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変容の奇跡と聖書の預言

マルコの福音書9章2節から13節まで

1.奇跡の物語に対する二つの反応
1.1.不思議な話は神の存在の証拠となる?
1.2.不思議な話は迷信であることの証拠となる?
1.3.奇跡<聖書
2.ペテロの証言
3.なぜエリヤとモーセがあらわれたのか。
4.エリヤに関する聖書の預言
5.人の子に関する聖書の預言
6.「さらに確かな預言のみことば」


それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。

「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、

「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」

という声がした。彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。

さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。彼らはイエスに尋ねて言った。

「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」

イエスは言われた。

「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」

マルコの福音書9章2節から13節まで(新改訳聖書)

1.奇跡の物語に対する二つの反応

ある日のインターネット版毎日新聞の社会欄にこんな記事が載っていました。

「血を流すマリア像:人間では解明できない奇跡!」

「イタリア・ローマの北にあるチビタベッキア市で、高さ30センチほどのマリア像から、血の涙が流れ、町に数千人が訪れるなど名物になっていた。血の涙は1995年ごろから十数回流れ、その正体を探る調査が続いていたが、このほど、調査団が調査結果を発表した。」

「AP通信が地元紙の報道として伝えたところによると、地元の教区が神学者、歴史家、医師らに調査を依頼し、X線やCTスキャンで調査した。」

「調査結果によると、血は男性のもので、像の内部には血を出させるような装置は見あたらなかった。」

「調査に当たった神学者らは「超自然の神秘で人間では解明できない」と結論付け、神の使わした奇跡と驚いているという。」

僕が日本の新聞をよく読むようになったのは、シドニーに来てからで、大体十年位前からなのですが、「現在の科学では説明しきれない」と言われるような現象についての記事は確かに何度か見たことがあると思います。

ですが、男性の血を流すマリアの像を専門家に分析させて、なぜ血が流れるのか解明できなかった、というような記事を日本の一般の新聞で読んだのは僕の覚えている限り、これが初めてでした。

そのような記事を日本の新聞で読んだことがあるでしょうか?

この話を聞いて、少なくとも二つの反応の仕方があると思われます。

一つは、それはすばらしい、やっぱり神は人の理解の及ばない奇跡を今でも行っているんだ!という反応。

もう一つは、そんなことあるわけないじゃん、そんなのうそっぱち、何かの勘違い、ちゃんと調べれば絶対、科学的な説明ができるはず、そんなの誰かのトリックだよ、きっと、という反応です。

もちろん他にもあるかもしれませんが、どちらかといえば皆さんはどちらの反応をされるでしょうか?

僕は、正直に言わせていただければ、まず最初に頭に浮かぶのが、そんなはずないじゃん、という反応です。

ですが、よくよく考えてみると、聖書に神は現在、不思議な業をされることはない、とは言われていないので、確かに現在の人間の知識では説明することのできない現象があっても不思議ではないと考えたい、という思いがあるものでもあります。

1.1.不思議な話は神の存在の証拠となる?

ある人たちは、なにか人の常識で説明できない、不思議な経験をもって、これこそ、神が存在している証拠だ、これこそ神が私に語りかけているメッセージだ、と考えます。

例えば、私は不思議に病気を癒されました、とか、天使や霊が現われて私に語りました、という感じです。

確かに、聖書には、神はそのようなことを行われはしない、とは書かれていないので、なにか不思議な現象を経験することは十分にありうることなのですが、もしこの考え方が行き過ぎると、じゃあ私は、不思議な経験をしたことがなにもないので、神は私には関わってくださらないのか、神は私にとって関係ない存在なのか、という考え方に陥ってしまいやすいように思います。

1.2.不思議な話は迷信であることの証拠となる?

逆にある人たちは、誰かになにか不思議な話をされると、すぐにそれは「迷信だ」と感じてしまうようです。

先ほどのアンケートでも「奇跡だ」と言われると、とっさに「そんなことあるわけないじゃん」という思いがまず最初に感じられる場合ですね。

確かに、世の中にはいろいろな不思議な話があって、そのどれもが間違いのない真実、事実であったとは考えにくいです。

むしろいろいろな不思議な話が、実は作り話であったり、勘違いであったり、なにかの科学的説明のできる現象だったりした、という経験も私たちは多くしているでしょう。

ですが、この考え方が行き過ぎると、こんどはどんな不思議な話も、それは迷信だ、ありえない、そんな話は信用できない、という考え方に陥ってしまいやすいように思います。

すべて、不思議な話は迷信なのでしょうか?

1.3.奇跡<聖書

先ほどの毎日新聞の記事のように十年間に数十回、血の涙が流れた、というような何度も起こるような奇跡の話は大変まれではないでしょうか。

不思議な話、というのは多くの場合、一過性で、いつまでも続く不思議な話、というのはあまり聞きません。

例えば不思議に病気が癒された、というような場合でも、いずれまた病気にかかってしまい、100年もすれば、人は誰でも死んでしまいますね。

しかし、神のことば、と言われている聖書は、一過性ではありません。

人の一生に比べれば、ずっと長い間、2000年の間、変わらず、同じ神のメッセージを伝えています。

それはなにか、いわゆる奇跡と呼ばれるような現象を経験したか、しないかにかかわらず、読む人誰にでも、神が神のことばを語りかけるものでもあります。

奇跡とは一体なんでしょうか?

毎度おなじみ広辞苑を引きますと、こう出ています。

「常識では考えられない神秘的な出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴(しるし)と見なされるもの」

つまり奇跡とは実は一面では相対的なもので、それは現在の自分の理解の及ばないところの出来事であって、なにか必要な知識を与えられれば理解できる現象─すなわち奇跡ではなく常識の出来事─となりうる可能性があるものでもあります。

たとえば200年前の一般の人には飛行機が何百人もの人を乗せて、空を飛ぶなどということはとても理解できなかったでしょう。

ですが、ちゃんと航空力学をならって、どうやってそんな鉄の塊が空を飛ぶのかを説明されれば、─今でも説明されても理解できない場合もありますが─現在の人間にはそれは奇跡でもなんでもないですね。

今日の聖書箇所にはイエスの前、何百年、何千年も前に生きたはずのモーセとエリヤと呼ばれる人たちが現われて、イエスと話をしたという記述がありますが、現在の人の知識ではそれはとても理解できない、奇跡ですが、もし、神からなにか霊的な存在とはどういうものであるのかの知識を与えられれば実は、なにも不思議のない現象であるのかもしれません。

2.ペテロの証言

ある奇跡の話を聞いて、それは信じがたい、信じられない、と思われる原因の一つに、そのニュースソースが疑わしい、という場合があります。

例えば先ほどの毎日新聞の記事の例で言えば、あれは血の涙をながすマリア像を専門家が調査してみたがなにも解明できなかった、という地元の新聞が報道した、ということをアメリカのAP通信が報道した、ということを毎日新聞が報道した、ということになっています。

ということは実際にそういう調査があったかどうかということは、毎日新聞もAP通信も確かめたわけではなくて、地元の新聞社だけがそれを行ったようですが、そうなると、なんだか少し信頼性というものに揺らぎが感じられてしまうものです。

上の聖書箇所は、マルコによる福音書と呼ばれている書物の一部ですが、これはイエスの一番弟子であったペテロという人物のさらに弟子であったマルコが、ペテロがイエスについて語ったことを書き留めた、と言われています。

つまり、このイエスの姿が変わって、モーセとエリアと語り合う、という不思議な現象を今日の私たちに伝えているのが、そのとき、その場所にいた、ペテロである、ということです。

このとき経験したことに対してペテロの証言を私たちは読むことができます。

私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。

「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」

私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。

第二ペテロの手紙1章16節から18節まで(新改訳聖書)

この箇所はおそらく、上のマルコの箇所の出来事を指していると考えられますが、ペテロはわざわざ、それは作り話ではありません、と言っています。

問題はこのペテロという人が信頼に足る人物であるかどうか、ということですね。

そんな二千年も前に生きた人が信頼に足るかどうかなんて分かるわけないじゃないですか、と言われそうですが、まず最初のテストは、マルコの福音書、またペテロの手紙が確かにイエスの弟子、ペテロのことばを記しているのか、そしてこの二千年間、そのことばが変えられたことはないのか、ということだと思いますが、これについてはいろいろな古代の文献を調べたり、考古学的な調査をしたりして、これらは確かにペテロのことばであり、ほとんど変えられたことはない、であろう、という結論に妥当に行き着くことができると思います。

もちろん反論する学者ももちろんいるわけですが、二千年前のローマの時代というのは、実は中世期ごろよりもよほど信頼のできる文献の残っている時代でもあります。

次のテストはそれでは、このペテロという人物のことばを信頼できるのか、ということですが、それはペテロの手紙に記されている彼の教えと、歴史的に彼がどのような死に方をしたのかを見てみると納得ができるのではないかと思われます。

すなわち、彼はその手紙の中でクリスチャンたちに「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」と教えていたり、または「舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず」と教えていたり、とてもすばらしいことを教えていることが理解されます。

もしそのように教える人が、自分自身、見たこともない聞いたことも実際にはなかったことを人々に伝えたのなら、彼はとんでもない大嘘つきですが、彼の手紙を読んでみればそれはとても考えにくいです。

そして、彼はイエスのことを人々に伝えたために、捕らえられ処刑されました。

もし自分で嘘だと分かっていたことなら、なぜ、いのちをもおしまず、人々に伝えようとしたでしょうか?

彼は自分の見たこと、聞いたことが確かに事実であったことを知っていたからではないでしょうか?

そのことばが今日の聖書箇所に記されています。

それはとても不思議な現象のことを伝えていますが、それが普段あまり起こらないことだからといって、迷信だ、と思い続けずに、この現象を神のメッセージだとして伝えたペテロが、なにを私たちに伝えているのか、見ていただけたらと、願います。

それでは、今日の聖書箇所を読んでいきましょう。

3.なぜエリヤとモーセがあらわれたのか。

2節「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。」

イエスは12人の弟子を選んで、彼らには特別にイエスの教えが与えられていましたが、その中でもペテロ、ヤコブ、ヨハネはさらに特別にイエスと共に行動をすることがありました。

5章でイエスがヤイロという人の娘が死から生き返えらせたとき、それを目撃することを許されたのはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけでした。

なぜ、この三人だけに特別にこれらの不思議な現象を見ることが許されたのか、書かれていません。

しかし、どちらの場合にも、これら不思議な出来事を誰にも話してはならない、と言われていて、そのような命令を守る準備ができていたのはこの三人だけだったのかもしれません。

彼らは後に起こる、エルサレムでのクリスチャンたちの集まりで中心的なリーダーの役割を果たします。

ここにでてくる「高い山」というのは伝統的にはガリラヤ湖の南西にあるタボル山であると言われていて、そこにはイエスの変容を記念して教会が建っているそうです。

ですが、ある注解書によればタボル山は確かにその付近では高い山ですが大体560mくらいで、原語で言われている「非常に高い山」にはあてはまりそうもなくて、むしろ8章で言われたピリポ・カイザリヤに近くて2800m以上あるヘルモン山のほうがそれらしいそうです。

2節の後半「そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」

世のクリーニング屋さんではとてもできないほどの白さ、と言い方が興味深いですが、常識的な光り方ではなかったのでしょう。

ペテロはこの現象を見て、イエスが神から「誉れと栄光をお受けになった」と言いましたが、この光はそのような栄光をあらわしていると考えられます。

4節「また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。」

雲の中から「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」ということばが聞こえたとあります。

マルコによる福音書1章でイエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、天から声がして「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われました。

ここでは弟子たちに向かって「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」と言われています。

説明されていませんが、天からの声は神が直接にイエスに、また弟子たちに語りかけたことばでしょう。

そして言うまでもなく、愛する子、というのはイエスのことですね。

マルコの福音書の1章から8章までイエスは自分がいったいだれであるのかを弟子たちに言わないまでも、弟子たちが自分たちで結論づけることがテーマになっていると前回お話しました。

そして8章の最後でペテロがイエスに対し、「あなたはキリストです」と言いました。

キリストとは神に選ばれた王のこと、また旧約聖書でこの王は神の愛する子、とも言われています。

雲の中から声が聞こえて、イエスについて「これはわたしの愛する子である」と言われたことは、弟子たちにとっては、ペテロがイエスについて「あなたは、キリストです」と言ったことが神によって正しいと認められたことになるでしょう。

そのようなわけで、ペテロは誰よりも最初にイエスが神に選ばれた王であることを告白しましたが、しかし、半面、マルコの福音書ではペテロの失敗が実に数多く記されています。

それはきっと、この福音書が書かれたころにはクリスチャンたちのリーダーとして尊敬を集めていたペテロ自身の自重の意味も含めて、彼自身のことばから得られる情報であると考えられます。

ここでも、ペテロは失敗をしてしまいますね。

ペテロはエリヤとモーセと語るイエスを見て、「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」と言いますが、そのことばになにか重要な意味があるわけでは全くなくて、実は言うべきことがわからなかった、と言われています。

僕などは言いたいことがあってもなかなかことばにするのが難しいものなので、ペテロのように口を開ける人がうらやましいくらいなのですが、しかし、ここでペテロが言った幕屋を三つ造ることには全く適当ではないことが、雲の中からの声が、「彼の言うことを聞きなさい」と言っていることからも分かりますね。

ここにエリヤとモーセという人物が現われました。

モーセはイエスの前千五百年ほどに生きた人でした。

旧約聖書の出エジプト記で言われていますが、エジプトでイスラエル人たちが奴隷となってしまったとき、モーセは神から命令を受けてイスラエル人たちを現在のイスラエルの地に連れ出した人です。

モーセを通してイスラエル人には十戒を含む守るべき神の律法が与えられました。

エリヤは紀元前9世紀ごろ、北イスラエルのアハブという王がバールという偶像の神を信仰するようになって、神の預言者たちをすべて殺させたとき、一人残って、バールの預言者たちと対決した預言者でした。

二人とも旧約聖書では大変に有名な人物ですが、もし有名な人物、ということだったら、モーセとエリヤではなくても例えばアブラハムとダビデが現われてもよさそうです。

なぜエリヤとモーセが現われたのでしょうか?

モーセはシナイ山で神と直接対話し、十戒を与えられ、彼が山から下りてきたとき、神の栄光がモーセの顔に反映されて、モーセの顔が光り輝いていた、とあります。

旧約聖書の申命記でモーセはイスラエル人に向かって次のように預言しています。

あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

申命記18章15節(新改訳聖書)

モーセはいずれモーセのように神と直接対話をする預言者が現われ、人々は彼に従わなければならない、と預言しました。

イスラエルにはその後、エリヤを含めてさまざまな預言者が現われましたが、しかし、イエスの時代まで、モーセを超えるほどの、モーセではなく、その預言者に聞き従わなければならない、と言われたほどの預言者は現われなかったと人々は考えていました。

すなわち、ここでモーセが現われ、そして神がイエスについて「彼に聞き従いなさい」と言ったことはすなわち、イエスがモーセが預言した預言者であることが言われていると考えられます。

旧約聖書は大きく分けると、律法と預言の書に分けられますが、モーセは律法を代表し、エリヤは預言者を代表したとするのなら、そのモーセでもエリヤでもなく、イエスに聞き従いなさい、と言われた事は、イエスが旧約聖書をすべて成就して、これからはイエスのことばが、神のメッセージであることが思わされます。

4.エリヤに関する聖書の預言

エリヤに関しては、旧約聖書の最後の書、マラキ書にこのような預言があります。

あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。

マラキ書4章4節(新改訳聖書)

マラキ書で再び「モーセの律法を記憶せよ」と言われているということは、旧約聖書の最後の書、マラキ書にいたるまで、モーセの律法を越える神のことばは与えられていないことになります。

見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。

マラキ書4章5節と6節(新改訳聖書)

人は神から離れると、自分勝手に生きるようになり、また自分勝手に生きるようになると神から離れるものですが、そのような人の性質を現すものとして、自分の子どもにさえ愛を示すことができなくなるようですね。

ここで言われている「父」とか「子」というのは原語では複数形で、父である神のことが言われているのではなく、人間の父の心が自分の子どもから離れている状態、またそのように育てられた子どもの心も父親から離れている状態を指していると思われます。

そのように自分勝手に生きている人々に対して、預言者エリヤが来て、悔い改め、神に立ち返ることを述べ伝えると、ここでは預言されています。

主の大いなる恐ろしい日、とはいわゆる審判の日だと理解されています。

その日は、神がわたしたちの世界にきて、すべて神に認められる人─神を受け入れた人たち─は永遠に神と共に、神に認められない人─神を受け入れなかった人たち─は永遠に神から切り離される日のことです。

またその日はすべて生きている人もまたすでに死んだ人も神の前に裁かれるので、死んだ人たちがすべてよみがえる日でもあります。

すなわちイエスの時代の人たちは、まず、預言者エリヤが再び来て、人々を悔い改めに導き、そしてその後、神が来てすべての人がよみがえり審判の日を迎えると考えていました。

旧約聖書の預言を全体的に理解するならば、それが実に神の計画であることが理解されます。

マルコによる福音書にもどりましょう。

9節「さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。」

神から直接、「イエスの言うことを聞きなさい」と言われた弟子たちは、実にイエスのことばに聞き従いました。

イエスは弟子たちに「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と特に命じられましたが、弟子たちはそのことばを「心に堅く留め」と言われています。

さらに弟子たちはイエスのことばに耳を傾け、イエスが言われた「死人の中からよみがえる」と言われたことはどういう意味かを論じ合いました。

11節「彼らはイエスに尋ねて言った。『律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。』イエスは言われた。『エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。』」

イエスが「人の子が死人の中からよみがえるときまでは」と言われたことを受けて、弟子たちはおそらく、そのように人が死人の中からよみがえるときというのは神の審判の日のことであると、考えたのかもしれません。

もしそう考えたのだとしたら、弟子たちはさらに、それでは、そのときまで話してはならない、と言われたことは、そのような日が自分たちの生きている間に、起こるのだろうか、と思ったかもしれません。

確かにイエスはすぐ前の箇所、9章1節で、「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」と言われたことが思い出されます。

しかし、もしそのような審判の日が来るのだとしたら、それでは、先ほどマラキ書で言われた、その前に預言者エリヤが来るという預言はどうなっているのでしょうか?

弟子たちは自分たちでもそのような預言をよく知っていて、イエスに質問したかったのに、自分たちがではなくて、律法学者たちは、と言ったかもしれません。

もしくは、実際に弟子たちはこのマラキ書の預言にはなじみがなくて、しかしその預言を知っていた律法学者たちが言っていることは聞いていて、審判の日の前に、エリヤが来るはずだ、しかし、もしエリヤがまだ来ていないのだとしたら、死人のよみがえりの日が来るのでしょうか?とイエスに質問をしました。

イエスは答えました。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」

イエスは「エリヤはもう来たのです」と言われました。

実にマラキ書に書かれている主の審判の日の前に来る預言者エリヤはイエス残られる前に来ていて、それはマルコによる福音書の1章に登場したバプテスマのヨハネのことでした。

バプテスマのヨハネはエリヤと同じく、人々の前に現われ、人々に神に立ち返るようにと悔い改めを伝えました。

マルコの福音書の1章で、ヨハネはラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた、と言われていますが、それはエリヤとまったく同じようないでたちでした。

またエリヤがイスラエルの王アハブとその妻イゼベルによって迫害を受けたように、ヨハネもまた、ユダヤの王ヘロデとその妻ヘロデアによって迫害を受け、処刑されました。

ルカによる福音書1章17節には、バプテスマのヨハネについて「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」と言われています。

旧約聖書の預言の通り、預言者エリヤの霊を持って、ヨハネが現われ、イエスが来られる道を用意しました。

並行するマタイの福音書には、「そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」と言われています。

弟子たちの質問を受けて、しかし、逆にイエスは弟子たちに質問します。「では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。」

5.人の子に関する聖書の預言

イエスは自分のことを「人の子」と呼びました。

ある注解書によれば、イエスが「人の子」と呼んだとき、それはあるときには人一般のことだったり、あるときにはイエスではなくバプテスマのヨハネのことであったりすると解釈するのが妥当と言われていますが、できる限り偏見を捨てて─って僕の場合にはもう無理なのですが─一貫して意味の通じる解釈は、イエスが人の子、と言われたときにはそれは自分のことを指していると理解するのがもっともであると僕は考えます。

人の子について書いてある、とは、イエスについて書かれている旧約聖書の預言のことですが、これはイザヤ書53章に書かれています。いろいろなイメージが書かれていて、ちょっと長いですが、一番の主題はなにか、考えてみてください。

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

イザヤ書53章(新改訳聖書)

なにが、ここには書かれているでしょうか?

ここには神のしもべであるその人が、その人自身には罪がないのに、人々の罪のために罰を受けたといわれています。

イザヤ書の42章において、この人は神に「わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者」と言われています。

それは、マルコの1章でイエスがバプテスマを受けたとき、神がイエスに対して「わたしはあなたを喜ぶ」と言われたことが思い出されます。

すなわちイエスはこのイザヤ書53章に書かれている神のしもべであり、そのようにイエスが人々の罪のために苦しめられるのは、成就するべき聖書の預言であり、神の計画であった、ということです。

イエスは弟子たちに質問しました。「では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。」

この質問はすくなくとも二通りの意味に取れると思います。

一つは、もし、エリヤがまず来て、すべてのことを立て直す、人の心を神に向かわせるのなら、なぜイエスは多くの苦しみを受け、さげすまれるのか、という質問。

もう一つは、前回、8章の31節になりますが、イエスが弟子たちに「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」と、教えましたが、それを弟子たちが受け入れられないとしたなら、─ペテロは確かにそのことばを受け入れられませんでしたが─聖書に「人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。」という質問です。

確かにヨハネが悔い改めをとき広め、多くの人が彼のメッセージを受け入れて、神に立ち返りました。しかし、それはすべての人の心が神に立ち返ったことでは決してありませんでした。

むしろ、すべてのことを立て直す、というのはある一部分の人たちの心を神に立ち返らせることだけではなくて、イエスのこられる前にエリヤが現われて道を整えるという、旧約聖書に預言されたことばをヨハネがすべて成就した、という意味があるのではなかと考えます。

再び来る預言者エリヤの聖書の預言はバプテスマのヨハネによって成就されました。それならば、イエスが苦しみを受けるという聖書の預言も成就するはずではないか。

イエスはこの質問をもって、イエスがこれから苦しみを受けられるということを受け入れることのできなかった弟子たちに、イエスが行われようとしていることは聖書に預言されていることを教えいているように思われます。

6.「さらに確かな預言のみことば」

まとめましょう。

弟子たちは雲の中から「彼の言うことを聞きなさい」と言われ、確かにイエスのことばを心に留め、そのことばを吟味するようになりました。

山の上で雲の中か響いてくる神からの直接のことば─「イエスの言うことを聞きなさい」─というそのことばを聞いたなら、私たちもイエスのことばを受け入れられるようになるでしょうか?

この不思議な経験は弟子たちがイエスに聞き従う、確かな根拠となりましたが、しかし、ペテロは言っています。

私たちには、私たちがイエスに聞き従うべきであるというより確かな根拠が、この不思議な経験よりもさらに確かな根拠が、私たちには与えられています、と。

私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。

「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」

私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」

第二ペテロの手紙1章16節から18節まで(新改訳聖書)

19節、ペテロは「私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています」と言いました。

注解書によれば、この「さらに確かな」ということばは、ペテロの不思議な経験よりもさらに確かな、という意味かもしれませんし、ペテロの不思議な経験によってさらに確かにされた、という意味かもしれないそうです。

どちらにしても、聖書のことばは、わたしたちが直接、なにか不思議な経験をもって神から声を聞かなかったとしても、確かに信頼できるものであるということが言われていると思います。

夜明けとなって明けの明星が、という言い方は新約聖書ではここだけに用いられていて、その意味が分かりにくいのですが、おそらくは、夜明け、というのはイエスが再びこられること、わたしたちが心に信頼していた聖書のことばがすべて成就するまで、この暗い世界に生きる間、わたしたちの道を照らす光として、神のことばに頼ることができると、言われていると考えます。

なにか不思議な経験をして、それが今、あなたが神を信じる基礎となっているでしょうか?

それはすばらしいことです。神は確かに今日も人の知識をはるかに超える方法で働かれていて、あなたに神に聴き従うようにと、教えられたからです。

しかし、もしかしたら、あなたは、人が言うような不思議な経験をしたことがないかも知れません。

それは果たして、神があなたを顧みられていないということでしょうか?

そうではないですね。

わたしたちの罪が赦されるために、そのひとり子であるイエスを代わりに罰して、神はわたしたちに対するご自身の愛をすでに明らかにされています。

今日、わたしたちが聖書を読むとき、神はさらに確かな預言のみことばをもって、わたしたちに神の意思を伝えています。

あなたがそれらを受け入れるのなら、今日、あなたは神によって罪を赦され、神に受け入れられるという最大の奇跡を体験することができるのです。

祈りましょう。

もし、今日、イエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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