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マルコによる福音書10章17節から27節まで
1.クリスマスって?
2.「尊い先生」って?
3.「永遠のいのち」って?
4.永遠のいのちを受けるには?
4.1.神の戒めを守る?
4.2.財産を全部、貧しい人に分け与える?
4.3.イエスについていく
5.なぜイエスについていくと永遠のいのちを受けるのか?
5.1.人が救われるとは神にのみ可能
5.2.イエスは人となった神
5.3.神が人の代わりに人が受けるべき罰を受けた
6.クリスマスって?
イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。
「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
イエスは彼に言われた。
「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
すると、その人はイエスに言った。
「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。
「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。イエスは、見回して、弟子たちに言われた。
「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。
「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。 25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。
「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
イエスは、彼らをじっと見て言われた。
「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
マルコによる福音書10章17節から27節まで(新改訳聖書)
上の子の直美は5歳半なのですが、昨日急に、日本語教会に行きたくない、と言いました。
びっくりしてどうして?と聞くと、誠和くん...というんですね。
誠和くんがどうしたの?と聞くと、直美は口のところににきびができているんですが、それを見られたくない、と言いました。
僕がそういうことを気にするようになったのは確か中学校になってくらいからだと思うのですが、女の子は成長が早めなのだというのを感じさせられました。
みなさん、こんにちは。
今日はクリスマス、イエス・キリストの誕生を祝うとされている日ですね。
なぜ12月25日にイエスの誕生を祝うようになったのか、ご存知でしょうか?
12月25日がイエスの生まれた日だから、と言いたいところですが、イエスがいったい一年のうちいつ生まれたのかは、いくつか説はありますが、はっきりしたことは分からないそうです。
それではなぜ、12月25日にしたのかというと─これはブリタニカ百科事典からの引用なのですが─北半球ではこれまでどんどん太陽の沈む時間が早くなっていたのが、ちょうどこの日のあたりから、陽の当たる時間が長く、太陽が高く上るようになることから、古代ローマでは12月25日が「不滅の太陽の誕生日」として祝われていたそうです。
それはイエスとはなんの関係もなかったのですが、4世紀ごろのクリスチャンたちは、この古代ローマの風習に対抗して、この日にイエスの誕生を祝うようになったそうです。
実際にイエスが生まれた日が分からない以上、それを記念する日としてはどの日でもよいわけですが、これから陽が長くなるから、ということで選ばれたのなら、当然、南半球では12月25日ではなくて6月22日か、そのあたりになるべきでしたね。
結局あまり根拠のない、地球的規模ではあてはまらないようなことで、イエスの誕生を記念する日が決められてしまったわけですが、根拠がない、といえば、クリスマスで用いられているいろいろなシンボルもあまり、オリジナルのイエスの誕生とは関係ないものが多く用いられているようです。
例えばクリスマスツリーですが、これはもみの木がなにかイエスの誕生と関係があるのか、と言えばそうでもなくて、現在のようにいろいろな飾り付けのされるクリスマスツリーは中世期のドイツの宗教劇が起源だそうで、もともとはイエスの誕生とは関係ない、エデンの園にある善悪の知識の木を表すのにもみの木とりんごを用いたのが始まりだそうです。
そのうちりんごがお菓子になり、12月24日がアダムとイブの記念の日だったことからクリスマスと混合されて現在のようなクリスマスツリーになったと、ブリタニカにはありました。
根拠があろうがなかろうが、飾り付けが綺麗ならいい、楽しければいい、ということだけにしてしまうと、物事の本質、というものを見失ってしまうでしょう。
それでは本質を見失わないようにするにはどうすればよいのかといえば、それはオリジナルに目を向けることです。
すなわち、イエスの誕生、もしくはイエスその人に目を向けるのなら、イエスとともに生きて、イエスの言葉を聞き、イエスの行いを見てきた人たちの言葉に耳を傾けるべきです。
例えば、月に一度ずつですが、これまでずっと読み進めてきたマルコによる福音書はまさにそのためにふさわしいものですね。
と、クリスマスとマルコによる福音書をむりやりこじつけたわけですが、是非、というか今月も、というか、マルコによる福音書を通して、イエスはどういう人であったのか、なにを教えたのかを見ていきたいと思います。
今日はマルコによる福音書、10章の17節から27節です。新改訳聖書の79ページになります。
マルコによる福音書10章17節。
この箇所は10章の初めからつながっている箇所ですが、イエスが故郷のガリラヤを離れエルサレムへ向かう旅の途中の出来事として伝えられています。
ここではいろいろな人たちがイエスの前に現われます。
前々回はパリサイ人と呼ばれるそのころのユダヤ教の指導者たち、そして前回は子どもたちがイエスの前に来ました。
イエスは「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」と言いましたが、今日のこの箇所に、子どものように神の国を受け入れることができなかった人の話が伝えられています。
イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
マルコによる福音書10章17節(新改訳聖書)
イエスの前に走りよってきたこの人は、この先の箇所にもありますが、たいへんなお金持ちだったそうです。
並行するマタイの福音書にはこの人は青年と呼ばれ、ルカの福音書では役人とも議員とも呼ばれています。
すなわち、若くて、金持ちで、社会的に重要な仕事に就いていて、しかもこの先の箇所にありますが道徳的にも非の打ちどころのないような、ドラえもんで言えば出来杉くんのような人だったわけですが、その人がイエスの前にやってきて、ひざまずき、イエスを「尊い先生」と呼んでイエスの教えを願いました。
「尊い先生」の「尊い」という言葉は「善い」という意味で、新共同訳聖書では「善い先生」と訳されています。
人を「先生」と呼ぶだけでも相手への尊敬を表していますが、さらに「尊い先生」と言われたのは、新約聖書でもここだけ、そのころの新約聖書以外の文献でもそのような言い方が使われているのは見つかっていないそうです。
つまり、「尊い先生」という言い方はどうやら普通でない言い方で、そこにはなにか意味が含まれていると思われます。
ある人たちは、この普通でない言い方に、この青年はイエスに対して口余るほどのお世辞を言っているのだ、と考えるそうなのですが、この箇所にはそういう雰囲気は認められないように思います。
この青年は口で「尊い先生」と言うだけでなく、走り寄ってきてイエスの前にひざまずきました。
それを見たイエスも「なんて心にもないお世辞を言うものだ」などとは思わずに、むしろイエスはこの人を見つめいつくしんで言われた、と20節にはあります。
この青年がイエスを「尊い先生」と呼んだとき、おそらくこの人はイエスをどの先生にも勝る、尊い、善い先生であるという事を理解していたのでしょう。
この「尊い先生」という呼びかけに、イエスは答えます。
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」
マルコによる福音書10章18節(新改訳聖書)
この言葉だけを取り上げれば、あたかもイエスは「ですから神でない私を「尊い」と呼んではいけません」ということを言っているように受け止められるのですが、ですが、マルコの福音書全体を通して考えれば、必ずしもそうでないことが分かります。
2年越しの復習になるのですが、マルコの福音書1章では、イザヤの預言ということを見てみましたが、そこでイエスを指して使われていた、「ぬし」という漢字で「主」という言葉は、もともとはどの主でもない、神、ご自身だけを指す特別な言葉でした。
神に対して犯した罪は、確かに神にしか赦すことが出来ないのに、イエスは自分にその権威があることを主張したということを2章で見てみました。
サタンを従わせることは神にしかできないことでしたが、イエスにはサタンを従わせることが出来ることが3章で言われました。
神に祈ることによってではなく、直接風や波に命令することによって従わせることの出来たのは神だけでしたが、4章でイエスは風を従わせました。
イエスに癒された人がイエスに「神がどんなに大きなことをしてくださったか、知らせなさい」と言われたのに、その人はイエスがどんなに大きなことをしてくださったかを伝えた、と5章にはあります。
あたかも神がモーセとエリヤの前を通り過ぎたように、イエスも弟子たちの前を通り過ぎるつもりであった、と6章にはあります。
神は旧約聖書においてどの動物を食べてよいのかまたはいけないのかの命令をユダヤ人たちに特別に与えましたが、イエスはその教えを成就して、すべての食物をきよいとされた、と7章にはあります。
8章ではイエス自身が、いずれ神の栄光を帯びて天使たちとともに再び来る、と言っていますが、そのような人が神ご自身でなくて誰だと言うのでしょう?
これまでのマルコによる福音書に関するメッセージについては、メッセージを録音したMDがあるので、恭子さんからお借りしていただくか、またはメッセージの原稿が僕のウェブサイトにも載せてありますので、もし興味のある方は見てみてください。
とあからさまに宣伝をさせていただいたわけですが、マルコの福音書を通じてイエスがなにを主張しているかを理解しようとすれば、イエスは人となった神、ご自身であることが伝えられていると理解されると思います。
ですからこの箇所も、イエスは「私は神ではないので私を尊いと呼んではいけません」と言っているのではなく、むしろ、「なぜ、わたしを「尊い」と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。あなたは私を「尊い」と呼ぶことの意味を本当に理解しているのですか?」というような意味なのではないか、そのように僕は考えます。
アウトラインの3番目になりますが、この青年はイエスを尊い先生と呼び、イエスの教えを願いました。
「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
銀河鉄道999(スリーナイン)という松本零士さんの漫画があるのですが、ご存知でしょうか? 銀河鉄道999は未来の物語で、お金持ちは機械の体を買ってほぼ永遠に生きることのできる世界、そこに生まれた貧しい星野鉄郎はお金では機械の体を買えないので、無料で機械の体をくれるという星を目指して銀河鉄道999という宇宙列車に乗って旅をする、という話です。
アニメにもなっていて、文化庁推薦作品だったそうですが、実は僕はそのアニメが大好きで、地球の次は火星、火星の次は、もう忘れてしまいましたが、そんな風に999の駅である星の名前を地球から最終駅のアンドロメダまで覚えたりしていました。
全113話だそうですが、113話を超えて星野鉄郎はやっと苦労して、ただで機械の体をくれる星にたどり着きましたが、鉄郎は結局、機械の体を手に入れる事をやめてしまいます。
なぜかというと、確か、永遠の命よりも、限りある命の方が価値がある、というようなことだったと思うのですが、確かに人によっては聖書に「永遠のいのち」と言われているのを聞いても、なにそれ?そんなの欲しいですか?という感じではないだろうか、と思うのです。
聖書で言われている「永遠のいのち」とはただ、この世界にあって永遠に生きつづけるというようなものではありません。
もしこの世界で永遠に生きつづけるとしたら、どうでしょうか?
それはすばらしい、という方もいるかもしれませんが、確かに僕ならこの世界に起こるあまりにも多くの悲しい出来事を見て、このような世界に永遠になんて生きつづけていたくはない、と考えます。
幸いなことに、聖書が伝える永遠のいのちは、この世界で永遠に生きる、というようなものではなく、それは「後の世」と呼ばれる世界でのものです。
次回の箇所になりますが、マルコの福音書10章30節には、イエスを信じる人は永遠のいのちを「後の世」で受けます、と言われています。
この、永遠のいのち、とは一体なんでしょうか? 今日の箇所をよく読んで見ると、それは実は「神の国にはいること」であることがわかります。
この世界で死んで後、永遠に神と共に生きる、神の国、または天の国とも呼ばれていますが、そのような世界に行く、ことです。
そこはこの世界と違って、悲しみも苦しみもなく、悪も罪もなく、人々が互いを愛し、神を愛する世界であることが聖書では言われています。
そこでは病気や災害に苦しむことがありません。
人を憎むことも、うらやむことも、卑屈になることもありません。
偽りなく心から人を愛し、神を愛することの出来る世界。
そのような世界がもし本当にあるのなら、そこに行きたいとは思われないでしょうか?
天国などという世界はない、と考えられるときがあります。
確かに天国というところには誰も行ったことがなく、行って帰ってきてそこでのことを伝えるようなこともなく、天国が存在するという確かな証拠になるようなものもなく、ということであれば、それが空想での話なのか、それとも現実、真実の話なのか分かるはずもない、ことでしょう。
永遠に神とともに生きる世界、苦しみも悲しみもない世界、現実にしてはあまりにも話ができすぎている、と考えられるかもしれません。
ですが、ちょっと考えてみれば、私たちがこの世界に今、生きている、ということ自体、すでにあまりにも話ができすぎている、とは思われないでしょうか?
例えばもしこの地球がほんの少し太陽に近かったり、またはほんの少し遠かったりしていたのならば、地球も他の惑星と同じように、なんの生物も生息することのできないものであったでしょう。
私たちが生きて、言葉によって互いに意識を伝え合って、神、または、天国などという存在について語り合うことができるのも、偶然にそうなった、ということにしては、あまりにも話ができすぎている、とは思われないものでしょうか?
天国が存在する、ということを、神は聖書を通して私たちに教えられました。
その存在を信じる人たちは、今日の箇所の金持ちで役人の青年のように、どうにかしてそこに入りたい、と願います。
どうしたら、そこへ入ることができるでしょうか?すなわち、どうしたら永遠のいのちを受けることができるでしょうか?
アウトラインの4番ですが、今日のこの箇所から、永遠のいのちを受けるためにはどうすればよいことが分かるでしょうか?
「永遠のいのちを受けるために、何をしたらよいでしょうか」と青年に問われ、イエスは答えました。
「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
マルコによる福音書10章19節(新改訳聖書)
これらは旧約聖書で伝えられている、人が守るべき神の戒めですね。
イエスはこれらの神の戒めを守れば、永遠のいのちを受けることができる、とここで答えています。
この答えを聞いて、二通りの反応が考えられます。
一つはこのようですね。
「殺してはならない」「確かに僕は人殺しなんてしたことはありません」「姦淫してはならない」「姦淫もしたことありません」「盗んではならない」「盗みもしたことはありません」「偽証を立ててはならない」「人に迷惑をかけるような嘘の証言なんてしたことはありません」「欺き取ってはならない」「人から騙し取るようなこともしたことはありません」「父と母を敬え」「ええ、敬っていると思います」
神の戒めを守れば神の国に入れるのならば、私はそのようなことはみな、守っています、と考えられる場合です。
ですが、そのように考えられるからといって、本当にその人は神の戒めを守れているのでしょうか?
イエスは言いました。マタイによる福音書の5章ですが、「人を見下す人、誰かに「馬鹿じゃないの?」と言うような人は、人を殺した人と同じように神の裁きを受けます。」「誰でも情欲をいだいて相手を見る人は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。する気もないのに「します」と言う人は偽りの証言をすることと同じです。」言い方が少し異なるのですが、そのようなことがマタイの福音書5章に教えられています。
神は「殺してはならない」と言われ、確かに私は人を物理的に殺したことはないかもしれませんが、人を見下すような心を持っていたのなら─そしてそれは結局どの人もそうだと僕は考えるのですが─それは人を殺すことと同じように神に裁かれなければならない悪いことです。
神の戒めを守れば神の国に入れると聞いてもう一つの反応は、それならば、私は入ることができない、と考えられる場合です。
この箇所で大変興味深いのは、ここで言われているのはいわゆるモーセの十戒と呼ばれるもののうち、人に対する6つの戒めがのべられているように見えるのですが、よく見てみると実は最後の戒めが抜けていることです。
すなわち、十戒では「うらやんではならない」と言われているのに、ここでは「欺き取ってはならない」と言われています。
もしかしたら、この青年は欺き取るようなことはしなかったと自負していたかもしれませんが、「うらやんではならない」と言われたなら、そのような心の働きについて自分は正しい、と言うことはできなかったかも知れません。
人は神の戒めを守ることによっては神の国に入ることはできない、と僕は考えます。
なぜなら、人は誰も神の戒めを完全に守ることなどできていない、と僕は思うからです。
少なくとも、僕は自分のことについては言うことができます。
自慢できることではありませんが、僕は神の戒めを守れていません。じつにここで言われているどれ一つでさえも守りきれていません。
神の戒めを守ることによっては、誰も、神の国に入ることはできないのだと考えます。
しかし、20節を見てください。
すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
マルコによる福音書10章20節(新改訳聖書)
この青年は第一の反応をする人でした。
自分の行いを見て、私は確かに神の戒めを守れている、と考えてしまう人は実は少なくないと思います。
そのような人に、しかし、自分がそう考えられるからといって、神の国に入れるとは限らない、ということがよく分かるように、イエスはその人に言われました。
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
マルコによる福音書10章21節(新改訳聖書)
永遠のいのちを受けるために、なにをしたらよいとイエスは言われたでしょうか?
アウトラインの4.2ですが、ここには「財産を全部売って貧しい人たちに与えなさい」と言われています。
イエスのこの言葉を聞いて、「ああ、天国に入るためには財産を持っていてはいけないのだ。自分の持ち物は全部売って貧しい人たちに分け与えなければ天国に入ることはできないのだ」と考えられることがあります。
必ずしもそうなのでしょうか?
私たちがこの世界で生きていくためには最低限、食べ物、着る物、そして体を休めることのできる場所が必要です。
もしそのようなものさえ全部売ってしまったのだとしたら、生きていくために、今度はそのようなものをもっている人の世話になる必要がおこるでしょう。
実に初期のクリスチャンの中には自分の財産は全部売ってしまって、しかし、生きるためには他の人の世話になっている人たちがいました。
そのような人たちにパウロは命じました。
第二テサロニケ人への手紙3章ですがこう言われています。
あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。
第二テサロニケ人への手紙3章11節と12節(新改訳聖書)
クリスチャンたちは他の人の迷惑にならないように、いくらかの財産を得て、自分の生活を支えることが必要であるはずです。
もちろん、あまりにも貧しくて食べるものもなく死んでいく人たちを見て、 そのような人たちに対する憐れみから自分の財産をすべて売って分け与えること自体は、もしそのようなことが行われたのなら、それは神に喜ばれることであると考えますが、もし財産を全部売らなければ神の国に入れない、という思いで自分の財産を売ろうとするのなら、それは神の願われることではないと考えます。
今日のこの箇所では、この青年に財産をすべて売って貧しい人たちに分け与えることが求められましたが、同時にこの人にはまだ地上にいたイエスに実際についていくことのできる道が与えられました。
現在の私たちにはその道は与えられていません。そのことからも、この命令がすべて財産を持っているクリスチャンに対する命令ではなく、ここで「あなたには、欠けたことが一つあります」と言われているように、この青年に対するこのときのイエスの言葉であることが理解されると思います。
それはそれとして、この箇所にはこのような善いことをすることによって私たちは「天に宝を積むことになる」と言われています。
ある人たちは確かに自分は悪いこともしましたが、善いこともたくさんしています、だから、天国というところがあるのならば、私はそこに入れられるべきです、と考えます。
この世界のどこかにはじめくんのよいこカウンターとわるいこカウンターというのがあって、はじめくんが善いことをするとよいこカウンターが一上がり、悪いことをするとわるいこカウンターの値が一上がり、はじめくんがいよいよこの世界で死んだとき、二つのカウンターを比べてみる、というようなそういうシステムなのでしょうか?
よいこカウンター、64万6千4百6十4点、わるいこカウンター、64万6千4百6十3点、合計、よいこカウンターの方が一点多いので天国行き、やったー。
天国はどんな罪もない世界です。 もし、そのようなところに例えよいこカウンターが一点多かったからといって─もちろんもしそんなシステムが本当にあったのしたのなら、すべての人は結局、わるいこカウンターの点の方が多い、ということになるのではないかと思うのですが、それはそれとして─罪のある僕が罪のあるままで罪の罰を受けることなく行くことが出来てしまったのなら、そこはもう天国ではないですね。
悪いことが全くない世界が天国なのです。
どのような罪でも、罪ある者が行けるのなら、そこは天国ではなくなってしまいます。
善い事をすることによって自分の悪を打ち消すようなことはできないでしょう。
悪を行ったのなら、それは裁かれるべきであることが聖書では言われています。
神の戒めを守ろうとすることでも、また善い行いによって悪い行いの分を打ち消そうとすることでも、人は永遠のいのちを受けることができないのだとしたら、私たちにはいったいどんな道が残っているでしょうか?
アウトラインの4.3ですが、今日のこの箇所で、この青年に欠けていたたった一つのこと、そしてそれは、もし「うらやんではならない」と言われていたら、おそらくは自分にもいろいろなことが欠けていたことが自覚されていたのではないかと考えるのですが、イエスが「たった一つ」とその人に言ったこと、それは財産を全部貧しい人たちに分け与えること、だけではなくて、むしろその後の、イエスについていくこと、であったと考えます。
イエスは言いました。「そのうえで、わたしについて来なさい。」
なぜイエスについていくと永遠のいのちを受けることになるのでしょうか?
すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
マルコによる福音書10章23節(新改訳聖書)
この人はイエスが尊いものであることも認め、神の国に入りたいと願いつつ、イエスの言葉に従うことができませんでした。
それは子どもが親の言うことに完全に信頼して、その言うことを聞くように、(いつもではありませんが)そのようにはイエスの言葉に完全に頼ることのできない、ことであるでしょう。
このとき初めて、この青年は今のままでは神に受け入れられることができないことを知ります。
この青年がその後、一体どうしたのか、はっきりとは言われていません。もしかしたらこの時はすぐに従うことができませんでしたが、後にイエスの言葉どおりに財産を売り、貧しい人たちに分け与え、イエスについて言ったかもしれませんし、死ぬまでイエスではなく、自分の財産により頼む人であったかもしれません。
イエスは、見回して、弟子たちに言われた。
「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。
「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。
「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
イエスは、彼らをじっと見て言われた。
「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
マルコによる福音書10章23節から27節まで(新改訳聖書)
「らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」というのは、実にコミカルな言い方ですが、つまりは不可能だということを強調する言い方です。
そのころ、例えば収税人のように明らかに悪事を行って裕福になっている場合はもちろん除いても、裕福であるということは神に祝福されていることだと考えられていました。
ですからイエスの弟子たちは金持ちが神の国に入るのは不可能だといわれますます驚いて「それでは、だれが救われることができるのだろうか」と言いました。
イエスの答えはなんだったでしょうか?
「それは人にはできないことですが、神にはできることです」でした。
人が永遠のいのちを受けるため、神の国に入れるために、まず第一に理解しなければならないことは、それは人には不可能であり、神にのみ可能である、ということです。
それは人がどんなに努力しても、どんなにがんばっても、どんなに願っても、自分自身の力では神の国に入ることはできない、というメッセージです。
ある人たちはこのようなメッセージを好みません。
それは神の前に自分が以下に無力で、神に頼らなければならない存在であることかを認めなければならないからです。
しかし、人は現実にそのようなものであるはずです。
神がこの世界を創造し、神が私たちを造りました。
私たちが存在しているのはすべて神によるものです。
私たちが神の国に受け入れられることも、それは神によるものです。
人が永遠のいのちをうけるのは神にのみ可能であることを今言いましたが、それではなぜそれがイエスについていくこととつながるのでしょうか?
人が永遠のいのちを受けるため、神の国に入れるために、理解しなければならない第二のことはイエスが単なる人、単なる預言者、単なる先生ではなくて、神ご自身が人となってこの世界に来た方である、ということです。
イエスは人が神の国にはいるのは神にのみ可能と言い、しかし、この青年に永遠のいのちを受けたいのなら、自分についてきなさい、と言いました。
それはイエスご自身が、人を神の国へと導くことのできる、神ご自身であることに他なりません。
しかし、ある人はこういうでしょう。
イエスが神なら、なぜ神はわざわざイエスとなって、この世界に来たのですか?
そんなことをしなくても神に頼る人をすべて神の国に受け入れてあげればいいではないですか?
アウトラインの5.3です。
人が神に対して犯した罪、それは人がなにかよいことをすることでは打ち消すことはできないことを言いました。
人が犯した罪は罰せられなければなりません。
私たちは時に、ある残虐な悪事を行った人があまりにも軽い刑を受けるだけで刑から釈放されることを見て憤ります。
時に悪事を行った人が全く罰せられないのをみて、それでは正義は一体どこにあるのか、と嘆きます。
実は人が神に対して罪を犯す、ということも同じことです。
私たちは自分たちの刑は軽くあるべきだ、と考えますが、もし本当に神が私たちになにをしてくださったのかを理解し、その上で私たちが神を無視して、神に逆らおうとしたのだったら、その罰がどんなに重くても納得できたでしょう。
人が神に対して犯した罪は罰せられなければなりません。
イエスはこのためにこの世界に来ました。
すなわち、人が神に対して犯した罪の罰すべてをその身に負って、わたしたちの代わりに神に罰せられるために来たのです。
次回の箇所になりますが、イエスは言いました。
「人の子が来たのも─人の子とはイエスが自分のことをさしていう言葉です、人の子が来たのも─仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、購いの代価─すなわち、罪を償う代価─として、自分のいのちを与えるためなのです。」
マルコの福音書10章45節(新改訳聖書)
人が永遠のいのちを受けるため、神の国に入れるために、理解しなければならない第三のことは私たちの罪の罰をイエスが代わりに負って神に罰せられたので、私たちの罪が神に赦されるということです。
今日はクリスマス、あちらこちらでメリークリスマス、と挨拶がなされていますが、私たちは一体、なにを本当に祝うべきなのでしょうか?
ただ、イエスがこの世界に生まれたことを祝うのなら、それは私たちが誰かの誕生日を祝うのと同じことで、それは喜ばしいことですが、それ以上のことはありません。
そうではなく、イエスがこの世界に来て、あなたの代わりに、あなたの代わりに、あなたの代わりに、私の代わりに、私たちが行ってしまった、心で犯してしまった悪の罰を受けるために、この世界に来たのだとしたら、またイエスによって、私たちの罪が赦され、死んで後は神の国に迎えられるのだとしたら、確かに私たちは互いに言い合うことができるでしょう。
クリスマス、おめでとうございます。
もし、今日、このイエスに頼って、自分の罪を神に赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の頼るところとして生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience