| Prev | Next | Go Up | English Page |
1.この箇所に関する様々な批判
1−1.ゲラサ?ガダラ?ゲルゲサ?
1−2.汚れた霊?
1−3.「神の御名によってお願いします」?
1−4.「この地方から追い出さないでください」?
1−5.豚なら死んでもいいの?
1−6.「知らせなさい」?「知らせてはならない」?
2.汚れた霊につかれた人はなぜ救われたか?
3.人々はなぜイエスに離れてくださるよう願ったか?
4.なぜイエスはこの人に「主のことを知らせなさい」と言われたか?
5.「汚れた霊よ、この人から出て行け」
こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。
「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
それは、イエスが、
「汚れた霊よ。この人から出て行け。」
と言われたからである。それで、
「おまえの名は何か。」
とお尋ねになると、
「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」
と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。
「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。
それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。
「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。
マルコの福音書5章1節から20節まで(新改訳聖書)
僕は1994年に、交換留学の機会を得て初めてシドニーにきたのですが、ちょうどそのころ大学では当たり前にインターネットが使われるようになりました。
シドニーにいながら/自分の机に座りながら、コンピュータを通して日本のいろいろな情報が手に入るというのがとても便利に感じたものです。
今ではインターネットがだいぶ普及して、日本でも実に様々な情報が発信されたり、意見が交換されたりしています。
先日「一般ピープルの視点で読む聖書」というページを見つけました。
ある聖書の箇所をみんなで読んで意見を述べる、というページです。
どうも運営している人はクリスチャンのようなのですが、意見を投稿する人たちはクリスチャンではない人が多いようです。
この「一般ピープルの視点で読む聖書」というサイトでは今日のマルコによる福音書の5章を直接には扱っていませんでしたが、この箇所と並行するルカによる福音書の8章について、いろいろな意見が述べられていました。
投稿された意見をそのまま読みますと
「イエスが悪霊にとりつかれている男を救った場面があったが、この場合ではイエスは『神があなたにどんなことをしてくださったか、語り明かしなさい』といっているのに対し、会堂司ヤエロを生き返したところでは1、『この出来事を誰にも話さないように』と命じていた。なぜ、イエスはこの二つの出来事に対し、対照的な言葉を言ったのか?私にはイエスがした行動の意味が分からなかった。 」
「この章では霊などの概念が出てきたため、自分では余計にキリスト教が理解できなくなりました。」
「思わず、豚なら悪霊によって苦しめられてもいいの!?と思いました。世の中は、皆に等しく平等。なんじゃなかったのかな。確かに豚は人間じゃないけど、救ってあげるよ、みたいなことを言うんだったら、豚だって生きてるんだし、平等に扱えよ。って思った。」
「自分もイエスが奇跡を起こしたその場面場面で「人々に話しなさい」とか「「誰にも教えていけない」などの奇跡を起こしたことを広める広めないを決める基準がよくわからなかったです。」
1実際はヤエロではなくヤイロの娘が生き返りました。
などでした。
今日のこの箇所を読んで、皆さんはどんなことを思ったでしょうか?
福音書を読むときに、ぶつかる第一の問題は、福音書に書かれていることが、果たして実際に起こったことであるのかどうか、ということだと思います。
福音書を読んでこんな話は人の作り話だ、と思われたことはないでしょうか?
果たして二千年前、ガリラヤ湖畔、ゲラサ人の地と呼ばれる地でイエスとこの悪霊につかれたと言われる人が本当に出会ったのでしょうか?
イエスとこの人が会話した後、豚が二千匹ほども険しいがけを駆け降りて本当に湖でおぼれてしまったでしょうか?
悪霊を追い出されたと言われたこの人がイエスのお供をしたいと願いましたが、イエスに言われてデカポリスの地方で起こったことの次第を本当に伝えたでしょうか?
このマルコによる福音書が信頼のおける書物であること、すなわち、イエスの弟子ペテロがそのときイエスと共にいて、彼が実際に聞いたこと、目撃したことをペテロの弟子、マルコが書き加えることなく、差し引くことなく書きとめた、ということは前に書きました。
これらはペテロが実際に目撃した出来事であって、ペテロはそのことについてペテロの手紙の中でこう訴えています。
私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
第二ペテロの手紙1章16節(新改訳聖書)
ペテロが彼の手紙の中でどんなことを言っているか、また彼が自分が伝えたことのためにどのようにして死んだのかをよく知っていただければ、彼の言葉が信頼できるものであると理解されると思います。
それでは、これらの出来事が実際に起こったものと受け入れられたとして、福音書を読むときにぶつかる二番目の問題は、これら不思議な出来事が、霊や神と呼ばれるような存在によるものではなく、何らかの科学的な説明ができるはずだ、と考えられることです。
悪霊につかれた、というのは単に精神になんらかの異常があった状態で、イエスに暗示のようなものをかけられたために正常に戻ったのだ、とか
豚は悪霊に乗り移られたのではなくて、なにかに驚いて、パニックに陥って、湖に駆け込んでしまったのだ、とか
なにか神とか霊とか物理的に説明できないことはとにかく存在しない、と考えられることがあります。
確かに神とか霊の存在を言わば科学的に何度でも繰り返し行えるような方法で証明することはできません。
ですが、科学的に証明できなければ、それは本当に存在しないのでしょうか?
時はいつ始まったのか、時の始まる前はなんであったのか、科学的に何度でも繰り返し行えるような方法で証明することは未だ成されていません。
しかし、時はいつか始まったのであろうし、確かに今、時が存在する、と言えるかもしれません。
この僕の右こぶしが地球を表わすとします。
この地球の回りにある空間が宇宙を表わすとします。
この宇宙の周りにはなにが存在するのでしょうか?
宇宙の外側がどのようになっているのか、科学的に何度でも繰り返し行えるような方法で証明することは未だ成されていません。
ですが、宇宙は存在して、その宇宙の外側も確かに存在する、と言えるかもしれません。
科学的に私たちの分かりたいように証明できないからと言ってそれが存在しないと断定してしまうことはあまりにも狭い考え方だと思われます。
福音書に書かれていることが実際に起こったことを正確に伝えていることを認めて、さらに霊の存在、神の存在を認められたとして、福音書を読むときにぶつかる三番目の問題は、そこに書かれているイエスの言われたこと、行われたことを善しと認めたくないことです。
例えば聖書の神が愛を表わしていることは多くの人が認めますが、同時に正義を表わす神は必ず、善と悪を裁く審判の日を定めている、ということを認める人はそれよりも少なくなります。
今日の箇所では、豚を二千匹もおぼれさせてしまうところから、豚を重要な財産であると考える人たちからは人の所有物を勝手に湖に沈めたりしてよいのだろうか?イエスはなんて悪い人だ、と考えられるかもしれません。
動物愛護を訴える人たちからは豚を二千匹も湖でおぼれさせるなんてなんて残酷な、と考えられるかもしれません。
ですが、私たちが、これは善いことだ、これは悪いことだと判断する基準は、一体なにに基づいているのでしょうか?
多くの場合、それは自分が生まれ育って人々や環境から教えられた倫理に基づいています。
例えば人のいのちも豚のいのちもまったく同等の価値がある、と教えられてきた人にとっては、二千匹の豚がおぼれたことは、二千人の人がおぼれたことに等しくて、悪霊がそのような行動をすることを許したイエスを受け入れられなくなるかもしれません。
しかし人のいのちの価値は豚2千匹のいのちに勝る、と教えられてきた人にとっては、この出来事が必ずしも悪いことだ、とは考えないでしょう。
聖書に書かれているイエスの言ったこと、行ったことを見て、それは悪いことだ、と感じてしまうのであったなら、そう断定してしまう前に、私たちは、いや、自分の善悪の判断の基準が実は創造主なる神のそれと違うのではないだろうか、と問いかけなければならないと僕は思うのです。
さて、1章から続けてずっとマルコによる福音書を学んできました。
まず聖書の箇所を正しく著者が意図したように理解することに時間をかけて、最後に、それではこの箇所が私たちに一体なにを教えているのか、を考えてみたいと思います。
こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
マルコの福音書5章1節(新改訳聖書)
前回までに、イエスはガリラヤ湖の岸辺にいる人たちに舟に乗ったまま、いろいろなたとえを用いて教えました。
そして、弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言って湖の向こう岸、ガリラヤ湖南西のゲラサ人の地と呼ばれる場所へ行きました。
このゲラサ人の地、と呼ばれる場所なのですが、この箇所に書かれていることがあまり信頼できないと批判されることの一つに、一体、この出来事がどこで起こったか未だにあいまいであるということがあります。
マルコとルカによる福音書では多くの写本で「ゲラサ人」の地と言われていますが、マタイによる福音書では「ガダラ人」の地、となっています。
そしてさらに混乱を招くように、古いある写本ではゲルゲサ人の地、とも言われていて、新改訳聖書ではルカによる福音書8章の注釈にそのように説明されています。
下の地図でゲラサ (Gerasa) 、ガダラ (Gadara)、ゲルゲサ (Gergesa) の位置関係を見てみましょう。
(上図は Microsoft Encarta Reference Library 2003 を用いて作成されました。)
ゲラサはガリラヤ湖の南、湖から40キロほども離れた場所にある町です。
14節には「豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。」とありますが、とても40キロも離れたこのゲラサの町から湖の岸辺に人々が見にやってきた、とは考えにくいとされています。
ガダラはちょうどゲラサとガリラヤ湖の間にあって、湖から5キロほどいったところにあります。
それでもこの出来事が起きた場所というには少し遠いようです。
ゲルゲサは湖の岸辺にある町で、今日ではこの場所に豚が二千匹駆け降りたとされる岸があります。
さて、一体本当にはどこでこの出来事が起こったのでしょうか?
それはどうでもいいと思われる人にはホントにどうでもよいことなのですが、この出来事が事実に基づいているのか否かを探求したい人にとっては実に興味深いところです。
新改訳聖書ではそれぞれゲラサ人の地、ガダラ人の地、となっていますが、実は、原語のギリシア語では地、とは地方とも訳せるそうです。新共同約聖書ではそれぞれゲラサ人の地方、ガダラ人の地方と訳されています。
すなわち、ガリラヤ湖の岸辺のどこかの町の近くでこの出来事は起こりましたが、マルコとルカはそれをゲラサ人の地方、マタイはガダラ人の地方といった、と言う事です。
なんとも都合のよい解釈がなされたように思われますが、おそらく事実はそういうことなのだと思われます。
イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
マルコの福音書5章2節から5節まで(新改訳聖書)
この記述を読んで、現在の医学の立場からはこの人は汚れた霊、いわゆる悪霊につかれているのではなくて、単に精神に支障をきたしてしまっている人、もしかしたら生理的に脳に障害のある人、などと判断されるかもしれません。
事実、まだ医学の発達していなかった時代、文化では、そのような異常のある状態の人を「悪霊につかれている」と言って人々から隔離しようとしたことが多くあったでしょう。
しかし、聖書は確かに悪霊につかれている人と、単に精神的に異常のある人との区別をしていて、なにか異常な行動をする人をみんな悪霊のせいにしていたのではありません。
例えば使徒パウロのスピーチを聞いた地方行政長官フェストはこう言いました。
パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、
「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」
と言った。するとパウロは次のように言った。
「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。」
使徒の働き26章24節と25節(新改訳聖書)
悪霊につかれているのではなく勉強のし過ぎで気が狂う、ということが認められていたことになります。
今日のこの箇所では、この人が単に気が狂っているのではなく、悪霊に取り付かれていることが、彼がイエスに言ったことから、そして最終的にはイエスが彼に言ったことから理解されます。
彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。
マルコの福音書5章6節から8節まで(新改訳聖書)
マルコによる福音書では8章の最後でペテロがイエスの事を神の子である、と告白するまで、人間のうち誰もイエスを神の子である、とは言いません。
ですが、悪霊たちはイエスが誰であるのかをイエスに出会うだけで理解していました。
面白いのはここで悪霊が「神の御名によってお願いします」と神によって願いをしていることです。
それは悪魔が、神の御名によってお願いします、と言っているようなものです。
原文では確かに「神によって願います」と言われていますが、悪霊が神を持ち出すことをおかしいと考えられたのか、新共同訳ではここは「後生だから」と訳されています。
調べてみると「後生だから」というのはとにかく一生懸命願うことを意味しますが、「後生」とはもともとは仏教用語で、死後生まれ変わることを意味するそうです。
そうするとなんだか意味が全然通じなくなってしまうのですが、悪霊が神の名を持ち出すことはなにもおかしいことではないと思います。
悪霊はイエスが誰であるのか、また神がどのような方であるのか、さらに神が彼らになにを計画されているのか、すべてをよく知っているようです。
自分には信仰があると言いながらそれを行いに表わすことのない人たちに対して、ヤコブは言いました。
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
ヤコブの手紙2章19節(新改訳聖書)
神を認めるだけで、神の教えを守ろうとしないのであるなら、確かに神をよく理解して認めてはいるけれども、いずれ滅ぼされるよう定められた悪霊たちとなにも変りません。
悪霊は神の事をよく知っており、さらに自分たちは滅ぼされるよう定められていることもよく知っているので、人に対しては、神に従わなくてもよい、という嘘を働きかけます。
それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
マルコの福音書5章9節(新改訳聖書)
レギオンというのは4千人から6千人ほどのローマの兵隊の軍のことを言うそうです。
実際にそれほど多くの数の悪霊がこの人に取り付いていたのかどうか、分かりませんが、そのような名を名乗ることによって、この悪霊たちがいかに力の大きなものであったのかを示していると思います。
なぜこの悪霊たちは「この地方から追い出さないでください」と願ったでしょうか。
日本には地縛霊などという言葉がありますね、なにかの霊がある土地に縛り付けられているものです。
「この地方から追い出さないでください」なんて、まるでその地縛霊かなにかかと思われそうですが、マタイの福音書によると悪霊たちはイエスに対してこういいました。
すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」
マタイの福音書8章29節(新改訳聖書)
すなわち、悪霊たちはいずれイエスによって滅ぼされることを知っていました。
またルカによる福音書によるとこう書かれています。
悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。
ルカの福音書8章31節(新改訳聖書)
「底知れぬ所」とは黙示録にでてきますが、悪霊たちが最後に滅ぼされる前に閉じ込められるところであるようです。
また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。 彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、 底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
黙示録20章1節から3節まで(新改訳聖書)
すなわち、この地方から追い出す、とは回り持った言い方ですが、自分たちを滅ぼさないでください、という意味だと思われます。
イエスは実に悪霊を滅ぼしうる権威を持っていて、悪霊たちはそれをよく知っていました。
ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
マルコの福音書5章11節から13節まで(新改訳聖書)
この悪霊たちは豚に乗り移って豚はおぼれて死んでしまったわけですが、悪霊たちははたしてどうなったのか、不明のままです。
悪霊は取り付いていた人を石で傷つけていましたが、死に至らしめることはしませんでした。
悪魔の目的はただ人を死に至らしめることではなく、人を神から引き離すことです。この人は悪魔に取り付かれていましたが、まだ完全に神から引き離されたものではなかったのかもしれません。
豚に取り付いた悪霊はすぐにこの豚たちを死に至らしめました。
果たして悪霊も豚と一緒に滅んでしまったのか、ここでは説明されていません。
分かっていることはこの悪霊につかれた人が悪霊から解放されるために、豚が二千匹、犠牲になった、ということです。
人のいのちも動物のいのちも等しく価値があると考える人たちにとって、これはとても受け入れることのできないことでしょう。
しかし人のいのちと動物のいのちは果たして同価値なのでしょうか?
同価値です、と言いつつ、ポークハムを食べられる人は人を食べていることと同じことになるわけですが、果たして本当にそうなのでしょうか?
聖書によれば神が天と地とを創造して、その中にすむ動植物を造られ、最後に人間を創造したとき、確かに人間には動植物を支配する権威が与えられました。
しかし、その権威というのは神の創造物を守るためのものでした。
創世記2章15節には「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」とあります。
ですから神の創造物である動植物を自分たちの好きなようにむやみに殺してよい、ということではもちろんありません。
しかし、動物のいのちと人間のいのちの価値は決して同じではありません。
神に似せて造られた人のいのちは豚二千匹のいのちに勝ります。
豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。
マルコの福音書5章14節から20節まで(新改訳聖書)
1章の終わりで、らい病を患っていた人がイエスに癒されましたが、そのときイエスは言いました。
「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。」
ところがその人は自分が癒された事を言い広めて、そのためイエスは表立って町の中に入ることができなかった、ということが言われていました。
またイエスを見るとその前にひれ伏し、「あなたこそ神の子です」と叫ぶ悪霊たちがいました。
彼らに対して、イエスは、自分の事を知らせないように、と厳しく悪霊たちを戒められた、とあります。
さらに次回の箇所になりますが、死んでしまった女の子をイエスが生き返らせたとき、このことを誰にも知らせないようにときびしく命じた、とあります。
どうやらイエスは、自分が悪霊を追い出したこと、病気を癒したこと、死人をよみがえらせたことを人々が広めることに積極的ではなかったように伝えられてきました。
ところが、この箇所ではこの悪霊を追い出された人に対して、「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」と言われました。
なるほど、この箇所を読んだ人たちが、どうしてイエスは「知らせなさい」と言ったり「知らせてはいけない」と言ったりしていたのかを不思議に思うでしょう。
聖書にはっきりとその理由が説明されているわけではないと思いますが、いくつか推測することができます。
一つ目は、これは僕は間違った考え方だと思うのですが、イエスは実はここでも人々に知れ渡ることを望まず「あなたの家、あなたの家族のところに帰り」と言われているので、自分の身近な家族にだけ伝えるようにと言われた、と解釈することです。
ですが、この人は人々に言い広め初めて、そのことに対してなにも否定的なことが言われていません。
実は「あなたの家族」という言葉は原語では「あなたの人々」という言葉で、身近な家族だけでなく、自分の属する人々、という意味があるようです。
この出来事が起こった地は、ガリラヤ湖の向こう岸、豚が飼われているユダヤ人でない人たちの地のどこかです。
そして彼が広めたデカポリスの地も基本的にユダヤ人でない人たちの町でした。
つまり、イエスはこの人に対して、「あなたの家、あなたの属する人々のところに帰り、その人たちに知らせなさい」と言われ、彼はその通りにした、と解釈する方が適当であると思われます。
すなわち、ここではやはり、イエスは「人々に知らせなさい」と言っているのです。
すると、他のところではイエスは人に知らせてはいけないと言われ、ここでは人々に知らせなさいと言っているので、なぜそのような差があるのか疑問が残ります。
なぜそのような違いがあるのでしょうか?
マルコによる福音書1章でイエスが人々に知らせてはいけない、と言われたのに知らせてしまった結果は、イエスが行くところで人々はイエスの話を聞くためでなく人々を癒してもらうために押しかけた、ということでした。
ですが、ここでイエスは人々によってこの地方から離れるように願われます。
すなわち、イエスが押しかける人々によって新しい町に入れなくなるどころか、イエスはこれらの町には全く入らないことになります。
だから、イエスは自分が行けない代わりにこの人をイエスの事を伝える人として遣わしたのかもしれません。
このことについては後でもう一度見てみることにして、それでは、今日のこの聖書の箇所が私たちに今、なにを教えているのか、を考えてみたいと思います。
三つ、質問をさせてください。
汚れた霊につかれた人はなぜ救われたでしょうか?
この地方の人々はなぜイエスに離れてくださるよう願ったでしょうか?
そしてなぜイエスはこの人に「主のことを知らせなさい」と言われたでしょうか?
汚れた霊につかれた人はなぜ救われたでしょうか?
人が救われた、と聞いてクリスチャンがまず最初に考えることは、それはこの人がイエスを信じたから、ではないでしょうか?
ある人たちはあくまでもそのように理解しようとします。
その証拠にこの人はイエスを見つけて駆け寄って来てイエスを拝し、「いと高き神の子、イエスさま」と叫んだことを指摘します。
ですが、悪霊がこの人から出て行くまで、この人の言った言葉はすべてこの人のものではなくて悪霊のもののようです。
いいえ、この人が救われたのはこの人にイエスに対する信仰があったから、というよりは、この人がイエスに出会い、イエスがこの人を支配していた悪霊を追い出したから、と言えるのではないでしょうか?
実に人は自分一人の力では悪魔の支配から逃れることはできないと思います。
この人が救われたのはただ、イエスの力によるのです。
そこには「なぜ」と問われれば、それはイエスのあわれみによる、としか答えようがありません。
事実、イエスは言いました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
人が救われるのはただ、神のあわれみによります。
次にこの地方の人々はなぜ、イエスに離れてくださるように願ったでしょうか?
15節を見てください、彼らは悪霊につかれていた人が着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て恐ろしくなった、とあります。
単純に考えれば、そのように狂っていた人が正気に戻っていたらみんなでハッピーエンドでも祝いそうですが、現実はそうではないようです。
この人たちは、悪霊に支配されて苦しんでいた人が解放されたことを喜んでいる様子がありません。
むしろそのような悪霊を追い出すことのできたイエスの力の大きさに恐れをもったようです。
16節ではこの人々は豚のことを聞いた、すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるように願ったとあります。
人が一人悪霊から解放されることよりも、豚二千匹の損失の方が大事だからです。
彼らは自分たちが悪霊の支配から解放されることよりも、イエスがさらになにか物理的な損失をもたらさないかどうかを恐れました。
私たちも同じようなものではないでしょうか?
人は自分が本当に困った時には神に救いを願いますが、神の善しとされる霊的な救いが示されて、自分の物理的、経済的な価値と比較されると、果たしてどれだけの人が自分の魂の救いを選ぶでしょうか?
残念ながらこの人たちもイエスが自分たちと共にいることの価値が理解できず、自らイエスに離れてくださるように願ってしまいます。
最後に、もう一度、なぜイエスはこの人に「主のことを知らせなさい」と言われたかを考えてみたいと思います。
イエスに病気を癒された人、悪霊を追い出された人たちは大勢いました。
しかし、なぜ、イエスはこの人には特別に、「主のことを知らせなさい」と言われたでしょうか?
癒された他の人たちとこの悪霊を追い出してもらった人との違いはどこにあったでしょうか?
それはこの人が救われた後、イエスのお供をしたい、と願ったことです。
直訳ではイエスとともにいたい、と願ったと注釈にあります。
救われてそれでよかった、ありがとう、さようなら、ではなく、この人はイエスと共にいることが自分にとってどんなに大切なことか理解しました。
前回、イエスは弟子たちの前で風と波を鎮める奇跡を行いましたが、それを見た弟子たちは恐れるだけでイエスが誰であるのかを理解していませんでした。
レギオンというおびただしい数の悪霊につかれて、悪霊の力を知っていたこの人は、その力以上の力を持つイエスが、いったいどなたであるのかをそのときの弟子たち以上に身をもって理解していたかもれません。
すなわちイエスが人となった神である、ということです。
19節でイエスは言われました「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
主、とは主なる神のことです。
イエスは「神があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、知らせなさい」と言ったのです。
それなのにこの人はなんと人々に広めたでしょうか?
20節、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを言い広め始めた、とあります。
彼にとってイエスと神とは同一でした。
そのような理解を持った人にイエスはイエスに関するよい知らせを伝えることを任せたように思われるのです。
自分は悪霊なんて関係ない、と今日、多くの人は思われるかもしれません。
確かに今日のこの箇所の人のように墓場や山で叫び続けたり、自分のからだを傷つけたりしてはいないかもしれません。
しかし、人が神を否定し続けられるなら、それは悪霊の支配のもとにいることです。
使徒パウロは言いました。
あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
エペソ人への手紙の2章1節と2節(新改訳聖書)
生理的には生きてはいても、罪のために私たちは生まれながらにして霊的には死んでいるものたちです。
死んでいる人は自分で自分を救うことができません。
イエスと出会い、イエスの言葉によって悪魔の支配から解放されなければ、彼を信じることはできないからです。
あなたは神を否定するこの悪霊から解放されているでしょうか?
祈りましょう。
もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
| Prev | Next | Go Up | English Page |
Produced by Hajime Suzuki
Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience