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1.なぜ人はイエスを受け入れないか?
1−1.イエスのことをよく知らない。
1−2.イエスのことば・行いが信じられない。
1−3.イエスの教えは自分の生き方と相容れない。
2.「人々は驚いて」「イエスをほめ」?
3.「医者よ。自分を直せ」?
4.「イエスは彼らの不信仰に驚かれた」
5.なぜあなたはイエスを受け入れないのですか?
クリスマスの時期になると考えさせられることがあります。
それは子どもたちに「クリスマスイブにはサンタがやってきて、眠っている間に良い子におもちゃを置いていってくれる」と言うかどうか、ということです。
日本では小さな子どもを持つ大多数のお父さん、お母さんがそういうことを子どもに言っておいて、クリスマスイブには子どもが寝ている間に、子どもに気づかれないように買ってきたプレゼントを枕元に置いておくわけですね。
何歳くらいだったのか覚えていないのですが、朝起きると枕元にホワイトチョコレートのプレゼントがあってビックリしたのを覚えています。
子どもは成長するにつれて、なにかのきっかけにプレゼントをくれるのは実はサンタでなくて自分の親だ、ということに気がつくわけですね。
さて、自分が親になって、子どもにサンタが来る、と言うかどうか、を考えたとき、自分で置いておいたプレゼントをサンタからのものである、と子どもに思わせておくことは、僕にとってはなにか子どもに嘘をついている、ように感じてしまうので、そういうことは言わないようにしようと思うのですが、
小さなお子さんを持つ多くの親である方たちはどうやら、子どもに対してそのような「ゲーム」とも「夢」とも言えるような遊びをすることに大変、熱心であるようです。
さて、クリスマスの本当の意味はもちろん、サンタがプレゼントをくれること、ではなくて、Christ’s mass、キリストの祭り、イエス・キリストの降誕を祝うことですね。
日本ではこの空想の人物、サンタクロースが広く受け入れられているのに、クリスマスの主人公であるイエスはなんだか全然受け入れられていないように思います。
なぜ人はクリスマスを祝おうとはするのに、イエスを受け入れようとはしないのでしょうか?
まず第一の問題は、一般の人がどうやら本当のイエスのことをよく知らない、ということがあると思います。
普通の人はイエス・キリストのことをキリスト教の創始者として歴史の時間に習ったほどのことしか彼のことを知りません。
クリスマスはなんだかサンタがいたりクリスマスツリーがあったりプレゼントを交換したり楽しそうだから自分もやってみたくなりますが、なぜそんなお祝いをするのか、なんて興味がないのです。
バレンタインデーに3世紀の人物セント・バレンタインがなにをしたなんて知らなくてもチョコレートを送ったりするのと同じことですね。
ある人たちは、キリスト教、というものは西洋の宗教で仏教や神道のある日本人である自分たちには関係ない、と思われるかもしれません。
またある人たちは、なにか「宗教」と名の付くものすべてを敬遠したいと思われるかもしれません。
クリスマスにプレゼントをあげたり、バレンタインデーに愛の告白をしたりすることなどは実にワクワクするような、ドキドキするような、素敵な体験であるでしょう。
相手に振られなければの話ですが...
しかしそのような楽しい経験や感情だけではなくて、もっと根本的に、もっと精神的に、人には必要なことがあるのではないか、と僕は考えます。
11月1日の朝日新聞の記事だったのですが、北海道で小中学生3千人を対象にした意識調査が行われたそうです。
そのなかで「生きていても仕方がないと思う」という問いに5人に1人がいつもそうだ、もしくはときどきそうだ、と答えたそうです。
「生きていても仕方がない」と5人に一人の小中学生が考えているのです。
なぜ、人は、自分は、苦しいことがあっても生きるのか、状況に揺るがない、明確な答えを持っている人は一体どれだけいるでしょうか?
もしかしたら自分で勝手に決めた答えを持っている人もいるかもしれません。
しかし、もし神が本当にこの世界を創造したのならば、その創造主である神と同じ答えを持っている人が、どれだけいるでしょうか?
自分はなぜ生きるのか、サンタクロースはそんな問いには答えてくれませんが、実にイエス・キリストにはその答えがあります。
あなたは、このイエスの答えを聞いたことがあるでしょうか?
聞いて、理解されているでしょうか?
イエスを受け入れる/受け入れないに関わらず、イエスのこの問いに対する答えを十分に学んでみることは決して無駄ではないと思います。
人がイエスを受け入れない、第二の原因は、本当のイエスの教えを聞く、などということは不可能である、と考えられることです。
すなわち、イエスは2千年も前に生きた人で、彼の言葉、彼の行いは彼が実際に言った言葉、彼が実際に行った行動ではなく、彼の生涯の後に人々が作り上げたものだ、と考えられることです。
聖書に書かれているイエスの言葉、イエスの行いはそれが実際のイエスが言った言葉、行った行動であることが信じられない、という問題です。
例えばサンタクロースはSaint Nicholas という4世紀初めの実在の人物がもとになっている、と言われています。
Saint Nicholas の伝説に加えていろいろな土地の民謡が織り交ざって、現在ではサンタクロースという人物に発展しました。
子どもたちにプレゼントをもってくるサンタクロースという特徴は何百年か前からの伝統だそうですが、クリスマスイブに子どもたちが寝ている間、トナカイの引いたそりにのって煙突を通ってやってくる、という話は19世紀になってから創作されたものだそうです。
そして、現在のようにどこへ行っても同じような赤と白のサンタが見られるようになったのは1930年代にコカコーラが冬にも─北半球の冬ですね─コーラが売れるようにとクリスマスをターゲットにしてコカコーラの宣伝にコカコーラのブランドカラーであるあの赤と白を使って現在のような赤白のサンタクロースのイラストレーションを大々的に用いたことによるそうです。
サンタクロースの人気があるのは、人々に受け入れられやすいようにと、いろいろな人が時代に合ったイメージを作り出したから、かも知れません。
しかし、それはどこまで行っても人の空想でしかありません。
実際にトナカイにのって北極だか南極だかからやってくるサンタがいる、ということを確かめられるだけの根拠を僕は聞いたことがありません。
イエス・キリストは実在の人物です。
その実在が十分に確からしいと認められるだけの文献や歴史的な証拠が残っていて、私たちは今でもそれらのことを確かめることができます。
今学んでいる、マルコの福音書はそのような文献の一つで、紀元60年代または70年代に著者が記した原本はもう残っていませんが、その写本が一番古いもので3世紀頃のものが残っています。
また、2世紀の初めに書かれたクリスチャンたちの手紙の中にもマルコの福音書が引用されていて、その存在が確かめられます。
残念ながら数百ある古代の写本は比べてみると完全に同じものである、とは言えなくて、確かにそこかしこに違いが見られます。
すなわち、写本をつくる人の過失、もしくは意図的なエラーが含まれてしまいましたが、そのような場合は大変に少ないもので、写本に違いがあるときには新改訳聖書の場合には注釈にそのように説明されています。
サンタ・クロースの話が何百年かけて人々によって作られてきたものと違って、イエス・キリストの物語は彼の行いを見、彼の言葉を聞き、彼と共に生きた人たちによる真実の話です。
第一、第二の問題は言わばなにかしらの「努力」ができることではないか、と思います。
すなわちイエスのことを知らないのであるならば、学ぶことができますし、イエスの言葉が本当にイエスのものである、ということが認められないのならば、歴史的な証拠を確かめることができます。
しかし第三の問題は心の問題で、なにかの「努力」ができる、というようなものではないように感じます。
すなわち本当のイエスの教えを十分に理解したのち、それが自分の生き方と相容れないので受け入れない、という場合です。
なぜ、人はこの世界に生きるのか、イエスの答えを端的に言えば、それは、「誰のためでもなく、なんのためでもなく、神のために生きなさい」というものです。
この言葉を聞いてすぐに否定してしまう前に、それが一体どういう意味なのかをまず十分に理解していただきたいのですが、しかし、最終的には、人はお金なり、名声なり、人徳なり、自分の楽しみなり、もしくは子どものため、などという答えもありますが、どのようなものであっても、なにか神以外の誰か、もしくは何かのために生きるのか、それとも自分の、世界の創造主である神のために生きるのかの選択をすることになるのだと思います。
イエスはこの創造主なる神が人としてこの世界に住まわれた方です。
サンタクロースは人々に対して「どのように生きるべきか」なんてなにも口出ししません。
「良い子でいなさい」以外の事を彼は言いません。
しかしイエスは違います。
イエスの教えを真剣に受け止めるのなら、彼の教えは自分の生き方の細部の細部にまで影響を及ぼします。
今日、自分は人とどのように接するべきなのか、家族とどのように接するべきなのか、どのような言葉を使うべきなのか、どのような思いをもつべきなのか、イエスの教えは現在でも、私たちの生き方を間違ったもの─人が都合で作り出したもの─から正しいもの─神が定めたもの─へと変えるものです。
このイエスの教えと、イエスご自身のことをまずは正しく、知ることができるように、と願うものです。
さて、ずっとマルコの福音書を学んできました。
今日の箇所は6章の1節から6節までですが、その箇所とおそらく並行するルカの福音書4章16節から30節までも参考にして学んでみたいと思います。
まずはマルコの福音書6章を見ていきましょう。
イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
マルコの福音書6章1節(新改訳聖書)
「そこ」というのは前回、イエスが会堂管理者のヤイロの娘を死からよみがえらせたヤイロの家のあるあたりであると思われます。
それはペテロの家があるカペナウムの近くでもあります。
マルコはイエスの郷里がどこであるのか明確には伝えていませんが、一章でイエスがガリラヤのナザレから来たことが言われているので、ナザレがイエスの郷里であることが伺えます。
ナザレとカペナウムは大体40キロくらい離れていたようです。
安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。
「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」
こうして彼らはイエスにつまずいた。
マルコの福音書6章2節と3節(新改訳聖書)
一章でイエスがカペナウムにおいて同じように安息日に会堂で教えたとき、人々は、イエスの教えに驚き、その教えがなにか普通の律法学者たちのようなものではないもっと崇高な権威のある教えであることを理解しました。
カペナウムの人たちが宣教を始める前のイエスのことをよく知っていたかどうか、定かではないのですが、イエスの郷里であるナザレではイエスのことがよく知られていたようです。
人々はイエスが大工であったこと、その母がマリヤであったこと、イエスには弟・妹がいたことなどをよく知っていました。
ここでもカペナウムでの出来事と同じように「人々は驚いた」と言われています。
カペナウムではこの驚きは、イエスの教えが権威あるものであるという、尊敬の念を起こさせるものでしたが、この「驚き」という言葉自体には必ずしも尊敬の驚きとは限りません。
同じ言葉が以下の箇所で用いられています。
イエスは、見回して、弟子たちに言われた。
「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。
「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。
「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
マルコの福音書10章23節から26節まで(新改訳聖書)
この箇所の驚きは尊敬の驚きではなく、全く不可思議、理解出来ないことに遭遇した時の驚きのことを表わしています。
彼らはイエスの言葉、イエスの力あるわざ、あるいは注釈にあるように奇跡を見聞きして、驚きましたが、イエスを敬うことには結びつきませんでした。
「こうして彼らはイエスにつまずいた」とあります。
「つまずく」という言葉のギリシア語の原語はスカンダリゾー、英語の Scandalize という言葉の語源でもあります。
そこには罪を犯す、中傷するという意味もありますが、マタイの福音書11章6節の注釈にあるように腹をたてる、憤慨する、という意味もあります。
こうして彼らはイエスに憤慨した、と言ってもよいでしょう。
なぜイエスのことをよく知っていると、イエスの言葉や行いを認めることができなくなるのでしょうか?
皆さんは僕が高校生の頃、どんな感じであったのか知らない、訳ですね。
まあ、高校生のころ、髭の変わりに前髪を伸ばして─チェッカーズの藤井フミヤに影響を受けていたわけですが─学校でもバンダナを巻いてバンドでベースを弾くことが生きがいだったような時期がありました。
その頃の僕を知っている学校の友達や近所の人たちに向かって、なにか偉そうなことを言ってみても、悪ガキが何を言っているのか、ぐらいに思われてしまうかもしれません。
同じように 昔のイエスは凡人で普通の人と同じように欠点も悪いところもあったのに、あるとき郷里に帰ってきて急に偉そうなことを言われても昔のイエスを知っている人々はイエスを受け入れられない、というようなことだったでしょうか?
その質問の答えはおいておいて、ルカの福音書4章を続けて見てみましょう。
それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。
「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、
「この人は、ヨセフの子ではないか。」
と彼らは言った。
ルカの福音書6章16節から22節まで(新改訳聖書)
注:マルコの福音書によればイエスはバプテスマのヨハネによって洗礼を受け、荒野で40日間過ごした後に、ガリラヤで宣教を始めたことが言われています。 その後、イエスはカペナウムで宣教をするのですが、ルカの福音書ではガリラヤでの宣教の後、カペナウムでの宣教の前にイエスはイエスの郷里、ナザレで宣教をしたことが言われています。 手っ取り早く言いますと、マルコとルカの福音書で出来事の前後のつじつまが合わないように見える、ということです。 実はイエスは宣教を始めてからナザレに二回行っていて、マルコ6章とルカ4章は別の時間の出来事である、と言っても良いのですが、僕はどちらかといえば福音書の時間軸は必ずしも時間の古い順とは限らず、同じ出来事が別の時間に記されていると理解することには抵抗がありません。 ここではとりあえず、マルコの福音書6章とルカの福音書4章が同じ出来事を記しているという解釈をしています。
このときイエスが読んだ箇所はイザヤ書の61章1節と2節です。
数百年前に預言者イザヤによって預言されたこの言葉を、イエスは「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と言いました。
それはどういう意味でしょうか?
イエスは「あなたがたが聞いたとおり」と言いました。
すなわち、イエスはイザヤが預言した、神の霊をやどし、福音を伝えるように神に選ばれた者は自分である、ということを主張したのです。
このころのユダヤの人々はローマの支配下にあり、ローマ帝国から自分たちを解放してくれる王なり、預言者なりを待ち望んでいました。
その人たちに対して、自分がその待ち望まれていた者である、とイエスは主張したのです。これを聞いた人々はどう思ったでしょうか?
その言葉を認めるなら、イエスを神に選ばれた者としてあがめることが相応しいですが、彼らの応答はそうではなく、そんなことを言うイエスを受け入れない、というものでした。
ここには「みなイエスをほめ」とありますが、実はこの「ほめる」という言葉は新改訳聖書の注釈にあるように「証言する、確認する」という意味にも用いられるそうです。
同じ言葉がルカの福音書11章48節で「証人となり」と訳されています。
すなわち、イエスの言葉を聞いた人々はイエスをほめたのではなく、イエスがそのようなばかげたことを言ったことの証人となった、という意味であると考えます。
マルコの福音書で人々が言った事を覚えているでしょうか?
人々は「この人は大工ではありませんか」と言ったのです。
大工がなぜ自分たちの王なのでしょうか?預言者なのでしょうか?
また彼らはイエスの母マリヤ、またイエスの兄弟たちを知っていました。
聖書にはイエスが宣教をはじめる前、どのような人物であったのかほとんど記されていません。
しかし、ルカの福音書の2章にはイエスが12歳の時のエピソードが伝えられており、そのころからすでに、イエスには人並みはずれた賢明さがあったことが記されています。
ヘブル人への手紙4章15節にはイエスは「罪を犯されなかった」とあります。
おそらくイエスは生涯を通して神に従い通した唯一の正しい人であったでしょう。
ですが、イエスの母マリア、イエスの兄弟ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、その妹たち、またイエスの父ヨセフは私たちとまったく同じように欠点もあれば罪もある人間でした。
人々はそのようなイエスの家族の事を指して、イエスが神に選ばれた王であるわけはない、と判断したのでした。
このような彼らの反応にイエスは答えました。
イエスは言われた。
「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ。』というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」
ルカの福音書4章23節(新改訳聖書)
「医者よ、自分を直せ」「カペナウムで行われたと聞いていることをここでもしてくれ」と人々は言葉にはしていませんでしたが、おそらくはそれが人々のイエスに対する思いであり、イエスはそのことを見抜いていました。
この「医者よ。自分を直せ」というたとえは聖書にはおそらくここだけに用いられていますが、聖書外の当時の文献でいくつか用いられている箇所があり、当時のよく知られたたとえであったようです。
その意味は、あなたが本当に医者であるのならば、私を治そうとする前に、まず自分で自分を治して医者であることを証明しなさい、というような侮辱のたとえであったそうです。
すなわち、人々はイエスが本当に、神に選ばれた者であるのならば、預言の通り、例えば盲人の目を開けて証明してみなさい、という意味であったでしょう。
人々はイエスを認めず、イエスに自分を証明する奇跡を求めました。
そのような人々にイエスは続けて答えます。
また、こう言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」
ルカの福音書4章24節から27節まで(新改訳聖書)
エリヤとエリシャは旧約聖書時代のユダヤ人の預言者で、この出来事は列王記に記されています。
預言者たちは人々に神に立ち返るように神のメッセージを伝えましたが、多くのユダヤ人は神の預言者の言葉に聞き従いませんでした。
シドンのサレプタにいたやもめはユダヤ人ではありませんでしたが、彼女のところに遣わされたエリヤの行いを見て、彼女はエリヤが神の預言者であることを信じました。
シリヤ人ナアマンもユダヤ人ではありませんでしたが、彼のらい病がいやされたとき、彼はエリシャが神の預言者であることを信じました。
神はユダヤ人たちを神のもとへと立ち返らせようと何度も預言者を遣わしましたが、ユダヤ人たちは概して預言者に聞き従いませんでした。
すべてのユダヤ人たちが神の預言者に聞き従わなかった、というわけではもちろんありません。
しかし、ユダヤの民族として、彼らは神に特別に選ばれ、彼らの中からイエス・キリストという人類の救い主が与えられることを約束されたのに、ユダヤ人たちは神の預言者たちにもイエス・キリストにも聞き従うことがなかったのです。
預言者はだれでも自分の郷里、自分の親族、自分の家族の間で歓迎されませんでした。
この言葉は大変皮肉的でもあります。
なぜならこの言葉を聞いて、なおかつイエスの郷里の人々がイエスを受け入れないのなら、イエスを拒否することで、彼らはイエスの言葉が正しいこと、またイエスが神に選ばれた預言者であることを証明することになるからです。
イエスの言葉どおり、人々はイエスを受け入れませんでした。
これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。
ルカの福音書4章28節から30節まで(新改訳聖書)
がけから投げ落とそうだなんてずいぶん暴力的だと思われそうですが、これはおそらく、「偽預言者は殺されなければならない」という旧約聖書の教えがあったものと思われます。
人々はイエスを偽預言者として殺そうとしましたが、彼らは同じようにして、昔から真の神の預言者たちを迫害してきたことを思い出すべきでした。
マルコの福音書6章に戻りましょう。
イエスは彼らに言われた。
「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
マルコの福音書6章4節と5節(新改訳聖書)
「何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった」とあります。
新共同訳聖書では「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」と訳されています。
イエスは人が証明のための奇跡を求める時、奇跡を行われませんでした。
それは人の信仰がないとイエスは奇跡を起こすことができない、という意味ではないと思います。
4章の終わりで弟子たちの信仰に関わらず、イエスは風と波を従わせ、激しい突風を鎮めました。
しかし人がイエスを信頼せず、いやしていただこうとイエスのもとに来ないのなら、当然、イエスは誰もいやすことができません。
イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
マルコの福音書6章6節(新改訳聖書)
イエスは彼らの不信仰に驚かれた、とあります。
イエスがもし本当に人となった神であることを受け入れるのならば、その神が驚かれた、ということは、実にそれは驚くべきことであった、と思われます。
イエスは人々がイエスを信じない、信頼しない、受け入れない、ことに驚かれました。
イエスと同じ町に生き、イエスの事を幼少の頃から知っていたはずの町の人々がイエスを受け入れなかった、とはどういうことでしょうか?
僕は初めに、人がイエスを受け入れないのは、第一にイエスを知らないから、第二に本当のイエスを知ることができないと考えられるから、と言いましたが、実に、イエスの郷里の人たちにはこの問題がありませんでした。
彼らはイエスをよく知ることができ、それは自分たち自身の耳で聞き、目で見た真実です。
実に、イエスのことをよく知り、彼の言葉を聞き、彼の行いを見てなお、多くの人がイエスを受け入れない、という事実があります。
イエスは言われました。
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
マタイの福音書7章13節と14節(新改訳聖書)
イエスをよく知り、なお多くの人々がイエスの事を受け入れません。
しかしそれはイエスがすでに言ったとおりです。
あなたはイエスを自分の神として受け入れ、彼の言葉に聞き従うでしょうか?
それとも多くの人と同じように、イエスを受け入れず、受け入れないことによって、実はイエスの言葉が正しかったことを証明するでしょうか?
祈りましょう。
もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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