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マルコの福音書10章1節から12節まで
1.聖書の結婚観 vs. 人の結婚観
1.1.神の計画 vs. 自己中心
1.2.子を育てる vs. 育てない
1.3.性的関係
2.「イエスをためそうとした」?
3.神は離婚を許したか?
4.再婚することは姦淫を犯すこと?
5.なぜ離婚に関してイエスの教えは厳しいのか?
6.どうしたら神の望まれる結婚を保つことができるか?
イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。イエスは答えて言われた。
「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」
彼らは言った。
「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」
イエスは言われた。
「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。そこで、イエスは彼らに言われた。
「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」
マルコの福音書10章1節から12節まで(新改訳聖書)
石井希尚さんというクリスチャンの方がおられます。
百万人の福音でも「キリスト教のウソ?ホント」という連載をされていました。
石井希尚さん、マレさんと呼ばせていただきますが、マレさんは東京調布にあるコミティッド・ジャパンの牧師もされていますが、本の著者としても、ゴスペル・シンガーとしても活躍されている方です。
マレさんが書いた本で「この人と結婚していいの?」という本があります。
僕は、結婚します、というクリスチャンの方にはこの「この人と結婚していいの?」という本をあげることにしているのですが、とても読みやすく、結婚について語られています。
ちょっと導入部分を読んでみましょう。
「あなた、どうして彼女と結婚したんですか?」
「お茶の水女子大卒業だったから」
「えっ、それが本当の理由?!」
「はい・・・」
「じゃあ奥さん、あなたはどうして?」
「はい・・・どうしても23歳までに結婚したかったんです。彼を逃したら23歳で結婚できなかったから・・・」
あいた口がふさがらないとはこのことです。初めからとうてい結婚するべきでない二人が、勢いで結婚してしまったとしか言いようがありません。
恋愛結婚で結ばれたこの二人。お互いに「この人が理想」と思っていたと言います。「その時はそう思った」のだそうです。
しかしほとんどのカップルが結婚を決める時はそう思っているのです。この二人の場合もそうです。大恋愛の末のスピード結婚。都内のチャペルで式を挙げ、めでたく1分に一組の結婚組の仲間入りを果たしたのです。ところが三年もたたないうちに破局を迎えてしまいました。彼女は言います。
「あんな男最低よ!あんな男につかまっちゃったから、私の人生は狂ったんだわ!私の3年を返せ!」
別居を申し出たのは彼女の方でした。話を聞いてみると出るわ出るわ、いろいろな話が飛び出しました。
彼は大学を七年かけて結婚前にやっと卒業したばかり。当然のことながら社会人一年生と結婚一年目が重なった訳です。共働きでなければとても食べていけません。入居した郊外のマンションは新婚にはちょっと高めの十五万円。
彼女にしてみると、職場からは遠く、狭いわりには家賃が高いと思っていたけれども、彼との愛の巣に値段はつけられないと、小さな不満は心に閉じこめて、新婚生活をスタートさせたのでした。ところが結婚直後に発覚したのは、自立心に乏しい夫の実態でした。その現実に彼女は結婚直後から愕然とさせられたのです。
共働きできゅうきゅうのところを、何とか彼女が家計のやりくりをしていました。それにもかかわらず、彼ときたら、やれ疲れた、やれ具合が悪いだのと、何とか理由をつけてすぐ仕事を休んで、家でごろごろしています。たまに外食すれば、彼女は節約して安いものを注文するのに、彼はといえば、値段なんかお構いなしで、コーヒーやデザートまで何でもかんでも無神経に注文する。一口ちょうだいと甘えてみれば「お前の一口は大きいからあげない」などと意地悪を言われる。独身の時に使っていた化粧品は高くつくから買えなくなり、彼女が少しずつ貯めたへそくりまで、彼のビール代に消えていく。
ところが、突然新車を購入した彼に、まだ買い換えなくてもよかったのにというと「俺の金で車を買って何が悪い!」とひどい剣幕でまくし立てる。荷物がどんなに重くても絶対に持ってくれない。彼女がどんなに疲れていても家事を手伝うことなんか決してない。おまけに彼は癇癪持ちで彼女を平手でぶったりするというおまけまで付いている、というのです。
「私の人生はこれで終わりなのかと思うと悲しくてしかたなかった。誰かに知ってもらいたかった。だけど、誰にも言えないと思っていた。恥ずかしいし、自分の責任も半分はあるから・・・」
二人はほどなく協議離婚の道を選択しました。不幸にして、約一分四十秒に一組の離婚組の仲間入りを果たしてしまったのです。結婚生活の準備をしてこなかったことの悲劇です。こんなことになるなら、初めから結婚しなければよかったのに・・・。
もちろん人は離婚から多くを学びます。離婚という悲劇を未来への教訓とすることもできます。しかし、離婚に伴う精神的な苦痛や、傷の深さ、犠牲となる子ども・・・このようなあまりにも高い代償を支払わなくても十分に学ぶことができるのです。未来への教訓のために結婚するよりも、未来への希望のために結婚する二人であってほしいものです。」
...
「結婚は人生の墓場」。20歳のころまで私は完全にそう思っていたし、絶対に結婚だけはするものかと思っていました。私の両親も離婚しており、母が精神的苦痛を味わったのを目撃していたし、別居している両親の狭間で私自身もいやな思いをしたからです。これが結婚ならしない方がましだと思っていたのです。「同棲はするかもしれないけど、結婚なんて絶対にいやだね」私は常々そのように語っていたものです。
そんな私の価値観が劇的に変化したのは、20歳のとき、アメリカで大変に名の知れた牧師夫妻に出会ったことがきっかけでした。講演会のために来日した彼と、私は競演することになったのです。音楽で講演に華を添えるのが私の仕事でした。そのようなわけで、来日中にこのご夫妻と個人的に接することになったのですが、彼らと行動を共にする中で、私は本当に驚かされたのです。この夫婦のあまりにも仲がいいことに。
「私たち夫婦は、結婚してから25年以上経ちますが、いまだに結婚したときのままです。いまだに恋愛しているのです。私たち二人は、結婚してから一度も月曜の夜の二人だけのデートをキャンセルしたことがありません。25年以上経った今も、月曜の夜は必ず二人だけでロマンチックな夜を過ごすのです。」彼らは多くの人の前でそう公言してはばからないのです。
私はそんなのは嘘だと思いました。
「人前でどんなに綺麗ごとを言っていても、家では妻につらく当たっていたり、子どもに尊敬されていなかったりと相場は決まっている。へん、こいつは人前では偉そうに説教するくせして、本当はとんでもない大嘘つきだ。」私はそう思いました。
だいたい結婚して25年以上たっても昔のままだなんていうことがあるわけがない、そんなことは不可能だ、と思っていたのです。来日講演には、ちょうど私と同い年の娘が同行していました。私は今でも彼女の言葉を忘れることができません。
「君もクリスチャンなの?君、どうしてクリスチャンになったんだい?」
すると彼女が美しい笑顔でこう言うのです。
「私は両親を見ていて、こんな家庭を築けるなんてすばらしいと思ったわ。私もこんな風に平和で神を愛する家庭を築きたいの」
彼女の返答があまりにも意外だったので、私は言葉を失いました。牧師だか、ボクシングだか知らないけれど、まさか家庭の中では一番ボロが出やすいのに、内側を全部知っているはずの娘が、「こんな家庭を築けるなんて素晴らしいわ」などと躊躇なく言えるとは、同い年の私には想像もできないことだったのです。
私の考えはこの時はっきりと変わったのを覚えています。私はこう思いました。
「結婚が人生の墓場じゃないってことが、あり得るんだ!」
「25年経っても恋愛中ってことが可能なんだ」
そしてこの時私は決めたのです。
「こういう結婚をしよう」
続きはどうぞこの本を読んでみてください。
人は結婚をなんだと思うでしょうか?
マレさんの例えでは「結婚は人生の墓場」だそうでした。
それはどういうことでしょうか?
大人になって親からも誰からも束縛されず自由に─ほぼイコール自分勝手にという意味ですが、自由に─生きれるようになったのに、結婚するということは、夫としての義務、妻としての義務、父としての義務、母としての義務、新しい家族の一員としての義務、そのような義務に縛られて自由に─ほぼイコール自分勝手にという意味ですが、自由に─自分の好きなことができない、自由に生きられない、そのような意味かもしれません。
墓場ということは結婚した人は死んだも同じ、なぜなら恋愛をしていたころのようなエネルギーに満ちた生き方ではなくて、なんだか惰性で生きているのだか死んでいるのだか分からないようなつまらない人生になるから、そのような意味かもしれません。
もしくは、一緒に暮らすのが苦痛な人と一生一緒に暮らし続けなければならない、それは墓場というよりは地獄、とたとえたい気もしますが、もしくはそのような思いを表現することでもあるかもしれません。
聖書は結婚とはなんであると言われているでしょうか?
神が世界を創造されたとき、神は人を男と女とにつくり、こう言われました。
「それゆえ、男はその父母(ちちはは)を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」
男は「父母を離れ」とあります。
父母の元にいて父母に守られて生きるのではなく、そこから自立することが言われていると思います。
「妻と結び合い」
文脈からここで言われている「妻」とはまぎれもなく女性のことです。
男が男と結び合うのではなく、女が女と結び合うのでもなく、男は女と結び合います。
近頃、西欧諸国の間では同姓による結婚が認められるべきか、認められざるべきか議論されていますが、聖書の言葉によれば、同姓が結び合ってもそれは神の定められた結婚ではないことになります。
自分がしたければどのような結婚をしてもいい、またそれを法律で認めるようになるならば、今は同姓の結婚が取りざたされていますが、そのうち例えば兄弟、姉妹との結婚、ペットとの結婚、車との結婚、なんでもありになってしまうかもしれません。神が定めたのは男と女の結婚です。
「結び合い」
結び合う、とは原語では二つのものを一つにくっつける意味があるそうです。互いに付き従い、互いに離れないこと、そして
「ふたりは一体となるのである。」
「一体」とは文字通り、一つの体、一つの肉になることで、夫婦がすべての面において結び合い、肉体的な面でも文字通り一つとなることが言われています。
一人の男性と一人の女性が結び合いました。一人の男性と多くの女性でもまたその逆でもありません。結婚とはあるただ一人の人を決めて、その人と、その人のみと結び合うことです。
浮気や不倫をすることが大変軽く考ええられてきていますが、聖書の観点から夫婦のうち片方が、そのパートナーでない人とセックスをするなら、それは神が結び合わせたものを引き剥がしていることになります。
神が望まれた結婚は、男性と女性が結び合い、一体となり、離れないことですが、それでは、結婚しない人はなにか半人前なのでしょうか?そのことについてはアウトラインの5番にてお話したいと思いますが、それではなぜ神は男性と女性が結びつくような、そのような結婚を望まれたのでしょうか?
なぜ神がそのような結婚を望まれたのか、旧約聖書の最後の書、マラキ書に記されています。ここの箇所は新改訳聖書よりも新共同訳聖書の訳のほうがずっと分かりやすいので、新共同訳聖書を読んでみましょう。なぜ、神が結婚を望まれたか、に注目してください。これは預言者マラキがユダヤ人に対して語った神のことばです。
同様に、あなたたちはこんなことをしている。泣きながら、叫びながら/涙をもって主の祭壇を覆っている。もはや、献げ物が見向きもされず/あなたたちの手から受け入れられないからだ。あなたたちは、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。わたしは離婚を憎むと/イスラエルの神、主は言われる。離婚する人は、不法でその上着を覆っていると/万軍の主は言われる。あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。あなたたちは裏切ってはならない。
マラキ書2章13節から16節まで(新共同訳聖書)
自分が愛すると誓った人を裏切ること、すなわち自分のパートナーから離れようとすることを神は憎む、と言われていますが、しかし、なぜ神が霊と肉を持つひとつのものを造られたのか、すなわち結婚によって二人を一体としたのか、それは、「神の民の子孫が求められるから」とあります。
すなわち、神が結婚を望まれたのは、それによって子どもが生まれ育てられるためである、という目的があります。
それは、子どもを産めなければ結婚をしてはいけないのか?ということではありません。しかし、結婚をして子どもを授かりたいと願わないとしたら、それは一体どうしてでしょうか?
意図せず、アエラという雑誌の最新号を手にすることがあったのですが、そこには生まれる子どもの数が少なくなっている、いわゆる少子化の問題が特集されていました。
「ウマネーゼたちの言い分」─ウマネーゼというのは結婚しても子どもを産まないと宣言する/決める女性のことを指すそうですが、そういう女性たちの言い分、と題した記事を、すこしかいつまんで読ませていただきます。
自分もまだまだ大丈夫─。横浜に住む専業主婦のミユキさん(37)は今年、同じ年の友人二人の出産に、内心ほっとした。公務員の夫(46)と結婚したのは3年前、いつかは子どもが欲しいと思ったが、しばらくは夫婦だけの気ままな生活を満喫したかった。旅行に行ったり、映画のレイトショーを観たり、ホテルのバーで飲んだり、あっという間に3年が過ぎていった。
今の自分のライフスタイルを維持したいために、こどもを産まない。あるいは先延ばしにする。少子化の原因として最近、結婚しない男女の存在がクローズアップされてきたが、一方で結婚しても産まない「ウマネーゼ」たちも増殖している。
出生動向基本調査によると結婚5年から9年で子どもが一人もいない夫婦は、1982年には4.3%だったが、2002年には10.5%に増加、結婚10年から14年の夫婦でも、2.6%から5.0%に増えた。
子どもを欲しくない人が増えているというデータもある。家計経済研究所の消費生活に関するパネル調査では─パネル調査というのは、調査される人を一定期間固定して、定期的に同じ内容の項目について調べる調査のことをいうそうで、時間の経過とともにどのように結果が変化したかをみることができるそうですが─94年では欲しくない人は9.8%、これが2000年には23.2%に激化した」とあります。
ウェブデザイナーのエリさん(34)は、やりたいことがたくさんあって、出産までパワーがいかない。子どもはかわいいと思うし、自分がもう一人いたら、絶対に産んでいる、とも思う。
最近、夫が子どもが欲しい、と口にするようになった。どうも、弟の結婚に刺激されたらしい。だが、もともと性的に淡白な夫とは、この十年間セックスレスだ。もはや「同居人」で、男として見ることはできない。いまさらセックスはしたくないし、人工授精をしてまでこの人の遺伝子を残したい、という思いも沸いてこない。
地方公務員のヒロシさん(42)は旅行好きで、年に2回約2週間の休みを取って、同業の妻(36)と欧州の古都などを回るのが何よりの楽しみだ。子どもができれば、自由に旅ができなくなる。人間、いつ、何があるのかわからない。刹那的かもしれないが、健康な時に自分の人生を自分のために生きたい、というのが本音だ。
自分中心、人を育てる、ということがかけがえのない貴重な体験だ、という思いはまるでないのでしょうか?
「ウマネーゼ」が良くない、というとなんだか女性ばかりが悪いという印象を与えてしまいますが、もちろんそうではありません。日本はもともと先進諸国の間では夫が育児に関わる時間があまりにも低いことで知られていますが、仕事や遊びに没頭して人を育てることを尊ばない男性、育児は妻に全部まかせっきり、というような男性にも原因があることが言われています。
長くなるので読みませんが、アエラには「育児しない夫たちの逆ギレ離婚」というまさに自分勝手な夫たちのことも記事になっています。
二人の人が結び合い、一つとなって子どもを育てることが神の計画でしたが、形式的には結婚してもひとつとならない、また子どもも育てない人たちが増えている、というのが現状です。
夫婦が一体となる、という言葉には、そこには性的な関係があることを意味しますが、セックスをしない夫婦が増えていることも近年言われるようになりました。
しかし、夫婦がセックスを楽しむことは神の計画である、と僕は考えています。
人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。
申命記24章5節(新改訳聖書)
最初の一年間は何の公的な義務も負わず、その分の時間は妻を喜ばすために!すばらしい教えではないでしょうか。妻を喜ばす、という言葉には子どもを授かる、という意味と、性的に満足させる、という意味とがあるそうです。
それは男性の義務、ということになります。
新約聖書にはまた、こうも書かれています。これはパウロのクリスチャンたちに対する言葉です。
しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。
第一コリント人への手紙7章2節から5節まで(新改訳聖書)
「不品行」とは性的な罪のことですが、そのような罪を犯さないために結婚しなさい、というのは、セックスを楽しみたかったら結婚しなさい、ということでもあると考えます。
この箇所で言われている「義務」とは明示されていませんが、相手を喜ばせ、相手が自分以外の相手と性的な罪を犯すことを予防することであるでしょう。
男尊女卑の社会では夫は妻のからだに関する権利を持っていて、例えば日本でも江戸時代くらいまでは妻が他の男性とセックスしたことが知られれば姦淫罪で死刑だったそうですが、夫が姦淫をしても罪にはならなかった。
聖書は2千年も前から、しかし、後にも言われますが、実は創世記のときから、夫と妻は一体であって、互いに自分のからだの権利をもっていおらず、互いに相手のからだの権利を持っていました。
10年前のアメリカのタイム誌に載っていた記事なのですが、3500人を対象にした性に関する学術的調査が行われました。
いろいろ興味深い報告がされています。例えば、セックスの回数ですが、大体3分の一は週に数回、3分の一は月に数回、3分の一は年に数回かゼロ、というような調査結果です。
ここで特に取り上げたいのは、セックスをもっとも楽しんでいる女性、具体的には毎回オーガズムを得ている女性はどのような人たちかというと、それは保守的プロテスタントのクリスチャンたちである、という報告です。
タイムの記者もこのことについては “believe it or not” と言っていますが、先ほど述べたように、自分だけが楽しくなるような自己中心のセックスでなくて神の教えとして相手を思いやり、相手を楽しませるようなセックスが夫婦には求められているのであるならば、当然の結果、といえるでしょう。
さて、今回は特に長かったのですが、ここまで前置きでした。ずっとマルコによる福音書を学んできましたが。今回はマルコによる福音書10章の1節から読んでいきましょう。
1節「イエスは、そこを立って─そこ、というのは前回、イエスがガリラヤ湖付近での宣教の拠点としていたカペナウムという町にある、おそらくはペテロの家のことだと思われます、そこをたって、今度は─、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。」
これからイエスは故郷のガリラヤを離れて、エルサレムに向かい、そこで処刑されることになります。
2節「すると、群集がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。」
パリサイ人、というのはユダヤ人のうちでパリサイ派と呼ばれる教えに従っていた人たちのことを言います。彼らは厳格に旧約聖書の教え─これは律法と呼ばれていましたが、その律法─を守ろうとすることで、ローマに支配されていたユダヤ人たちを神が救ってくださる、と考えていました。
神に従おうとすることはもちろん正しいことですが、しかし、彼らは神に聴き従おうとしたのではなく、自分が作った戒め、そしてそれはときに大変自分に都合のいいものであったのですが、そのような教えに従うことで、自分は神に認められている、と勘違いしていました。
例えば確かに神は、安息日には仕事してはならない、と言われましたが、安息日に人を癒していたイエスに対して、パリサイ人たちはそれは仕事であってしてはならないのだと非難しました。
神が安息日によって私たちになにを求めておられたのかを知ろうとはせずに、ただうわべだけ神に従っているように見せるのがパリサイ人たちでした。
パリサイ人たちはイエスが安息日も守らず、またパリサイ人たちが定めた教えにも従わず、しかし、人々を教え、癒し、悪霊をおいだし、奇跡を行うことで人々からイエスこそ神から遣わされた預言者である、という評判が広まっていくことを恐れていました。
マルコの福音書3章6節では、パリサイ人たちがイエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた、とありました。
そのようなパリサイ人たちがイエスのもとに来て「夫が妻を離別することは許されますか?」という質問をしましたが、それはイエスをためそうとしたのである、とあります。
どうしてそのような質問をすることがイエスをためそうとしたことになるのでしょうか?
マルコの福音書にはイエスの前に、バプテスマのヨハネと呼ばれる人が人々の前に現われて、宣教をしたことが言われています。
聖書によれば、このバプテスマのヨハネはイエスが来られる事を告げるために神が遣わした預言者であることが言われていますが、このバプテスマのヨハネはユダヤの王、ヘロデが自分の妻を離別して義理の兄弟の妻、ヘロデヤを妻としたことを非難しました。
そのことを苦々しく思っていたヘロデヤの策略によってバプテスマのヨハネは処刑されてしまったことが、マルコの福音書の6章に記されています。
ヨハネがヘロデに処刑されたことは新約聖書だけでなく、同年代のユダヤ人の歴史家ヨセフスの書にも記されていて、歴史的な事実であることが認められています。
ヨハネとイエスは同じく、神に対する悔い改めをとき広めましたが、ヘロデはそのようなイエスを見て、イエスはヨハネがよみがえったのだ、と考えていた、と言われています。
実は、このユダヤ地方とヨルダンの向こうという地域はこのヘロデ王の土地であって、そこで妻を離別することについての教えをすることは、その教えによってヘロデ王に処刑されたヨハネのように、大変に危険なことでもありました。
おそらくパリサイ人たちはそのような背景も含めて、このとき、イエスに「夫が妻を離別することは許されるかどうか」という質問をしたのでしょう。
3節、「イエスは答えて言われた。『モーセはあなたがたに、何と命じていますか。』彼らは言った。『モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。』」
イエスの生きた2000年前をさらにさかのぼること1300年前ごろ前、モーセという預言者がユダヤ人の間に現われました。神はモーセを通してユダヤ人たちに神の言葉を与えましたが、それは旧約聖書の最初の5書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記として伝えられていて、これが律法と呼ばれました。
パリサイ人たちはこれら5つの書に書かれていることに十分親しかったはずですが、そのうちの申命記の24章1節から4節には次のように書かれています。
人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。女がその家を出て、行って、ほかの人の妻となったなら、次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。
申命記24章1節から4節まで(新改訳聖書)
ここでは戒めとして二つのことが言われていますね。一つは「妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いて妻を家から去らせなければならない、すなわち離別しなければならない」と言われていること、そしてもう一つはそのようにしたら、なにがどうしても離別した妻を再び妻とすることはできない、と言われていることです。
これは日本語訳の聖書では新改訳でも共同訳でも妻を離別することは戒めであるように言われていますが、しかし、例えば原語の直訳に大変近いと言われる New American Standard Bible では次のように訳されています。
When a man takes a wife and marries her, and it happens that she finds no favor in his eyes because he has found some indecency in her, and he writes her a certificate of divorce and puts it in her hand and sends her out from his house, and she leaves his house and goes and becomes another man’s wife, and if the latter husband turns against her and writes her a certificate of divorce and puts it in her hand and sends her out of his house, or if the latter husband dies who took her to be his wife, then her former husband who sent her away is not allowed to take her again to be his wife, since she has been defiled; for that is an abomination before the Lord, and you shall not bring sin on the land which the Lord your God gives you as an inheritance.
Deuteronomy 24:1-4 (New American Standard Bible)
すなわち日本語で略して訳すと、夫が妻を離縁し、その妻に離縁状を渡して家から去らせ、その女が他の人の妻となり、次の夫も彼女をきらい、離縁状を渡して家から去らせたのなら、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない、と訳することができます。
最初に妻を離縁することは命令ではなくて、もしそのような状況が起こったときは、という条件を述べていることになります。
離縁した妻が他の人の妻となった場合い、さらに離縁されてもまた再婚することができない、という命令の根底にあるのは、人が簡単にその妻を離縁し、また結婚し、というように結婚の関係をないがしろにしないためではないかと考えられます。
離別することは命令ではなく、そのような状況が起こってしまった事を許容することで、それは神が離婚をしても良い、ということを認めたことではなく、罪ある人が妻を離縁してしまった場合、どのように対処するべきか、をここでは教えていることになります。
なぜ、そのような教えをしなければならなかったのか。それは次のイエスの言葉に示されています。
5節「イエスは言われた。『モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。』」
「心がかたくな」というのは神に従いたくない心のことを言います。人が神の意思、すなわち、夫は妻を離婚してはならない、という神の教えに従いたくないので、そのために起こってしまったことに対処するため、モーセはこの命令を書いた、とあります。
しかし、それは神が本来、望まれたことではありません。神の計画は人がその父と母を離れて、二人の者が一心同体になること、それは引き離せないことです。
10節、「家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。そこで、イエスは彼らに言われた。『だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。』」
イエスは妻を離別して別の女と再婚するなら、それは前の妻に対して姦淫を犯すことである、といいました。
姦淫とは結婚の関係にある人が自分のパートナー以外の人と性的関係をもつことですが、離婚して再婚したのなら、それは姦淫なのではない、と人間的には考えられるかもしれません。
しかし、神が結び合わせたものを人が引き離すことはできません。
法的に離婚していても、神の目には最初の夫と最初の妻はまだ結婚しているのであり、そのような状態で夫が他の女性と結婚しようとするなら、それは姦淫となります。
ここにはいろいろな注釈がつけられるべきです。
例えば並行するマタイの福音書によれば、「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです」と言われています。すなわちもし、自分のパートナーがすでに姦淫を犯してしまっていたのなら、その結婚は神の前にすでに引き離されてしまったものであり、離別しても自分は姦淫を犯すものではないでしょう。
他にも離別したものではなくて一方的に離別されたものは再婚しても姦淫とはならないのか?クリスチャンでない二人が結婚して一方がクリスチャンになり、クリスチャンでない方が離婚を望んだ場合はどうなるのか、聖書学者、牧師たちの間でも意見が分かれていて、もし本当にそのような状況におかれた場合には、神が何を求めておられるのかを模索しなければならないと思います。ここでは一般的な教えだけを述べるにとどまりますが、もしそういうもうすこし特殊な状況にあって、聖書の答えを知りたい、という方は電子メールなりで相談いただきたいと願います。
結婚とは神が二人を結び合わせることで、人が引き離してはならない、というイエスの教えはある人たちにとってはとても厳しいものと考えられます。
すでに結婚されていて、その結婚生活の中で苦しまれている方、離婚をすればむしろ楽になるのではないかと考えられている方には特にそうです。
なぜ離婚に関してイエスの教えは厳しいのでしょうか?
それはこの地上での結婚は「本当の結婚」を象徴するものであるから、と僕は考えます。
以下の箇所にはいろいろなことが言われていてその一つ一つをここでは説明しませんが、、「本当の結婚」とはなにか?ということを念頭において読んでみましょう。
妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。
エペソ人への手紙5章22節から33節まで(新改訳聖書)
ここの箇所にも「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる」という、創世記の一節が述べられています。ですが、パウロはそれは何を表していると言っているでしょうか?
キリストと教会を指している、といっています。すなわち、人の本当の結婚とは人がキリストと結ばれることであって、地上の結婚はその本当の結婚を表している言わば、シンボルに過ぎない、ということになります。
今日のメッセージの初めの方で結婚していない人は半人前なのか、などと問題提起しましたが、そうではないですね。たとえこの地上で人的な結婚をしなかったとしても、霊的な結婚によってキリストと結び合わせられることによって人は完全なものとなれる、ということです。
もし神に従っているというクリスチャンたちがこの地上で他の人たちと同じように愛のない結婚生活を送っていたとしたのなら、それはキリストと教会の関係を表すものとしてはあまりにも残念な状態です。
愛のない結婚は人とキリストとの間に愛がないことを示しますし、離婚は人がキリストから離れていく事を表します。
ですから、イエスは、神は、結婚について特に厳格な教えをクリスチャンたちに与えているのではないか、そのように、考えます。
どうしたら神の望まれる結婚を保つことができるでしょうか?
もし人がまずキリストに結び合わされていないのだとしたら、そのような人が本当の結婚、すなわちキリストと教会の関係を表す結婚を、表すことはできないでしょう。
しかし、もし、キリストに結び合わされているのなら、夫は自分のからだを愛するように、いやむしろキリストが教会のためにご自身をささげられたように、自分を捨てて妻を愛することを目指せるようになりますし、妻もまたそのような夫を尊敬して従うことが目指せるようになるのだと考えます。
祈りましょう。
もし、今日、イエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience