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マルコの福音書10章28節から31節まで
1.自分の人生になにを期待しますか?
1.1.物質的満足?
1.2.精神的満足?
1.3.「神を信じる」となにを得るのか?
2.ペテロの期待
3.イエスの答え
3.1.イエス/福音のために家、家族、畑を捨てる、とは?
3.2.その百倍を受ける、とは?
4.「先の者があとになり、あとの者が先になることが多い」とは?
5.イエスに従うとなにを得るのか?
ペテロがイエスにこう言い始めた。
「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」
イエスは言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
マルコの福音書10章28節から31節まで(新改訳聖書)
数年前なのですが、あるとき、15年前に投函されたはがきを受け取りました。
郵便局に15年間保存されていたわけですが、誰からのはがきだろうと見てみると、実は僕が14歳のときに30歳の自分に宛てて書いたはがきでした。
郵便局のサービスでタイムカプセルとかなんとか言うんじゃないかと思うんですが、そういえば中学校の授業の時にそんなはがきを書いた覚えがありました。
読んで見るといろいろなことが書いてあります。
「結婚した?」とか「夢はかなえた?」とかですね。
僕の中学校のころの夢といえば、それはチェッカーズのようなバンドで成功することでした。
高校一年の時には大学に行かないでバンドするんだ、なんて言っていて父を心配させたこともあったのですが、高校三年になって周りの友人がみんな受験の準備のために勉強を始めるときにはもう忘れてしまっていました。
簡単に周りの人たちに左右されるような夢だったわけですが、みなさんは自分の人生に何を期待するでしょうか?
とにかくお金持ちになりたい、というとても分かりやすい答えがあります。
自分が欲しい、と思ったものは何でも買えるような、それだけ裕福な暮らしができればきっと、人生ばら色、満足した人生が送れるんじゃないか、そう考える人もいるかもしれません。
ああ、あの車、あの家、あの海外旅行、あの新型 iMac さえ手に入れば、私はきっと満足するのに、と思うようなことはないでしょうか?
物質的欲求というのは面白いものですね。
あれさえ手に入ればきっと満足する、と思っていたものが、実際に手に入ったとき、人は果たして本当に満足するのでしょうか?
例えなのですが、年収が200万円あって、4人家族を養っているとすると、平均して一日ひとり1400円の予算があることになります。
ですが、ある調査によれば、この世界の半分の人たちは、一日に200円以下にしか相当しない物質的なリソースで生活をしているそうです。
日本でもオーストラリアでも平均的な収入のある人は、世界的に見ればトップ10パーセントの裕福な暮らしをしている人、ということになります。
一日200円で生活する、ある人たちにとっては、ああ、日本のような、オーストラリアのようないわゆる先進国で平均的な暮らしができればきっと自分は満足するのに、なんて考えることもあるかもしれません。
そういう私たちは本当に心から満足して生きているでしょうか? 本当に欲しい車が手に入れば満足するでしょうか?
もし本当に欲しい車を手に入れたら今度は自家用飛行機が欲しくなるかもしれません。
今、与えられているもので満足しないのなら、たとえどんなに物質的に欲しかったものが手に入ったとしても、結局人は満足しないものではないでしょうか?
聖書には─第一テモテの手紙6章9節ですが「食べるものと着るものがあれば、それで満足するべきです」と言われています。
それ以上のことが欲しくて、それがあればきっと満足するのに、と思ってみても実際に手に入って満足していられる時間はほんの少しだけなのではないか、そのように考えます。
ある人たちは、また、物質的な満足よりも精神的な満足を自分の人生に求めます。
自分の好きな人とずっと愛を語らっていたい、とか、なにかをやり遂げる達成感を求めたい、社会的に有名になりたい、とか言う場合です。
例えば映画俳優っていいなぁ、有名になってみんなから注目されて、そんな人生を送ってみたいなぁなんて考えたことはないでしょうか?
僕が14歳のときにチェッカーズのようなバンドになんて考えていたのは、どちらかといえば音楽が好きで好きでバンドに、というよりは、有名になりたかった、という気持ちの方が大きかったのではないかと思います。
ですが、いわゆる有名人がはたしてみな満足した人生を送っているかというと、必ずしもそうではないようですね。
ハリウッドの有名な俳優たちが結婚したり離婚したりを繰り返しているのをニュースで聞くと、その詳細はもちろん知らないわけですが、本当に満足できる人間関係を築いているようにも思えません。
自分がずっと好きだった人と結婚できた人たち、これをやり遂げるんだ、と決めて達成できた人たち、そのような人たちは本当に自分の人生に満足できた、と言えるのでしょうか?
物質的な欲求も、精神的な欲求も、人はあるところで満ち足りることを学ばなければ、欲しいと思っていた何を手に入れても、満ち足りることはないのではないか、そのように考えます。
ある宗教は、人のそのような物質的な、もしくは精神的な欲求を満たすことを約束します。
この神様を信じればこのようなご利益があります。
この神様にお願いすればあなたの望みはきっとかなえられます。成功します。
ある場合に、イエス・キリストの名を掲げる団体も、このような物質的、精神的な満足を約束したりします。
先ほど読んでいただいた聖書の箇所では、イエスが、イエスのために、例えば家を捨てた者でその百倍を受けない者はありません、と言われていますが、それは果たしてどういう意味なのでしょうか?
もし今日、家に帰って自分の家の中のものを全部売り払って、来週、そのお金をすべて献金したら、いつか、そのきっちり百倍を自分の物として受ける日が来る、そのような意味でしょうか?
人は神を信じると一体何を得るのでしょうか?
このことについては、アウトラインの5番でもう一度考えてみたいと思います。
さて、マルコによる福音書を1章から続けてずっと読み進んできました。
今日は10章の28節からなのですが、この箇所は10章に入ってからイエスが故郷のガリラヤを離れ、ユダヤの首都、エルサレムに向かう途中の出来事として伝えられています。
前回は若くて、お金持ちで、社会的にも重要な仕事についていて、いわば世間的に見て満ち足りているはずの青年がイエスのもとに来て「永遠のいのちを受けるためにはなにをしたらよいでしょうか」とイエスに尋ねました。
確かに人はお金持ちになっても、著名人になっても、満ち足りないことがあるものであるようです。
イエスの答えは「すべてをすてて、わたしについて来なさい」でしたが、この青年はイエスについていくことより、自分の財産と共に暮らすことを選びました。
というより、自分の財産を捨てて、イエスについていくことが必要であるということが分かっていながら、そうすることができなかった、というべきかもしれません。
なぜならこの青年はイエスのことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った、とあります。
永遠のいのちを受けるためにイエスについていく必要などない、と思っていたなら、イエスについていくことができなかったとしても悲しむことはありませんね。
この青年はなにをすることが必要なのかを理解しましたが、それをすることができず、悲しんだのでしょう。
続けてイエスは弟子たちに「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言います。
らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい、というのはらくだが努力してダイエットして無理すればなんとかなる、ということではもちろんなくて、つまりは不可能だ、ということですね。
人が自分の力で神の国に入ること、永遠のいのちを得ることは不可能です。
しかしイエスは「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」と言います。
自分には不可能でも神はことをなしてくださるかもしれない。 その言葉を受けて、ペテロがイエスに言いました。
10章の28節です。28節、「ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」」
持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与え、そのうえで、イエスについて来なさい、と言われた金持ちの青年はそうすることができませんでしたが、イエスにすでに付き従っていた弟子たちの多くは、ペテロの言うとおり「何もかも捨てて」イエスに従ってきたものたちでした。
マルコによる福音書1章でイエスがペテロを弟子に招いたとき、ペテロとその兄弟アンデレは魚を取る漁師たちでしたが、網を捨てイエスに従ったとあります。
ヤコブとヨハネも漁師でしたが、彼らの父とその雇い人とを舟に残して、イエスについて行った、とあります。
収税人であったマタイは自分の仕事を捨てて、イエスに従いました。 そのようにすべてを捨ててイエスに従ってきた自分たちなら、永遠のいのちを受けることができるのではないか、そのように弟子たちは期待したのではないかと考えます。
並行するマタイの福音書では、ペテロは「私たちは何がいただけるでしょうか?」と言っています。 その問いに対する、
イエスの答えは何だったでしょうか?
29節、「イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」
受けない者はありません、と二重否定になっていますが、肯定的に言えば、イエスのために、また福音のために、─福音とは神の救いのメッセージのことですが、この福音のために─、家、兄弟、姉妹、母、父、子─夫や妻が言われていませんが、並行するルカによる福音書では妻がここに含まれています、このように家族や─畑を捨てた者はその百倍を受けます、と言われています。
この言葉の意味を考えてみましょう。
まず、イエスのために、また福音のために家や家族や畑を捨てる、とはどういうことでしょうか?
どのようにしたら、私たちはイエスのために自分のもっているものを捨てることになるのでしょうか?
畑を捨てる、ということは、自分の収入の源を捨てる、自分の仕事を捨てる、ということにつながると思いますが、それはイエスがまだこの地上にいたときは、漁師であったペテロや収税人であったマタイがそれまでの自分の仕事を止めて、イエスについていくことだったでしょう。
イエスについていくことで、共に住んでいた家族と一緒に住むことを止めることでもありましたし、それまで住んでいた家をなくしてしまうことでもあったかもしれません。
イエスがこの地上を去ってからはどうだったでしょうか?
歴史を学べば、イエスが去って後初めの数百年間、クリスチャンたちはイエスを信じることのためにユダヤ人やローマ帝国によって大変な迫害を受けたことが伝えられています。
イエスのために家、家族、畑を捨てる、とは、イエスを信じる、と公に言うことによって牢獄に入れられたり、財産を没収されたり、そして時には自分のこの世界でのいのちさえも失ってしまうことだったでしょう。
日本でも16世紀にキリスト教が伝えられて以来、最初の3世紀はキリスト教が禁じられて、自分はクリスチャンであると公言する人たちが迫害を受け、多くの人たちが殺されました。
現在、日本でもオーストラリアでも「私はイエスを信じます」と言ってみても、それはよかったですね、と言われるくらいで牢獄に入れられたり、いのちを失ったりするような迫害はありません。
そのような私たちにとって、イエスのために、また福音のために、家を捨てる、家族を捨てる、畑を捨てる、とはどういうことであるでしょうか?
ある場合に、それはイエスの救いのメッセージが人々に伝えられるために、そのために働いている伝道者、宣教師たちを経済的に支えるために、自分の家を売ってそのお金を用いるようなことかもしれません。
家を売ってしまって、自分が他の人の世話になるようでは、「自分で得たパンを食べなさい」と言われている聖書の言葉に反しますから、必ずしも家を売ってしまうことがないにしても、 例えばクリスチャンでない人たちが、もう少し大きな家が欲しいと、お金やお金を稼ぐために費やす時間を、福音の働きのために費やすことがあったなら、そのような行いも、イエスのために家を捨てる、ということにつながるのではないかと僕は考えます。
家族を捨てる、とはどういうことでしょうか?
先祖代々仏教であった、あるいは神道であったという家系を家族としてもつ人にとっては、自分はクリスチャンになりますというと、家族の反対があることがたびたび聞かれます。
その場合には家族の反対を超えて、イエスを信じる、イエスに従うということが、家族を捨てる、ということであるかもしれません。
もちろん間違ってはいけないのが、家族を捨てると言われているからといって、家族と関係を断絶してよい、ということではないと考えます。
特にサポートを必要としているような家族を省みないようなことがあるのなら、それは、─第一テモテへの手紙5章8節ですが─「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです」と言われいる聖書の言葉に反します。
しかし、イエスを信じるのか信じないのかという選択にあっては、たとえ親であっても、自分のパートナーであっても、イエスのほうが優先され、イエスを信じることを選ぶのなら、それはイエスのために家族を捨てる、ということであるでしょう。
あるいは畑を捨てる、仕事を捨てる、というのは、ある人にとっては、それまで行ってきた自分の仕事を止めて、イエスの福音を伝えるための働きをすることであるのではないかと考えます。
もしくはクリスチャンでない人たちが自分のキャリアのために、もっとお金が稼げるように費やす時間と能力を、自分の収入は家族を養うために十分であるから、その他の時間はイエスのために、福音の働きのためにと時間を費やすことであるのではないか、そのように考えます。
アウトラインの3.2です。
イエスのために、また福音のために、家、家族、畑を捨てるようなことがあったとき、その人はその百倍を受ける、と言われています。
それはどういうことでしょうか?
まず、百倍、というのはきっちり百倍、という意味ではもちろんないと思われます。
先ほどのらくだが針の穴を、という言い方と同じように、比ゆ的な表現であって、その意味は自分が捨てたものと比べて大変大きな、という意味なのではないかと考えます。
マタイの福音書、ルカの福音書では「幾倍も」と言われています。
クリスチャンはある場合に、自分の家、家族、畑を捨てるようなことになるかもしれませんが、それに比べればはるかに大きな、家、家族、畑を得ることができます。
それはどういう意味でしょうか?
その家族とは、共にイエスを自分の主と信じ、共に神を自分の天の父とする、クリスチャン同士のことだと、考えます。
ひらかなくてよろしいのですが、使徒のはたらきには初期のクリスチャンたちが激しい迫害の中で自分の持ち物を売って、そのお金を必要のある人たちに分け与えたことが伝えられています。4章、32節から読みます。
32節、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」
神が自分に永遠のいのちを与えてくださったことを理解するのなら、同じように永遠のいのちを与えられた他のクリスチャンたちは、自分にとって、永遠につづく家族のようなものです。
いえ、実は、クリスチャンの兄弟姉妹こそが血のつながりのある家族を超えて、本当の家族なのだと、イエスはマルコによる福音書の3章で言っています。
その家族が必要に迫られているとき、クリスチャンたちは自分の持ち物を自分の物とは考えずに、喜んでそれを他の人のために用いてきました。
この意味で、イエスのために、また福音のために、家、家族、畑を捨てたものはその百倍を今の時代に、迫害の中で受けると言われているのだと僕は考えます。
それはもしかしたら、イエスを信じるが故の迫害を受けていない、現在の日本やオーストラリアでは、分かりにくい、表面に現われにくいことかもしれません。
しかし、もし、個人的な証をさせていただければ、例えば僕にも、これは自分がイエスのために、またイエスの福音のために捨てたことではないかと考えることがありますが、その捨てたことに対して、まったく比べることのできない、神の家族の恵みを、百倍の家、百倍の家族、百倍の畑を確かに受けていると僕は証することができます。
それはイエスを信じる人たちと心を一つにすることができる喜びであったり、必要なときのクリスチャンたちの助けであったり、また自分が他の人の助けとなることのできる喜びであったりします。
それは一体いつ与えられるでしょうか?
今日、なにかをイエスのために捨てたからといって明日、その百倍が与えられるというようなものでしょうか?
31節にこう書かれています。
31節、「 しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
この言葉はいろいろな意味に取られることがありますが、マタイの福音書にはこの言葉の意味を説明するたとえが伝えられています。
マタイの福音書の19章30節を開いてください。新約聖書の36ページです。
30節から読みます。
「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。
『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
(「相当」というのは紛らわしい言葉ですが、ここでは「普通以上に」という意味ではなくて「ふさわしい」という意味です。)
彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。
『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
彼らは言った。
『だれも雇ってくれないからです。』
彼は言った。
『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。
『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。
『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
しかし、彼はそのひとりに答えて言った。
『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
マタイによる福音書19章30節から20章16節まで(新改訳聖書)
この箇所は一読すればたいていの人が、それは不公平だ、9時から6時まで9時間働いた人と5時から6時まで1時間働いた人の賃金が同じなんて、それはあんまりではありませんか、と感想を述べるたとえですね。
1デナリというのはというのは当時の通貨の単位で一日分の労働力にふさわしい賃金でした。
ですから、この箇所は9時間働いた人が不公平に安い賃金で働かされたということではなく、1時間しか働かなかった人が大変気前よく与えられた、という状態のことを言っています。
このたとえはなにを教えているでしょうか?
この世界のすべてのものは、それを創った神のものです。 たとえ自分になにが与えられていようともそれは実は神のものですし、神が神のものを誰にどれだけ与えようが、それは自分が不平を言えるものではないはずです。
先にクリスチャンとなってイエスのために、またイエスの福音のために働きをしたからといって、その百倍をすぐに与えられるとは限りません。
それは与える神によるのです。
自分はこんなにイエスのために、またイエスの福音のために努力をしているのに、ちっとも報われない、努力が実らない、と感じてしまうことはないでしょうか?
神が他のクリスチャンたちには与えているのに自分には与えていない、と不平を言うべきでしょうか?
いやむしろ、神が他のクリスチャンたちにすばらしい恵みを与えられているということを共に喜ぶべきではないでしょうか?
まとめましょう。
永遠のいのちを受けることは、ある意味では簡単なこと、と言えるかもしれません。
なにか大変な努力をして、修行して、悟りを開いて、受けるのではなく、単に、子どものように、神の救いのメッセージを受け入れるのならば、その人は永遠のいのちを受けるからです。
人には不可能なことを神がなしてくださいました。
しかし、人がなにものでもなく、神により頼むのなら、それは人が神と神以外のなにものかとを選択しなければならないときに、神を選ぶことで表されます。
ある場合には家を捨てることになるかもしれません。
ある場合には家族を捨てることになるかもしれません。
ある場合には仕事を捨てることになるかもしれません。
しかし、神は、後の世にあっては永遠のいのちを、そして今の世にあってはその百倍を迫害の中で受けることを約束してくださいます。
それは端的には自分の物質的、精神的な必要が同じくイエスを信じる他のクリスチャンたちによって満たされることであるでしょう。
しかしそれ以上に、自分がそのように他のクリスチャンたちの必要の助けになることのできる喜び、また自分も含めてクリスチャンたちに与えられる神の恵みを分かち合うことの喜びであると考えます。
祈りましょう。
もし、今日、イエスに頼って、自分の罪を神に赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の頼るところとして生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience