身が実際に困った状況になったとき、例えば学校で忘れ物をしたときなどは、ああ、こんなときドラえもんがいてくれたらなぁ、ドラえもんにお願いして、タケコプターで家までひとっとびなのに、いや、ドラえもんにどこでもドアを出してもらえば僕の部屋はドアのむこうなのになぁ、なんて考えたものでした。
もし、ドラえもんにお願いできるなら、と小学生の僕はよく、考えたものですが、ドラえもんはもちろん、空想の人物、というか空想のネコ型ロボットで、お願いしてみてもなにもなりません。
ですが、幸いにも、僕たちには、ドラえもんよりももっと、頼りになる、この世界の造り主である神にお願いをすることができます。
もし、この神に願いを聞いてもらえるとしたら、なにをお願いするでしょうか?
日々の生活の中で何かの困難に直面している、ある人は、神よ、助けてください、と祈るかもしれません。
痛ましい事件や事故などのニュースを見たり、聞いたりすれば、神よ、こんな痛ましい事件がなぜ起こるのですか?どうか、地上に平和を与えてください、と祈るかもしれません。
もしくは、アメリカで合計430億円の宝くじを当てた8人の人のニュース見て、神様、私にも宝くじ、430億円なんて贅沢は言いませんから、1億円くらい当てさせてください、と祈るかもしれません。
ピリピ人への手紙、4章6節には「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と言われていますから、思い煩うよりは、どんな願い事でもまず、神に知っていただくことは良いことです。
ですが、もちろん、私たちの心に起こるどんな願い事もすべてが神の目に正しいことだ、とは言えないでしょう。
日本語には「困ったときの神頼み」ということわざだか言い回しだかがありますが、その通り、誰に教えられなくても私たちは困ったときには神でも仏でもなにか人間の力を超越した存在に願うものです。
ですが、私たちが神に願うとき、僕はいつも思い起こさなければならない、と思うのですが、それでは神はいったい、私たちになにを願われているか、ということに私たちは目を向けるべきです。
なぜなら、私たちは限られた自分の考えの中で自分にとってもっとも良かれと思って、願いごとをするものですが、実は神が私たちにとって本当に良い答えを知っていて、その神が私たちに願われていることが、実は私たちにとって最も良いことで、そのために私たちも願うべきである、はずだからです。
今日は、私たちの願いと神の願い、というテーマで今日の聖書箇所を読んでみたいと思います。
マルコによる福音書8章32節を開いてください。新改訳聖書、新約聖書の80ページです。
32節、「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。」
前回までに、マルコによる福音書の10章はイエスが、故郷のガリラヤを離れ、エルサレムに向かう旅の途中の出来事が伝えられている、と言ったのですが、ここで初めて、イエスの目的地が実はエルサレムであることが言われました。
エルサレムはユダヤ人にとって首都であり聖なる地でした。
8章の終わりで、ペテロが初めてイエスのことを「あなたは神に選ばれた王、キリストです」と言いました。
ペテロにそう言われたイエスは、マルコによる福音書では、自分のことをだれにも言わないようにと、弟子たちを戒められた、とだけ伝えられていて、それ以上のことが言われていませんが、並行するマタイの福音書には「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」とイエスがペテロに言って、イエスは自分が神に選ばれた王であることを確かに認めています。
それなのにイエスはこれまで、このことを人々に広めないように、と弟子たちに戒めていました。
そのイエスが、今、これからエルサレムに向かう、しかも先頭に立って歩いていく、ということは、これからいよいよ、イエスが神に選ばれた王としてのおおやけな宣言をして、活動を始めるのではないか、という期待が弟子たちのなかに高まったのではないか、と考えます。
ですから、弟子たちは驚き、また、あとについていく人たちは恐れを覚えたのでしょう。
32節、「すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」」
この箇所でイエスは将来に起こることの予言─これはあらかじめ起こることを言うことの予言ですが、その予言─をしています。
「人の子は」というのは、イエスが自分のことをさしていう言葉ですが、イエスはユダヤ人の指導者たちに死刑を宣告され、異邦人─すなわちユダヤ人ではなく、この場合はローマ人─に引き渡され、さげすまれた後、鞭打たれ、殺されることが言われました。
イエスが殺されることを予言したのはこの箇所で3回目なのですが、前の二回に比べて、ここではもっと具体的にどのようなことが起こるのかを予言しています。
そしてその予言の通りにイエスは殺されるわけですが、イエスがどのような思いでこの予言をしたのかは分かりません。
イエスは人となった神として、その身に起こるべくすべてを知っていたかもしれないし、この時点では人としての弱さをもって、旧約聖書に与えられている預言から理解されうることだけを知っていたかも知れません。
どちらにしても、イエスがさげすまれ、苦しめられ、人々の手で殺されることは神があらかじめ定めた、神の計画でした。
それは例えば、イエスの生まれる700年ほど前に書かれた、旧約聖書のイザヤ書53章に示されています。
今開いているマルコによる福音書にはしおりをしていただいて、イザヤ書53章を開いてください。旧約聖書の1114ページです。
この箇所には「彼」と呼ばれる人のことが伝えられています。
この「彼」とは誰のことでしょうか?
マルコによる福音書の1章で見ましたが、イエスはバプテスマのヨハネによってバプテスマを受けたとき、神から「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われました。
「あなたは、わたしの愛する子」というのは詩篇の2篇にあるように、神に選ばれた王を指す言葉です。
「わたしはあなたを喜ぶ」と言われたのはイザヤ書の42章で言われている、神の心が喜ぶ「神のしもべ」と呼ばれている人のことです。
そしてこのイザヤ書53章で言われている、「彼」というのは、イザヤ書42章で言われている神の心が喜ぶ「神のしもべ」のことです。
ですから、宣教の初めに、そのように神によって宣言されたイエスは、このイザヤ書53章の預言が自分によって成就されることを知っていました。
1節から読んでみましょう。
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
イザヤ書53章1節から12節まで(新改訳聖書)
旧約聖書に預言されたとおり、イエスは自分が人々の罪を負って、人々の代わりに神に罰せられることを知っていました。
罪を犯した人の代わりにイエスが罰せられることによって、神が人々の罪を赦す、これは神が初めから計画されたことでした。
不思議だとは思われないでしょうか?
なぜ、神のこころが喜ぶ、神のしもべである、イエスが、神に選ばれた王であるイエスが、神の子であるイエスが、そして子なる神自身であるイエスが、人の代わりに罰せられなければならなかったのでしょうか?
他に方法はなかったのでしょうか?
もし神が憐れみの神なのであるのなら、その憐れみの神に、どうか罪びとのわたしを赦して下さいと悔い改める人たちを、イエスを罰することなく赦すことはできなかったのでしょうか?
聖書は─ローマ人への手紙6章23節ですが─「罪からくる報酬は死です」と教えています。
罪は必ず罰せられなければならないことを私たちは知らなければなりません。
もし神がどんな罪もなんの償いもなく、罰もなくただ赦してしまっていたのであったなら、それは正義の神とは言えないでしょう。
神にはどのような罪をも罰しなければならないことが必要でした。
しかしもし、神がただ単に、他人の罪を、罪のない人であったイエスに負わせたのであったなら、そのような行いもまた、正義であるとはいえないでしょう。
罪を犯した人の代わりに、罪を犯さなかった人を罰するなんて、正義ではありません。
ですが、イエスは罪のない人であったと同時に、神ご自身が人となられた方でもあります。
もし神が人の罪を赦すために、自分自身にその罪の罰を負って、人が受けるべき罰を受けたとしたらどうでしょうか?
神は実にイエスにあってそのようなことを私たちのためにしてくださいました。
これが、そしてこの方法のみが、神が愛の神、また正義の神でありつつ、人を救うことのできる唯一の方法でした。
残念ながら多くの人が神が備えた救いの方法を理解しない、また理解しようとしません。
このイエスの預言を聞いた弟子たちも、このときにはイエスの言葉を理解しませんでした。
並行するルカによる福音書には「しかし弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった」と言われています。
マルコによる福音書に戻りましょう。
10章35節です。
「さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」」
ヤコブとヨハネはペテロと共にイエスにもっとも近しいイエスの弟子たちでした。
イエスがヤイロの娘を死から生き返らせたとき、また、山の上でイエスがモーセとエリヤと語ったとき、そばにいることを許されたのはペテロとヤコブとヨハネだけでした。
ヨハネはバプテスマのヨハネではなく、ヨハネによる福音書を書いたヨハネですが、その中でヨハネは自分のことを「イエスの愛された弟子」と何度も言っています。
それだけ近しい関係であったので、イエスに大胆に願い事をすることもできたと思われますが、ここでヤコブとヨハネは一体何を願っているのでしょうか?
イエスの言葉を理解できなかった彼らはおそらく、それまでの神に選ばれたイスラエルの王たち、サウル、ダビデ、ソロモンのように、イエスが神の預言者から油を注がれて正式にイスラエルの王として宣言されることを考えていたのではないかと思われます。
栄光の座、とはイエスが正式に王として認められたしだいにはという意味でしょう。
そのとき、自分たちが王の右と左に座る、いわば左大臣と右大臣のように王の次に重要な位置を占めることを願ったのだと思われます。
アウトラインの3.2.ですが、なぜヤコブとヨハネはそんな願いをしたのでしょうか?
そんなの男ならトップを目指すのはあたりまえでしょう、と言われそうですが、ここにはその理由の詳細は伝えられていません。
興味深いことに並行するマタイの福音書ではここでヤコブとヨハネと共に彼らのお母さんがイエスに願っているのですが、母が子どもたちのためにそのような重要な位置を願ったということも、ルイースが子どもたちになにを期待しているのか夢の膨らむ話を聞いていると、なんだかうなずけてしまうものです。
マルコによる福音書には伝えられていませんが、マタイによる福音書によれば、実はペテロがイエスに対して「あなたは神に選ばれた王、キリストです」と言ったとき、イエスはペテロの上に教会─教会とはなにか宗教的組織のことを言うのではなく、神の民の集まりのことを言うのですが、その教会─を立てる、と言いました。
ペテロにはそのようになにかイエスによって重要な約束を与えられたのに、イエスに同じように近しかったヤコブとヨハネはまだなにもイエスによって約束がされていませんでした。
ヤコブとヨハネはこのようなことからも、是非イエスに自分たちも重要な地位をと約束をしてもらいたかったかもしれません。
どうであれ、ヤコブとヨハネの願いは、ともすれば私たち誰もが自然に持ち合わせているものではないでしょうか?
なにか、人々の上に立ちたい、偉くなりたい、社会的に重要な位置に尽きたい、イエスがこの後に言っているように、そのような社会的に上のランクで、自分の思うままに権力をふるいたい、という願いは誰しもが持っているものではないでしょうか?
アウトラインの3.3.です。
38節、「しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」」
「杯」とはイザヤ書51章で罪びとに対する神の怒りを象徴していて、神の罰にあう苦しみを意味していると考えます。
バプテスマとは日本語で洗礼とも訳されていて、人がキリストに従うことをおおやけに宣言する儀式の意味で現在も用いられていますが、もしイエスが用いたバプテスマという言葉が一度死んでよみがえることを象徴するなら、ここは前のイエスの預言にあったとおり神の罰にあって苦しんだ後、死んでよみがえることを意味していると考えます。
ですが、弟子たちにはイエスのそんな言葉の意味は理解されていませんでした。
彼らはイエスの左大臣と右大臣になるためならイエスが言うことを何でもするつもりでいたのでしょう。
ヤコブとヨハネはイエスの言葉の意味も本当には理解せずに、「できます」と答えます。
イエスがそれを受けて「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします」といったのは興味深いことです。
それはヤコブとヨハネがイエスに代わって人々の罪のために死ぬ、ということではもちろんないでしょう。
ですが、ヤコブとヨハネがその後、どのような人生を送ったのかを考えると、なるほど、彼らはイエスと同じ苦しみを受けて死んだということが理解されます。
彼らはイエスの死後、イエスがキリストであることを伝えたがためにユダヤ人やローマ人たちに迫害にあい、イエスのために苦しみます。
使徒の働き12章にはヤコブがどのように死んだのかが記録されています。開かなくて良いのですが、使徒のはたらき、12章1節と2節を読みます。
「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」
ヤコブはユダをのぞくイエスの12弟子の中で一番最初に殉教しました。
対するヨハネはおそらく十二弟子の中で一番長生きしました。しかし長生きしたからといって楽な人生を送ったとはとてもいえません。
開かなくてよろしいのですが、ヨハネの黙示録1章9節にでヨハネはこのように述べています。
「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」
パトモスとは古代ローマが罪人(ざいにん)を追放する島として知られていたので、おそらくはヨハネもローマ人によって追放されていたのでしょう。
2世紀のクリスチャンたちの書物によれば、ヨハネもイエスのために殉教したことが伝えられています。
ヤコブとヨハネはイエスが言われたとおり、イエスのためにイエスと同じようにユダヤ人、ローマ人に苦しめられ殺されますが、もしイエスの言うバプテスマが死んでよみがえることを意味するなら、確かに彼らも後にイエスが再び来られるときに、よみがえることが思わされるでしょう。
ヤコブとヨハネは自分の限られた理解の中で、自分にもっとも良かれと思ってイエスがイスラエルの政治的な王になった時には、その次に重要なポストである左大臣と右大臣の席を願いましたが、神は彼らにもっとふさわしい、この地上ではイエスのために苦しまなければならない生き方ですが、しかし、後の世では永遠のいのちをえて神と共に生きる人生を得ました。
この意味で、彼らが願ったことはかなえられませんでしたが、いつかはなくなってしまう人間の社会的地位よりも、神と共に生きるというもっと価値のある答えが彼らには与えられました。
アウトラインの4番です。
41節「十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」」
弟子たちの願いはイエスが王となったときには自分が重要な地位にいることでしたが、イエスの願いはなんだったでしょうか?
「あなたがたも知っているとおり」とは、イエスの弟子たちも含めてこのころのユダヤ人たちがローマ帝国の支配を受けていたことを思わされます。
と、同時に、もし私たちがこの世界の出来事を見たときに、私たちの知っている通りに、なるほど確かに、私たちの社会は力のある人たち、権力のある人たち、お金のある人たちが支配される人たちの上で力を振るっている、そのような社会であることが見て取れると思います。
そのような社会を見ていれば、なぜ自分も、努力して上にあがって、そのあかつきには支配されるのではなく支配する側に、人に仕える側でなく、仕えられる側にいたい、と思ってしまうものではないでしょうか?
それは自己中心な人の罪です。
人より上に立ちたい、という願いが、それが社会の中であれ、職場の中であれ、友人の中であれ、家族の中であれ、またクリスチャンの交わりの中であれ、そのような願いが、ねたみや争いを引き起こしているのは明らかなことです。
イエスは「あなたがたの間では、そうではありません」と言いました。
なぜでしょうか?
45節「人の子─すなわちイエス─が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、あがないの─すなわち罪を償う─代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
罪、ということがあまりにも軽く考えられている時代です。
自分の好きなように、やりたいように生きればいい、そのように生きることが良いことだと多くの人は考えます。
神に聞き従い、神と共に生きるようにと神が目的をもって人を造りましたが、人はそれを無視し、自分勝手に生き、人をねたみ、争い、そして結局はその身に苦しみを招いています。
自業自得、人は神の怒りによって滅ぼされて当然の存在でした。
それなのに神はそのような人を愛し、人を救い、再び神の元へと導くために、イエスをこの世界に遣わし、私たちが犯した罪の罰を彼が受けることによって、私たちを赦してくださいました。
もし、そのことを理解するなら、私たちはイエスにある神の救いを知らないほかの人たちが、自分は他の人に仕えられたいと願うようでなく、イエスにならい、イエスのように他の人に仕えたいと願うようになるのではないでしょうか?
祈りましょう。
もし、今日、イエスに頼って、自分の罪を神に赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の頼るところとして生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience