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「風と波を従わせるイエス」

1.福音書の奇跡が実際に起こったと受け入れられますか?
2.なぜサンドイッチにしてあるのか
3.ヨナ書と似ているところ/違うところ
4.なにが弟子たちには足りなかったのか
4.1.こわがる?
4.2.信仰がない?
4.3.イエスを理解していない
5.風と波を従わせるイエス


1.福音書の奇跡が実際に起こったと受け入れられますか?

人から聞いた、ではなく、実際にみなさんが体験したことのある、不思議な出来事にはどんなことがあるでしょうか?

そう言われて僕が最初に思いつくことは、日本から来た友達と一緒にゴールドコーストにあるカジノへ行ったときのことです。

今はカジノがあることによってどれだけ多くの人が問題を抱えるに至っているかを聞いているので、行くことにさえ反対したいのですが、そのときは友達に誘われるままなにも考えないで行ってしまったのでした。

僕たちはルーレットをやってみることにしました。

ルーレットは簡単です。赤か黒かにかけて自分のかけた色になったらかけた金額分がもらえて、外れたらかけた金額は戻ってこない、というものです。

僕は結局ゲームに加わらなかったのですが、僕の友達は自分の持ち金の半分を赤にかけ続けて、一度でも黒がでたらやめにする、というなんとも理系の大学生らしい戦法で望みました。

初めに何ドルかけたのか忘れてしまいましたが、5ドルか10ドルくらいだったと思います。

1回目、赤が出ました。

幸先がいいですね!

2回目、赤が出ました。

ついてますね!

3回目、赤が出ました。

ずいぶんついてますね!

4回目、赤が出ました。

すごいですね!

結局、5回目、6回目まで赤が出ました。

赤が続けて6回出るのは大体1.5パーセントの確立です。

周りの人もざわざわして、ディーラーの人もなんだかやりにくそうです。

7回目、なにが出たでしょうか?

0が出ました。

0というのは37分の1の確立ででるもので、赤にかけた人も黒にかけた人もかけた全額を失い、カジノがその分を得る、というものです。

友達はこの時点で持っていた半額失いましたが、黒が出るまで、と決めていたので、さらに半額を赤にかけました。

8回目、赤が出ました。

9回目、赤が出ました。

結局あと6回、赤が続けて出て、13回目に黒が出ました。

なんだかホントかな〜というような話ですが、実は冗談でした、というようなオチはホントになくって実際に僕が目撃した実話です。

友達は最初、5ドルか10ドルくらいからはじめたのですが、最後は300ドル以上になっていました。

もちろん、最後に負ける前にやめていれば600ドル以上だったわけですが...

あとで計算してみたら6回赤、7回目0、また6回赤、という組み合わせは百万分の5以下の確立でした。

まあ宝くじに当たるようなものですね。

こんなたわいもない体験が、不思議な体験は?と言われて最初に思いついてしまうことなのですが、みなさんはどんな不思議な体験をしたことがあるでしょうか?

聖書には様々な不思議な出来事が記されています。

モーセが一晩中杖を海のほうに向けていると海が二つに分かれて人々はかわいた地を渡りました。

エリヤが祈ると火が空から降ってきて祭壇を焼き尽くしました。

マルコの福音書をずっと見てきましたが、病気に苦しんでいた人たち、悪霊につかれた人たちがイエスによって癒されました。

「奇跡」と呼ばれるような不思議な体験をしたことを他の人から聞いたり、もしくは自分で経験した時、少なくとも二つの問題があります。

一つは「奇跡」と呼ばれるような科学的に説明できないようなことはまったく受け入れない、という考え方です。

「『隣人を自分自身のように愛しなさい』というようなイエスの言葉は大変良いもので、心から受け入れることができますが、聖書に書かれている奇跡は非科学的で受け入れることができません、そんなのは作り話か、見たという人たちがなにかの勘違いをしたかで、科学的に説明できなければ、そんな現象は起こりえません」という人たちがいます。

「自分はクリスチャンでイエスの言葉を自分の生きる指針にしていますが、聖書に書かれている奇跡はなにかの作り話だと思います」という人もいます。

それは結局のところ、私たちとまったく同じ人間、としてのイエスを偉大な宗教家、としては認めますが、それ以上の、人となった神、という存在としては認めない、という考え方です。

イエスをもし単に人として、例えば彼は人類で一番優れている、という風に尊敬していたとしても、それはあくまでも自分とイエスを対等の立場にすることです。

イエスの「隣人を愛しなさい」というような教えは受け入れますが、「イエスが再びこの世界に戻ってくる」というような教えは受け入れない、という、実は自分をイエスの教えを裁く立場におくことです。

もし、本当にこの世界を創造した神という存在があって、その神が私たちの世界に私たちと同じように人として生きたのならば、彼が私たちには真似の出来ないような超自然的な業を行ったからといってなんの矛盾があるでしょうか。

もし、私はクリスチャンですが、福音書に書かれているような奇跡をイエスが実際に行ったことを受け入れられない、という人がいるのならば、その人は実はイエスの本質をまったく認めていないことになります。

あなたは聖書の奇跡が実際に起こったことであることを受け入れられているでしょうか?

私たちが「奇跡」と呼ばれる体験や人の話に直面する時、もう一つの問題は「奇跡」と呼ばれるような不思議な出来事であるなら、それをなにも確かめることなく、すべて神の業であると受け入れてしまうことです。

奇跡、と聞いてなんでもかんでもそれは生ける神の業だ、と受け入れてしまう人たちがいます。

今週火曜日の BBCニュースでしたが、イギリスを拠点に活動しているギルバート・デヤという福音派の牧師の人の話が伝えられていました。

彼は、悪魔払いによって子供を産むことのできない女性を妊娠させることができると主張しているそうです。

ある人はデヤ牧師に祈ってもらうことで4ヶ月ごとに子どもを何人も授かったそうです。

またある人は5年間の間に13人の子どもを授かったそうです。

子どもを授かった人は「これは奇跡の子供で、神がこの御業を行っているのです。誰も神の御業を止めることはできません。」とリポーターに言いました。

さて、これは素晴らしい、生ける神の業でしょうか?

そうかもしれません、でも、そうでないかもしれないのです。

ヨハネは言いました。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。

第一ヨハネの手紙4章1節(新改訳聖書)

警察は子供の売買の疑いで11人の「奇跡の子供」をDNAテストを行うために保護したそうです。

その結果はまだ伝えられていません。

人の病気を癒すような、人の困難を助けるような、人の命を救うような、不思議な業はすべて神からのものなのではないのですか???と思われるかもしれません。

すべての「奇跡」と呼ばれるような現象が、すべて神からのものとはかぎりません。

イエスは言いました。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。

『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。

『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

マタイの福音書7章22節と23節(新改訳聖書)

にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。

マルコの福音書13章22節(新改訳聖書)

僕が得ている情報だけではまだギルバート・デヤ牧師について判断することができません。

しかし、たとえ不思議に人の病気を癒すことができても、たとえイエスの名によってそれが行われたとしても、人を本当のイエスと真実の神のもとへと導かないのなら、それは悪魔の仕業です。

クリスチャンは奇跡をまったく信じない、もしくはなんでも信じてしまう、このどちらのエラーにも陥らないように、奇跡について正しい理解をしておかなければなりません。

2.なぜサンドイッチにしてあるのか

さて、マルコの福音書をずっと学んできました。

マルコの福音書はイエスの一番弟子ペテロの言葉をその弟子のマルコが記したもの、と言われています。

原本は古代ギリシア語で書かれていて、古代ギリシア語を学んでいない僕はその程度についてコメントすることができないのですが、例えばエンサイクロペディア・ブリタニカによると、マルコの福音書は他の福音書に比較して文学的には洗練されていない、などと評価されています。

しかしながら、マルコの福音書がどのように構成されているかをよく見てみると、その構成の仕方が実に洗練されていて、その構成の仕方から、なにか、著者が言葉にせずに訴えかけているように思えてなりません。

例えば今日の箇所です。

さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、

「さあ、向こう岸へ渡ろう。」

と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。

「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に

「黙れ、静まれ。」

と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、

「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

マルコの福音書4章35節から41節まで(新改訳聖書)

前回、前々回とイエスがたとえを用いて人々を教えられたことを学びました。

その教えのあとに、35節、「さて、その日のこと、夕方になって」とあります。

マタイの福音書とルカの福音書にもこの箇所のイエスが風と波を従わせる奇跡を行ったことが伝えられていますが、マタイの福音書ではなんの脈絡もなく、またルカの福音書でも「そのころのある日のこと」と言われていて、必ずしも、「その日」ということが言われていません。

マルコは「その日のこと」と記しました。

この箇所の場面は実は4章の初めからずっと続いたことが分かります。

4章の1節と2節を読んでみましょう。

イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。

マルコの福音書4章1節と2節(新改訳聖書)

そうして4つの地のたとえ、種まきのたとえ、からし種のたとえが続いて、またこのイエスが舟に乗っている場面に戻ってきているのです。

36節「そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。」とあります。

すなわち、この種のたとえの教えは、イエスが舟に乗っているという記述に言わばサンドイッチのように挟まれていて、そこにはなにかのつながりがあるのではないか、と思わされます。

実にマルコはこのようなサンドイッチの構成を福音書の中で何回も用いています。

そして外側の物語は内側の物語を、内側の物語は外側の物語の理解をする助けとなっているように思うのです。

もちろん、たまたまその日、イエスは舟にのってたとえを用いて人々を教え、たまたまその日の夕方、湖の向こう岸へ行こうとしたら突風が起こったのであって、その二つの物語には実はなんの繋がりもないのです、と言うのがマルコの答えである可能性は否めません。

ですが、もし、繋がりがあるとしたら、それはどんなつながりでしょうか?

少し考えてみてください。

2章と3章でイエスは病人を癒す奇跡を行いました。

2章での奇跡は寝たままの中風の人に「あなたの罪は赦されました」と言って、イエスが罪を赦す権威を持っていることを知らせるために奇跡が行われました。

3章での奇跡はイエスが安息日の主であることを宣言してから「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか」と言って、片手のなえた人の手を元どおりにしました。

そうしてみると、イエスはある事柄を教え、その教えが真実であることを証言するかのように奇跡が行われているようにも思われます。

イエスは言われました。

「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」

ヨハネの福音書10章37節と38節(新改訳聖書)

イエスの奇跡はもちろん、人が病気や悪霊によって苦しんでいる状態から解放するために行われたのですが、奇跡の果たす役割はそれだけではありませんでした。

奇跡は神がイエスにおられ、イエスが神にいることを私たちが悟り、知るためです、と言われています。

私たちが神がイエスと共におられることを理解するために、奇跡は記されました。

このサンドイッチの内側ではイエスの教えが与えられています。

神の言葉を聞いて受け入れた人は三十倍、六十倍、百倍の実を結びます。

今、人々に隠されている神の奥義は必ず明らかにされます。

神の言葉を受け入れた人にはさらに神の奥義が与えられますが、聞いても受け入れない人には持っているものまでも取り上げられます。

神の国は人の努力によらず、人の中で実をならせます。

神の国の始まりは大変に小さなものですが、時と共に世界中へと広がっていきます。

これらのイエスの言葉が真実であることを証言するかのように、サンドイッチの外側の物語でイエスは風と波を従わせる奇跡を行ったように僕は思うのです。

3.ヨナ書と似ているところ/違うところ

すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」

マルコの福音書4章37節から39節まで(新改訳聖書)

さて、この箇所を読んで、旧約聖書に親しい人は、あれ、似たような話を読んだことがあるような、と思われるかもしれません。

この箇所はヨナ書の記述によく似ています。

アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。

「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」

しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュヘのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。

そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。 船長が近づいて来て彼に言った。

「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」

みなは互いに言った。

「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」

彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。そこで彼らはヨナに言った。

「だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か。」

ヨナは彼らに言った。

「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。」

それで人々は非常に恐れて、彼に言った。

「何でそんなことをしたのか。」

人々は、彼が主の御顔を避けてのがれようとしていることを知っていた。ヨナが先に、これを彼らに告げていたからである。彼らはヨナに言った。

「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。」

海がますます荒れてきたからである。ヨナは彼らに言った。

「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」

その人たちは船を陸に戻そうとこいだがだめだった。海がますます、彼らに向かって荒れたからである。そこで彼らは主に願って言った。

「ああ、主よ。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。主よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです。」

こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。人々は非常に主を恐れ、主にいけにえをささげ、誓願を立てた。

主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。

ヨナ書1章1節から17節まで(新改訳聖書)

その後、ヨナは魚の腹の中で祈り、神に救われて、今度はニネベの町に確かに宣教をしに行きます。

そしてニネベの町の人たちはヨナのメッセージを信じて悔い改め、神に罰せられるのを免れます。

さて、このヨナ書の箇所と、今日のマルコの福音書の箇所で、似ているところはどこでしょうか?

ヨナはイエスと同じように人々に「悔い改めるように」と宣教するために遣わされました。

イエスと同じように舟に乗っているときに大風が起こりました。

大波になったときヨナはイエスと同じように船底で眠っていました。

イエスと同じようにヨナが行動することで風と波がおさまりました。

それを見た人々は非常に大きな恐れに包まれました。

違うところはどこでしょうか?

一番の違いはヨナの場合にはヨナが海の中に放り込まれることで風と波が収まりましたが、イエスの場合にはイエスが命令すると風と波が収まったことです。

旧約聖書では先のモーセやエリヤのように、神の命令を守ったり、神に祈ったりすることで自然を従わせた預言者はいましたが、風や波に直接命令して従わせることのできるのは神ご自身だけです。

そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。

「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」

しかし、イエスは答えて言われた。

「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」

マタイの福音書12章38節から41節まで(新改訳聖書)

イエスが風と波を従わせる今日の箇所は、イエスが単に奇跡を行ったことだけでなく、イエスが預言者ヨナよりもまさったもの、単なる預言者ではなく、人となった神であることを示しています。

ニネベの人たちはヨナの悔い改めのメッセージを聞いて、悔い改め、神に罰せられることを免れました。

このヨナにまさるイエスの悔い改めのメッセージを聞いて、それでもなお悔い改めないのであるならば、確かに神に罰せられるでしょう。

4.なにが弟子たちには足りなかったのか?

イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

マルコの福音書4章40節と41節(新改訳聖書)

4.1.こわがる?

イエスは言われました、「どうしてそんなにこわがるのです。」

舟で嵐にあったことがあるでしょうか?

僕はないのですが、飛行機がガクガク揺れるような乱気流に入り込んだ経験があります。

胸がドキドキ、手には汗を握りましたが、とりあえず平静を装いました。

まあ、それは大したことではなかったのですが、命の危険が迫っていると感じたとき、ある人たちは取り乱したり、叫んだりしてもどうしようもないのに、恐怖で心がいっぱいになってしまいます。

いのちの危険が迫れば取り乱してしまうのが人間なのではないでしょうか?

それなのに弟子たちには激しい突風が起こって、舟が波をかぶって水でいっぱいになっても「こわがらない」ことが求められました。

なぜでしょうか?

マタイの福音書ではイエスが風と湖をしかりつけられる前に「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ」と言われていて、確かに、弟子たちが風と波をこわがったことが理解されます。

しかしマルコの福音書ではイエスが風と波を従わせたあとに、「どうしてそんなにこわがるのです。」と言われていて、こわがったのはかならずしも風と波だけではなくって、そのように風と波を従わせたイエス自身をこわがったかもしれません。41節には、彼らは大きな恐怖に包まれた、と言われています。

どちらにしても、イエスの前でこわがることは不適当であることが教えられています。

危険を前にしてどうしたらこわがらないでいられるでしょうか?

4.2.信仰がない?

イエスはまた言われました、「信仰がないのは、どうしたことです。」

ここで言われている、「信仰」とは何のことでしょうか?

この信仰という言葉を別の言葉に置き換えるとしたらどんな言葉になるでしょうか?

どうか少しの間、考えてみてください。

弟子たちは言いました、「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

この言葉は、弟子たちがイエスが弟子たちの事を気にかけてくださることを本当に心の底からは信頼していなかったことが表わされているようです。

それはイエスを信頼していない、ということになります。

ここで言われている信仰、とは、こわがることを知らない自分の強さ、というような意味ではなく、単純にイエスに信頼することの信仰です。

しかし、問題はそれだけではありません。

もし、仮に弟子たちがイエスは自分たちの事をもちろん気にかけてくださることを信じていたとしても、寝ているイエスを見てどうしたでしょうか?

「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」とマタイの福音書に言われているように、イエスを起こさなければならなかったのです。

それはイエスが自分のことを気にかけてくださる、ということは信じますが、イエスが寝ているままではなにもすることができない、とイエスの不思議な力を信じることがない、ことであると思います。

4.3.イエスを理解していない

結局のところ、弟子たちがこわがってしまった原因、イエスに対する信頼がなかった原因は、弟子たちがまだイエスの事を本当には理解していなかったことにありました。

41節、「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」」

弟子たちは、イエスが一体どういう方なのか理解していませんでした。

ここに、いのちの危険が迫ったときにこわがることと、イエスに対する信頼をなくすことの原因があります。

弟子たちはイエスが風や湖までも従わせることのできる方、すなわち人となった神であることを理解していませんでした。

あなたは本当に、イエスが人となった神であることを理解して受け入れているでしょうか?

5.風と波を従わせるイエス

今日は初めに僕が実際に体験した不思議な出来事の話をしました。

それは僕が実際に見たことで僕の知る限り実際に起こったことです。

マルコはペテロの言葉をこの福音書に記録しましたが、ペテロはこのとき、イエスとともにいて、イエスが風と波とを従わせるところを実際に見て、それを私たちに伝えました。

彼は言っています。

私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」

第二ペテロの手紙1章16節(新改訳聖書)

ペテロが彼の手紙で書いている事を読んでみれば、また彼が自分が伝えることのためにどのように死んだのかを知れば、ペテロの言葉は信頼できると理解されるはずです。

イエスの奇跡は単に私たちが困っている時に助けるために行われたのではありません。

奇跡を通してイエスが人となった神であることを私たちが知り、この神に信頼するようになるためです。

祈りましょう。

もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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