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マルコの福音書7章24節から30節まで
1.すべての人は神の前に平等ではないのですか?
1.1.平等?
1.2.イスラエル人が神に選ばれた民である、とは?
1.3.なぜイスラエル人が神に選ばれたのか?
2.スロ・フェニキア生まれのギリシア人
3.「子ども」?「子犬」?
4.「主よ。そのとおりです」
5.「まず」子どもたちに
イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。するとイエスは言われた。
「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
しかし、女は答えて言った。
「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
そこでイエスは言われた。
「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。
マルコの福音書7章24節から30節まで(新改訳聖書)
僕たち夫婦には直美(なおみ)と安娜(あんな)という二人の子どもがいるのですが、二人とも甘いものが大好きです。
一つのチョコレートを二つに分けようとするときなどは、二つのチョコレートが同じ大きさになるように慎重に分けなければなりません。
どちらかが大きかったりすると、またはどちらかが大きいように見えたりすると「直美の方が大きい!」「安娜の方が大きい!」と不満を口にされてしまいます。
興味深いのは、これまで「直美より大きいのが欲しい!」とか「安娜より大きいのが欲しい!」とかいう不満は聞いたことがないことです。
相手と同じのが欲しい、というのが直美と安娜の基本的な要求のようです。
直美などは自分の方が体も大きいのだし、「あんなと同じでは不公平だ」という不満を口にしても良さそうなのですが、僕たち夫婦がなにか意識して教えたわけでもないのに、すでに「同じ大きさのものが配られるべきだ」「平等であるべきだ」という考え方が身についているように見えます。
どうやら私たちには「ものごとは平等であるべきだ」「人には平等の権利がある」という考え方が定着しているようです。
今日、特に問題にしたいのは、「人は生まれながらにして平等の権利がある」という考え方です。
人種、肌の色、生まれた国、性別、体の不自由のある、ないに関わらず、「人は生まれながらにして平等の権利がある」と私たちは普段、考え、そのように理解しているのではないでしょうか。
ですが、人の歴史の中で、「人は生まれながらにして平等の権利がある」という考え方が、いつも多くの人に受け入れられていた、ということではもちろんありません。
例えば日本でも200年ほど前までは、士農工商穢多(えた)非人(ひにん)と呼ばれたように、武士と町人そしてそれ以下と扱われた人たちに区別されていて、例えば武士に生まれた人と非人に生まれた人では生まれながらにして与えられる権利が異なっていました。
武士は非人をののしっても罰せられませんが、非人が武士をののしるようなことがあればその場で死刑に処せられることもあったでしょう。
現在の私たちには「人は生まれながらにして平等である」という考え方がごく自然に受け入れられていますが、実は人の歴史の大部分では、「人は生まれながらにして身分が定まっている」という考え方のほうがずっと長く受け入れられていたのではないか、と考えます。
この「生まれながらの身分」という考え方を支持する、または支持しないまでも受け入れる人たちは、時に仏教の輪廻の考え方のように生前の行い、前世の行いによって現世の身分が定められるのだ、と考えられることもあるようです。
あの人は前の生涯でなにか善いことをしたので現在恵まれた環境に生まれたのだ、とか、前の生涯でなにか悪いことを行ったので、生まれながらにして不自由をわずらっているのだ、というような考え方です。
もしくは、なにか「神」とか「天」とか呼ばれる人の運命を定めるような存在が人の身分を定めたのだ、と考えられることもあります。
もし「神」と呼ばれる存在が、人の身分を定めたというのなら、そのような神は果たして公平なものしょうか?
福沢諭吉という人が「学問のすすめ」という本の冒頭で「天は人の上に人を造(つく)らず人の下に人を造らずと云(い)へり」と記しましたが、そこには身分という考え方は人の作り出したもので、天は─福沢諭吉がどういう意味で天と言ったのか僕には定かではないのですが─天はそのような身分を作らない公平なものである、という考え方があったのではないかと思います。
もし神という存在が人の身分を定めた、ということであるのなら、そのような神は認めたくない、と多くの人が考えられるのではないか、と僕は思います。
しかし聖書は果たして私たちになにを教えているでしょうか?
まず最初に注目したいのは、聖書によれば、神は昔、イスラエル人を特別に神の民として選んだ、ということです。
神は他のどの民族でもなく、特別にイスラエル人を神の民として選びました。
それはどういうことでしょうか?
聖書によれば、紀元前2000年ごろだといわれていますが、神はまず、アブラムという一人の人に現れ、彼に約束を与えます。
開かなくてよろしいのですが、創世記12章1節から3節までにこう書かれています。
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。
創世記12章1節から3節まで(新改訳聖書)
アブラムは神に言われたとおりに出かけ、神の示した土地、カナンと呼ばれる地に行きました。そこで神は再びアブラムに現われ、約束されました。
そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。
創世記12章7節(新改訳聖書)
アブラムにはその後アブラハムという名前が与えられ、アブラハムの子どもイサク、イサクの子どもヤコブ、ヤコブにはイスラエルという名前が与えられ、イスラエルの12人の子どもの子孫がイスラエル人と呼ばれました。
イスラエル人はまたユダヤ人とも呼ばれますが、それはヤコブの12人の子どものうちの一人、ユダによるそうです。
アブラハムに与えられた約束に従って、神はエジブト人の奴隷となってしまったイスラエル人たちを預言者モーセを通してエジプトから連れ出し、神の示した約束の地、カナンへとイスラエル人たちを導きます。
神がイスラエル人を特別に選び、彼らをカナンの地に導いた、ということは、そのときカナンの地に住んでいたイスラエル人でない人たちをイスラエル人が戦争によって滅ぼすことも意味しました。
神がある民族を導いて他の民族を滅ぼされた、滅ぼされようとした、というのは、なんとも恐ろしいことで、そんな戦争を引き起こす神は信じたくない、と考えられる方も少なくないのではないかと思います。
クリスチャンと呼ばれる人たちでも、そのような歴史的な事実のことをあまり知らない、考えない人も多いようです。
しかし、思い出していただきたいのですが、神はさらに昔、ノアの時代に神の心にかなっていたノアとその家族を除いてすべての人間を洪水によって滅ぼされました。
聖書によれば「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」(創世記6章5節)とあります。
人の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていたのです。
どのような社会であったのか、詳しくは記されていません。
しかし、自分の接する人すべてが、そして自分自身も、心に計ることがみな、いつも悪であったような社会こそ恐ろしいものであると僕は考えます。
さらに新約聖書によれば、将来、イエスが再びこの地に来られたとき、人は裁かれ、神に従わなかった人たちは滅ぼされることが言われています。
もし人が創造主である神を認めず、神のことばに従わず、自分勝手に悪を思い、行っているのだとしたら、当然、そのような人は罰せられ、滅ぼされるのが正しいことなのではないでしょうか?
問題は、人は総じて、自分よりももっと悪いことを行っているように見える人たちを指して、あの人たちはなんて悪い人たちなのだ、あの人たちに比べて自分はずっとまともだから、神も認めてくださる、というような勝手な判断をしますが、しかし、もし心から神を愛することがなく、心から他人を愛することがないのであるなら、それは神にとって等しく、罰せられ滅ぼされるべき悪なのです。
旧約聖書によれば、神は昔、イスラエル人を特別に選び、カナンに住んでいた他の民族を滅ぼして、神に従う民族の国をカナンに建てようとされました。
なぜイスラエル人が特別に神に選ばれたのでしょうか?
以下の箇所は神が預言者モーセを通してイスラエル人をエジプトから連れ出した後、モーセを通してイスラエル人に言われた言葉です。
あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。
申命記9章4節から6節まで(新改訳聖書)
ノアの時と同じように、カナンの地に住む人々は自分の悪のために神に裁かれ滅ぼされるように定められました。
しかし、なぜイスラエル人が神に選ばれたのでしょうか?
それはノアの時と違って、イスラエル人がなにか特別に正しい民族であったから、ということではありませんでした。
イスラエル人が選ばれたのはただ、神の約束のため、神がアブラハム、イサク、ヤコブにされた誓いを果たすためだ、といわれています。
イスラエル人もカナン人もどちらも同じように神に従わない、悪い人々でしたが、神はアブラハムにされた約束のためにイスラエル人を選び、カナン人を滅ぼされるつもりでした。
しかし、その後の旧約聖書の記述によれば、イスラエル人はことあるごとに神に従わず、イスラエルの王、ソロモンの時代に神の民、イスラエルの国が成立したように見えましたが、ソロモンを始めユダヤ人たちの罪のために、この国は滅ぼされてしまいました。
その後、預言者たちを通して、神はユダヤ人に、ダビデの子孫を通して救い主をあらわせさせるという約束を与え、イエスの時代に至るわけです。
今日の聖書箇所を読んでいきましょう。
24節、「イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。」
そこ、というのは前回、7章の17節で言われた家のこと、もしくは前々回、6章の終わりで言われたガリラヤ湖の西、ゲネサレと呼ばれる地のこととも言われています。
ここでは「イエスは」と言われていますが、おそらく幾人かの弟子たちを伴って、彼らはツロの地方へ行きました。
ツロとは僕の辞典によると、地中海、東の沿岸にあったフェニキア人の古代都市のことで、ティルスとも呼ばれました。その歴史は大変古くて、紀元前2700年ごろに創設されたと言われています。ツロはローマの時代には貿易都市として栄えていました。
ツロはさらにその北にあるシドンという都市とともに、ユダヤ人にとってはユダヤ人でない異邦人の都市の代表でした。
イエスがなぜ、ツロの地方に行かれたのか、書かれていません。
しかしイエスが「誰にも知られたくないと思われた」と言われているように、休息のためにイエスの名が知られていたガリラヤの地を離れたのかも知れません。
イエスと弟子たちの使命は人々に福音を伝えることでしたが、四六時中、365日そのために働いていたのではなく、彼らにも休息のときが必要でした。
マルコの福音書6章31節ですが、人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったとき、イエスは弟子たちに「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」といわれました。そこで弟子たちは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行きましたが、多くの人々が弟子たちの出て行くのを見て、それと気づいて、徒歩で弟子たちが休むために出かけた場所へ先についてしまった、とあります。
イエスは今度こそ弟子たちが、もしくはイエスご自身が休めるようにとユダヤ人の住んでいない異邦人の土地へ行かれたのかも知れません。
しかし、イエスの名はツロの地方にも伝わっていました。マルコの福音書3章の8節ではイエスの行いを聞いていろいろな土地から人々がやってきたことが言われていましたが、ツロの地方の人々も例外ではありませんでした。
群集が押し寄せることはなかったにしても、イエスのことを聞きつけて一人の女性がやってきました。
25節「汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。」
小林先生ご夫妻の実希ちゃんは日本人でオーストラリアの生まれであった、といえば実希ちゃんは日本人という民族に属すことを意味するわけですが、この女性がギリシア人であった、というのは必ずしも彼女がギリシア人という民族に属するというわけではなかったようです。
新約聖書ではユダヤ人に対してギリシア人という言葉がユダヤ人でない人たちを指す言葉として使われています。
ローマ人への手紙1章16節でパウロは言っています。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
ユダヤ人をはじめギリシア人にもというのは良いのですがローマ人は?エジプト人は?日本人は?どうなるのでしょう?
これはギリシア人という言葉がユダヤ人でない人たち─聖書では異邦人という言葉が使われていますが、この異邦人─という意味で使われていることによります。
スロ・フェニキアという言葉は聖書ではここだけ、当時の文献でも2箇所だけ用いられているのが見つかっているそうですが、僕の聖書地図によるとツロとシドンの地方をカバーする地域を指しているようです。
マルコはこのようにこの女性の背景を詳しく伝えることで、この女性がユダヤ人ではなく異邦人であることを強調しているように思います。
マタイの福音書はこの女性はカナン人であったと伝えています。
昔、神によって滅ぼされるべきであったカナン人の子孫に当たる、この女性もイエスの前に救いを求めてきました。
それは悪霊がこの女性の娘である女の子を苦しめていたからです。
この女性はイエスの足元にひれ伏して、悪霊を追い出してくださるようにイエスに願いました。
マルコの福音書で伝えられているイエスはこれまで、同じように悪霊を追い出すことを願われたときに、即座に悪霊を追い出していました。
しかしこのときのイエスの応答はどうだったでしょうか?
27節「するとイエスは言われた。『まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。』」
先日、ある新聞で日本の学校の家庭科で使われている教科書に、伝統的に善いと考えられてきた道徳観にまったくそぐわない記述が多く含まれていることを危惧する記事がありました。
ある教科書ではこんな記述があるそうです。
例えば祖母は孫を家族と考えていても、孫は祖母を家族と考えない場合もあるだろう。家族の範囲は全員が一致しているとは限らないのである。犬や猫のペットを大切な家族の一員と考える人もある。
この記述は、例えば、自分の子どもよりもペットをかわいがってもなにもおかしくない、というようなことを示唆しているようにも思います。
もし神なんか存在せず、人は個人個人で自分の善いと考える価値観を作り上げることができる、と考えるのなら、この教科書の記述のとおり、家族が大切、と考える人もいればペットが大切、と考える人もいてそれは価値観の違い、ですみますが、真実は、神が世界を創造したので、その神がなにが善いことかの基準を定めたはずです。
当然、子どもたちを満腹させないで、そのパンを取り上げて小犬にあげようとするのは悪いことですが、ところでそれが、悪霊を追い出してくださいとお願いしていることといったいなんの関係があるのでしょうか?
マタイの福音書にはこうも書かれています。
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
マタイの福音書15章24節(新改訳聖書)
すなわち、子どもとはイスラエル人のこと、小犬とはイスラエル人以外の民族のこと、イエスの使命は福音をまずイスラエル人に伝えることでした。
端的に言いますと、イエスはこの女性がユダヤ人ではなく、異邦人であるがために、女性を助けない、と言っているのと同じのようです。
そんな人種によって人を差別するようなことがあって良いのでしょうか?
もしシドニーで医者に行って、あなたは日本人なので治療できない、と言われたらそのような医者は人種差別で訴えられてしまいます。
しかしこのときのイエスの言葉には、確かに、イエスにはまず、イスラエルに救いをもたらすという優先事項がある、ということが示されていると思います。
私たちは時に自分の考え方が正しくて、その自分の考え方とそぐわない場合、こんな神はいらない、こんなのは神ではない、と判断しようとします。
人を罰するような神は神ではない。
世界に悪が起こることを許している神は神ではない。
イスラエル人とそうでない人たちを区別するような神は神ではない。
しかし、真実は、人が神を無視し続けるのなら神はいずれ人を罰されます。
神が人に悪を行ってはならないと教えられているのに悪を行い続けるのは人の責任です。
神は確かにアブラハムに与えられた約束に従ってイスラエルを特別に神の民として選びました。
しかし、それはイスラエルだけが救われるのではなく、イスラエルを通してすべての人が救われるためです。
あるとき人の目に、神の計画は自分が善い、と考える方法よりもよくない、と思えるかもしれません。
なぜ神は私にこんな苦労を与えるのだろうか。
なぜ神は私を今救ってはくださらないのだろうか。
しかし、私たちは神に作られたもの、神は私たちの作り主です。
私たちの理解は限られていますが、神の理解は無限です。
神の定められたことが本当に善いものであって、もし私たちの心がそれに従いたくないと思うのなら、その心のほうがなにか間違っているのです。
それは生まれた環境によって身についた嘘の教えかもしれませんし、神に従いたくないという人間の根本的な罪の性質かもしれません。
私たちは自分の心が神のみこころに沿うように変えてくださるようにと、神に願うべきだと思います。
この女性はイエスの言葉を受けて、「主よ。そのとおりです」と答えました。
28節「しかし、女は答えて言った。『主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。』」
おそらくこの女性は、まず神の約束に従ってイスラエルに救いを、というイエスの優先順位を理解していたのではないかと思います。
その上でしかし、食卓の下の小犬が子どもに本来与えられるべきパンのうちこぼれたものを食べることがあるように、まだ順番が来ていないけれども、神の救いにあずかることができるのではないか、そうこの女性は願いました。
29節「そこでイエスは言われた。『そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。』女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。」
神がそのように定められたのなら、それが、そのとおりなのです。
私たちは神のことばに対して、「主よ。そのとおりです」といつも言えるように心が整っているでしょうか?
27節でイエスは言われました。
「まず子どもたちに満腹させなければなりません」
「まず」と言われています。
すなわち、子どもたちが満腹した後に小犬にもパンが与えられることが示唆されていると僕は考えます。
そのとおりに、神の救いはまずイスラエルに伝えられ、その後、イスラエル以外の民族にも伝えられることが神の計画でした。
アブラハムに与えられた約束は「イスラエルはあなたによって祝福される」ではなく「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」でした。
神の救いは「まず」イスラエルに伝えられ、その後使徒たちによってユダヤ人以外の民族にも伝えられました。
神の救いのメッセージは今日、世界の隅々まで伝えられることができます。
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
ガラテヤ人への手紙3章26節から29節まで(新改訳聖書)
イエスが再び来られる日、すべての人は裁かれ、ある人たちは永遠に神とともにいる天国へ、ある人たちは永遠に神と切り離された地獄へと定められます。
ある人たちはこのことをさして、すべての人を天国に入れない神は平等ではない、と言います。
その意味で確かに神は平等ではありません。
しかし、神を認め続けない人を天国へと導くことが本当に正しいことなのでしょうか?
神を認めない人は神とともに生きたくないので、神と完全に切り離されることで自分が望んだとおりを受けているのです。
私たちは皆がそのような場所へ定められるべきものたちでした。
しかし、神は憐れみ深い神です。
私たちが神に従わず、神を無視して生きてきたのに、その罪をイエスが十字架で死ぬことによって罰し、私たちの罪を赦してくださいます。
神は昔、アブラハムに与えられた約束に従って、確かにイスラエルを自分の民として選びました。
しかし、それはイスラエルを通して救い主があらわれ、世界のすべての人、人種、肌の色、性別、体の不自由のある、ないに関わらず、誰でも、このイエスを通して神に救われ、神とともに生きることができるためです。
祈りましょう。
もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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