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なぜイエスはこの世界に来たのか?

マルコの福音書8章27節から9章1節まで

1.なぜ人には聖書の教えが必要か?
1.1.聖書が人に与える影響
1.2.「人の教え」の問題点
1.3.「神の教え」の問題点
1.4.「真実である」という基礎
2.「人の子」とは?
3.「自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスについていく」とは?
4.「いのち」とは?
5.なぜイエスはこの世界に来たのか?


それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。

「人々はわたしをだれだと言っていますか。」

彼らは答えて言った。

「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」

するとイエスは、彼らに尋ねられた。

「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

ペテロが答えてイエスに言った。

「あなたは、キリストです。」

するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。

「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

イエスは彼らに言われた。

「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」

マルコの福音書8章27節から9章1節まで(新改訳聖書)

1.なぜ人には聖書の教えが必要か?

僕たち夫婦には直美と安娜という二人の娘たちがいます。

直美が5歳、安娜が3歳なのですが、ときに、こちらがすっかり感心するほど(って僕が言うのは親ばかなのですが)物分りがいいなぁと思うことがあります。

宮崎駿監督の初めのころの映画でルパン三世カリオストロの城という映画があるのですが、昨日、それを借りて子どもたちと観てみました。

まあ、僕の好みで選んだ映画だったわけですが、新しい映画を一緒に観ると子どもたちはほとんど休む暇もなくどうしてああなのか、どうしてこうなのか、といろいろ聞いてきます。

なんで彼は─ルパンはですが─泳いでいるの?壁を登っているの?なんで彼女は─峰不二子ですが─飛べるの?といろいろ聞いてきます。

で、こちらも理系で頭が固いですから、まじめに答えるわけですね。

彼女が飛べるのはグライダーで空気の抵抗を利用して飛べるんだよ、とか言うわけです。

5歳と3歳に向かって。

ですが、そうすると、二人で「ほ〜」となんだかとても「納得したぁ」というような答えが返ってきます。

なんだか分かってるんだか分かっていないんだか、これを物分りがいいと考えるところが親ばかなわけですが、そういう彼女たちも、なんで?なんで?がとまらないことがあります。

例えばこんな感じですね。

僕:「部屋のおもちゃをかたずけてください」

直美:「なんでかたずけるの?」

僕:「おじいちゃん、おばあちゃんが来るから。おじいちゃん、おばあちゃんは部屋が散らかっているのが嫌いでしょう?」

直美:「なんで散らかっているのが嫌いなの?」

僕:「おじいちゃん、おばあちゃんはお年寄りだから、部屋におもちゃがころがっているとふんずけて怪我するかもしれないでしょう?」

直美:「なんでおじいちゃん、おばあちゃんはお年寄りなの?」

僕:「人は年を取るとお年寄りになるんだよ。」

直美:「なんで〜?」

ときに、なにか別の理由があって、例えばしたくないことをしなさいと言っているときとかですね、「なんで〜」を繰り返すようなときには僕もつきあってはいないのですが、本当に知りたくて聞いているときにはこちらもできる限り答え返してあげたいと思うのです。

でも、あるときにはとても答えに困りますね。

なんで虫は足が6本あるの?

とか言われてもなんて答えればよいでしょうか?

6本あれば4本あるより便利でしょう?とか答えてもいいのですが─なんで8本ないの?とか言われそうですが─しかし、最終的には僕たちには、それは神様がそのようにしたから、という言わば究極の答えをするしかないようなときもあるわけです。

それはつまり、この世界という存在は僕、という個人も含めてすべて、この世界を超越したこの世界の規則に制限されない、神という存在によって定められ造られた、という聖書の教えに基づくものでもあります。

1.1.聖書が人に与える影響

子どもたちの親に対する質問は言わばほほえましいものなのですが、しかし、大人である私たちにもときに、私たち以上の存在に「なぜ?」という質問をするものではないでしょうか?

私はどこから来たのか?なぜ存在するのか?なにをするべきなのか?最終的にはどこへ行くのか?

これらの問いにどう答えればよいでしょうか?

そのようなことを考えなくても人は十分に生活していけますが、しかし、自分がなぜ存在し、生きているのか、分からなくなってしまったとき、人は果たして生きることを続けていけるでしょうか?

聖書はこれらの問いに答え、人に確固たる生きるための指針を与えます。

ですがそこには二つの選択肢があるように思います。

それは人からのものであるのか、それとも神からのものであるのか、ということです。

本当には生きるための指針というものをなにももたない人という生物が自己が生き続けるために作り出した教えなのか。

それとも本当に神という人を超越した存在が、人に与えた教えなのか。

1.2.「人の教え」の問題点

ある教えに対して─どんな教えでもいいのですが、例えば聖書にもありますが「他の人のものを欲しがってはならない」という、その教えに対して─「それは人が作り出したものである」と考えると、どういうことになるでしょうか?

例えばとなりの人が最新式のプラズマテレビを持っていたとして─僕が何を欲しがっているか分かってしまいますね、僕の前の家の人は持ってるんですねぇ─多くの人は「ああ、いいなぁ、うらやましいなぁ」と自然に思ってしまうかもれません。

もしプラズマテレビでピンとこなければ、例えば鉄筋コンクリート二階建て7LDKの家とか、学校の成績が一番、二番と言われている息子さん、お嬢さんとか、南太平洋の島々に家族旅行とか、宝くじがあたったとか、なんでもいいのですけれど、人は自然に自分が持っておらず、自分のすぐ近くの人がもっているものをうらやましく思ってしまうのではないでしょうか?

なんでうらやんではいけないのでしょうか?

誰がそんなことを言ったのですか?

自分が自然にそう感じてしまうのだから、いいじゃないですか?

そうやって心に自然に起こる感情を抑えようとすることこそ実は悪いことなのです。

うらやましいものは、「うらやましー、あー、うらやましー、うらやましー」と、うらやましがっていればいいのです。

大体ですねー、人は進化しているのです。

うらやんではいけないなんて古い考え方ですよ。

古い考え方は捨てなければなりません。

進化した人にふさわしい新しい考え方が必要なのです。

うらやましいときには、あーうらやましい、としっかりと明確に心の中でもしくは口に出してうらやましがろうではありませんか。

さて、どの辺から、話題が全くずれてしまったのか定かではありませんが、

誰かがいつか作り出した、人の教えである、と考えるなら、例えそれがどんなに多くの人々に支持されていたとしても、例えどんなに尊敬されているえらい人の教えであったとしても、人が作り出したものなら、歴史上で見て取れるように、古い考え方が捨てられ新しい考え方が受け入れられてきたように、僕が古い教えを捨てて、新しい教えを作りだしたっていいはずではないですか、という結論にしか行かないと思うのです。

ということは、結局どんな教えであっても最終的にはなんの権威も、価値も、意味もない、ということになります。

どんな教えにも縛られずに、自分のやりたいように、好きなように生きましょう。

それはなんの問題もない考え方だ、と思われる方には、なんの問題もないのですが、もし人が誰も同じように自分で勝手に作り出した教えに基づいて生きようとしたら、果たしてそんな社会はいったいどうなるのでしょうか?

もし、人はそのように自分勝手に生きるべきではない、と考えられるのでしたら、その「人は自分勝手に生きるべきではない」という教えはおそらくは人が考え出した教えではなく、どのような時代にも、どのような社会にも当てはまる、人と関係なく存在する、真実とでも言うべき教え、ですね。

それは一体誰が定めたのでしょうか?

ここに僕は、なにか人でない、人を超えた、人の能力を超越した神の意思があるのではないか、と考えます。

この世界で人がどう生きるべきか、その教えを定めた神がもし存在するのなら、彼の教えを人が勝手に変えることはできないでしょう。

1.3.「神の教え」の問題点

しかし、ある教えが、「神の教えである」と考えられることにも、私たちは問題をみつけることが少なくありません。

それはどういうことでしょうか。

例えば第二次世界大戦終戦前まで日本には大日本帝国憲法というのがありました。

その第3条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」とあります。

天皇は神聖にして侵すべからず、という教えから、天皇に反対してはならない、天皇の言うことは神の言葉であるからそれに逆らってはならない、というところまで発展するとどうなるでしょうか。

天皇が言うことはすべて反論の余地なく従わなければならない、ということになるのではないでしょうか?

それが本当に神の言葉であるのか、本当に天皇は神であるのか、というような議論をすることさえ妨げられてしまう場合があります。

それはもし万が一、天皇が神である、という教えが間違っていたときに、間違いを正すことが全くできなくなってしまうことですね。

ある教えが人の教えであるのか、神の教えであるのか、これを誰かが選択するときに、その選択をその人以外のだれかが強制することは全くできません。

もちろんある教えを人に強制することは歴史の中でずっと行われてきたことですが、強制された教えでは、心から確信する、というところにはいたりませんし、歴史を見ても、強制されたような教えはいずれ自滅的に廃れていくようです。

そうではなくて、人はいろいろな情報の中から、経験の中から、そこに納得のいく答えを自ら見出すことがなければ、その教えが神の教えであると言われても心から確信することはできないのではないかと思います。

1.4.「真実である」という基礎

今、僕は「自ら納得のいく答えを見出すことがなければ」と言いましたが、ある教えが神からのものである、と確信するときに二つの考え方があります。

一つは自分が、その教えは神からのものであるということに納得するかどうか、という問題。

もう一つは自分が納得する、しないに関わらず、その教えが神からのものであるということが真実であるかどうか、という問題です。

自分が納得しさえすれば、それが本当には真実には事実には神からのものであるのかどうかはあまり問題ではない、自分がそれは神からのものであると確信をもちさえすればよい、という考え方があります。

おそらく日本では多くの人がそのように考えているのではないかと思います。

それは例えば、宗教というものは自分にあったものを信仰するのが良い、とも言われることに通じます。

そこにはその宗教が教えていることが果たして本当に真実であるのかどうか、ということは問題になりません。

それよりも人々がその教えを信じることで、人々の間に争いがなくなったり、心が安らいだり、生きる希望がわいたりすることが大切なのだ、という考え方です。

それは大変魅力的な教えですが、そこには確かに問題があるのではないでしょうか。

その教えが自分の目に見えやすいところの経験と相反しない間は問題があるということが、実は認識されませんが、教えられたことと、自分の経験が矛盾したとき、いったい何が起こるでしょうか?

例えばクリスチャンと呼ばれる人たちの中には「信仰があれば必ず病気はいやされる」と教えるグループもあります。

簡単に言わせていただければ、それは聖書の言葉からも自分の経験からも間違った教えだと僕は考えているのですが、その教えを信じている人たちはそれが神の教えだと考えます。

それが真実でなかった場合、そしてこれまでの経験からこの世界にあって人は必ず死ぬわけですが、それが事故や殺人でなければ、遅かれ早かれいずれ病気で死ぬわけです。

もちろん老衰も体の病気です。

そのときに「信仰があれば必ず病気はいやされる」ということが初めて真実ではない、ということに気づかされても遅いですね。

自分が納得しているということ以上に、その教えが本当に神からのものであるのかどうか、それが真実であるのかどうか、に私たちは目を向けなければならないと思います。

さて、この二年間ほど、ずっとマルコによる福音書を続けて読んできました。

マルコの福音書は二千年前にパレスチナの地に生きたイエスという人物の言葉と行いとを記したもの、と言えますが、それはイエスの一番弟子であったペテロ、そのペテロの弟子であったマルコと呼ばれる人が、ペテロがイエスについて語った言葉を記したもの、と言われています。

このマルコの福音書は全部で16章あるのですが、大きく二つに分けることができます。

1章から8章の30節まではイエスが一体誰であるのか、そして8章の31節から16章まではこのイエスが一体なんのために地上に来たのかということを伝えています。

今日は前回と少し重なるところもあるのですが、8章の27節から読んでいきましょう。

27節、「それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々はわたしをだれだと言っていますか。』彼らは答えて言った。『バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。』」

預言者、というのは、将来に起こることをあらかじめ言う、いわゆる予言者とは違う漢字で、言葉を預かる、と書きます。

その漢字の通り、神から言葉を預かって人々に伝えた人たちのことです。

イエスが来られるまで、何人もの預言者が来て、人々に神のメッセージを伝えました。バプテスマのヨハネもエリヤもそのような預言者たちのひとりでした。

イエスの時代にイエスの行いを実際に見た人たち、イエスの教えを実際に聞いた人たちは、イエスもまた神から使わされた神の言葉を伝える預言者であると考えていました。

イエスは確かに神の言葉を伝える預言者ですが、イエスは単に預言者の一人、ということではありません。

ここで面白いのはイエスが「人々はわたしをだれだと言っていますか?」と聞いていることですね。

イエスが人々の評判を気にして、弟子たちに聞いてみた、ということは考えにくいです。

むしろ、その次のイエスの質問が表しているように、人々はイエスがどういう人か、ということを言っていますが、弟子であるあなた方はわたしのことを誰だといいますか、という質問につながっています。

他の多くの人がこうこうこういう意見を持っている中、イエスの身近ですごし、イエスと行動をともにし、イエスに直接教えを受けた弟子であるあなたがたはわたしのことをなんと言いますか?という質問です。

29節、「するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」

キリストはギリシア語です。これはヘブル語ではメシアと呼ばれます。その意味は油注がれた者という意味で、神に選ばれた王のことを指します。

僕は見たことがないのですが、今でもイギリスなどで王が新しく任命されるときには油を頭に注ぐそうですね。

ペテロはここで初めて、イエスは預言者であるだけでなく、神に選ばれた王である方であることを言います。

30節、「するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。」

なぜイエスが自分のことをだれにも言わないようにと弟子たちに口止めしたのか、その理由は書かれていません。

ですが、これは前回の復習になりますが、イエスは自分がいったい誰であるのかを自分からは直接言わずに人々がイエスの行いを見て、イエスの言葉を聞いて自らイエスがいったい誰であるのかを理解することをまっているように伝えられていることを見ました。

同じようにイエスは弟子たちがイエスが誰であるのかを人々に伝えるのではなくて、人々がイエスを知って、自らこの結論に達することを望んだのかも知れません。

イエスは、イエスが誰であるのか、そのことについては直接な答えを与えようとはしませんが、イエスがこれからなにを行おうとしているのか、ということについては弟子たちにはっきりと教えられました。

2.「人の子」とは?

31節、「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。 しかも、はっきりとこの事がらを話された。」

イエスは自分のことを指すときに「人の子」という言い方をしました。

人の子という言い方がその時代に自分を指す意味で使われていたのかどうか、僕は知らないのですが、「人の子」と呼ばれる人のことが旧約聖書のダニエル書に記されています。

ダニエル書というのはイエスの時代から500年ほど前にさかのぼり、イスラエル民族のユダ王国が新バビロニア王国によって征服されたとき、多くの住民がバビロンへ強制移住させられましたが、そのころの人物ダニエルの物語と預言者でもあったダニエルによる預言とが記されています。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

ダニエル書7章13節と14節(新改訳聖書)

イエスはここで言われている「人の子のような方」を示すように、自分のことを「人の子」と呼んだのではないかと考えられます。

イエスに主権と光栄と国が与えられ、というのは分かりにくいですが、イエスが来て後二千年間、確かに、初めはユダヤ人、ギリシア人、ローマ人、そして中近東、ヨーロッパを越えて、ロシア、アメリカ、アジア、オーストラリアのシドニーにまでイエスのメッセージが伝えられ、さまざまな民族、国、言語の人たちがイエスを自分の王として彼に仕え、生涯を生きようとしています。

マルコの福音書に戻りましょう。

31節、ところが、この王であるはずの人の子は王として人々に迎えられたでしょうか?

そうではないですね。イエスは必ず、多くの苦しみを受け、捨てられ、殺されなければならない、と言いました。

長老、祭司長、律法学者たちはそのころのイスラエルの政治的、宗教的な指導者だった人たちです。

本来ならそのような指導者たちに迎え入れられ、王として人々に歓迎されるべきというのが弟子たちの考え方でしたが、イエスの考えは違っていました。

なぜイエスが殺されなければならなかったでしょうか?

この箇所にははっきり言われていませんが、それは、人が神に聞き従わず、神に逆らって、神を無視して生きてきたことの罰を、捨てられるべき人に代わってイエスが代わりに神に見捨てられるためでした。

神の計画は、この神に選ばれた王であるイエスが、人の罪を清算して、人が再び神に受け入れられるために、十字架の上で死ぬ、ということでした。

これから16章にかけて、なぜイエスがこの世界に来たのか、そして、なぜ殺されなければならなかったのかが伝えられています。

人類の身代わりにイエスが神に罰を受けた、ということがあまりにも突拍子もないことだと感じられるかもしれませんが、そのメッセージを初めて聞いたイエスの弟子たちにもまた、この話はあまりにも彼らの理解を超えたものでした。

彼らはイエスが神に選ばれた王である方であることを理解しましたが、その王が指導者たちにに見放され、殺されなければならない、というのは全く理解できませんでした。

それも無理のないことだと思います。

そのころのユダヤ人たちは自分たちの国を持たず、強大なローマに支配されていました。

彼らが望んでいたことはかつてダビデ王やソロモン王がイスラエルの王国を建設し、繁栄させたように、ローマに支配されていたユダヤ人たちを解放してイスラエルの王国を再び建設するような王でした。

イエスを通して人類全体を神のもとへと導こうとされた神の計画は彼らにとっては全く予想外のメッセージだったのです。

32節後半、「するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』 」

ペテロは弟子たちを代表してイエスが王であることを告白しましたが、しかし、イエスにしかられたペテロは恥ずかしかったでしょうね。

弟子たちを見ながら、ということばにはなにかペテロのそのときの恥ずかしさが強調されているように思います。

ペテロが望んだことはあくまで人の理解の範囲、しかし神の計画はその人の望みをはるかに超えていました。

3.「自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスについていく」とは?

34節、「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」

もしイエスが本当に神に選ばれた王であるのなら、この王に聞き従うべきですが、そのような人たちにイエスは教えます。

「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

自分を捨てるとはどういうことでしょうか?

自分の十字架を負うとはどういうことでしょうか?

シドニーでは私はクリスチャンです、イエスに従って生きています、と公言しても、それはよかったですね、くらいの反応で、それ以上のことはあまり起こらないでしょう。

日本では、例えば家系がすべて神道の家で、私はクリスチャンになります、というときにはそれなりの、場合によってはかなりの、家族間の困難を生じることがあると思います。

歴史の中で、また現在でも世界のある地域では、自分はクリスチャンです。私はイエスに従います、と公言するだけで、直接的な迫害を受けることがあります。

このマルコの福音書が書かれたころは、クリスチャンたちはユダヤ人からも、またローマ人からも厳しい迫害を受けていました。

そのような状況で自分の十字架を負い、というのは十字架を負って処刑される道を歩む囚人のように、自分の肉体的ないのちも省みず、イエスに従う、ということかもしれません。

十字架を負って歩むのなら、人々の目にさらされ、屈辱を受けますが、そのような状況になってもイエスに従う、ということかもしれません。

十字架、という重荷、それは肉体的だけでなく精神的な重荷をも意味しますが、そのような重荷をおってまで、イエスに従う、そういうことをあらわしているかもしれません。

それはもしかしたら、シドニーに住んで教会にも友だちにも職場にもクリスチャンの多いような環境ではあまり心に響かないことかもしれませんが、しかし、そうではありませんね。

イエスは自分を捨て、といいました。

例えばマルコの福音書12章になりますが、あるとき、ある人がイエスに尋ねました。「先生、すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」

イエスは答えました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

隣人とは自分の親しい人だけでなく、聖書のほかの箇所で言われていますが、自分が出会い、交流を持つすべての人のことを指します。

自分のすべてを尽くして神を愛せよ、というのはなんだか、そういうものかなぁ、とも思うのですが、自分でない人を自分と同じように愛するのですか?

自分勝手にならず、相手を自分と同じように愛する。

自分の家族にさえもできていないようなことを、イエスは実践するように教えました。

そんなのはやりたくありません、できません、というのであれば、それは確かに「自分を捨てて」いないことではないでしょうか?

宗教的な迫害という状況の中でイエスを信仰することを保ち続けること、それは確かに自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエスについていくこと、です。

しかし、普段の生活の中で、直接的な迫害ということがない状況でも、イエスの教えを思い出して、実践しようとすること、それも自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエスについていくことだと思うのです。

4.「いのち」とは?

35節、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」

ここで言われている「いのち」という言葉は、単に肉体的ないのち、という意味ではないと思います。

例えば信仰のために迫害にあった人たちは、実にイエスのために肉体的ないのちを失うこともありましたが、失われた肉体的ないのちはもう帰ってきません。

この「いのち」ということばは、この世界での肉体的ないのち、という理解を超えて、なにか「自分という存在」または「自分と神との関係」ということばで表すことができるのでないか、と考えます。

神のためでなく自分のために生きようとする人は、自分のためになにか自分の生き方というものを残しておきたい、とっておきたい、と考えますが、しかし、もし神が本当に存在するのなら、この神なくして、神を無視して生きようとすることは、結局、神が定めた生きることの意味をなくしてしまうことです。

しかし、もし、自分のためでなく、神のために生きようとする人は、自分を捨ててしまいましたが、しかし、神との関係を得て、それがすなわち、肉体のいのちを越えた本当のいのちを得ることである、と言えるのではないでしょうか?

38節、「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

姦淫とは今の日本では軽く不倫などということばで言われていますが、もともとの意味は自分の結婚したパートナーでない人と性関係を持つことですね。

しかし聖書では神と人との関係を結婚の関係と例えて─いや、むしろ神と人との関係が真の結婚の関係であり、この世界の結婚はそれを表すものであることが言われているのですが、それはおいておいて─神と人との関係を結婚の関係に例えて、その関係があるはずなのに、人が本当の神を離れて他のことに心を奪われるのなら、それを姦淫と呼んでいます。

多くの人が神を無視して生きているこの時代にあって、もしイエスとその教えを恥じるのなら、イエスもそのような人を恥じる、とイエスは言われました。

イエスを尊ぶ人は多いです。

しかし、多くの場合、その尊敬は、イエスを偉大な宗教家として、なにかとてもよいことを教えた先生である、ととらえるのみです。

聖書によれば、イエスは単なる宗教家、ではありませんでした。

31節、イエスは死んで後、「三日の後によみがえらなけらばならない」と言われました。

その通りに、イエスは十字架上で死んだはずなのに、三日目に生きて弟子たちの前に現われました。

イエスが復活されたこと、これが弟子たちにとっては、イエスが本当に神から来たものであること、イエスが神に選ばれた王であること、イエスによって信じる人の罪はすべて神に赦されたこと、これらのことが単なるなにかのよい教えというだけでなく、彼らのなかに確信となって、自らの信念となったのだと思います。

イエスは復活された後、弟子たちの前で天にあげられた、と聖書は伝えていますが、しかし、また、イエスは同じ姿で、この地上に戻ってくることも聖書は伝えています。

それが、いま読んだ38節のことばでもあるわけです。

9章1節、「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。』」

あなたがた、というのはこのときイエスのことばを聞いていた弟子たちのことを指すと思われます。

すなわち、弟子たちは自分たちが死ぬ前に、神の国が力をもって到来する、ということを見ることが言われました。

それはいったいどういうことであるのか、今日は、詳しく説明している時間がなくて、これから16章に向けて読み進めていく中で見ていく予定ですが、イエスはなぜ、このような預言をしたのでしょうか?

この9章1節の預言は実は弟子たちが生きている間に実際に起こって、イエスのことばが真実であることが理解されたのなら、38節のイエスが将来再び来るという預言も真実であることの確信がもたらされる、そのような理由があったのかもしれません。

5.なぜイエスはこの世界に来たのか?

まとめましょう。

なぜイエスはこの世界に来たのでしょうか?

それは人が、どう生きるべきなのかの神のメッセージを伝えるため、といえるかもしれません。

またイエス自ら自分を捨てて、他の人のために死ぬ、ということを実践してそのモデルを示すため、といえるかもしれません。

それは確かにその通りだと思います。

しかし、今日の箇所を読むと、イエスは神に選ばれた王としてこの世界に来た、とあります。

そして王であるのに、イエスは殺されなければならない、と言いました。

実にイエスはイスラエルだけでなくすべての人の王として、この世界に来て、そしてこの王は人の代わりに神に罰せられるために十字架の上で死にます。

このメッセージはあまりにも突拍子のないものかもしれません。

初めて聞いたイエスの弟子たちは、イエスの教えを身近に聞き、その行いを見ていたのにも関わらず、それが理解できませんでした。

しかし、それは神の計画であって、神はイエスを通して、人々を再び神のもとへと導こうとされています。

問題はそれが本当に真実であるのかどうか、ということです。

もし、そんな話は真実でないと思われるのなら、それはどうしてでしょうか?

それはあまりにも現実離れした話だからでしょうか?

それとも、自分は自分でやりたいように生きたいのであって、自分が自分の王なのであって、イエスを自分の王とすることなんてしたくない、と思われるからでしょうか?

イエスは自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、イエスのためにいのちを失うものはそれを救うのです、と言われました。

どうか考えてみてください。

もし、確かにこのイエスが、聖書に言われている通りに、私たちの王であり、彼によって神は自分の罪を赦し、受け入れてくださるということに確信を持っているのなら、どうか一緒に次のように祈ってください。

祈りましょう。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の王として生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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Produced by Hajime Suzuki
Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience