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マルコの福音書9章33節から50節まで
1.争いって?
1.1.なぜ人の間に争いが起こるのか?
1.2.どうしたら争いをなくすことができるのか?
1.3.争わないでいることができますか?
2.弟子たちの議論
3.「だれでも人の先に立ちたいと思うなら...」
4.「つまずき」とは?
5.「塩」とは?
6.どうしたら「互いに和合して」暮らせるのか?
カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。
「道で何を論じ合っていたのですか。」
彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。
「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。
「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
ヨハネがイエスに言った。
「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」
しかし、イエスは言われた。
「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」
マルコの福音書9章33節から50節まで(新改訳聖書)
高校生のころ僕は音楽のバンドの中でベースギターを弾いて、そのころ日本で流行っていた曲を弾いていました。
一年目はアルフィーというバンドの曲、二年目はアースシェーカーといういわゆるハードロックバンドの曲、三年目は爆風スランプというバンドの曲でした。
実はぜんぜん関連性がないのですが、それぞれ違った風味のなるバンドですね。
バンドはいわゆる部活内での活動だったわけですが、僕たちのバンドはフォークソング部に属していました。
そして、バンドの中でキーボードを弾こうがドラムをたたこうがその部活の方針として、部員は全員、フォークギターを買ってフォークギターが弾けるようにならなければなりませんでした。
それはそれでなかなか面白かったです。
僕はフォークギターではなぜか主にチェッカーズ弾いていました。
それぞれ、自分の好きなバンド、またはアーティストの曲を弾くようになっていたのですが、僕のバンドのドラマーはなぜかさだまさしさんを主に弾いていました。
さだまさしさんには「関白宣言」という曲がありますね。
お前を嫁にもらう前に言っておきたいことがある。
かなり厳しい話もするが俺の本音を聴いておけ。
というやつですね。
日本では結婚した女性と、その女性の夫のお母さん、姑、と言いますが、その姑と妻の仲が悪いものだ、という伝統がありますね。
なぜそうなのか、は良く分かりませんが、けんかなんて誰ともせず、誰にでも笑顔のお母さんも、自分の子どもの妻となると、もしくは自分の夫の母となると、仲が悪いということがあります。
このさだまさしさんの歌ではこういう二番がありますね。
お前の親と、俺の親と、どちらも大事だ、大切にしろ。
姑、小姑、かしこくこなせ、たやすいはずだ、愛すればいい
沢知恵(さわ、ともえ)さんという僕と同い年のシンガーがいます。
彼女はどうもクリスチャンであるそうなのですが、逆・関白宣言という曲を歌っています。
その二番ではこういう歌詞があるんですね。
あんたの親と、私の親は、所詮は他人よ、こころしておいてね
姑、小姑、熾烈なバトル、ギャラリーでいい、楽しんでちょうだい
なぜ人の間に争いが起こるのでしょうか?
自分勝手、わがまま、自分はこうしたい、でも相手はこうしたい、そういうときに争いがおこりますね。
それではどうしたら争いをなくすことができるでしょうか?
さだまさしさんは、先の関白宣言では「たやすいはずだ、愛すればいい」と言いましたね。
それは現実的ですか?
どうしたら愛することができますかーって言いたくなりますよね。
争うことは自分にとっても相手にとっても周りにとってもよくないことであることは誰でも分かっていることですね。
あのぴりぴりした空気、いらいらした感情、あの行き詰るような沈黙、いやですねー。
誰もがいやだと分かっているのなら、どうして争わないでいることができないのでしょうか?
今日は特にクリスチャン同士の間での争いについて、イエスがなにを教えているのか見ていきたいと思います。
33節、「カペナウムに着いた。」
カペナウムはマルコの福音書の2章にも言われていましたが、ガリラヤ湖の北西の湖畔にあった街で、ペテロの家、もしくはペテロの姑の家がありました。
イエスはそこをガリラヤ湖付近での活動の拠点としていたようです。
「イエスは、─おそらくはそのペテロの─家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。」
イエスはもちろん、弟子たちがなにを論じ合っていたのか知っていたと思いますが、このように弟子たちに聞くことで、また弟子たちがそれに答えられないことで、弟子たち自身、自分たちの議論していたことが正しいことではなかったことを再確認させられました。
「だれが一番偉いか」
偉い、というのは広辞苑では「すぐれている、人に尊敬されるべき立場にある」とありました。
そのほかにも、「偉く寒いねー」とか「偉いところであったねー」とかぜんぜん違う意味にも使われるそうですが、もし、なにか階級、ランク、レベルというものがあったとしたなら、誰が一番上にいるべきか、というような議論であったのではないかと思います。
「だれが一番偉いか」
そんなの神様に決まっているじゃないですか、ということではなくて、平行するルカの福音書には「弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」と言われています。
どうして弟子たちがそんな議論をしていたのか、書かれていません。
もちろん、人が集まってグループを形成すれば、そのなかで誰が一番偉いのか、なんていう議論が持ち上がるのは実に自然なこと、ともいえるわけですね。
おそらく思い当たりのある方もいるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
とにかく、なんらかの理由で、またはごく自然なこととして、弟子たちの間には、自分たちのなかで誰が一番偉いのか、という議論がされていました。
イエスはそのような弟子たちに教えます。
35節、「イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。」
注解書によれば、ユダヤ人の習慣として、教師は大事なことを教えるとき、座って話すそうです。
ここでわざわざ、「イエスはおすわりになり」と言われているのはこれらかイエスが大事なことを教えようとされていることを示しています。
35節、「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕えるものとなりなさい。」
原語では「最初になりたい人は最後になりなさい」というような意味だそうです。
ギリシア語で「最初」ということばには、一番初め、という意味と共に、なにかの階級においてもっとも上の、という意味があるそうです。
逆に「最後」ということばは、一番後に、という意味と共に、なにかの階級においてもっとも下の、という意味があるそうです。
「一番偉くなりたい人は自分を一番低くしなさい」とも言い換えられるかもしれません。
偉くなる、とはどういうことでしょうか?
それは人が自分の言うことを聞く、人が自分に仕える、という状態です。
一番、ということは誰もが自分に仕える、状態です。
ある人は「偉くなる」ということばを聞いて、確かに自分は「偉くなりたい」と思っている、と考えられるかもしれません。
ある人は「偉くなる」ということばを聞いて、自分はそんな「偉くなりたい」なんて思っていないから、この言葉は自分に当てはまらない、と考えられるかもしれません。
しかし人は誰もが進んで仕えたい、と思うよりは自分が人に仕えられたいと思うものです。
イエスは、イエスの弟子たる人は、みなに仕える人、仕えようとする人でなければならないことを教えました。
「みなに仕える」とはどういうことなのか、イエスは続けてひとりの子どもを例にして弟子たちを教えます。
36節、「それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。『だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。』」
「幼子を受け入れる」と言われて、「もちろん、かわいい子どもたちを受け入れない人がどこにいるでしょうか」と考えられる人もいると思うのですが、このイエスの言葉の背景には、幼子、というのは自分が相手にする価値のないもの、という弟子たちの考え方がありました。
この後の10章で、人々が子どもたちをイエスのところに連れてきますが、弟子たちはそのような人々をしかります。それを見たイエスは逆に弟子たちをしかって、「子どもたちをわたしのところに来させなさい」と言って子どもたちを抱き、その上に手を置いて祝福された、とあります。
弟子たちにとって幼子を受け入れる、幼子に仕える、という考え方はあまりにも自分たちの考え方から離れていました。
「わたしの名のゆえに」「イエスの名のゆえに」という言葉は、たとえ自分は自然には受け入れることができなくても、しかし、イエスの言葉の言葉の通り、自分はイエスの弟子であるゆえに、受け入れるのなら、という、自分の自然の反応を超えた行いが求められていることが思わされます。
もしそのように、自分が取るに足らないと思っていたような人に対しても、自ら仕えようとするのなら、それはイエスに仕えることであり、また神に仕えることです。
もし、だれでも、どんな人でも、受け入れようとしないのなら、それはイエスを受け入れないことであり、また神を受け入れないことです。
イエスを信じる人たちは、イエスの名のゆえに、誰をも受け入れる、誰にでも仕える者であるべきことが教えられています。
38節、「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』」
38節のヨハネの言葉は、なんだか前のイエスの言葉とは脈絡が通っていないようで、別のときの話のように考えられることもありますが、しかしルカの福音書によれば、ここでは、ヨハネが答えて言った、と言われていて、確かにイエスのこの言葉に対して、ヨハネが答えた言葉であったことが伝えられています。
なぜヨハネは突然、こんなことを言い出したのでしょうか?
「だれが一番偉いか」と論じていたことが正しくないことであることを指摘され、さらに幼子を受け入れられない人はイエスを受け入れられない、さらに神を受け入れられないことであることを示された弟子たちは、もしかしたら、なんとか自分たちのよいところをイエスに示したかったかもしれません。
もし、クリスチャンはみなに仕えるべきです、誰をも受け入れるべきです、と言われて、ああ、確かに私はそうできていない、私はあの人とはどうしても気が合わなくて、過去のことがあって、関わりたくない、なんて、思わされたのなら、もしかしたら逆に、ですが、私はこれだけよいことをやっているのです、と私たちは、自己を正当化しようとする、のではないでしょうか?
同じように、もしかしたら、ヨハネは、自分たちはイエスに認められることをした、と言いたかったかも知れませんが、しかし、それは自分たちの理解のなさをさらに示すこととなりました。
39節「しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」
マルコの福音書の3章にて、イエスが12弟子を特別に任命して、彼らに福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を与えたことが言われました。
ここにはその弟子たち以外に、イエスの名を唱えて悪霊を追い出している人がいた、と言われています。
もちろん、イエスの名をただ唱えれば誰でも悪霊を追い出せる、というわけでは決してありません。
使徒の働きの19章にはイエスのことを信じていない人がイエスの名によって悪霊を追い出そうとしますが、逆に悪霊につかれている人に打ち負かされたことが伝えられています。
イエスの名によって力あるわざを行っていたこの人は、おそらくはイエスを信じ、イエスにより頼む人であったと考えられます。
実に弟子たちのようにイエスにいつも付き従うイエスの弟子もいれば、イエスにつき従わなくともイエスを信じる人たちもいました。
例えばマルコの福音書15章にでてくるアリマタヤのヨセフと呼ばれる人はイエスと共に行動をしていたわけではありませんが、イエスを信じる人でイエスの弟子たちが誰も逃げてしまったとき、十字架にかかって死んだイエスのからだの下げ渡しを願いました。
十二弟子たちのようにイエスにいつも付き従う人たちもイエスの弟子でしたが、イエスと行動を共にしなくとも、イエスが神からもものであることを受け入れた人たちもイエスの弟子でした。
ヤコブはヤコブの手紙の中でクリスチャンたちに「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」と言っています。
イエスの時代、12弟子以外に、確かにイエスの名によって悪霊を追い出すことのできる人がいました。
しかし、それを見た弟子たちは、おそらくは前回見たように、弟子たち自身が悪霊を追い出すことができなくなっていたことも合わせて、そのように自分たち以外に悪霊を追い出している人を受け入れることができなくなっていました。
それは、なにかの仲間意識、自分たちの仲間に加わらないのなら、その人はイエスの弟子ではない、というような考え方、もしくは自分たちだけがイエスの弟子である、というなにかの特権意識であったかも知れません。
しかし、イエスは、イエスを信じる人はすべて受け入れるべき自分たちの味方であることを教えています。
41節「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」
「水一杯でも飲ませる」というのは、水が足りないときには自分のいのちにも関わるような大事なことをしてもらったことですが、水が豊富なときには大変大変小さな行いであることですね。
ここではおそらく後者の意味で使われていると思われます。
「水一杯でも飲ませる」というのは今まで話してきた、人に仕える、ということ、人を受け入れるということ、人を自分の味方として扱う、ということを実際の行動としてあらわす一つの例であるでしょう。
もし誤解を恐れず言わせていただければ、今日、ミーティングの後の交わり会で、紅茶の一杯でも自分以外の人に用意しようとするのならば、そのような小さな行いでも、それが私はこの人にいつもお世話になっているから、というような理由でも、さっさと配らないと自分がお茶が飲めない、というような理由でもなく、この人は自分と同じくイエスを信じるイエスの弟子である、という理由で仕えようとするのなら、その行いは確かに神に知られています。
こんなことを言うと、今日、お茶を出すときに、意識してしまいますね。
お茶を出したら、私は実はコーヒーが飲みたかったんです、って言われちゃうかもしれません。
それはとてもとても小さな行いですが、しかし、イエスはそのような小さな行いでも、自ら進んで、イエスの弟子であるという理由で行うのなら神は報いてくださることを言っています。
ここで、もしかしたら、疑問に思われることがあるかもしれません。
それでは、キリストの弟子ではない人に対してはどうするべきなのでしょうか?
あなたはキリストの弟子ですか?ああ、そうですか、お水をどうぞ、あなたはキリストの弟子ですか?え、違います?それではお水はあげられません。というようなことではもちろんありませんね。
「人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」とイエスは言いました。
クリスチャンはクリスチャンの人にもそうでない人にも良いことをすることが教えられえいます。
しかし、今日の箇所では、弟子たちが自分たちのなかで誰が一番偉いのかということを議論したことに始まって、イエスはイエスの弟子たちが互いにどのように互いに接するべきなのかを教えています。
実にクリスチャンのなかにも、自分は他のクリスチャンたちと接するよりはクリスチャンでない人と接していたほうが良い、と考えられる人もいます。
そうであってはならないはずです。
もし同じくイエスを信じるクリスチャンたちが互いを愛し合うことができないとしたのなら、それはどうしてなのでしょうか?
ここで言われているように、互いをねたんだり、自分たちに加わらない人を批判したりしているからなのではないでしょうか?
時に、ある人は他のクリスチャンが自分に言ったこと、したことによって、教会から、そして、最終的にはイエス自身からも離れてしまうことがあります。
そのように人がイエスから離れていくきっかけを与えることを新約聖書では「つまずき」と呼んでいます。
42節、「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」
「この小さい者たちひとり」というのは前の「このような幼子たちのひとり」に通ずる言葉で、イエスは子どもを腕に抱いたまま、弟子たちを教えていたのだと思われます。
大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれる、というのは大変に残酷なイメージですが、それほどに「つまずき」を与えるということは深刻なことであるということです。
どうしてでしょうか?
人がイエスから離れてしまうというのは、単に自分の宗教をやめた、とかかえた、とか言うだけではありません。
聖書によれば人はイエスを離れては神からの赦しを得ることができません。
神に赦されなければならない点など自分にはない、と考えられる人はいるでしょうか?
今日の箇所にもあるように、みなに仕える者となるべきなのに、そうなることができず、そうなりたくなく、人に仕えられたいと考える自分。
すべての人を受け入れるべきなのに、人には受け入れられたいと思っているのに、人を受け入れることのできないでいる自分。
そのような自分にしっかりと目を向け、神がなにを求めているのかを知るのなら、どのような人でも、自分には神に赦されなければならない点が確かにあることが理解されるのではないでしょうか。
神はそのような人の罪を赦すために、イエスをこの地上に送り、私たちの代わりに、イエスを罰することによって、私たちの罪を赦されました。
誰でもこのイエスに頼るのなら、神はその人の罪を赦して、神に属するものとしてくださいます。
もしこのイエスを受け入れないのなら、神が示した救いの道を受け入れなかったので、その人は神から切り離されたものとされます。
神から完全に切り離されたとき、そこは地獄と呼ばれています。
今日の箇所ではゲヘナと言われていますが、それはもともとの意味はエルサレムの外にあるいわゆるゴミ捨て場だそうです。
そこでは死んだ動物やごみが燃やされ、神と切り離された人が最終的に行くべき地獄のイメージを現す場所でした。そのような場所を知っているユダヤ人たちはもちろん、地獄は行きたい、なんて考えるところではないところですが、私たちの周りには、人によっては地獄に行くのも悪くない、なんて冗談だか本気だか考える人もいるようですね。
自分の友だちがみんなそこにいるから。
おいしいお酒はそこにしかないから。
楽しいことはきっとそこにしかないから。
残念ながら、この世界において良いと思われること、友だちの間の愛情や、家族の間の愛情、この世界のおいしいものを楽しむことさえもすべて神から与えられたものです。
その神から切り離されて、地獄に残るものは、神を憎み、互いを憎み合う人間たちに他なりません。
そのような状態を聖書は48節、「彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」という言葉で表現しています。
人をつまずかせて、そのような場所へ行くきっかけをつくること、それが深刻でなくてなにが深刻なのでしょうか?
ですから、42節、イエスを信じるどのような人にもつまずきを与えるような人は、むしろ死んでしまっていたほうがましであることが言われているのだと思います。
自分はイエスを信じている、と言われるのならば、どうか自分の生き方のなかに、そのように他の人につまずきをあたえるような、行い、言葉がないかどうか、考えてみてください。
他の人だけでなく、もしかしたら自分自身につまずきを与えてしまうものがないでしょうか?
イエスはそのようなものをすべて捨ててしまいなさい、と教えられます。
43節「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
この教えは自分に罪を犯させるものをすべて捨ててしまいなさい、とも理解されることがありますが、僕は必ずしもそのことを言っているのではないと考えます。
もし自分に罪を犯させるものをなくしてしまいなさい、ということなら、僕はおそらく、自分自身を消してしまうしか方法がないと思います。
この世界にいる間、人は完全にはなりえません。
ヨハネはその手紙の中で、すでにクリスチャンである人たちに対して「もし、(自分に)罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」と言っています。
そうではなく、もし自分のなかに、自分を、もしくは文脈から自分だけでなく、どのような人でも、イエスから離れされることがあるのなら、それを今すぐ、切り捨てなさい、ということです。
なぜなら、そのようなこと、そのようなもの、そのような状態を続けることは、いずれ、自分を本当にイエスから放してしまうことだからです。
手、足、目を、切り捨てなさい、といわれているのは前の石臼を首にゆわえつけられて、と同じように比ゆ的な表現だと思います。
そのようにいかに自分が大切に思っているものでも、もし自分につまずきを与えるものなら切り離しなさい。
この教えが弟子たちに理解されるように、イエスは同じことを三度繰り返すことによって教えました。
49節、「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」
この節は大変に比ゆ的でイエスが本当にどのような意味で言ったのかが分かりにくく、いろいろな解釈がされています。
まず、塩、というのはマルコの福音書ではここだけに用いられていますが、例えばマタイの福音書によれば、クリスチャンたちは地の塩である、と言われており、そこにはクリスチャンはクリスチャンである、ということのはっきりとした独特の性質がある、そのような性質を保つことが言われています。
塩、とはクリスチャンのクリスチャンとしての性質を表現する言葉であると考えます。
それは善、正義を愛して、悪を憎むような性質でもありますし、特にここでは、文脈から互いを愛し、互いに仕えあう性質のことを指すと思います。
そして火、というのはマルコの福音書では比ゆ的な意味ではここだけに使われていますが、例えば、マタイの福音書によれば、イエスが水ではなく聖霊と火によって人々にバプテスマを授けることが言われていたことが思い出されます。
すなわち、イエスによってクリスチャンはクリスチャンとしての性質を与えられる、ということであるのではないかと考えます。
50節、「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」
「和合」という言葉はあまり使いませんが、広辞苑によれば、それはやわらぎあうこと、仲良くすることと言われています。
新共同訳聖書では「平和に」と言われています。
争いがない状態を平和、と言いますが、もし相手と自分になんの関係もなくしてしまっていたら、それは確かに争いもない状態で平和である、と言えるかもしれません。
しかし、文脈から、クリスチャンたちは、むしろ、互いに積極的に、互いを受け入れ、互いに仕える状態を持つべきであると考えられます。
クリスチャンはイエスによってイエスに従うクリスチャンにふさわしい性質に変えられていくべきですが、しかし、そのクリスチャンがクリスチャンとしての性質をなくしてしまったらどうすればよいのでしょうか?
自分自身の中にクリスチャンとしての性質を保ちなさい、そしてそれは、クリスチャンたちが互いに受け入れ、互いに仕えあうことができるようになって初めて世に知られるものである、とイエスは教えているのではないでしょうか?
どうしたら互いに和合して暮らすことができるのでしょうか?
先のさだまさしさんの関白宣言では、「たやすいはずだ、愛すればいい」だそうですが、本当にそんなにたやすいでしょうか?
そうではないですね。
争わないことが正しいことであることが分かっている、和解することが正しいことであることが分かっている、相手をねたまないことが良いことであることがわかっているのに、相手を受け入れて、自分が相手に仕えてもらいたいように、自分が相手に仕えることが正しいことが分かっている、それなのに、自分は相手を受け入れることができない、相手に仕えることができない、というのが人間なのではないでしょうか?
どうしたら互いに和合して暮らすことができるのでしょうか?
それは、イエスの名によって、ということです。
幼子のひとりのように自分が取るに足らないと思っているような人でも、イエスの名のゆえに受け入れるならば、イエスを受け入れることになります。
イエスの弟子だというので、水一杯でも飲ませてくれる人は決して神からの報いを失うことはありません。
もしイエス自身が自分にいったい何をしてくれたのか、ということが分かっていなかったのなら、それはどんなに、イエスの名によって、といわれても、なにをする動機にもならないでしょう。
まずは、イエス自身が自分に何をしたのか、ということが理解されなければなりません。
しかし、もし、イエスは自分のために、自身を捨てて、自分が受けるべき罪の罰をイエスが代わりに負って十字架にかかったことを知っているのなら、受け入れているのなら、私たちもイエスと同じように、イエスが示した愛に倣って、他の人のために自身を捨てて、その人のつまずきとならないために、今日、祈り、するべきなにごとかを示されるのではないでしょうか。
祈りましょう。
もし、今日、イエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience