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マルコの福音書7章31節から8章30節まで
1.マルコによる福音書の読み方
1.1.読者の受け取るままに?
1.2.著者の意図を理解する
1.3.なぜ「明確」に伝えないのか?
2.「ツロの地方を去り、シドンを通って、デカポリス地方」?
3.なぜパンの奇跡が二度も伝えられているのか?
4.「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。」
5.なぜ一度で完全な癒しがなされなかったか?
6.「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に
「エパタ。」
すなわち、
「開け。」
と言われた。すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。人々は非常に驚いて言った。
「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」
そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。
「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」
弟子たちは答えた。
「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」
すると、イエスは尋ねられた。
「パンはどれぐらいありますか。」
弟子たちは、
「七つです。」
と答えた。すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われた。人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。人々はおよそ四千人であった。
それからイエスは、彼らを解散させられた。そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれた。パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。
「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」
イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。
「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」
そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。それに気づいてイエスは言われた。
「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」
彼らは答えた。
「十二です。」
「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」
彼らは答えた。
「七つです。」
イエスは言われた。
「まだ悟らないのですか。」
彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、
「何か見えるか。」
と聞かれた。すると彼は、見えるようになって、
「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」
と言った。それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。そこでイエスは、彼を家に帰し、
「村にはいって行かないように。」
と言われた。それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。
「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
彼らは答えて言った。
「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」
するとイエスは、彼らに尋ねられた。
「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
ペテロが答えてイエスに言った。
「あなたは、キリストです。」
するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。
マルコの福音書7章31節から8章30節まで(新改訳聖書)
僕は映画を観るのが好きです。
映画といっても映画館で観るのではなくて─子どもが生まれてから映画館には一度しか行けていませんが─主にDVDを借りて観ます。
DVDには付録のついているものが多くて、よくあるのが映画とともに監督や俳優などのコメントが加えられていたりします。
特に気に入った映画はそのコメントの音声を加えて気になった場面をもう一度観てみたりします。
それでどちらかといえば最近気づいたことなのですが、映画をつくるときに少なくとも二つの手法があるように思います。
もちろんプロの人たちに言わせれば二つどころか何百もの手法があるのだと言われると思うのですが、一一般視聴者の観点から言わせていただければ、一つは映画を作る人、仮に製作者としましょう、その製作者には映画を観る人たちになにか伝えたいメッセージがあって、そのメッセージを伝えるために、あるシーンをあるイメージを持って作り上げようとする手法です。
例えばマトリックスという映画がありますが、観たことのある人はいるでしょうか?
ハリウッドの映画で僕のお勧めトップテンに入る映画ですが、キアノ・リーブが究極リンボーダンスをしつつ弾丸をよけるシーンが有名な映画ですね。
マトリックスという映画の中ではコンピューターによってシミュレーションされた仮想の現実と人と機械が戦争をしている実際の現実の二つの世界があって、その二つの世界を対比させるために─コントラストを高めるために─仮想の現実では昔のコンピューターのモニターを思わせる緑色を多く用いて、実際の現実の世界ではそれと対比させるように青色を多く用いた、という製作者側のコメントがなされていました。
それは仮想と現実のコントラストという製作者側に伝えたいメッセージがあって、そのために製作者はいろいろな手法を用いる、ということです。
もう一つの手法は監督は何かしらの場面を作り上げますが、そこになにか特に伝えたいメッセージがあるのではなくて、その場面を観た人、個人個人が自分で感じたことを長く自分のイメージとして持ち続けられるように印象的な場面を作り上げようとする手法です。
例えばヒーローという映画があるのですが、観たことのある人はいるでしょうか?
ジェット・リーが超人的な戦い方をするアクション、そして大変美しい中国の風景が魅力の映画なのですが、この映画でも回想シーンに合わせていろいろな色が使われています。
あるシーンは壁も俳優の服も赤、またあるシーンはすべて緑、というような感じです。
ですが、監督によればそこになにか色の違いによって伝えたいメッセージがあるのではなくて、それを観た人たちが個人個人でいろいろなことを感じて、自分のイメージとして長くそれらのシーンを心に残せたたら、という意図を持って作られた、というようなコメントがされていました。
よく言えば美しく人々の印象に残る映画、悪く言えばなんのメッセージもない映画、ということになります。
さて、極端に言って、どちらの手法に、みなさんはより共感するでしょうか?
作る側にメッセージがあって、それを伝えようとする手法、もしくは
観た人が自分でメッセージを作るようにと考えられた手法。
どちらの映画の手法がより好ましいか、ということは個人の好き好きでまったくかまわない、問題ない、と当然思うのですが、これがこと、聖書の受け取り方、ということになると、話は少し違ってくる、と僕は考えています。
すなわち、聖書は、聖書を書いた著者のメッセージを受けてることが大切なのか、それとも読んだ人個人個人が感じたことを受け取ることが大切なのか、という問題です。
もちろん、著者のメッセージを理解することも大切ですし、読んだ人が心に訴えかけられることも大事ですが、どちらがより大事か、と問われるのならば、どちらになるでしょうか?
著者のメッセージを頭で理解しても心にまったく響かない、という状態は確かに残念で好ましくない状態ですが、心に確信を持ったことが、実は著者が伝えたかったこととは全く別のことであった、という状態も大変に憂える状態だと思います。
聖書を読んで、自分が感じたままに受け取ることが大事だ、という考え方を持つ人は少なくない、と思われます。
そこにはいろいろな肯定的な面がありますね。
例えば、文字を読むことができるなら、またはもし文字が読めなくても、誰かに読んでもらってその言葉が理解できるなら、誰でも聖書を理解することができます、その言葉を聞いて、自分の感じたことを感じたとおりに受け取ればよいからです。
逆に聖書を理解するためには聖書の書かれた言語であるヘブル語、ギリシア語のもともとの言葉の意味や使われ方、聖書の書かれた時代背景、著者の生きた文化の背景などを理解しなければならない、ということになると、なんだかとても学問的で、聖書はすべての人に向けた神のメッセージであるはずなのに、なんだか一部の学者たちだけのもの、というような印象を受けてしまいます。
これはいったいどういうことでしょうか?
それは実は、いろいろなステップのあることだと思います。
例えば聖書のメインのメッセージの一つは、神はあなたを愛しておられる、ということです。
神はあなたを愛しておられます。
このメッセージを受け取るために、聖書のもともと書かれた原語を理解しようとか、時代背景を理解しようとかする必要は全くありませんね。
しかし、もしもう一つステップを踏んで、例えば「イエスはあなたの罪のために十字架で死なれました。」というメッセージを理解しようとするなら、そこにはイエスとは誰か、罪とはなにか、なぜイエスが私の罪のために死ななければならなかったのか、ということを理解しなければなりません。
聖書のメッセージの理解をより深めていく上で、自分で感じたこと、ではなくて、著者の意図したメッセージを受け取っていくこと、そのためには確かに聖書を学ぶ、ということが必要になっていくと思うのです。
聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならないということです─新共同訳聖書では「自分勝手に解釈すべきではない」と言われています─。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
第二ペテロの手紙1章20節(新改訳)
もし聖書が単なる人が作り出したものなら、聖書を書いた人も単なる人、それを解釈しようとする自分も単なる人なのだから、どのように解釈しても、もしくは新しく意味を作り上げても良い、ということになりますが、そうではありません。
聖書は神が特別に選ばれた人たち、これは神の預言者とイエスの使徒たちですが、彼らが人の言葉を用いて聖霊に動かされ神のメッセージを伝えたものなので、自分の感じたように、ではなく、最終的な著者である神の意図したメッセージを理解することを心がけなければならない、と僕は考えます。
さて、あるメッセージを伝えたいときに、これまた極端に言って、少なくとも二つの方法が用いられると思います。
一つは相手に伝えたいことをそのまま言葉にする方法です。
普段の生活の中で、僕はなにがどうなってもこの方法を用いることを好みます。
なにか伝えたいことがあるのなら、それをそのまま言葉にする、というのは一番単純で簡潔だからだと思うからです。
あの人はこう言っているけど、実は心の中では別のことを考えている、ということを考え出してしまうと、いったいじゃあ、あの人はなにを考えているのだろうということに終わりがないように思うからです。
ですが、残念ながら、それはあまりにもよく言えば理想的な考え方、悪く言えば単純な考え方ですね。
僕の好きな本の一つに “Men are from Mars, Women are from Venus” という本があるのですが、ご存知の方はいますか?
「男性は火星から、女性は金星からやってきた」と日本語に訳せると思うのですが、この本は夫婦間の愛を一層高めることを目的とした本、もしくは夫婦間の対立を少しでも減らすことを目的とした本です。
この本の著者の方がクリスチャンであるのかどうか僕は知らないのですが、僕がルイースと夫婦として生きていくうえで、経験の上から大変役に立つ実用的なアドバイスを得ている本でもあります。
もちろん僕たちの根本的にある関係の基礎は神、イエス、聖霊、聖書、祈り、復活の希望ですが、聖書の教え、例えば僕にとっては自分の体を愛するようにルイースを愛しなさい、という教えを実践しようとする上で大変助けになることを、この “Men are from Mars, Women are from Venus” という本は教えてくれています。
日本語版がでているそうですし、もしくはこの本を僕なりに日本語で要約したものを僕のウェブサイトに載せているので、興味のある方には是非お勧めします。
それでこの本のいっていることの一つなのですが、女性は概して─一般的にということですね、すべての女性が、そうだ、ということではないのですが─多くの女性はなにか自分が言いたいこと、伝えたいことがあるときに、それを言わなくても男性が理解してくれることを望んでいるそうです。
例えばちょっと仕事と家事と子育てといろいろ続いたときに、家族で休暇をとってどこかに行きたいなぁとある妻である人が考えたとしましょう。
そのとき、家族で休暇をとってどこかへ行きたいわね、と夫に言うのではなくて、例えば隣の誰々さんはどこどこへ休暇へ行ったそうよ、夫に言ってみるそうです。
言われた夫は、へー、そう、で終わってしまいますが、妻は実は隣の人が休暇へ行ったということを伝えたいのではなくて私は家族で休暇に行きたい、ということを伝えたいのです。
それならそう言えばいいのに、と思うのですが、言わなくても分かってもらいたい、というにぶい男性にとっては大変理不尽な要求がそこにはあるわけです。
そういうことがある、ということを知っておくだけでお大変助けになっているのですが、言いたかったことは、あるメッセージを伝えるときに、そのメッセージをすべて言葉にするのではなくて、なにか理由があって、そのことを直接言葉にはせずに、それを伝えたい、という場合がある、ということです。
実はマルコの福音書はそのような書であるのではないか、と僕は考えています。
著者であるマルコは読者に伝えたいメッセージがあるのですが、それを直接には言葉にしません。
そんなの、はじめさんの思い過ごしですよ、なんでそんなまわりくどいことをしているのですか?と言われるかもしれませんね?
ですが、例えばさっき、読んでいただいた箇所で、イエスが弟子たちに「まだ悟らないのですか」と言われていますね。
イエスはここで弟子たちに何を悟るべきだったのか、言っているでしょうか?
言っていません。
イエスは自分が言葉にしないでも、そのことを弟子たちが自ら理解すること、悟ることを求めているのではないでしょうか?
同じようにこの福音書の著者であるマルコも、私たち読者に伝えたいメッセージがあるのですが、それを言葉にせずに例えば物語の構成の仕方などで、読者に伝えようとしているのではないかと僕は思うのです。
もし、そうなら、マルコはこの箇所でいったい私たちになにを伝えようとしているのでしょうか?
マルコによる福音書をずっと読み進めてきました。
初めてマルコによる福音書を読む方には是非読んで感じたことを受け取って欲しい、とお勧めしたいですが、この「イエス・キリストの福音─マルコによる福音書」シリーズを読み進まれてきた方は、ぜひ、単に読んで感じたことを受け取るだけでなく、著者が伝えようとしたメッセージはなにか、考えていただきたいと思います。
それでは7章の31節から見ていきましょう。
31節、「それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。」
ツロとシドンとは前回も見てみましたが、地中海沿岸にある貿易都市です。
デカポリス、とは僕の百科事典によればその名のとおり、デカが十、ポリスが都市という意味で紀元前60年ごろにガリラヤ湖の東のあたりを中心に形成された十の都市の集まりを指すそうです。
下の図はツロ(Tyre)、シドン(Sidon)、ガリラヤ湖(Sea of Galilee)、そしてデカポリス(Decapolis)の位置関係を示してます。
(上図は Microsoft Encarta Reference Library 2003 を用いて作成されました。)
ここで問題があるのですが、もしイエスがツロを去ってシドンを通り、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖にきた、ということはなんとも遠回りの道順をした、ということになりそうです。
そんな道筋はどうも理にかなわないから、この箇所は実はユダヤの地方の地理に詳しくない人のでっちあげだ、などという批判がされることがあります。
しかし、ツロもシドンもデカポリスも当時では大変に名のある都市でした。
それらの地理的な位置関係も知らない人なら、なぜ、わざわざ詳しく、地名を挙げてイエスの通った道筋をあげようとしたのでしょうか?
いや、それはむしろ、イエスがわざわざそんな遠回りをしてデカポリス地方のガリラヤ湖に来たので、マルコもわざわざそのことを忠実に書きとめた、と考えることもできると思います。
それでは問題は、なぜイエスがそんな遠回りをしたのか、ということですが、これはいったい、なぜでしょうか?
前回も見てみましたが、ツロとシドンという都市はユダヤ人にとってはユダヤ人でない人たちの街の代名詞でした。
そしてデカポリスもユダヤ人にとってはユダヤ人でない人たちの都市のことを指しました。
イエスはこのような道筋をたどることでどうやらユダヤ人でない人たちの地方を回られているように思えます。
それはイエスがもたらす神の救いは確かにユダヤ人だけのものではなく、ユダヤ人でない人たちにももたらされるべきものであることが言われているようです。
32節、人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」
イエスはたくさんの人々の病気をいやしました。
しかしそれらすべてのいやしがマルコの福音書で詳しく伝えられているのではなく、マルコはさまざまないやしの奇跡の中でもとくに読者に伝えたいと考えたものについて、詳しくそのいやしの経緯を伝えているように思います。
例えば前回のスロ・フェニキア生まれの女性の女の子が悪霊から開放されたいやしでは、ユダヤ人だけでなく、ユダヤ人でない人にも神の恵みが与えられることが示されました。
その前のヤイロの娘である女の子がいやされたときはイエスには死人をよみがえらせるほどの力があることが示されました。
この箇所のいやしではなにが言われているでしょうか?
マルコの福音書ではたしかにこれまで耳が聞こえず口のきけない人のいやしが伝えられていなかったので、この箇所でイエスには耳の聞こえない病気、口のきけない病気をいやすことのできる力があることが伝えられている、とも考えられますが、果たしてそれだけでしょうか?
または旧約聖書イザヤ書35章で言われている、「耳しいた者の耳はあけられ、おしの舌は喜び歌う」という預言がイエスによって成就されたことが言われているのかもしれません。
このことについてはもう一度アウトラインの4番にて見てみたいと思います。
8章1節、「そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」 弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」すると、イエスは尋ねられた。「パンはどれぐらいありますか。」弟子たちは、「七つです。」と答えた。すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われた。人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。人々はおよそ四千人であった。それからイエスは、彼らを解散させられた。 」
この箇所は4ヶ月前にマルコの福音書の6章でイエスが5つのパンと二匹の魚から大人の男性だけで5千人の人を満腹させた奇跡に実に良く似ています。
5千人を満たした奇跡はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書すべてで伝えられていますが、4千人を満たした奇跡はマタイとマルコの福音書だけに伝えられています。
なぜ同じような奇跡が二度も伝えられているのでしょうか?
ヨハネの福音書の最後には福音書に記述されていないイエスの行いは限りなくあって、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と言われています。
イエスの活動した時期は3年間ほど、と言われていますが、もしかしたらその期間中にイエスは何度も、このように何千人もの人の空腹を満たす奇跡を行ったかもしれません。
もしそうなら、その中で、マルコは5千人のときと4千人のときと二回だけを読者に伝えようと記録したわけですが、どうして二回、伝えることを選んだのでしょうか?
そこにはなにか、伝える側の意図があるように思われます。
一度目の奇跡は4つの福音書すべてに記録されていて、ヨハネの福音書によれば集まった人たちはイエスを自分たちの王としようとした、と言われているので、これはユダヤ人たちのことであるでしょう。
二度目の奇跡はそれがどこで行われたのか書かれていませんが、マルコの福音書もマタイの福音書もその前の箇所でイエスがユダヤ人でない人たちの地域をめぐられていることが言われています。
もしかしたら一度目の奇跡は神の恵みがユダヤ人にもたらされたことを示すため、二度目の奇跡は神の恵みがユダヤ人でない人たちにももたらされたことを示すために、二度のパンの奇跡が記されているのかもしれません。
そういえば、一度目の奇跡で12のかごにパンがいっぱいにあまった、とありましたが、12というのはユダヤの12部族の数字で、ユダヤ人を表すときに用いられます。
二度目の奇跡で7のかごにパンがいっぱいにあまった、とありますが、7というのはラッキーセブン、ではなくて聖書のなかでは「完全さ」をあらわす数字です。
例えば創世記の4章では、「カインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」と言われていたり、黙示録では暗示として7つの教会にメッセージが送られました。
7という数字は世界のすべての民族、を示しているのかもしれません。
さらに二度目の奇跡で4千人の人が満たされた、4という数字は東西南北、地理的な世界を表す数字です。
創世記の2章には世界をつなげる4つの川のことが言われていますし、黙示録では「地の四方にある諸国の民」と言われています。
それでは5つのパンと2匹の魚はなんの意味があるのか?5千人はなんの意味があるのか?と言われれば、
なんの意味があるのでしょう?としか言いようがないのですが、これは天国でいつか神様に聞いてみたいことでもあります。
いや、5つのパンと2匹の魚に意味なんてないし、7つのかごだって意味なんてないんだよ、というのが答えかもしれません。
単に二度、奇跡を記すことで、それらの奇跡を知っていたはずの人たちがそれでもなお、イエスがいったいどんな方であるのかを理解することのできなかった、その理解のおそさが強調されるためだったのかもしれません。
10節、「そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれた。」
ダルマヌタという地の名前は聖書ではここだけに用いられています。
当時の聖書以外の文献で残っているものにも未だこの地名が用いられているのが見つかっていないため、どこのことであるのかよく分かっていないそうです。
並行するマタイの福音書ではマガダン地方と言われていますが、マガダンという地名もどこのことであるのかよく分かっていません。
しかしマタイ、マルコの福音書どちらもこの地方においてパリサイ人がイエスのところに来ているので、ユダヤ人の地域であることが推測されます。
11節、「パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。」
たった今、二度もイエスが何千人もの空腹を満たす奇跡を行ったのに、パリサイ人たちはイエスに天からのしるしを求めました。
しかし、彼らはイエスを信じたくてイエスにしるしを求めたのではなく、イエスをためそうとした、と言われています。
そのようにイエスを信じない、と心に決めてイエスをためそうとするなら、イエスがいったい誰であるのかを示す、そのしるしは絶対に与えられません。
なぜなら、イエスが誰であるかのしるしはすでにもう人々に与えられていますが、人々がそれを受け取ろうとしないのなら、いつまでたっても与えられないままでいられるからです。
ここまで福音書を読んだ人にはすでにイエスが誰であるのかのしるしが示されています。
そのしるしが与えられないのは、示されているのに受け取ることがないからなのでしょう。
14節、弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」
ここには書かれていませんが、弟子たちはこの最後のイエスの質問にいったいなんて答えたのでしょうか?
イエス:「まだ悟らないのですか?」
弟子たち:「先生、分かりません」
だったでしょうか?
マタイの福音書によれば、ここでようやく、弟子たちは、イエスが気をつけなさいと言われたのは、パン種のことではなくて、イエスを信じようとしないパリサイ人たちの教えのことであることを悟った、とあります。
しかしマルコの福音書ではそのように言葉で弟子たちの理解の程度を説明するのではなく、別の方法で弟子たちの理解の程度を表しているように思います。
次の箇所にはマタイの福音書には記されていない、目の見えない人がいやされる奇跡が伝えられています。
実はこのいやしの奇跡の箇所は他に伝えられているさまざまないやしの奇跡の箇所と大変に異なる性質があります。
いったい、なにがそんなに特別なのか、考えてみてください。
22節「彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。 それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。そこでイエスは、彼を家に帰し、「村にはいって行かないように。」と言われた。」
なにが特別だったでしょうか?
おそらくここだけだと思われるのですが、ここでのいやしの奇跡は一度で完全ないやしがなされず、二回、イエスが目の見えない人に触ることでいやされたことが言われています。
他のどのいやしの奇跡もイエスが命令するなら、一度でまた完全にいやされたことが伝えられていますが、ここでは一度目の奇跡では物理的に目が見えるようになりましたが、見ているものが木であるのか人であるのか分からなかったようです。
二度目の奇跡で「すべてのものがはっきりと見えるようになった」と言われています。
なぜ二回もイエスが彼にさわらなければ治らなかったのでしょうか?
これは聴いた話なのですが、生まれて二歳ごろ病気で目の見えなくなった人が40歳を過ぎて治療をすることで目が見えるようになったそうです。
ところが目は見えるようになりましたが、その見て目に入っていくる情報を脳が分析することができなかったのか、物理的に見ることはできましたが、見ている情報を正しく扱うことができなかったそうです。
彼は自分の飼っていた犬と猫をさわることでどちらが犬でどちらが猫なのかを区別することができましたが、見ることによってはそれを区別してどちらが犬でどちらが猫なのかを覚えることができませんでした。
彼は自分の犬を見て、これがいったい何なのか、分かりませんでしたが、目を閉じてさわってみることで、これが自分の犬であることが分かります。
ああ、これが自分の犬なのか、と見ているものを覚えようとしますが、犬が後ろを向けば、これはいったい何なのか、理解できなかったと言われています。
その人は結局物理的には見えるようになったけど、脳が目から入ってくる情報を分析することができず、治療の後も目の見えないことと同じだったそうです。
それではここの奇跡ではそういうことが言われているのでしょうか?
一度目の奇跡で目がいやされ、しかし、それを脳が正しく分析することができないので、二度目の奇跡でその機能も正しくなるようにいやされたというような。
それは確かにそのようなこともあると思うのですが、それをわざわざマルコが詳しく記して伝えたことには、なにかマルコの意図があるように思われます。
このことについてはもう一度最後に戻ってきたいと思います。
27節、それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」 彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。」
ピリポ・カイザリヤというのは、これがガリラヤ湖だとするとこの辺です。
この街は国主であったピリポがローマの帝王カエサル、もしくはシーザーにささげたもので、ピリポ・カイザリヤという名前がついています。
この街は町の名前から、ローマの帝王カエサルが人々の王であることが言われている場所ですが、そこでイエスは弟子たちに尋ねました。
「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
イエスは弟子たちに人々の評判を聞きたかった、ということは考えにくいです。
むしろ、イエスはこのことを聞くことで、人々はイエスのことをこうこうこういっているが、あなたは私のことをどういうのか、人々の多くが言っていることに左右されるのではなく、あなたが、イエスを見て、イエスのことを誰だというのか、ということを聞かれているのだと、僕は思います。
イエスは弟子たちに尋ねました。
「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
ペテロが答えてイエスに言います。
「あなたは、キリストです。」
キリストとはギリシア語で、ヘブル語ならこれはメシヤとなります。
それは「油注がれた者」という意味で、神に選ばれた王のことを指します。
ペテロはそのころの人々がイエスのことを指して、あれは神の預言者だ、というだけでなく、イエスは神に選ばれた人々の王である方だということを理解し、そう告白します。
王、というとある人たちにとってはなにか人々を搾取する独占者というような悪いイメージがありますが、しかし、本当の王は人々に正義と平和をもたらすものです。
イエスは人々を救いへと導く、神に選ばれた王です。
今日の箇所はただ読み進めるとなんだかいろいろな小さな話が適当にならべられているだけのように感じられるかもしれません。
しかし、イエスは弟子たちに言われました。「まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。」
ここで耳の聞こえなかった人のいやし、目の見えなかった人のいやしが伝えられていることにはなんの意味もなかったのでしょうか?
弟子たちが悟らなかったこと、それはイエスがいったい誰であるのか、というそのことに尽きると思います。
大いなる権威をもって人々を教え、病人をいやし、悪霊を追い出し、罪びとの罪を赦し、波と風を静め、湖の上を渡り歩き、何千人もの人の空腹を不思議に満たすことのできたイエス、このイエスを見てなお、人々はイエスが本当にはいったい誰であるのか理解できませんでした。
そして、イエスとともに行動をした弟子たちでさえも、ここにいたるまで、それを理解することができませんでした。
彼らの心が閉じて、物理的に目はあってもイエスの本質を本当には見ることができず、耳はあってもイエスの言葉を本当には聞くことができなかったからです。
しかし、それでもイエスのもとに来るのなら、耳の聞こえなかった人、目の見えなかった人がイエスにいやされたように、弟子たちの心もイエスに開かれ、イエスが本当に誰であるのかを理解することができるようになります。
マルコの福音書1章から8章までを通して、ついにペテロがイエスは神に選ばれた王であることを告白します。
しかしその告白は残念ながら完全なものではなく、目の見えなかった人が一度目のいやしで見えるようにはなったけれども完全ではなかったように、ペテロはイエスが神に選ばれた王であることは理解しますが、なぜこの王が地上に来たのか、これは次回の箇所になりますが、それをはっきりと理解することはまだできませんでした。
マルコの福音書は大きく二つに分けることができます。
1章から今日の箇所まではイエスがいったい誰であるのかと伝えています。
イエスはキリスト、神に選ばれた王です。
次回の箇所から16章ではこの王がではなんのために来たのかを伝えています。
あなたは、イエスをだれだと言うでしょうか?
もしイエスのことを理解したくて、イエスが神に選ばれた王であることに確信を持ちたくてイエスのもとに来るのなら、イエスが耳の聞こえなかった人、目の見えなかった人をいやされたように、私たちの耳を開き、目を開き、心を開いて、イエスが本当に誰であるのかを確信させてくださると期待します。
しかし、もし、今日の箇所にあったパリサイ人たちのように、イエスを認めようとしないのなら、認めようとしたくないのなら、そのような人がイエスのもとにきて、イエスの行いを見、イエスの言葉を聞いても、いつまでたってもイエスが神からのものであることのしるしが与えられることはありません。
あなたはイエスをだれだと言いますか?
祈りましょう。
もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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