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マルコの福音書9章14節から32節まで
1.信仰とは?
1.1.思い込むこと?
1.2.頼ること
1.3.祈りは信仰の表現
2.「もし、おできになるものなら」
3.「信じる者には、どんなことでもできるのです」
4.「信じます。不信仰な私をお助けください」
5.なぜ弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったか?
6.「祈りによらなければ」
さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。イエスは彼らに、
「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか。」
と聞かれた。すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。
「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」
イエスは答えて言われた。
「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。イエスはその子の父親に尋ねられた。
「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」
父親は言った。
「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
するとイエスは言われた。
「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。
「信じます。不信仰な私をお助けください。」
イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。
「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」
するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、
「この子は死んでしまった。」
と言った。しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。
「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
すると、イエスは言われた。
「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。それは、イエスは弟子たちを教えて、
「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」
と話しておられたからである。しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
マルコの福音書9章14節から32節まで(新改訳聖書)
日本語で「信仰」とか「神を信じる」というと、どんなイメージが思い浮かぶでしょうか?
ある人は「信仰」ということばから「迷信」ということばを思い浮かべるでしょう。
例えば昔はなぜ地震がおきるのかが分からず、地震がおきないようにと山に供え物をするようなことを信仰と呼んで、それは山の神を信仰していると言ったかも知れません。
またある人は「信仰」ということばから「盲信」ということばを思い浮かべるかもしれません。
例えばどのように地震が起きるのかを説明してみたのに、そのような説明に耳を貸さずに、ひたすらある一つのこと、この場合には山には神がいて敬わないと地震を起こすという考えに固執することかもしれません。
聖書で言っている「信仰」とは迷信でも盲信でもありません。
理由なく、訳も分からず、ただ心の安心のために人が勝手に作り出したものではなく、この世界を創造した神が人に伝えたメッセージをクリスチャンは信じます。
それは他のどのような理由にも耳を貸さずに信じ込もうとするのではなくて、他のどのような理由と照らし合わせても、神のメッセージが一番理にかなっているとクリスチャンは考えます。
ある人は─クリスチャンと呼ばれる人たちのなかにもそのように考えている人がいると思うのですが─信仰とはどれだけ、自分の中から疑いを消してある一つのことを信じ込むか、というなにか脳みその中でおこるマインド・ゲームのように考えられている場合があります。
もし信じ込むんで疑わない、ということが大事なのならば、催眠術で信じ込まされた人はほぼ完璧な信仰を持っていると言えることになってしまいますが、もちろんそうではありませんね。
信仰、とはどれだけ信じ込むのか、ということが問題なのではありません。
信仰とは信頼すること、頼みにすること、より頼むことです。
「私は神っていると思うな」と、なにか頭の中で思っているだけでは、それは信仰ではありません。
「私は神がいると考えます。そしてそのことに全く疑いを持ちません」ということも、それだけでは信仰ではありません。
「私は神を頼りにして生きています」という生き方が本当に神を信仰するということです。
そのように神を頼りにして生きている人が、あるときふとしたきっかけで「もしかしたら神って本当にはいないんじゃないだろうか」というような考えが頭の中をよぎったからといって、それは神を信頼していないことでは決していないと思います。
「もしかして僕って実は本当には生きていないんじゃないだろうか。実は僕が経験していることは全部僕が頭の中で考え出した、想像したことであって、いわば夢の出来事なのではないだろうか」とふと、頭の中をそんな考えがよぎったからといって生き方を変えよう、と考える人はまず、いません。
もし本当に神の存在に疑問をもって、自分の生き方を「神はいないものである」というような生き方に変えようとするのなら、それは確かに神を信頼しなくなった、信仰しなくなった、ということでしょう。
信仰とは信頼すること、頼りにすること、と言いましたが、頼りにする、ということはどのようにして表現されるでしょうか?
人は誰かになにかをお願いするとき、その人は相手を頼りにしている、ということが言えます。
命令するのではなくて、お願いするときですね。
私にはこれができませんが、あなたならこれをやりとげることができます。
どうか、あなたを頼らせてください。どうかこれを成し遂げてください。
人がそう神に願うとき、これは「祈り」とも呼ばれます。
「祈り」には神に感謝をしたり、賛美をしたりすることも含まれますが、神になにかを願うとき、人は神に祈ります。
今日の聖書箇所から、今日は「信仰」ということと「祈り」ということを見て行きたいと思います。
まずは前回までの復習ですが、マルコの福音書を1章から始めてずっと読み進めてきました。
マルコの福音書はイエスの弟子ペテロ、その弟子マルコがペテロがイエスについて語ったことを記したものですが、1章から8章までで、イエスが一体誰であるのか、ということを伝えています。
まず第一にイエスは神に選ばれた人類すべての王である方であって、それはキリストということばに表れています。
弟子たちは8章の最後でやっとそのことを理解し始めます。
しかし、マルコは同時にイエスが単なる神に選ばれた王なる人であるだけでなく、それ以上の方であることも伝えています。
すなわち、イエスは神ご自身が人の姿をとってこの地上に来た、人であると同時に神である方であるということです。
9章からは、それではこの神であるイエスが、果たしてなぜこの地上に来たのか、ということがテーマになっています。
前回は9章の初めの方で、イエスが弟子たちのうちペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れてある高い山に登ったことをみました。
そこではいろいろな奇跡とも呼べるような不思議な出来事があったことが伝えられました。
イエスの姿が光り輝くものとなったこと、ずっと前に死んだ、もしくは地上から去ったはずのモーセとエリヤという人物が現われてイエスと語ったこと、そして雲がイエス、モーセ、エリヤを包み込んでその雲の中から「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声が聞こえたことなどでした。
それらは実に信じがたい話ですが、その場にいて、そのことばを聞いたペテロが、それは作り話ではないと自分のいのちをかけて証言したことを見てみました。
今日の箇所にも「おしの霊」と呼ばれる悪霊が登場したり、子どもの発作が不思議に癒されたりする、通常あまり経験しない出来事が伝えられていますが、それらはその場にいてすべてを目撃していたはずのペテロの証言であることを踏まえて、今日の箇所を見ていきましょう。
14節「さて、彼らが、─彼らが、というのは前回、山に登ったイエスと3人の弟子たちのことですが、その彼らが他の─弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。」
律法学者というのはイエスの時代の聖書、すなわち、旧約聖書にとても詳しく、神のことばを知っている人たちとして人々から尊敬されていたひとたちですが、その人たちが弟子たちとなにを論じていたのか書いていません。
この箇所ではこのあと、律法学者についてはなにも触れられていないので、ここで弟子たちが律法学者たちと論じ合っていたということをわざわざ伝えることにあまり意味がないようにも思われるのですが、しかし、この箇所のすぐ前の8章31節では、イエスがユダヤ教の「長老、祭司長、律法学者たちに殺される」ということが予言されていました。
すなわちイエスや弟子たちがこれから律法学者と関わるということは、イエスにとっては死をも至らしめる結果をもたらす、ということが言われていたわけですが、今日のこの箇所で、他の弟子たちが律法学者たちと論じ合っていたことを見たペテロには、特にその場面が印象に残っていたのかもしれません。
15節「そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか。」と聞かれた。」すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」
ここに、おしの霊につかれた人のことが伝えられていますが、「あわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせる」というのは、「てんかん」と呼ばれる脳の病気の症状によく似ている ものです。
並行するマタイの福音書では「てんかん」で苦しめられている、と言われています。
人がてんかんを起こす正確な原因はまだ完全に分かってはいないそうですが、脳になにか物理的な障害がある場合にも、てんかんの症状が現われます。
その場合にはてんかんは悪霊の仕業というよりは、転んで足をすりむいたのと同じ程度に物理的、生理的な問題ですが、まだ医学が発達していなかったときに、てんかんで苦しむ人を見て、それはなにか目に見えない悪霊のせいだと考えられたことがありました。
しかし、聖書に書かれている病気はすべてがすべて、悪霊のせいにされたものではありません。
例えば精神がおかしくなることが悪霊のせいではなくて、勉強のし過ぎでそうなった、─勉強のしすぎの人は注意していただきたいのですが─と考えられた例が使徒の働きの26章に出ています。
ですが、ここの箇所のてんかんは、それが悪霊の仕業であるとその人の親も、またイエスもそのように理解していました。
そのように人に取り付き、発作を起こさせるような悪霊を僕は実際に見たことはないのですが、イエスの時代にはそのような悪霊がイエスやイエスの弟子たちの前にその姿を現して人々を身体的に苦しめていたことが伝えられています。
悪霊は人になにか身体的な発作を起こさせるだけではなく、聖書はまた、悪霊は人に神に従わないようにさせる働きもしていることが言われています。
そしてこちらのほうがより深刻な悪霊の働きと言えるのではないでしょうか?
現在、多くの人が私は神になんて従いたくない、と考えますが、この意味では現在でも多くの人が悪霊の支配の下にいるといえるでしょう。
マルコの福音書3章にて見ましたが、弟子たちにイエスによって悪霊を追い出す権威が与えていました。
そして弟子たちもその権威を用いて、悪霊を追い出していたことが言われていたのですが、このおしの霊につかれた人からは、弟子たちは悪霊を追い出すことができませんでした。
なぜ、このとき、弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったのか、アウトラインの5番で考えたいと思います。
19節「イエスは答えて言われた。『ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。』」
イエスはここで「あなたがた」と言われましたが、この「あなたがた」とは具体的には誰のことを指すのでしょうか?
まず第一に、それはおそらくは弟子たちのことを指しているのではないかと考えられます。
弟子たちはイエスに悪霊を追い出す権威を与えられていながら、このおしの霊に対しては無力でした。
それは大変にイエスを嘆かせることであったと思われます。
しかしここで言われている「あなたがた」とは、弟子たちのことだけではなかったかもしれません。
イエスは「不信仰な弟子たちだ」と言わずに「不信仰な世だ」と言いました。
先ほど、「信仰」とは神に頼ることだといいましたが、不信仰はその逆で、神に頼らない生き方をすることです。
神に頼らない生き方をする人たち。
イエスの時代も、また今日も、多くの人が神と関わらない、神に頼らない生き方をしているのではないでしょうか。
イエスはそのような世界を嘆きます。
イエスは神が人となられた方だ、と聖書は伝えていると言いましたが、果たして神がこのように人に対して嘆くものでしょうか?
ある人たちにとっては、そのようにいわば感情的に嘆くような神は神ではなく、そんな神は存在しない、と考えるようです。
しかし、聖書の教える神は、神を無視して生きている人たちを見て、嘆き、悲しむ神であることが伝えられています。
もし神が人のことなどなにも気にかけていないのだとしたら、そのような神は確かに人に対して嘆くこともしないでしょう。
しかし、本当の神は、確かに人を愛しているので、その人が神を無視して生きようとするのなら、そのことについて、神は今日も嘆いているのだと僕は考えます。
20節「そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。イエスはその子の父親に尋ねられた。『この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。』父親は言った。『幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。』」
弟子たちがなかなか理解しなかったことを、悪霊は誰に教わるわけでもなく、知っていました。すなわち、イエスが誰であるのかということです。
そのようなわけで、これまでも悪霊がイエスに出会うと、あなたは神の聖者ですと叫んだり、滅ぼさないでください、と願ったりしました。
ここでも霊はイエスを見ると、すぐにまたその子をひきつけさせました。
苦しんでいる子どもを見て、イエスは「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか」と父親に聞いていますね。
そこにはイエスのこの一人の子ども個人に対する憐れみが感じさせられます。
ある人は世界には60億もの人がいるのだから、たった、60億分の1でしかない自分の生き方、考え方、自分の悩みや苦しみを神が知っているはずがない、知ろうとするはずがない、と考えますが、しかし、この箇所でイエスがこの子ども個人の苦しみの長さを尋ねられたことは、イエスが子どもが苦しんでいるのを見て憐れんだことが見受けられます。
真実の神はそのように一人一人の苦しみを知っている方です。
この子の父親はイエスに言いました。「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
その願いに対して、イエスは「できるものなら、というのか」と叱責にも似た答えをします。
すなわちこの願いはこの父親には信仰を持つものとして足りないことがあったことが理解されますが、それはいったいなんだったでしょうか?
この父親にはなにが足りなかったのでしょうか?
信仰が足りなかった、といえばそれはそうなんですが、もう少し具体的に言うとどうでしょうか?
この父親は確かにイエスに頼りましたね。
その意味でこの父親には信仰がありましたが、しかし、父親はイエスにいったいなにができるのか、そのことに関して信仰がありませんでした。
それはイエスに頼ってはいるものの、自分が頼っている相手であるイエスのことをよく知らない状態ではないでしょうか。
おそらく、この父親はイエスや弟子たちが悪霊につかれた人たちをその悪霊から解放していたことを聞いていたでしょう。
だからこの人は弟子たちのところに子どもを連れてきました。
しかし、イエスの弟子たちには悪霊を追い出すことができませんでした。
そのような状況の中で、この人は、果たしてイエスは悪霊を追い出すことができるのかどうか分からなくなっていたでしょう。
私たちもある状況の中で自分の考えていた、願っていた通りにことが運ばなかったとき、信頼することをやめてしまうものです。
そこには三つ問題があります。
一つ目は私たちが誰に頼るのか、ということ。
二つ目はその頼った相手は信頼に足るのか、ということ。
そして三つ目はその頼った相手がなにを約束しているのか、ということです。
私たちは間違った相手に信頼するべきではありません。
信仰を持つこと自体が大切なのではなくて、誰に一体信頼するのかが問題となります。
私たちが信頼する相手は信頼に足るだけの能力を持っていなければなりません。
偽の神様に頼ってみたり、ものを言わない偶像に頼ってみたり、間違った考え方に頼ってみてもそれらは私たちの信頼に値しません。
そして私たちは私たちが信頼する相手が一体なにを約束しているのか知らなければなりません。
信頼した相手が「それを成そう」と言ってもいないのに、私はあなたに信頼したんです、と言ってみても的外れですね。
この三つのどの要素が欠けてみても、私たちにはがっかりするような結果しか得られないと思います。
この父親はまず弟子たちを頼りました。
弟子たちはこれまで悪霊を追い出していて、父親にとってはいわば、弟子たちのところにくれば悪霊を追い出してもらえる、ということが「約束」されていました。
ですから1番と3番についてはこの父親の信頼は正しいものと言えそうですが、2番の「弟子たちは信頼に足るのか」ということを考えたとき、残念ながら弟子たちにはその父親の信頼にこたえられることができませんでした。
弟子たちは完璧ではないからですね。
もうすでにがっかりさせられていたこの父親は、イエスに対しても、その能力に信頼をなくしていました。
ですが、イエスは当然、この父親の信頼に足る人だったはずです。
23節「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』 」
もしイエスが人となった神であったのなら、この世界を創造した神にとって、この世界においておよそ不可能である、ということはなにもありませんでした。
その意味でイエスにはなにも不可能なことがありません。
ですが、イエスにはすべてのことが可能であったからといって、すべてのことをするべきだとはもちろんいえないでしょう。
つまり、例えば、イエスは、罪を犯すことができませんでした。
嘘をつくことができませんでした。
約束を破ることができませんでした。
神の前に悔い改めることをしない人たちの罪を赦すことができませんでした。
ある日本の歌手は「そう、信じるものしか救わないセコイ神様、拝むよりは〜」なんて歌いましたが、
それは「できない」とか「そうする力がない」とか、もちろん「セコイ」などということではなく、そうすることが神としての性質─それは真実であり、正義であり、そして愛である性質─と相容れないからです。
その性質に反しない限り、イエスにとってなにも不可能なことはありませんでした。
このおしの霊を子どもから追い出して、子どもを苦しみから解放することはもちろん、イエスの性質に反しません。
24節「するとすぐに、その子の父は叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください。』 」
この父親のことばは実に興味深いと思います。
一方では信じます、といい、もう一方では不信仰なと言っていますね。
私はあなたに頼りたいのです、しかしあなたの力を信じることのできない自分がいます。
そのような思いではないでしょうか?
「不信仰な私をお助けください」ということばは新共同訳聖書でも「信仰のないわたしをお助けください」と訳されていますが、原語では直訳すると「助けてください、私の信仰のなさを」となっています。
とくに原語に近い訳を用いる New American Standard Bible では「Help my unbelief!」となっています。
私の信仰のなさを助けてください、と日本語に訳しても良さそうだと思うのですが、もしそう訳すと、まさか「信仰のなさを助けてください」というのは「信仰がないままでいられるように助けてください」と勘違いされてしまう、とかそういうことでもないとは思うのですが、New International Version では「help me overcome my unbelief!」とずいぶん説明を入れた訳になっています。
この父親のことばの意味は文脈から明らかですね。
私はあなたに頼ります。頼りたいです。あなたにはどんなことでも可能であるということを私は知りませんでした。あなたにはどんなことでも可能であるということが私には信じられませんでした。あなたに頼ることのできないでいる私をどうか、あなたに頼れるように助けてください。
「不信仰な私をお助けください」という願いは、自分のことを「不信仰」と言ってはいますが、「お助けください」と願うこと自体、実はこの父親がイエスに頼っていることをよく示していることばではないでしょうか。
25節「イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。『おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。』するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、『この子は死んでしまった。』と言った。しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。」
この父親はイエスに頼り、イエスにはもちろん、この父親を助けることができました。
おしの霊は出て行き、子どもは解放されました。
28節「イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」」
なぜ弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか?
もちろん次の節にイエスのことばによってその答えが載っているのですが、しかし、これまで読んだ箇所から、どんなことが言えるでしょうか?
どう思われるでしょうか?
19節、父親に「お弟子たちにはできませんでした」と告げられたイエスは「ああ、不信仰な世だ」と言われました。
もし弟子たちに信仰があったなら、悪霊を追い出すことができた、そうだったのではないでしょうか?
実は並行するマタイの福音書の箇所で、「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか」と尋ねる弟子たちに、イエスはこう答えています。
「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」
弟子たちには信仰がありませんでした。
それは弟子たちが「自分たちは悪霊を追い出すことができる」ということが信じられなくなった、ということでしょうか?
それは考えにくいですね。
なぜなら弟子たちはそれまでも悪霊を追い出すことができていたからです。
それは信じられなくなったのではなく、神に頼らなくなった、ということだったのではないでしょうか?
自分たちの望むままに悪霊を追い出せるようになったとき、弟子たちは神の力、イエスに与えられた権威によって追い出していたことを忘れてしまったのかもしれません。
弟子たちは神に頼らず、神に願うこともせず、悪霊を追い出そうとしました。
神に願わなかった、すなわち、神に祈ることもしなかったことの結果です。
ですからイエスは言いました。
29節「すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」」
このおしの霊はこの子どもから出たり入ったりしていたようですね。
しかし、もし完全に二度と入らないように追い出すためには、そのような追い出し方は、神に願わなければ、なにによっても追い出せるものではありません。
弟子たちはこのとき、どんなときにも神、そしてイエスに頼ることが必要であることを学ぶべきでしたが、残念ながら、次の箇所にはまだイエスに頼り切っていない弟子たちの姿が記されています。
30節「さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」
マルコの福音書の9章から16章まではこの「イエスが人々の手に引き渡され、殺され、しかし三日の後によみがえる」ことの物語なのですが、このときの弟子たちにはイエスのこのことばが理解できませんでした。
おしの霊につかれた子どもの父親は「信じます。不信仰な私をお助けください。」と、自分の足りないところを認め、イエスに頼りました。
しかし、弟子たちはイエスのことばを理解できないまま、おそらくは自分の足りないところを認めるのを恐れ、もしくはイエスのことばがそのとおりにならないように、すなわちイエスのことばを認めようとせずに、イエスに尋ねようとすることがありませんでした。
私たちはどうでしょうか?
イエスのことばを認め、イエスに頼っているでしょうか?
自分の弱さの問題をあなたはどう解決しているでしょうか?
神などに頼らなくても自分で生きていける、自分の弱さも克服できる、もしくは自分の弱さなんてたいした問題ではない、と自分を欺こうとするでしょうか?
それとも自分の弱さを神の前に認め、それを助けてください、と願うでしょうか?
祈りによらなければ誰も自分の罪の問題から開放されることはありません。
しかし、もし、今日、神に自分の罪を赦していただきたいと祈るのなら、神はその願いをかなえてくださることを約束しています。
祈りましょう。
もし、今日、イエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience