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「子どものように受け入れる者でなければ」

マルコの福音書10章13節から16節まで

1.聖書の子ども観
1.1.性善説 vs. 性悪説
1.2.しつけについて
2なぜこの箇所がこの場所で語られているのか?
3.なぜイエスは「憤った」のか?
4.「子どものように神の国を受け入れる」とは?
4.1.純真?
4.2.誘惑を知らない?
4.3.どうしたら人は神の国に入れるのか?
4.4.子どものように依存すること


さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

マルコの福音書10章13節から16節まで(新改訳聖書)

コンピュータアニメーションで作られた、シュレック、という映画があります。

シュレックという緑色のモンスターが主人公なのですが、このシュレックが友だちのドンキーに「自分はたまねぎのようだ」と言う場面があります。

観た人はあのシーンを覚えているでしょうか?

それを聞いたドンキーは

「たまねぎのようだ、ということはシュレックはたまねぎのようにくさいということ?」

「シュレックはたまねぎのように人を泣かせてしまうということ?」

と受け取ります。

ところがそうではなくて、たまねぎのようだ、ということは自分はたまねぎのようにレイヤーがある。皮がある、というか、層がある、という感じですね。

それがどういう意味なのかは映画を観た人には説明する必要がないとは思うのですが、もしまだ観ていない人はどうぞ、子供向けの娯楽映画ですが、面白いので観てみてください。

さて、なぜメッセージの冒頭にシュレックが出てきたかと言いますと、今日の箇所で、イエスが「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることができません」と教えています。

「子どものように」と聞いた人はきっと、いろいろなことを考えると思います。

例えば赤ちゃんぐらいの子どもなら、心に思っていることと行動することが違う、ということはほとんどありません。

嬉しければ笑いますし、おなかがすけば泣きます。大人と違って心に思っていることと言葉や行動が違うということがありません。そのように裏表のない気持ちで、神の国を受け入れる、と考える人もいるでしょう。

また、ある人は子どもはいわば単純だ、と考えるかもしれません。

直美や安娜もそうなのですが、このくらいの子どもになにか新しい遊びを教えると何度も何度も何度も何度ももうこちらが飽きて疲れたと思うのに同じ事でいつまでも楽しんでいます。

そのように、なにかほかの事に心をとらわれずに、一心に神の国を受け入れる、と考える人もいるでしょう。

実は今日のこの箇所だけからは、イエスが「子どものように神の国を受け入れる」と言ったときに、一体、それが何を意味しているのか、分かりにくいと思います。

シュレックが「たまねぎのようだ」といってもドンキーにはそれがなんのことだか分からなかった、という感じですね。

ある人は、いや、「子どものように」と考えられることなら何でもよくて、僕が今例に挙げた、裏表のない気持ち、とか、他のことに心を奪われない気持ち、ということも、ここでイエスが言った「子どものように」という言葉の意味に含まれているのだ、と考えるかもしれません。

ですが、子どものようにと考えられることなら、なんでもいい、ということでももちろんないでしょう。

例えば子どもはあまり多くを考えません。例えば直美と安娜に「今日のおやつにアイスクリームを買って来て一つ食べるのと、今は買って来る時間がないから我慢して、もし明日まで我慢したなら、明日から三日間、続けておやつにアイスクリームを食べられるのと、どちらがいい?」と聞くとどうでしょうか?

そんなかわいそうなことはまだ聞いたことがないのですが、似たような出来事から推測すると、たとえ三日間続けて食べられると聞いてはいても、おそらくは今食べたい、という気持ちが一杯でそれ以外のことは考えられないでしょう。

そのうち考えられるようになるのだとは思うのですが。

子どものように、というのはあまり後先を考えないで、多くを考えないで、と受けとる人もいるかもしれません。

イエスの使徒であるパウロはある箇所でこう言いました。

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音─神の救いのメッセージ─を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」

第一コリント人への手紙15章1節と2節(新改訳聖書)

二重否定で分かりにくいのですが、つまりは「よく考えて信じなさい、受け入れなさい」ということですね。

同じようなことをイエスは、以下のように言っています。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

ルカによる福音書14章27節から33節まで(新改訳聖書)

ここでは、「神の国を受け入れる」という意味ではなくて「イエスの弟子になる」という意味のことが言われていますが、結局「神の国を受け入れる 」というのは「イエスの弟子になる」ということと同じことです。

「自分の財産全部を捨てないでは」というところは次回のメッセージでお話したいと思うのですが、イエスが例えを用いて教えていることは、結局よく考えもしないでイエスの弟子になることはできない、という意味だと思うのです。

これは「子どものように」という言葉とはあまり相容れないのではないでしょうか?

すなわち、イエスが「子どものように」と言ったとき、「子どものように」と思われることならなんでも良い、ということではないことが分かります。

それでは、イエスが「子どものように神の国を受け入れる」と言ったとき、果たしてそれはなにを意味したでしょうか?

今日は、この言葉の意味を是非理解して心に留めていただければと思います。

1.聖書の子ども観

1.1.性善説 vs. 性悪説

(詩篇51:5、エペソ2:3)

この言葉を理解するために、まず、聖書が「子ども」という言葉をどのように理解しているかを見てみることが役立つでしょう。

最初に言えることは聖書は、いわゆる「性善説」「性悪説」という考え方からは、「性悪説」を教えている、ということです。

どういうことでしょうか?

性善説、というのは広辞苑によれば、「人間の本性は善であり仁・義を先天的に具有すると考え、それに基づく道徳による政治を主張した孟子の説」とありました。

簡単に言えば、人間というものはもともと善と呼ばれる事を欲する性質があって、悪い事をするのは、それは例えば環境が悪かったから、とか、悪い人に悪い事を教えられたから、とか後天的なことによる、という考え方ですね。

もしこの考え方なら、生まれたばかりの赤ん坊というものは、まったく悪いところのない、罪のない純真無垢な状態だ、という考え方になって、子どもというものも、小さければ小さいほど、罪がない、もの、という考え方になりそうです。

しかし、聖書はどのように言っているでしょうか?

例えばダビデは以下のように言っています。

ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

詩篇51篇5節(新改訳聖書)

生まれる前、まだお母さんのおなかの中にいるときから、ダビデは罪のある者であった、と言っています。

またパウロは次のように言っています。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、─すなわち神に聞き従わない人たちの中にあって─自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

エペソ人への手紙2章3節(新改訳聖書)

人の目にはまだなにも悪い事をしていないのに、生まれながら、神の罰を受けるべきであった、とパウロは言っています。

生まれたばかりの、まだなにもすることのできないような、赤ちゃんを見て、この赤ちゃんも生まれながらに罪のあるものなのだ、と考えるのはなかなか受け入れられにくいことなのですが、聖書は確かに、人は、生まれながらにして罪のあるもの、神の罰を受けるべきものである事を言っています。

それは聖書の言っている罪、すなわち、本当の「罪」ということが、なんであるのかが、理解されれば分かりやすいと思います。

すなわち、罪というのは、なにか悪い事を行うこと、だけではなくて、自分と神との関係が失われていることが、罪である状態だからです。

神との関係を失ってしまった人間は、機会があれば、そのぶんだけ、神の言葉に聞き従わずに、悪い事を行います。

例えば自分の利益のために嘘をつくことは悪いことですね。

それが分かっているのに、そう教えられてきているのに、それでも私たちの中でそのような嘘をついたことのない人は果たしているでしょうか?

いいえ、機会があれば、その分だけ人は誰でもそのような嘘をつくものです。

人は生まれながらにして罪びとであって、なにも教えられなければそのような人は神に聞き従おうとはしませんし、善を選ぼうともしません。

そのような子ども観は子どもを育てるときに、一体どのような育て方をするべきなのか、ということにも影響をおよぼすでしょう。

1.2.しつけについて

もし子どもはもともと善い事を選ぶものだとしたら、大人はむしろ子どもに大人の価値観でこれが正しいことだ、これが悪いことだなどと言わずに、子どものしたいようにさせておいて、自分で価値観を見つけていくことが善いことだ、と考えられることがあります。

クリスチャンと呼ばれる親である方の中には「子どもには別に聖書を教えようとか教会に行かせようとかせずに、自分で大人になったときに宗教を選ぶようになることが善い」と考えて、子どもに聖書の価値観を教えない人もいるそうです。

ですが、子どもはもし親が教えるのでなければ、自分でなにかもともと自分に備わった善悪の判断をするようになるのではなくて、結局親でなければほかの媒体、最近はテレビであったり、友だちであったり、なにか他のところから学ぶのであって、自分の中になにが生まれついて備わった善い、善悪の価値観、というものはないと僕なら考えます。

日本の新聞を読んでいると一週間に一度はほとんどいつも、親が子どもを虐待した、という記事が目に付きます。

そして、その多くで親がそれは「しつけのつもりだった」と答えている現状があります。

その反動からなのではないか思われるのですが、親が子どもに体罰を与えることがどのような状況であってもそれは大変に悪いことだ、と考えられることがあります。

ですが聖書は確かに体罰をも含めて、親が子どもをしつけるべきであることが言われています。

例えば以下の箇所です。

鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。

箴言13章24節(新共同約聖書)

「鞭」という言葉に、現在の僕たちならびっくりしてしまいそうですが、箴言が書かれたおよそ3千年前、子どもたちはもう少し、いわば頑丈にできていたのではないか、などと考えます。

現在のようにやわらかい洋服、ふかふかのベッドがあったわけではなくて、木や土の上に寝てすごせば、もしかしたらしっぺやおしりたたきくらいではなにも応えないような皮膚を子どもたちは持っていたのかもしれません。

もしそうだとしたのなら、現在私たちが、たとえばしっぺやおしりたたきですませるところを、鞭を使わなければならないということも理解できると思うのですが、もちろん、鞭を使ってこどものからだに傷をつけるようなことが目的ではなくて、この箇所で言われているように諭しを与えることが目的です。

神が人になにが善でなにが悪かを預言者やイエスの使徒たち、私たちにとっては聖書を通して教えました。

人の物をうらやむことは悪いことです。

嘘をつくことは悪いことです。

盗むことは悪いことです。

親の言いつけをきかないことは悪いことです。

悪い事をしてはいけない、と教えられていながら、その言いつけを無視して行ってしまうのなら、罰を与えられなければなりません。

しかし、それではただ、罰を与えてしつければいい、というのかというと、もちろんそうではありません。

パウロはこうも言っています。

子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

エペソ人への手紙6章1節から4節まで(新改訳聖書)

この箇所では、父が神の教えと戒めによって子どもを育てなさい、といわれていて、先に言われたとおりこどもをしつけることも言われていますが、そこには実は「子どもをおこらせてはいけません」とも言われています。

それはすなわち、親が親の思うとおりになんでもただしつければよい、ということではない、ということが分かっていただけると思います。

しつけられても子どもがおこらないようにするにはどうすればよいでしょうか?

そのためには、子どもが親に自分は十分に理解されていると感じられるほど、親は子どもを理解していなければならないと思います。

平均的に日本人のお父さんはこの点が弱い、と感じます。

15歳から29歳の子どもをもつ親とその子どもに対して東京都がアンケートを行ったそうです。

標本数約4000、有効回収標本数約2000、ここでアンケートに答えてくれるような家庭の結果である、というバイアスがかかっていることを踏まえても、自分の悩みに父親が相談に乗ってくれているか、という質問に「その通り」と答えた子どもは1割しかいなかったそうです。

「大体そう」と合わせても、父親が「よく相談に乗ってくれている」と感じている子供は四割に満たないそうです。

おかしいのは「子どもの相談によく乗る」とこたえた父親が2割、「大体そう」が4割、あわせて6割は「よく相談に乗っている」と思い込んでいることです。

もし子どもが親に自分の思いが分かってもらえていないと感じていたり、自分の兄弟と比べてそれは不公平だ、と感じていたり、または親自身が子どもの目から見ても悪い事をしているのに、自分だけが罰を与えられるのは不公平だと感じたりしていたら、子どもは罰を受ける事を当然だと思うよりは、なぜそんな罰を受けなければならないのかと苦々しく感じるでしょう。

クリスチャンは子どもをしつけるべきです。しかしその一方で、子どもをおこらせてはいけない、ということが教えられています。

2.なぜこの箇所がこの場所で語られているのか?

さて、月に一度ずつになりますが、マルコによる福音書を通して、イエスのことば、イエスの行いを一章からずっと見てきました。

1章から8章まではイエスがいったい誰であるのか、ということがテーマに、9章から16章まではイエスがなにを行うために来たのか、ということがテーマになっている事を見ました。

今日は10章の13節から16節までなのですが、もう一度この箇所を読んでみましょう。

さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

マルコによる福音書10章13節から16節まで(新改訳聖書)

短い箇所ですね。分かりやすいところではあると思うのですが、この箇所を読むと、なんだか、この箇所の前の出来事と、この箇所の後ろの出来事にはなんのつながりもなくて、別にどこにあってもよさそうな箇所であると思われるのではないでしょうか。

しかし、この福音書の著者であるマルコは、前にもいくつか見てきましたが、ある物語をつなげることによって、ある教えを強調したり、読者に理解してもらいたい事をことばにしないで伝えようとしていたりしている事があると考えられます。

ここでも実は10章の初めから終わりまでは、イエスが故郷のガリラヤ湖付近の地域からユダヤの首都であったエルサレムへと移動するその間の出来事として伝えられていて、そこにはつながりがあります。

なぜこの箇所がこの場所で語られているのでしょうか?

この前の箇所は先月、見ましたが、パリサイ人とよばれるユダヤ教の宗教的な指導者たちがイエスのもとに来て離婚についてイエスに尋ね、イエスを試した、ということを見ました。

今月は子どもたちがイエスの前に来ます。

そして、次の箇所では、来月見ることになりますが、若くて金持ちで人々に尊敬されるような仕事に就いていて、なおかつ神の戒めは小さいころからみな守っているという非の打ちどころがないような人がイエスの前に現われてイエスに教えを請います。

さらにその後には弟子たちがイエスの前に来て、ベツレヘムに入場する直前に、目の見えないこじきであったバルテマイという人がイエスの前に来ます。

イエスがガリラヤからエルサレムへと移動するときにいろいろなエピソードがあったと思われますが、マルコがそのなかでこれら5つのエピソードを選んでここに記した、ということは、そこに何らかの意図があったのではないかと僕なら推測します。

それはどんなことでしょうか?

この箇所を続けて読めば、ここには明確な対比がなされているように思います。

すなわち、パリサイ人と呼ばれる宗教的な指導者たち、子ども、若く、金持ちの指導者、イエスに付き従っていた弟子たち、そして目の見えないこじきのバルテマイ、それらは世の力ある人たちと、弱いものたちという対比があるようです。

その中で、イエスに受け入れられ、自分たちの願いをかなえられたのは実は、子どもたちと、こじきのバルテマイでした。

そう考えると、ここで子どものように神の国を受け入れる、ということが、どういうことであるのかは、こじきのバルテマイがどのようにイエスに受け入れられたのかを見て見ることで、理解が深まるのではないかと考えられます。

こじきのバルテマイについては再来月にもう一度、見てみたいと思うのですが、ここではそのように対比させてあるつながりがあるのではないかということを心に留めていただければと思います。

3.なぜイエスは「憤った」のか?

さて、14節に、子どもたちを連れてきた人々をしかった、もしくは子どもたち自身をしかった弟子たちを見て、イエスは憤ったと言われています。

憤る、とはあまり使わない言葉ですが、広辞苑によれば、思いが胸につかえる、とか、恨み怒る、などという意味もあるそうなのですが、ここではひどく腹を立てる、という意味ですね。

弟子たちが行ったことに対して、それは全く間違ったことであり、そのことに関してイエスが怒りを感じた、ということでしょう。

なぜ弟子たちが子どもを連れてきた人たちをしかったのか、書かれていません。

もしかしたら、そのようなことで弟子たちの先生であったイエスをわずらわせたくなかったという弟子たちにとっては良心の動機があったかもしれません。

しかし、イエスは、弟子たちがどんな理由であったにしても、子どもたちを追い返したことに対して憤った、と言われています。

イエスがそのように憤ったと言われているのは、マルコの福音書ではここだけなのですが、なぜそんなにもイエスは怒ったのでしょうか?

これは前々回に、見た箇所なのですが、以下の箇所を考えてください。

それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

マルコの福音書9章36節、37節(新改訳聖書)

イエスはこの時、弟子たちに確かにこのような幼子のひとりでもイエスの名のゆえに受け入れるべきである事を教えました。

しかし、今日の箇所で、弟子たちはいったい何をしたでしょうか?

そのような子どもたちを受け入れるどころか、彼らは子どもたちをイエスの前から遠ざけてしまいます。

子どもたちを受け入れることはイエスご自身を受け入れること、イエスを受け入れることは神ご自身を受け入れること、弟子たちにはそのことがまだ分かっていませんでした。

この箇所は現在のクリスチャンたちにも十分に当てはまることであると思います。

クリスチャンは子どもに対して、自分が大人に対するのと同じように、いやそれ以上に注意を向けて関係を築くことが促されると思います。

子どもをイエスの名のゆえに受け入れる人は、イエスご自身を受け入れることだからです。

大変残念なことだと思うのですが、クリスチャンの先生と呼ばれるような人たちの中にも、子供向けの伝道の働きをないがしろにする人がいます。

子供向けの働きの場があるのに、自分は大人向けの働きしかしない、というのであれば、そのような姿勢に対して、イエスはもしかしたら、あの時と同じように憤っておられるかもしれません。

イエスが憤ったその理由は実は、この次のイエスの言葉からも理解されると思います。

すなわち、14節、イエスは言われました、「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

子どもたちのようにイエスの前に来ることは、人がイエスの前に来て神の国に受け入れられる事を示しています。

ということは、それを妨げるということは、人が神の国に受け入れられる事を妨げる事をも暗示していて、イエスが憤ったこともさらに理解されると思います。

9章42節でイエスはこう言っています。「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」

イエスはこのように子どもたちがイエスの前に来る事を妨げる事を大変憤りましたが、ここではさらに、別の教えがされています。

それは15節、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」という教えです。

子どものように神の国を受け入れる、とは一体、どのような意味でしょうか?

4.「子どものように神の国を受け入れる」とは?

4.1.純真?

ある人たちは、子どものように罪のない状態、純真無垢な状態で神の国を受け入れなければ、そこに入ることはできない、と考えます。

イエスは果たしてそのようなことを言っているのでしょうか?

いいえ、違いますね。なぜなら、聖書は子どもが純真無垢である、などという理解をしていないからです。

子どもが純真である、と考える人は、もしかしたら、子どもを育てたことのない人なのではないかなぁ、と考えます。

「純真」という言葉は広辞苑では「邪念や私欲のないこと」とありましたが、確かに小さな子どもには邪念というものがないかもしれませんが、私欲がない、ということはないですね。

何も教えなければ、デフォルトで、自分だけよければよい、という考えしかないものではないでしょうか。

子どものように純真でなければ神の国には入れない、とイエスが言っているのではもちろんないと考えます。

4.2.誘惑を知らない?

またある人たちは、子どもは罪を知らない、いろいろな誘惑をしらない、世の中のいろいろなわずらわしさをしらないものだ、だから、そのようないろいろな誘惑を知ってしまって、それらを取り去ることのできない自分は神の国を子どものように受け入れることはできない、と考えるようです。

この世界はいろいろな誘惑の多いものですね。

ほかの人の物をうらやんでしまう誘惑。

嘘をついてしまう誘惑。

盗んでもいいと考えてしまう誘惑。

自分だけよければいいと考えてしまう誘惑。

神なんて考えなくてよいと考えてしまう誘惑。

この世界に長く生きれば生きるほど、もしかしたら、多くの誘惑を知って、もう子どものようにはなれない、なんて感じてしまうかも知れません。

ある人が、子どものようになにも知らなかったのなら、私も神を受け入れられたのに、と言ったことがあります。

しかし、人は誘惑される事を知っていたからといって、神の国に入れないわけではありません。

私たちの大祭司は、─大祭司とはすなわちイエスのことですが、イエスは─私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ヘブル人への手紙4章15節(新改訳聖書)

試みに会われた、という言葉は別の箇所では誘惑に会った、(マルコ1:13)と訳されています。

イエスご自身、私たちと同じようにすべての点で誘惑に会いました。

いろいろな誘惑を知っていたからといって、神の国に受け入れられない、ということではありません。

確かにイエスは誘惑に会っても、罪を犯しませんでした。

私たちはもしかしたら、誘惑に会って、罪を犯してしまったかもしれません。

しかし、人が神の国に受け入れられるのは、罪を犯さなかったから、ではありません。

どうしたら人は神の国に受け入れられるのでしょうか?

4.3.どうしたら人は神の国に入れるのか?

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬・な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

ローマ人への手紙5章6節から9節まで(新改訳聖書)

初めに性悪説のところで言ったとおり、人は生まれながらにして罪びとであり、神の怒りを受けるものたちでした。

罪びとであるから、私たちはそれが悪いことであると知っていながら、機会のあるたびに、悪い事をしてしまうものです。

しかし、神は私たちがまだ罪びとであったときに、罰せられるべき私たちの代わりに、イエスを十字架の上で罰して、私たちの罪を赦してくださいました。

私たちが神の罰から救われたのは、私たちが罪を犯さないようになったからではなく、イエスが私たちの代わりにすでに神から罰を受けたからです。

4.3.依存すること

子どもであることの本質は、子どもは自分ひとりでは生きていくことができないことです。

今日の箇所で言われている子どもたちはイエスが自分の腕の中に抱くことのできるほど、小さな子どもたちでした。

並行するルカによる福音書では、ここでは子どもという言葉ではなく、幼子という言葉が用いられています。

幼子はたしかに自分ひとりでは生きていけません。

食べ物を得ることも、安全に寝る場所を得ることも、すべて、それができる大人に依存します。

私たちが神の国に入れることもそのようなものです。

私たちは自分の力で罪の力に打ち勝つことができません。

それを認めたくなく、自分の力で打ち勝とうとしても、かならず、失敗するものです。

そうではなく、もし私たちが子どものように自分に頼らず、イエスに頼って、イエスがすでに自分の罪のために罰を受けたことに頼るのなら、神はそのような私たちを受け入れてくださいます。

子どものように神の国を受け入れるとは、そういう意味であると考えます。

祈りましょう。

もし、今日、イエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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