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聖霊をけがす罪とは?

1.あなたはイエスの事を誰だと言いますか?
1-1.気が狂っている?
1-2.汚れた霊につかれている?
1-3.偉大な宗教家?
2.「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう」
3.「強い人の家に押し入って...」
4.「人はその犯すどんな罪も赦していただけます」

5.「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず...」
5.1.なぜイエスはこのように言われたのか?
5.2.聖霊をけがす罪とは?
6.あなたはイエスの事を誰だと言いますか?


イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。

「気が狂ったのだ。」

と言う人たちがいたからである。また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、

「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」

と言い、

「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」

とも言った。そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。

「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

このように言われたのは、彼らが、

「イエスは、汚れた霊につかれている。」

と言っていたからである。

さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、

「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」

と言った。すると、イエスは彼らに答えて言われた。

「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。

「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

マルコ の福音書3章20節から35節まで(新改訳聖書)

1.あなたはイエスの事を誰だと言いますか?

1950年にノーベル文学賞を受賞したバートランド・ラッセルという人がいます。

彼は1970年に97歳で亡くなっているのですが、数学者、哲学者としても有名なだけでなく、原水爆禁止運動やベトナム反戦運動でも大いに活躍した人です。

ですが、彼は神を信じない人で、「なぜ私はクリスチャンではないのか」という本の作者としても知られています。

その本の中で彼はイエスの教えがいかにこの世界で最も優れたものではないのかということを議論します。

「もちろん、よく知られている聖霊に対する罪に関する箇所があります。

『聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。』

この箇所は言語に尽くしがたいほどの苦しみを世の中にもたらしました。

なぜならいろいろな人が、自分は聖霊に対して罪を犯してしまったと想像して、もうこの世であろうと次に来る世であろうと赦されることはないと考えてしまったからです。

もし少しでも人を思いやる心があったなら、これほどの不安と恐怖心を世にもたらすようなことを言うことはとてもできないであろうと私は思います。」

バートランド・ラッセルによれば、イエスは善い人でも愛の人でもありません。

イエスは人々に恐怖心を起こさせ、苦しませる悪い人だ、ということになります。

またある人たちは、イエスは家族を顧みない悪い人だ、と言います。

今日の箇所でイエスは

「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

と言いました。

マタイの福音書10章34節では

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。」

と言いました。

このようなイエスの言葉をもってある人たちはイエスの教えは悪いものだ、と言います。

あなたはイエスの事をどう思われているでしょうか?

そんなこと、どうだっていいじゃん、と思われるかも知れません。

そんな二千年も前に死んだ人なんて、私となんの関係もないじゃないですか、と思われるかも知れません。

イエスのことなんて、私が今、ぶつかっている問題と、悩んでいる問題となんの関係もないじゃないですか、と思われるかも知れません。

しかし、イエスは言いました。

(誰でも自分の)「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」

マルコの福音書10章8節(新改訳聖書)

すなわち、この世界で自分のために生きようとするなら、それは実は死んでいることと同じです。

しかしイエスのために生きようとするなら、そうして人は初めていのちを得ることができます。

そんな主張をイエスはしました。

もしこの主張が実は真実でないのなら、イエスとは一体どんな人なのでしょうか?

1.1.気が狂っている?

ある人たちはそんな主張をしたイエスはきちがいだ、と言います。

20節、「イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。」

新改訳聖書では、誰かが「イエスは気が狂ったのだ」とイエスの家族に言って、これを聞いてイエスの家族がイエスのところに来た、と訳されているようですが、原語はイエスの身内の者たちが聞いたのは、イエスとその弟子たちが食事する暇もなかったということで、それを聞いてイエスの家族が「イエスは気が狂ったのだ」と思った、と訳すこともできるそうです。

口語訳では

「身内のものたちはこの事を聞いて、イエスを取押さえに出てきた。気が狂ったと思ったからである。」

と訳されています。

どちらにしても、イエスの行いやその言葉を聞いて、イエスは気が狂っていると考えている人たちがいました。

1.2.汚れた霊につかれている?

22節、「また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。」

ベルゼブルとはその語源がはっきりしていませんが、その意味はこの箇所でも言われているように、「悪霊どものかしら」すなわち、サタンのことを指しています。

悪霊、と聞いて、「なんだ、悪霊なんて信じてるの?そんなの迷信だよ」と思われるかもしれません。

ある人たちは「悪霊なんて医学の知識がなかった時代に、精神の混乱した人や発作を起こす人の原因が分からなくって、人々が勝手に作り上げたものだ」と言います。

確かに、例えばウイルスが原因で起こる狂犬病にかかってしまった人は、神経を犯されて発作を起こし、音や光や水を怖がるので悪霊につかれているという説明に真実味が増します。

発病すると必ず死亡するので、悪霊払いをする人によって退治されたと言われれば納得してしまう人も少なくなかったでしょう。

しかし、パウロによれば、人がイエスのことなど信じない、信じない、信じない、とかたくなに思い続けられるなら、それはエペソ人への手紙2章、「今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、生きている」ことです。

サタンの武器は「嘘」です。

人が、神などいない、自分の好きなように生きていればいい、という嘘を信じてしまうなら、それは悪霊によって心が縛られている状態です。

悪霊は今も人々のうちに働いています。

イエスの時代、人々にとっては「悪霊は存在するのか、しないのか」ということが問題ではありませんでした。

人を神のもとから引き離そうとする霊が存在し、人を束縛し、時にそれは物理的な力を持って人に害を与えることが理解されていました。

その悪霊をイエスが追い出すことができる、という事実をイエスの主張を信じる人も信じない人も認めていました。

問題はその力の源がいったいどこから来たのか、ということでした。

イエスを信じる人たちは、それは神から来た、と考えました。

イエスを信じない人たちは、それは悪魔から来た、と考えました。

前前回、マルコの福音書3章6節で、イエスのことをよく思わないパリサイ人たちがイエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた、ということを見ました。

マタイの福音書によるとパリサイ人たちも、イエスはベルゼブルの力で、悪霊を追い出しているのだ、と言っていました。

そのように言えば、人々はイエスの言うことに耳を向けようとはしないだろうし、イエスは悪霊につかれている、と訴えて彼を破滅に導くこともできる、と考えたのではないかと思われます。

ヨハネの福音書10章では、人々がイエスを指して「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」という人たちと「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」という人たちに分裂したことが言われています。

イエスの主張はそれを聞いた人にある判断を迫ります。

すなわち、彼の言っていることは真実であるのか、それとも嘘、偽りであるのか、ということです。

1.3.偉大な宗教家?

バートランド・ラッセルと同じように無神論者でしたが、30歳の時にクリスチャンになったイギリスの作家でC・S・ルイスという人がいます。

ナルニア国物語の著者としても有名ですが、彼は言いました。

『単なる人間でありながら、イエスが語ったようなことを語った人物がいたとするなら、そのような人は偉大な道徳的教師ではないだろう。そのような人は精神病者---- 自分が半熟卵であると言う程度の-----であるか、地獄の悪魔かのどちらかであろう。あなたは自分の選択をしなければならない。この人が過去において神の子であり、また現在でも神の子である方か、それとも狂人か、あるいはそれよりも悪い者であるかのどちらかである。しかし、彼を偉大な人間的教師であるとして、彼を後援するというようなことを、われわれはしてはならない。彼はこの点において、われわれに疑問の余地を残しておくようなことはされなかった。』

イエスの事を偉大な宗教家、と呼ぶ人は普通、福音書のことをあまり知らないか、福音書はイエスの言葉を正しく伝えておらず、後にイエスを神と信じる人たちが勝手に作り上げたものである、と言います。

ですが、例えば今日の箇所ではイエスが、母マリアや兄弟ヤコブに対して「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」と言われたことが書かれています。

そして訳が正しければ、マリアもヤコブもこの時点ではイエスは気が狂ったと思っていたことが伝えられています。

初期の教会で多大な尊敬を受けていたこの二人に対してこのような話が記されるのは、それが事実であって、そのときそこにいて聞いていた弟子たちが、それを見たまま、聞いたまま伝えた、ということがもっとも適当な理解なのではないでしょうか。

2.「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう」

23節、「そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。」

人の作り話の中にはいろいろな悪魔が登場します。

ちょっと可愛げがあって人にいたずらする程度の悪魔や、邪悪で強力で神の天使でも手を焼くような悪魔など様々です。

ある物語の中では悪魔が悪魔同士で戦ったりしますが、それはどこまでいっても人の作り話で、聖書によれば、悪魔は常に同じ一つの目的のために働いてます。

すなわち、人を騙し、嘘を信じ込ませ、神に逆らわさせることです。

この目的のためにサタンは言わば一致団結して働いており、サタンが分裂して仲間同士で戦ったりすることは、僕の知る限り、ありません。

ですが、悪霊は人を騙す目的で人から悪霊を追い出すようにみえることを行うことが実はあると思います。

マタイの福音書7章には、イエスの名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇跡をたくさん行っていながら、それらは神のみこころでなかった人たちのことが言われています。

悪霊を追い出すことができても─そのように見えても─人を真実の神へと導くことがないのなら、それは偽りであり悪魔の欺きです。

悪霊を追い出すことができるようにみえても、それがすべて神のみこころによるものとは限りません。

ですが、イエスが悪霊を追い出すとき、彼が悪霊を滅ぼせるものであることが知られていたはずでした。

「すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。」

マルコの福音書1章23節から26節まで(新改訳聖書)

すなわちイエスと悪霊たちとが敵対していたことは、イエスが悪霊を追い出すところを見ていた人には明らかであったはずです。

もし、イエスを指して、彼は悪霊のかしら、ベルゼブルに取りつかれている、と言うのなら、それは悪魔同士が対立している、と言うことと同じです。

悪魔同士が対立することはない、と理解している人なら─おそらく律法学者やパリサイ人はそのように理解していたはずですが、もしそうなら─イエスが悪霊の力で悪霊を追い出している、ということがありえないことも認めなければなりません。

それなのに彼らは「イエスは、汚れた霊につかれている」と言いました。

それがなにを意味するのか、30節にて考えます。

3.「強い人の家に押し入って...」

27節、「確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。」

この節だけ読むと、まるでイエスが強盗の仕方を教えているようですが、もちろん23節に言われたとおり、これはたとえです。

すなわち、先に言われたことは単なる前置きで、この節こそがイエスが律法学者たちに言われたかった、たとえの中身であると僕は考えます。

さて、このたとえの意味はなんでしょうか?

このたとえは聖書に解き明かされていませんが、それほど難しいものではないと思います。

すなわち、強い人、とはサタンの事、家財を略奪する、とはサタンの所有となっていた人々を解放すること、そして強い人を縛り上げる、とはイエスがサタンに打ち勝っている、というようなことを意味すると思います。

旧約聖書にサタンは3回、名指しで記述されています。

一度目は歴代誌第一21章で、ダビデを誘い込んで罪を犯させました。

二度目はヨブ記で、ヨブを非難して神の許す範囲でヨブに災いをもたらしました。

三度目はゼカリヤ書3章で、イエスラエルの民を訴える者として記述されています。

ですが、これらのどの記述でも人はサタンに打ち勝つ権威を有していません。

人はサタンの力の支配下にいる者として描かれているのです。

確かに旧約聖書にも預言者が悪霊を追い出す記述があります。

例えばサムエル記第一16章ではダビデがサウルに取り付いた悪霊を追い出します。

しかし、サタンに打ち勝ったと主張する人は、僕の知る限り、いません。

イエスは、ここで自分はサタンにさえも打ち勝ったことを主張しました。

ここでもイエスは人には不可能な権威、神と等しい権威を持っていることを主張していると僕は考えます。

4.「人はその犯すどんな罪も赦していただけます」

28節、「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。」

バートランド・ラッセルはこの次の節の聖霊をけがす罪のことについてイエスを非難しましたが、イエスが共に告げた素晴らしい赦しのメッセージについてはなにも触れませんでした。

すなわち、人はその犯すどんな罪も神によって赦されることができる、というメッセージです。

この「神をけがすことを言う」とは原語では「冒涜する」ブラスフィメオという言葉が名詞と動詞と二回使われていて、直訳すると「どのような冒涜の言葉でもって冒涜することがあっても」と訳されます。

すなわち、ユダヤ人にとっては、神さえもけがすことを言ったとしても、と意訳されると思います。

当時のユダヤ人にとって、もっとも赦されがたいと考えられた罪は、神をけがすことを言うことでした。

その罪さえも赦される、どんな罪さえも赦される、ということです。

たとえどんなに悪い事を行ってしまったとしても、たとえどんなに汚れた思いをもってしまったとしても、たとえどんなに人を忌み嫌い憎んでしまったとしても、たとえどんなに神を無視してしまったとしても、たとえどんなに自分勝手に生きてきてしまったとしても、神は赦してくださると約束してくださいます。

あのとき怒りにまかせて言ってしまったことも、他人をうらやんでしまったことも、他の人を悪く思ったことも、神に対する感謝を忘れ、神を呪ったことも、神は赦してくださると約束してくださいます。

もしあなたが僕と同じように、したいと思う善いことを行うことができず、したくないと思う悪い事を行ってしまったのなら、この約束は、私たちを救う、素晴らしい救いの約束なのではないでしょうか。

5.「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず...」

今、どんな罪をも赦されます、と言いましたが、しかし、たった一つ、赦されない罪があります。

29節、「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

この聖霊を「けがす」という言葉もブラスフィメオ、冒涜する、逆らうことを言う、という言葉が使われています。

え、それはちょっとおかしくありませんか?

神を冒涜することは赦されて、聖霊を冒涜することは赦されないとは?

並行するマタイの福音書によれば、「人の子─すなわちイエス─に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」とも言われています。

神、イエス、聖霊が聖書で示されているとおり三位一体の神であるならば、神とイエスに逆らうことを言っても赦されて、聖霊に逆らうことを言うのは赦されない、とは確かに難解です。

5.1.なぜイエスはこのように言われたのか?

28節、29節を読めば、このような問題がこの箇所によって提起されていて、少なくともこの問題に納得のいく答えを与えない限り、自分はイエスの言葉の本意を理解したとはとても言えないはずなのに、バートランド・ラッセルがしたように29節だけを取り出して、イエスの言葉を非難することはフェアではないでしょう。

イエスのこの言葉を理解するヒントは、なぜイエスがこのように言われたのか、を理解することです。

すなわち、30節、「このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている。」と言っていたからである。」とあります。

この「言っていた」という言葉は、過去の行いを指すよりも、その時の状態の事を指しています。

すなわち、過去に一度、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言ってしまったからといって、その一度きりの行いのために永遠に赦されないのではありません。

また言葉で言うことだけが問題なのではなく、人がイエスのことをどう判断しているのか、ということが問題です。

これは今、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていて、これからも言い続けるのならば、あなたは永遠に赦されず、とこしえの罪に定められる危険にさらされている、という警告のことばです。

もしこれが警告ではなくって「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていた人たちが、すでに聖霊をけがす罪を犯していて、永遠に赦されないことを宣言することなのなら、イエスが23節で彼らをそばによんでまで、彼らに対してこのように言うことはあまり意味がないと思われます。

5.2.聖霊をけがす罪とは?

僕は21歳の時、人に裏切られる経験をしました。

人をそのとき本気で憎むようになって、初めて自分の心の醜さに気づかされました。

そうして自分で自分を赦せなくなった時、僕はイエスの救いのメッセージを聞きました。

ヨハネの手紙第一2章1節と2節、ヨハネは書きました。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、─私たちの罪だけでなく全世界のための、─なだめの供え物なのです。」

神はイエスの犠牲によってあなたのすべての罪を赦してくださいます。

もしあなたが神の赦しなど欲しくない、と言われるなら、それはいったい、なぜなのでしょうか。

聖霊に動かされた預言者、使徒の言葉を聞いたとき、あなたに、あなたの心に聖霊が働きかけているはずです。

聖霊をけがす罪とは、イエスの言葉を聞き、イエスの行いをみて、聖霊が人の心にイエスを受け入れるように働きかけているのに、そのはたらきに逆らって心を閉ざし、イエスなんて信じない、彼は悪霊につかれているのだ、と言い続けることです。

神が人を赦されようとしないのではなく、人が神の赦しを受け入れないので、そのような人が、とこしえの罪に定められます。

6.あなたはイエスの事を誰だと言いますか?

31節、「さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

イエスの主張は聞く人に判断を迫ります。

彼の言うことを信じないのなら、彼はきちがいか嘘つきであろうと判断するしかありません。

彼が行っていた奇跡が神からのものであると信じないなら、それは悪霊の仕業か、現代風に言うなら、そんな話は作り話だろうと判断するしかありません。

しかし、もしあなたがイエスの主張を認めて、彼を自分の神として彼に従うのなら、そのような人たちをイエスは自分の兄弟、姉妹、また母と呼ばれます。

あなたはイエスの事を誰だと言いますか?

祈りましょう。

もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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