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1.人が神の国に期待することは?
2.人を量る量りで自分が量られる
2.1.マタイの福音書によれば...
2.2.ルカの福音書によれば...
2.3.マルコの福音書によれば...
3.持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられる
3.1.マタイとルカの福音書によれば...
3.2.マタイとマルコの福音書によれば...
4.成長する種のたとえ
5.からし種のたとえ
6.神を量ろうとする量りで自分が量られます
また彼らに言われた。
「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」
また言われた。
「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
また言われた。
「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。
マルコ の福音書4章24節から34節まで(新改訳聖書)
1.人が神の国に期待することは?
神の国、と聞いてみなさんはなにを想像するでしょうか?
ある人はこの世界の国ではない、人のどんな悪もない、悲しみも苦しみもない、いわゆる天国を想像するでしょう。 もしそのような国が本当に存在するなら、もちろん、私はそこへ行きたいです。 自分は死んだらそこへ入れるでしょうか? と考えるかもしれません。
いや、そんな神の国などというものは存在しない、そんなのは気休めだ、もし存在するのなら、なぜ神は「神の国は存在するのだ」という確かな証拠を人に示して、人が神に従うようにはしないのでしょうか? 私がもし神だったら、空に誰も疑えないように「なんじ神に従いなさい」というメッセージを示して人が神に従うようにするだろうに... と考えるかもしれません。
人はいろいろなことを神と神の国に期待します。 ですが、神は私たちに、神の国についてなにを教えているでしょうか?
2.人を量る量りで自分が量られる
マルコの福音書をずっと学んできました。 今日は24節から見て行きましょう。
24節、イエスは「また彼らに言われた。─ここの彼らは弟子たちだけでなく、イエスの話を聞こうと集まった群集のことです。この彼らにイエスは言われました─「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。」
「人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。」
これも、また、たとえではないでしょうか。 ここで言われているイエスのたとえは、前回見ましたが、物事を分かりやすくするためのたとえではなくって、「この意味が分かりますか?」というなぞを秘めたなぞなぞのたとえです。
「人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。」
これはなんのことを言っているのでしょうか?
この言葉によく似た言葉がマタイの福音書とルカの福音書にも用いられていますが、 問題は、それが少しずつ異なった文脈のなかに用いられていることです。
文脈が異なれば、同じような言葉でも異なった意味が伝えられます。
聖書の言葉を正しく理解するのに、文脈を理解することは大変大切です。
思い出話になりますが、日本にはKGK(キリスト者学生会)という大学生のクリスチャンの集まりがあって、そのキャンプに一度だけ出席したことがありました。
名前は覚えていないのですが、そのときにメッセージをしてくださった先生の話です。
ある人たちは、
「神様、今、私はどうしたら良いのか、分かりません。どうか私を導いてください。」
と祈って聖書を開きます。 それは良いのですが、その開き方は、適当に開いて最初に目に入った節を読むというものでした。 その人は聖書を開いてマタイの福音書27章5節を読みました。
「『そしてユダは外に出て行って、首をつった』...ああ、いやな箇所を読んだな、もちろんこれが神様の導きであるはずはないから、もう一度開いてみよう。」
その人はもう一度聖書を開いて今度はルカの福音書10章37節を読みました。
「『あなたも行って同じようにしなさい』...」
印刷の技術が進歩して、幸いにも私たちは一人一人が自分の理解できる言語に訳された聖書を持つことができます。 聖書の言葉を学んで神の意思、神の計画を知ることはクリスチャンとして必要不可欠ですが、その学び方はしかし、聖書を開いて自分の好きなように解釈するのではなくって、文脈を理解して、その著者の意図を学ぶことです。
この箇所も文脈を理解しなければ、その意味を理解することはできません。
簡単にマタイとルカの福音書でどのように用いられているかを見てから、このマルコの箇所ではなにを言っているのかを見てみましょう。
2.1.マタイの福音書によれば...(マタイ7:1−5)
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」
マタイの福音書7章1節から3節まで(新改訳聖書)
梁とは needle の針ではなくって例えば家の屋根を支える水平の柱のことです。新共同訳では丸太と訳されています。
丸太が目の中に入るのですか?というのがミソですね、チリは目に入っても気づかないこともありますが、丸太が目の中に入ったとしたら気に留めないという人はいないでしょう。 それなのに(私も含めて)人というものは自分の悪いところにはどこまでも鈍感で他の人の悪いところには多分に目ざといものです。
「兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」
マタイの福音書7章4節から5節まで(新改訳聖書)
1節で言われている「さばく」とは、例えば「あの人の行っていることは悪いことだ」と判断することではありません。
クリスチャンは聖書の言葉によってなにが正しいことでなにが悪いことなのかを学んで自分の行いも他の人の行いもそれが神の前に正しい事なのか、善悪を判断するべきです。
もし、この「さばく」ということが「善悪を判断する」ということであるなら、5節に言われているように、自分の悪いところを反省してから他の人の悪いところを注意することもできなくなってしまいます。
そうではなくて、「さばく」とは、私はあの人の行いを赦しません、あの人は神によって裁かれるべきです、と人を罪に定めることです。
もしあなた自身が自分の罪は神によって裁かれるべきであったのに、神によって赦されたと信じるのなら、あなた自身は他の人をも裁くべきではありません。
もしあなたが他の人を裁くのならば、あなたは実は神が自分の罪をも裁かず赦してくださったことを本当には信じておらず、あなた自身も神に裁かれます、という意味だと僕は思います。
だから、「あなたが量るとおりに、あなたがたも量られる」と言われています。
その意味は「あなたが人を裁くのなら、その量りで、その通りに、神があなたをそのように裁く」ということだと思います。
2.2.ルカの福音書によれば...(ルカ6:37−38)
それではルカの福音書ではどのように使われているでしょうか。
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
ルカの福音書6章37節と38節(新改訳聖書)
「押しつけ」とは人が要らないと言っているのに押しつけて与える、という意味ではなくて、もっと量りに入るように押しつける、という意味です。 神が私たちに豊かに与えてくださっているように、私たちも他の人たちに対して物質的に、霊的に良いものを惜しみなく与えることが言われています。
新改訳聖書では「人々は量りをよくして」と言われていて、与えられたその人たちがお返しをしてくれるような期待がされますが、そうではないと思います。
確かに一般的には、けちな人にはなにも与えたくない、と思われますし、気前のよい人には感謝の気持ちで自分も恩を返したい、などと思われます。
しかし、クリスチャンは見返りをまったく考えません。 人に良いものを与えること自体が喜びであるからです。
この「与えなさい。そうすれば、自分にも与えられます。」というのはこの前の箇所で、赦されるのは人が必ずしも赦してくれるのではなくて、神が自分を赦してくださるのと同じように、自分が人々に豊かに与えるのなら、神が自分に豊かに与えてくださる、ということだと思います。 新共同訳聖書では「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。」とあって、必ずしも「人々が」という意味ではありません。
逆に、もし「人々が」という意味であったのなら、この言葉は、むしろ、自分がそのように惜しみなく人々に与えているだろうか、という問いかけにもなると思います。 なぜなら、私たちは人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。 自分がそのように人に対して惜しみなく与えていないのなら、人々がそのように与えてくれることを期待することはできません。
この「人を量る量りで自分が量られる」という言葉は、この箇所では、あなたが人に与えるのなら、その量りで、その通りに、神があなたにそのように与える、という意味であると思います。
2.3.マルコの福音書によれば...(マルコ4:24)
それではマルコの福音書によれば、この言葉はどういう意味であるでしょうか? マルコの福音書4章24節にもどりましょう。
また彼らに言われた。
「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。」
マルコの福音書4章24節(新改訳聖書)
ここで言われている「人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。」というのは、人をさばいて罪に定めることでも、人に与えることでもありません。
それではどういう意味でしょうか?
イエスは「聞いていることによく注意しなさい」と言われました。 イエスの言葉を聴きながら、聴いている人たちはなにを「量っていた」でしょうか?
ここで言われている「量る」とはイエスの言葉を聞いて、その意味を吟味すること、だと思います。
新改訳聖書では「人に量ってあげるその量りで」と言われていて、イエスの言葉を量るのではなくて、なにか人に対して量るような意味に取れますが、これも原語では「人に」という意味が必ずしもないと思います。 新共同訳では「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」とあります。
イエスの言葉を聞く人は皆、イエスの言葉を量っているのです。
もし、あなたが、この言葉は神の言葉です、と量るなら、あなたには神の言葉が与えられます。
もし、あなたが、この言葉には大した意味はない、と量るなら、あなたにはなんの意味もない言葉が与えられます。
3.持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられる
25節を見てみましょう。
「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」
マルコの福音書4章25節(新改訳聖書)
もしこの言葉だけを取り上げて意味を考えようとすると、なんだか、持たない、貧しい人たちにこそ与えられるべきで、持っているものまでも取り上げられてしまうなんてあんまりです、という結論になってしまいそうですが、もちろんそういう意味ではありません。
この言葉も実はマタイとルカの福音書で違う文脈で用いられているので、まず、そちらを見てみましょう。
3.1.マタイとルカの福音書によれば...(マタイ25:29、ルカ19:26)
「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント1、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。
『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。
『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。
『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。
『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。
『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。2
『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
1タラントとはお金の単位で新改訳聖書の注釈によると1タラントは6000デナリ、1デナリは大体一日分の労働費だそうです。 日本語でもタレントと言いますが、英語で能力という意味で talent と使われるのは聖書のこの箇所からだと言われています。 ここでは言われていませんが、そのようにしもべに自分の財産を預けて旅に出て行くのは、しもべにそのお金で商売をすることが求められていることが前提となっていると思います。 もし、一日一万円くらい稼げるとしたら、1タラントは6000万くらいということになって、商売をするのには十分な額、ということになります。 ルカの福音書では「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」としもべは言いつけられます。
2ここで悪いしもべは自分の主人をひどい方だ、と量っていますね。 その量りの通りにこのしもべは罰せられました。 しもべはこわくなった、と言い訳をしていますが、しもべが銀行に預けることもしなかったのは、結局、このしもべは主人のためにお金をもうけたくなかったから、ということになります。
マタイの福音書25章14節から29節まで(新改訳聖書)
さて、このたとえはいったいどのような意味でしょうか?
一番初めにこのたとえは「天の御国」のことを指している、とイエスは言っています。
すなわち、天の国、神の国が来るまでに、私たちにはこの世界においていろいろなことをする能力、タラントが与えられていますが、それを主人、神のために使おうとするものには神の国においてさらに喜びが増し与えられ、それを神のために使おうとしないものは今、この世界で神に与えられているいくばくかの喜びさえも、いずれはすべて取り去られてしまう、というような意味である、と僕は考えます。
ルカの福音書19章11節から26節にも大体同じ意味のたとえが記されています。
3.2.マタイとマルコの福音書によれば...(マタイ13:12、マルコ4:25)
さて、それぞれの福音書において、同じような言葉が違う意味で用いられている、というのは、なにか、それがオリジナルのイエスの言葉ではなくて、マタイが、マルコが、またルカが勝手に創りあげた話なのではないだろうか、と思われてしまうかもしれません。
ですが、実は同じ言葉が一つの福音書の中でも文脈によって違う意味に使われている場合があります。
すなわち今とりあげたマタイの福音書25章14節から29節までと、下にとりあげるマタイの福音書
箇所では同じ言葉が使われていますが、文脈によって実は違う意味が伝えられています。 すなわちイエス自身が、このように異なった場面、異なった文脈において同じ言葉を使って確かに複数の意味を伝えているのだと考えられます。
すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。
「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」3
イエスは答えて言われた。
「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」
3なぜイエスがたとえで群集を教えたのかについては前回に取り上げました。
マタイの福音書13章10節から13節まで(新改訳聖書)
すなわち、イエスの言葉を聴いて、理解して、受け入れようとする人には、神の奥義がさらに与えられますが、イエスの言葉を聴いても、理解しようとも、受け入れようともしない人には、今日は、イエスの言葉が与えられる機会に恵まれましたが、そのような機会さえも後にはなくしてしまうであろう、という意味だと僕は考えます。
マルコの福音書4章25節も同じ意味だと思われます。
4.成長する種のたとえ(マルコ4:26−29)
また言われた。
「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
マルコの福音書4章26節から29節まで(新改訳聖書)
このたとえはなにを言っているのでしょうか?
種を蒔く、というたとえはこのすぐ前の箇所にもあるとおり、人が神の言葉を伝えることであるでしょう。
この神の言葉は、今度は伝えた人の努力によらずに、伝えられた人の中で育ちます。
種が次第に成長して実を結ぶように、いずれ収穫の時、神の国の到来の時が来て、人は共にその収穫にあずかるのです。
パウロは第一コリント人への手紙3章で言っています。 「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」
5.からし種のたとえ(マルコ4:30−32)
また言われた。
「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
マルコの福音書4章30節から32節まで(新改訳聖書)
このたとえはなにを言っているのでしょうか?
からし種というのは僕は見たことがないのですが、小さいものの象徴であったようです。
その小さな種から、大きな枝を張る植物に成長するように、神の国は小さなものから大きなものへと変化することを示しています。
確かにその通りに、初めはパレスチナの一角で十数人に伝えられたイエスの言葉でしたが、二千年間の間に今では世界中のどこでもイエスの言葉が伝えられるようになりました。
神の国とは、神が人々の王である国のことです。
それは天国のことでもありますし、いま地上において神を自分の王とする人たちの見えない国のことでもあります。
そしてこの神であり王である方とは人となった神であるイエス・キリストのことです。
あなたがそう望むのならば、イエスを自分の王として、今すぐにでもこの神の国に加えられることができるのです。
空に描かれた不思議なメッセージではなく、人の言葉によって神の言葉が伝えられていくことが、神の決められた方法です。
神の言葉が伝えられていくのは人によりますが、聞いた人が神の言葉を受け入れ、神の国に加えられ、神の国が広がっていくのは神によります。
神は実にこのような方法でもって今も神の国を広げているのです。
6.神を量ろうとする量りで自分が量られます
二千年変らないイエスの言葉は今も人々に伝えられています。
このイエスの言葉は神の言葉です。
イエスの言葉を聴いて、そんな言葉は私には意味のないものだ、と量るのであるならば、その同じ量りで神はあなたを量り、イエスがあなたの救いのためにこの世界に来たというその救いのメッセージも、あなたにとっては意味のないものとなってしまうでしょう。
ですが、もし、あなたが今、イエスの言葉を聴いてその言葉を神の言葉であると量って、この言葉に信頼して生きようとするのなら、神はその量りに応じてあなたに神の救い、神の約束、神の国の奥義を理解させてくださいます。
人が神を量ろうとするその量りで、神は人を量られるからです。
祈りましょう。
もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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