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1.人はなにを支えにして生きるのか?
2.「たとえ」とは?
2.1.日本語辞典によれば...
2.2.原語によれば...
2.3.旧約聖書によれば...
3.なぜイエスはたとえによって教えられたか
4.種蒔きのたとえ
4.1.道ばたに蒔かれる
4.2.岩地に蒔かれる
4.3.いばらの中に蒔かれる
4.4.良い地に蒔かれる
5.「聞く耳のある者は聞きなさい」
イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
そしてイエスは言われた。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」
さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。そこで、イエスは言われた。
「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、
『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』
です。」
そして彼らにこう言われた。
「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです─みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです─みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。─みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
また言われた。
「あかりを持って来るのは枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。聞く耳のある者は聞きなさい。」
マルコ の福音書4章1節から23節まで(新改訳聖書)
1.人はなにを支えにして生きるのか?
僕は普段、CSIROと呼ばれる政府の科学研究機関で働いています。
大抵の日の昼休みは弁当を食べながら、インターネットで日本の朝日新聞と読売新聞、それからオーストラリアのシドニー・モーニング・ヘラルドをこの順番で流し読みします。
僕にとってとくに目のつく記事は、日本の新聞がオーストラリアのことを取り上げたり、オーストラリアの新聞が日本の事を取り上げたりする時です。
6月11日のシドニー・モーニング・ヘラルドの記事でしたが、昨年度、日本の人が死亡した原因のことについて書かれていました。
日本の厚生労働省の発表だったので日本の新聞でも取り上げられたはずだと思うのですが、一番の原因はいわゆるガン、二番目に心臓の病気、三番目に脳の血管の病気だそうです。
つまり多くの人は年を取るにつれて体のいろいろな部分のいろいろな病気によって70歳台、80歳台で死亡するわけですが、僕が問題にしたいのは10代後半から30代の人が死亡した一番の原因です。
男女によって年代の差があるのですが、一番の原因は何だったでしょうか?
自殺です。
自殺は人の命を意図的に奪うという意味では殺人と同じです。
なぜ人は生きることをやめてしまおうと思うのでしょうか?
僕には想像することしかできませんが、もし僕が、この命は造り主なる神によって与えられたものであることを知らずに、また、死んでその先には何もないと信じ込んでしまったのなら、なにかの困難、なにかの絶望によって心の中が一杯になってしまったとき、あるいは自殺という選択肢を選ぶかも知れません。
生きることの支えがなにもないからです。
しかしもし、なぜ今、自分はこの世界にあって生きなければならないのか、またいろいろな困難に直面しなければならないのか─すなわち困難を通して神は私たちがより神に頼るものになるようにと変えてくださるということ─また困難を越えてこの世界での命を全うした時に、神に迎え入れられると知っていたのなら、そのような心の支えがあったのなら、あるいはどんな困難にあっても自殺という選択はしないだろうと思うのです。
聖書は私たちにこの世界で生きることの意味を教えています。
すなわち、造り主である神を知って、彼を生きる支えとして、彼のために生きることです。
どうしたら、神を知ることができるでしょうか?
これまで、マルコによる福音書を学んできました。
1章でイエスが宣教を始めたこと、最初の弟子たちの招いて、人々の病気を治し、悪霊を追い出し、権威をもって人々を教えたことを見ました。
2章ではイエスが人の罪を赦す権威を持っていること、罪人を招くために来られたこと、また安息日の主であることを見ました。
3章ではイエスが十二弟子を任命したエピソードから十二弟子について少し学んで、また聖霊を汚す罪とは何のことであるのかを見てみました。
このイエスが実は人となった神なのであって、イエスを知ることは神を知ることである、ということを是非理解していただきたいと願うものです。
今日は4章を見ていきましょう。
イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
マルコの福音書4章1節(新改訳聖書)
3章の9節でイエスは群集が押し寄せて来ないよう、新共同訳では群集に押しつぶされないように、小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけていました。
おそらくはその小舟に乗ってイエスは湖の上で、群集はみな岸べの陸地にて隔たれた状態であったと思われます。
さて、次回の箇所になりますが、4章35節を見てみてください。
いろいろなたとえをもって群集を教えた後、
さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
マルコの福音書4章35節(新改訳聖書)
すなわち、その日はずっとイエスと弟子たちは舟の上で、群集は岸べの陸地にいたまま、という状態であったようです。
問題は10節なのですが、10節「さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた」とあります。
その日はずっと舟の上にいたのだとしたら、一体いつ、イエスだけになったときがあったのでしょうか?
また、「これらのたとえ」と言われていますが、すぐ前で言われているのはいわゆる種まきのたとえ一つだけで、「これら」という言葉とあまりかみ合いません。
おそらく、10節から23節までの弟子たちに対するイエスの教えは、必ずしもその日のうち、舟の上で与えられた、ということではなくて、後になって与えられたものを、マルコは二つに分けて記述するのではなくて、イエスが群集にたとえを話された場面に挿入したように思われます。
福音書を読むときに、書かれていることが必ずしも時間通りに起こったことではないことは、承知しておくべきことだと思います。
福音書の著者は必ずしも事件が起こったとおりの時間軸を正確に伝えようとはしていません。
彼らはイエスがどのような方であったのか、ということを正しく伝えたいのであって、その目的のためには事件の順序はあまり問題ではありません。
これを承知していないと、ここはおかしい、あそこはおかしい、というような読み方になって、著者が伝えたいことのメッセージを見逃してしまいます。
2.「たとえ」とは?
さて、2節「イエスはたとえによって多くのことを教えられた」とあります。
「たとえ」とはなんでしょうか?
2.1.日本語辞典によれば...
広辞苑によれば「たとえ」とは「たとえること」、「たとえる」とは「ある事柄の内容・性質などを、他の事物に擬して言い表すこと」とあります。
たとえ話、とは、日本語辞典によれば、わかりやすく言い聞かせるためにあることにたとえてする話、とあります。
普通、なにかをたとえていう時には、意味が通じるように分かりやすいように物事を置き換えていうことです。
なぜイエスはたとえによって人々を教えたでしょうか?
よく聞かれる答えは、イエスは分かりやすく、身近な理解しやすいことに置き換えて、神の真理がいわゆる教養のなかったような人たちにも理解しやすいように教えるためです、などといわれます。
それは大変つじつまのあう答えですが、問題はそのような答えは、聖書をよく読めば、実はつじつまが合わない、ということです。
次回の箇所になりますが、4章33節と34節を見てみてください。
イエスは、このように多くのたとえで、彼らの─群衆のこと─聞く力に応じて、みことばを話された。たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。
マルコの福音書4章33節と34節(新改訳聖書)
もしたとえが意味が通じるように分かりやすく、という目的で使われたのなら、なぜ弟子たちには解き明かしが必要だったのでしょうか?
それは、イエスのたとえは物事を分かりやすくするためのものではなかったからです。
2.2.原語によれば...
原語のギリシア語によれば、この「たとえ」という言葉は英語の parable という言葉の語源ともなったパラボレイという言葉だそうです。
パラボレイといえば、衛星通信で使われるパラボラアンテナのパラボラと同じですが、あれは上半分と下半分で対称の形をしているから物事を二つ並べることに通じるそうです。
このパラボレイという言葉の意味ですが、これは似ているものという意味で必ずしも「意味が通じるように分かりやすい言葉でたとえること」という意味ではありません。
マルコたち福音書の著者がどういう意味でこのギリシア語の「パラボレイ」という言葉を用いたのかは、ギリシア語訳の旧約聖書で「パラボレイ」という言葉がどのように使われているかを見てみることが役立ちます。
2.3.旧約聖書によれば...
旧約聖書は紀元前1500年くらいから紀元前300年くらいまでに、もともとへブル語で書かれましたが、イエスの時代、2000年前にはすでにギリシア語訳の旧約聖書が使われていました。
そのギリシア語訳の旧約聖書ではパラボレイというギリシア語はヘブル語でマーシャル、その言葉は主に日本語では「ことわざ」と訳されています。
たとえば次の旧約聖書の箇所を見てみましょう。
私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。
私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。
詩篇78篇1節と2節(新改訳聖書)
この「たとえ話」という言葉がヘブル語でマーシャル、ギリシア語訳の旧約聖書でパラボレイ、新共同訳聖書では「箴言」と訳されています。
そしてその意味ですが、この箇所では、同じ事を二つ並べて言うヘブル語の言い方によれば、昔からのなぞ、と似た意味となります。
すなわち、聖書で用いられている「たとえ」とは、物事を必ずしも分かりやすくするためのものではなく、むしろ、なぞめいた言葉、なぞをふくませた言葉、という意味が含まれているということが分かると思います。
少し語弊がありますが、「たとえ」という言葉を「なぞなぞ」という言葉に置き換えてみると、実はこの箇所の意味がよく分かります。
イエスは、このように多くの「なぞなぞ」で、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。「なぞなぞ 」によらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。
マルコの福音書4章33節と34節(新改訳聖書+著者による変更)
3.なぜイエスはたとえによって教えられたか
ではなぜイエスは「たとえ」もしくは「なぞなぞ」によって群集を教えられたのでしょうか?
3節から9節は後で戻ってくるとして、10節からもう一度読んでみましょう。
さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。そこで、イエスは言われた。
「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、
『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』
です。」
マルコの福音書4章10節から12節まで(新改訳聖書)
なぜイエスはたとえによって教えたでしょうか?
この箇所をそのまま読めば、聞く人が聞いても分からず、悟らず、悔い改めて赦されることのないため、と言われています。
そんなことがあるでしょうか?
神はすべての人が悔い改めて赦されることを望んでいるのではないのでしょうか?
この『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』という言葉は旧約聖書のイザヤ書6章9節の引用です。
並行するマタイの福音書ではこのイエスの言葉によってイザヤ書6章9節が成就されたと言われています。
ですからある人たちは旧約聖書の預言が成就するために、イエスはたとえ、もしくはなぞなぞによって教えられた、と言います。
確かにそれはその通りです。
ですが、このマルコの福音書にはそれ以上のことが言われているのではないでしょうか。
「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」
赦されるためにはどうすれば良いでしょうか?
悔い改めることです。
自分の今までの生き方は間違っていました。
これからは神に従って生きていきます。
これが悔い改めです。
悔い改めるためにはどうすれば良いでしょうか?
イエスの言葉を聞いて理解することです。
しかし、イエスはたとえ、もしくはなぞなぞで語られました。
なぞなぞが難しすぎて理解出来ない、ということがあったでしょうか?
もしイエスの言葉が理解できなかったのなら、どうすれば良いのでしょうか?
弟子たちがしたように、イエスのもとに来てイエスに解き明かしを願うことです。
もしあなたがイエスのもとに来ないのなら、あなたはいつまでたっても、この箇所で言われている、「ほかの人たち」であって、彼らは確かにイエスを見て、イエスの言葉を聞きましたが、悟ることも、悔い改めることもせず、神に赦されません。
しかし、もしあなたがイエスのもとに来て、彼に頼るのなら、あなたには神の奥義が知らされます。
イエスのたとえはこのようにして、聞く人たちを、聞いてイエスのもとに来てイエスに頼ってたとえを理解する人たちと、イエスに頼らず、聞いても理解しない人たちの二つのグループに二分しました。
イエスがたとえで話されたのは、イエスに頼ろうとしない人たちには神の国の奥義が知らされない、ということを示すため、とも言えるのではないかと思います。
4.種蒔きのたとえ
3節に戻りましょう。
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
マルコの福音書4章3節から9節まで(新改訳聖書)
この教えを聞いた人たちは、「ああ、今日は、上手な種のまき方を学んだなぁ」などと思ったでしょうか?
いいえ、イエスのもとに集まった人たちはすでに、イエスが人々の病気を治し、悪霊を追い出し、罪を赦し、権威を持って教えていたことを知っていて、イエスの教えに上手な種のまき方以上のなにかを期待していたはずです。
イエスの教えになにかを期待して聞いていた人は、この教えを聞いて─群集にはこの教えが実は「たとえ=なぞなぞ」であることは知らされていません─きっと「イエスは一体何のことを言っているのだろう?」と考えたはずです。
残念ながら、僕たちはすでに解き明かしの箇所も読んでしまったので、なにも知らなかった状態でこの言葉を聴いたら一体なにを思うのか、想像するしかないのですが、弟子たちには実はこのたとえの意味が分かりませんでした。
4.1.道ばたに蒔かれる
そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです─みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。」
マルコの福音書4章13節から15節まで(新改訳聖書)
イエスが神の国の奥義をたとえを使って話されているとき、ある人たちはその場にいてなんだか面白い話をしているな、というぐらいにしか思っていなかったでしょう。
またある人たちはイエスに学びたくてその場にいたのではなく、あるパリサイ人や律法学者たちのように、なんとかイエスを訴える口実を見つけようとしていたかもしれません。
彼らは初めからイエスの言葉を受け入れることを拒否しています。
彼らの前に、神の言葉が与えられましたが、その言葉は心の中に入っていかず、いずれ忘れ去られてしまいます。
今日、この場でも、また様々な教会の集まりでも、神の言葉が語られていますが、ある人たちはその場にいるだけで、神の言葉を心に残すことなく、与えられた言葉もいずれ、忘れ去られてしまいます。
4.2.岩地に蒔かれる
「同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです─みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」
マルコの福音書4章16節と17節(新改訳聖書)
イエスが十字架であなたの代わりに罰を受けたことで、あなたの罪はすべて神に赦されます、と聞いて、ある人たちは神に罪が赦されると喜んで受け入れます。
しかし、神に罪が赦されることはそのまま、イエスを自分の主として生きることです。
みことばのために困難や迫害が起こる、とは、狭い意味では、歴史的に起こったように、イエスが自分の神であると告白するだけで牢屋に入れられたり処刑されたりすることを指します。
ですが、もっと身近に、例えば
「私は今までいろいろな嘘をついてきましたが、イエスに信頼するこれからは、聖書にあるとおり、嘘をつかないで生きていきます」
「私はこれまで税金をごまかしてきましたが、イエスに信頼するこれからは、聖書にあるとおり、定められた額を支払います」
「私は自分のパートナーを顧みないで生きてきましたが、イエスに信頼するこれからは、聖書にあるとおり、自分のパートナーを愛して生きていきます」
なんでも良いのですが、聖書に教えられているようにと決心して生きようとするために起こる、いろいろな不都合や困難もある人にとってはみことばのための困難であるでしょう。
つまずく、とは原語ではそのままなにかにつまずいて転ぶことを言いますが、新約聖書ではイエスに信頼することをやめてしまうことを指します。
根をはらないで、とあります。
どうしたら根を張ることができるでしょうか?
次の箇所を見てみてください。
(使徒パウロは言いました )「あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」
「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」
コロサイ人への手紙2章1節と2節、6節と7節(新改訳聖書)
根を張る、とは自分で頑張ろうとすることでも、教会に長くいることでも、ありません。
この箇所では根を張るとは、キリストを真に知るようになることです。
そのことなくては、困難や迫害に会ったとき、イエスに信頼することをやめてしまいます。
4.3.いばらの中に種を蒔かれる
「もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。─みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」
マルコの福音書4章18節と19節(新改訳聖書)
世の心づかい、という言葉の原語はマタイの福音書6章で言われている、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配したりする、心配、という言葉と同じ語源です。
イエスは心配するのをやめなさい、と言われました。
心配するのをやめるということは、何もしなくてよい、ということではありません。
確かに私たちは、第一テサロニケ4章11節、「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働」かなければなりません。
しかし、ある人たちは心配することが先で、神がキリストにあって私たちに与えられていることも忘れて、神を知らない人たちと全く同じように心を煩わせます。
イエスに信頼している、という人たちが、イエスを知らない人たちと全く同じように振舞うなら、イエスを知らない人たちは、イエスを信頼するということに一体何の魅力も見出せないでしょう。
また、富の惑わし、と言われています。
富は人に偽りの安心感を与えます。
偽りの安心感を求めて、人は富に惑わされます。
富に惑わされないようにするにはどうしたらよいでしょうか?
(使徒パウロは言いました) 「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」
第一テモテへの手紙6章6節から10節まで(新改訳聖書)
ある人たちは、富がすべての悪の根だと考えて、富に惑わされないように、自分の持っているものをすべて放棄することで、神に近づこうとしますが、自分に何かしらの富と呼べるものが与えられているか、与えられていないかは実は問題ではありません。
「金銭」が悪の根なのではなく、「金銭を愛すること」が、あらゆる悪の根である、と言われています。
日本でもオーストラリアでも大抵の人は食べること、着ることに不自由することはないと思われます。
この意味で私たちは実はこの世界で富んでいるものです。
もしかしたら、あなたの近所に住む人にはさらに富が与えられているかもしれませんが、この世界に住む60億の人々の中で、おそらくは、私たちは上位5%に属する、富んだものたちです。
あなたに100の富が与えられているとしましょう。
もしかしたあなたは200の富があれば満足するのに、と思ってしまうかもしれません。
しかし世の中には200の富を持ってなおかつ満足しない人たちがいます。
「 いいえ、そんなことはありません、私は2倍の、いや10倍の富があればきっと私は満足します」と思ってしまうのが富の惑わしです。
衣食に困らないのなら、それで満足するべきです。
(使徒パウロは言いました)「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。」
第一テモテへの手紙6章17節と18節(新改訳聖書)
いろいろな欲望によってみことばがふさがれてしまわないためには、与えられていることに感謝して、金銭ではなく良い行いに富むことです。
4.4.良い地に蒔かれる
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
マルコの福音書4章20節(新改訳聖書)
30倍、60倍、百倍の実を結ぶとはみことばを聞いて受け入れた一人の人が今度は自分がみことばをほかの人たちにまいて30人、60人、百人の人が聞いて受け入れること、とも理解されますが、それだけではないと思います。
「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」
コロサイ人への手紙1章9節と10節(新改訳聖書)
「あらゆる善行のうちに実を結び」と言われています。
必ずしも福音を伝えることでなくてもみことばを聞いて受け入れた人はあらゆる善行のうちに、30倍、60倍、100倍の実を結びます。
ガラテヤ人への手紙5章22節、23節で「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と言われています。
みことばを聞いて受け入れた人にはそのような実が約束されています。
5.「聞く耳のある者は聞きなさい」
「また言われた。「あかりを持って来るのは枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。」
マルコの福音書4章21節と22節(新改訳聖書)
イエスのこの言葉もまた、たとえ、もしくは、なぞなぞです。
ここにはこのたとえの解き明かしはされていませんが、文脈から、「隠されているもの」とは神の国の奥義のこと─奥義とはなにも難しいこと、という意味ではなくて、単に隠されて秘密であったことが明らかにされたことです。
もしくは、あかりとは、この世の光であるイエスご自身のこと。
どちらにしても、神の国の奥義、またはイエスがこの世界に来たことの目的はイエスがこの言葉を言われた時には弟子たちにさえ正しく理解されていませんでした。
しかし、隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためであるように、イエスが十字架に私たちの罪のために死んで後、復活されて、弟子たちに神の国の奥義が、またイエスがこの世界に来た目的が明らかにされました。
「聞く耳のある者は聞きなさい」
マルコの福音書4章23節(新改訳聖書)
ある人たちはその場にいて聞いてはいるが実はなにも聞いておらず、神の救いの言葉を与えられても受け取ることがありません。
ある人たちは神の救いの言葉を聞いて受け入れますが、イエスを本当に理解することがなく、困難があればイエスに信頼することをやめてしまいます。
ある人たちは神の言葉を聞いてはいますが、ほかの事に心を煩わせて実を結ぶことができません。
しかしある人たちは神の言葉を聞いて、理解し、受け入れ、自分の生き方を悔い改めて、神に信頼して生き、神を信じていなかったときにはなにも神に喜ばれることができませんでしたが、神を信じた今、この世界にいる間に、30倍、60倍、100倍の実を結びます。
イエスの言葉を聞く人たちは例外なく誰でも、実に、この四つの地のどれかに当てはまります。
あなたはどの地に当てはまるでしょうか?
祈りましょう。
もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience