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主の十二弟子たち

1.キリスト教ってなんですか?
1-1.人が平和に生きるために作り出した教え?
1-2.人が自由に生きることを妨げる教え?
1-3.神が人に与えた教え
2.キリスト教のもっとも大事な教えはなんですか?
2.1.神と人とを愛すること?
2.2.イエスによって罪が救われること?
2.3.イエスが復活したこと
3.イエスの復活前の十二弟子
4.イエスの復活後の十二弟子

5.十二弟子たちはどのようにして死んだか
6.あなたにも復活の希望がありますか?


1.キリスト教ってなんですか?

1.1.人が平和に生きるために作り出した教え?

お子さんのいる方はきっと、少なくとも一度は─もしくは四六時中ですか?─なにを子どもに教えようか、どうやって子どもに教えようかと頭を悩ませたことはないものでしょうか?

それは国語算数理科社会というような、学問的なことではなくて、この世界に生きることの意味や、他の人や他の生き物に対する尊敬や、なにが善いことでなにが悪いことなのか、道徳や倫理や精神面での教えの事を言っています。

例えばどうやって子どもに「お父さんとお母さんの言うことに従いなさい」ということを教えるでしょうか?

子どもは親のロボットじゃないんだから、そんなことを教える必要はない、なんて考える人もいますが、とりあえず、教えるべきだ、としてどうやって教えたらよいでしょうか?

「なおみちゃん、パパの言うことをよくきくんですよ」

「なんで〜?」

と聞き返されたら、なんと答えたらよいでしょうか?

「とにかく、親の言うことには従いなさい。従わなければおしおきです。」という人もいれば

「お父さん、お母さんに養ってもらっているんだから、言うことを聞かなければご飯抜きです」という人もいれば

「パパの言うことを聞いてくれたら、あのおもちゃを買ってあげるよ〜」という人もいます。

「お父さんとお母さんの言うことを聞かないと、お化けがやってきてなおみちゃんを食べてしまいますよ。」というようなことを言う人もいるのではないでしょうか?

時に、人はなにかの道徳を教えるためだったり、なにかの価値を教えるためだったり、時には、他人を自分の思うようにコントロールしようするためにといろいろな教えを作り出します。

ある人たちは実は宗教はそのようなもので、あるとき、もしくは長い年月をかけて人が社会で生きるための道徳などを教えるために作り出した人の教えである、と考えます。

基本的に、キリスト教もそのようなものだ、と考える人たちもいます。

「神」という存在を完全に否定して、この教えは人の作り出したものだ、という人もいれば、「神」という存在は認めつつ、しかし、新約聖書に記された教えは、キリストと呼ばれたひとりのユダヤ人を初め、その弟子たち、神に近づこうとした人たちが作り出した結局は人の教えである、と考える人たちもいます。

どちらにしてもおそらくは多くの人がこの、他の人を愛しなさい、ということを促す、キリストの教えを好意的に受け止めているのではないかと思います。

もちろん、宗教にのめりこまない、染まらない、度が過ぎない程度であるならば、でしょう。

1.2.人が自由に生きることを妨げる教え?

ところがある人たちは、宗教というものを、またキリスト教というものを、人が自由に、平和に生きることの妨げとなっているものだ、と考えます。

そのように考える人に会ったことはないでしょうか?

世界や歴史を見てみればそのように考えてしまう人たちがいることも無理ないことです。

例えば宗教を名目に神という言葉を使って戦争を正当化するときです。

例えば宗教を名目に人が選んだ生き方を外力で持って従わせよう、迫害しようとする時です。

それは実は宗教が悪い、というよりは宗教を使って自分のやりたいことを正当化しようとする人たちが悪い、ということのほうがより当てはまると思うのですが、表面的にとにかく、宗教というものはすべて悪い、という意見を持っている人たちもいます。

またそうでなくっても、例えば聖書が教えることが自分のやりたいことを禁じていた場合、自分がそうしたいと思うことが悪いのではなく、それを禁じる聖書の教えが悪いのだ、と考える人たちもいます。

例えば聖書は同性愛は神が意図した形の関係ではなく、盗むことやうそをつくことや姦淫することと同じように悪いことである事を教えていますが、そのような教えは人が自分の心に正直に自由に生きることを妨げている、と考えられていることです。

もし、聖書の教えは人が作り出した教えだとしたら、確かに究極的にそんな教えに従うことはないでしょう。

自分と教えを作り出した人とは根本的になんの違いもないのですから、もしその教えが自分に合わないのなら、自分で自分に合う教えを作り出せばよいからです。

1.3.神が人に与えた教え

果たして聖書は、人が作り出した教えなのでしょうか?

それとも神が人に与えた教えなのでしょうか?

イエスが人となった神であることを受け入れるクリスチャンは、イエスが神の言葉と認めた旧約聖書、イエスによって権威を与えられた使徒たちが記した新約聖書を、神が人に与えた神の教えであることも受け入れるべきです。

2.キリスト教のもっとも重要な教えはなんですか?

もちろんです、私はクリスチャンで、聖書は神が人に与えた教えであることを認めています、という方に、それでは質問をさせていただきたいのですが、キリスト教の─もしくはより正確には聖書の─もっとも重要な教えはなんだと思われますか?

オーストラリアで道行く人に聞いてみれば、平均的な答えは、それは十戒であったり山上の垂訓であったり主の祈りであったりするそうですが、あなたの答えはなんとなるでしょうか?

2.1.神と人とを愛すること?

それはもちろん、聖書にもあるとおり、「神と人とを愛することです」と答えられるでしょうか?

だってそうじゃないですか?マルコの福音書12章に書かれています。

律法学者がひとり来てイエスに「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」とたずねたとき、イエスは「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコの福音書12章29節から31節まで)と言われたではありませんか?

確かに神が人に与えられた命令でこの二つより大事な命令はほかにありません。

すべての命令が結局はこの二つの戒めに集約されるからです。

問題はこの命令が与えられた時、人はそれを完全に守ることができないことです。

私たちはこのたった二つの戒めを守りきることができない、と気づかされたとき、果たしてどうすれば良いのでしょうか?

2.2.イエスによって罪が救われること?

ですから、ある人たちはこの二つの戒めももちろん聖書の大事な教えですが、もっと大事な教えは、実は私たちが神に従えなかったことの罪はイエスが十字架で私たちの身代わりとなって罰せられたことによって赦されたことだ、と考えます。

聖書のもっとも大事な教えはヨハネの福音書3章16節である、という人も多いのではないでしょうか?

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

使徒パウロは第一コリント人への手紙1章23節で「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです」と言っています。

2.3.イエスが復活したこと

しかし、イエスによって自分の罪が赦され、神と再び正しい関係を保てるようになるという教えは、聖書のもっとも大事なメッセージの半分だけでしかないと僕は考えます。

使徒パウロによれば最も大切なこととして彼が人々に伝えたのは、イエスが私たちの罪のために死なれ、そしてそれだけではなく、三日目によみがえられたこと、と言われています。

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

第一コリント人への手紙15章1節から8節まで(新改訳聖書)

最も大切なこととして伝えたパウロのメッセージは、まず、聖書の示すとおりに、キリストが私たちの罪のために死なれたこと、そしてそれだけではなくてイエスが死からよみがえって弟子たちの前に現れたことです。

さて、マルコの福音書をずっと学んできました。

今日はイエスが十二弟子を任命する箇所を読みましたが、この十二弟子たちに焦点を当ててみたいと思います。

それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。またユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫ぶのであった。イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。

さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。

マルコの福音書3章7節から19節まで(新改訳聖書)

7節、「それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。」

前回の箇所で、イエスは自分を安息日の主であると宣言し、安息日に人を癒していました。

それをよく思わないパリサイ人たちがヘロデ党の人たちといっしょになって、3章6節、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めました。

マタイの福音書によればイエスはこれを知って、湖のほうへ退かれたと言われています。

7節後半、「すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。またユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。」とあります。

エルサレムの北にあるガリラヤを中心に北はツロ、シドン、南はユダヤ、エルサレム、イドマヤ、そしてヨルダンの川向こうとは東の地域を指して、あらゆる地域から人々がイエスのもとへと来ていたことが書かれています。

9節「イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、─新共同訳聖書では「群衆に押しつぶされない」ようにと訳されています─ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。」

ルカの福音書によれば「大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである」とあります。

福音書には自分の信じる力による癒しではなく、イエスの人を癒す力に依存する癒しが示されています。

ですが、イエスの第一の目的は人を癒すことだったでしょうか?

イエスはそのあわれみをもって、頼ってくる人すべてを癒されましたが、マルコの福音書の1章38節ですでに見たとおり、イエスの第一の目的は病気を癒すことではなくて福音を知らせることでした。

そのために弟子たちに小舟を用意させ、この小舟に乗ってイエスは4章で湖の岸辺にいる人たちに対してみことばを語られます。

11節、「また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫ぶのであった。イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。」

マルコの福音書では誰がイエスの事を「神の子」と呼ぶのかということが一つのテーマのようになっているように思われます。

福音書自体が「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉ではじまり、1章でイエスには天から「あなたは、わたしの愛する子」という言葉が聞かれます。

しかしそれから実に8章に至るまで、イエスの事を神の子、キリストと呼ぶのは汚れた霊につかれた人たちだけです。

汚れた霊が「あなたは神の聖者です」「あなたこそ神の子です」「いと高き神の子、イエスさま」と叫ぶたびに、イエスは汚れた霊たちが自分の事を知らせないようにときびしく戒めました。

イエスは人々が汚れた霊の言葉によってではなくイエスの言葉と行いによってイエスが誰であるのかを従う人たちに教えようとしたようです。

13節、「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」

ここで興味深いのは、イエスの十二弟子となる人は、自分で立候補してなったのではなく、イエスが望まれた者を呼び寄せた、ということです。

なぜ十二人なのか、福音書には説明されていませんが、十二という数字は旧約聖書で神がイスラエルの十二部族を自分の民として選んだことが思い起こさせます。

この十二弟子はマタイ、ルカの福音書によればまた十二使徒とも呼ばれました。

使徒、とは使わされた者という意味ですが、そのとおりに、彼らはイエスによって遣わされ、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出す権威を与えられました。

16節、「こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。」

3.イエスの復活前の十二弟子

イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダは除いたとしても、十二弟子たちはイエスに選ばれたものたちでしたが、この時点では決して模範と呼ばれるような人たちではなく、福音書には彼らの長所よりも短所のほうが数多く記されています。

福音書の率直な記述を見ると、十二弟子たちはカソリックの教会堂で見られるような頭の後ろで後光が差すような超人的な人たちではなく、ごく一般の人たちであったように思われます。

シモン・ペテロ

弟子たちの名前が続けて挙げられるとき、シモン・ペテロはいつも最初でした。

彼は十二弟子の中でリーダー的な存在であったと思われます。

マルコの福音書8章で見ますが、イエスが弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」とたずねたとき、ペテロが答えて「あなたは、キリストです」と言いました。

しかし福音書の中に記されている彼は、リーダーとしてはなんというか、おっちょこちょいなところがあった、というか、おっちょこちょいであったというか、そのような印象を受けます。

マタイの福音書14章でイエスが湖の上を歩くのを目撃した弟子たちはイエスを「あれは幽霊だ」と言っておびえてしまいます。

イエスが弟子たちに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と話しかけるのを聞いたペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と実に勇気ある言葉を口にするのです。

が、その後どうなりましたか?

彼は確かに湖の上を歩き始めましたが、風を見てこわくなり、沈みかけたので「主よ。助けてください」と叫びだしてしまいました。

マルコの福音書9章ではイエスがペテロとヤコブとヨハネだけを連れて山の上に上ることが書かれています。

そこでイエスの姿が変わって、旧約聖書のエリヤとモーセが現れ、イエスと語り合います。

ペテロはそれを見て「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」と言います。

あれは確かエホバの証人のことだと思いましたが、この言葉に基づいてどこかの山に三つの幕屋を作ったという話を聞いたことがありますが、なんでペテロはそんなことを言ったのでしょうか?

続く箇所には「実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである」と説明されています。

ヨハネの福音書13章で、イエスは弟子たちの足を洗いますが、ペテロは言いました。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。決して私の足をお洗いにならないでください。」

イエスは答えました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

そこでペテロは言いました。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

イエスはきっとこのとき微笑まれたと思うのですが、ペテロはその必要はないことを言われます。

そしてマルコの福音書14章ですが、イエスが十字架にかけられるとき弟子たちはつまずく、とイエスが弟子たちに告げたとき、ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言うのですが、はたしてどうなったでしょうか?

ペテロは三度、イエスを知らない、と否定してしまいます。

実にリーダーのペテロにこれだけの短所があるのだから、後の弟子たちは一体どうなってしまうのか、と思わされてしまいそうです。

ヤコブとヨハネ

ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネはどうでしょうか?

ヤコブとヨハネはペテロとアンデレの漁師の仲間でした。

彼らはイエスに「雷の子」というあだ名をつけられました。

ルカの福音書9章でサマリアの人たちがイエスを受け入れなかったとき、ヤコブとヨハネは「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」となんとも雷の子らしいことを言ったことが記されています。

もちろん、人を滅ぼすためでなく救うために来たイエスは彼らを戒めました。

またマルコの福音書10章で、ヤコブとヨハネはイエスのところに来て言います。

「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」

イエスは彼らに言われました。

「何をしてほしいのですか。」

彼らは言いました。

「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

彼らは弟子たちの中で一番と二番になりたかったようです。

イエスと共に生きて、イエスの教えを受けていましたが、彼らにとってイエスに従うということは、少なくともこの時点では、人の前に偉くなって権力をふるうことができるようになる、ということであったようです。

しかしイエスはこんな彼らを戒めて言いました。

「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」

ペテロ、ヤコブ、ヨハネはイエスと特に近い関係を持っていたようです。

マルコの福音書5章で見ますが、イエスが会堂管理者のヤイロという人の娘を死からよみがえらせた時、立ち会うことを許されたのはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけでした。

マルコの福音書9章、イエスが山の上でモーセとエリヤと会ったとき、連れて行った弟子たちはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけでした。

またマルコの福音書14章でイエスがゲッセマネで祈られるとき、近くまで来ることを許されたのはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけでした。

そのためか、後の弟子たちについては名指しで言動を記録してある箇所があまり多くありません。

アンデレ

アンデレはペテロの兄弟でもともとはバプテスマのヨハネの弟子でした。

ヨハネの福音書1章によれば、アンデレはバプテスマのヨハネがイエスのことについて証言するのを聞いて、イエスに従うようになりました。

アンデレはそしてまずペテロをイエスのもとへと導きます。

ピリポ

ピリポはペテロとアンデレと同じ町の出身で、ヨハネの福音書によればアンデレ、ペテロに続いてイエスに従ったイエスの弟子でした。

ピリポはヨハネの福音書14章でイエスに「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と言ったことで知られています。

バルトロマイ

バルトロマイ、とはトロマイの子、という意味で名前というよりは苗字に近いものだそうです。

ヨハネの福音書にはバルトロマイの名前がない代わりに、十二弟子たちに非常に近い関係を持っていたナタナエルという弟子がいました。

ナタナエルとピリポが近しい関係を持っていたので、おそらくはナタナエルとバルトロマイが同一人物であろうと言われています。

マタイ

マタイはマタイの福音書によれば人々に嫌われた取税人でしたがイエスに招かれ、なにもかも捨ててイエスの弟子となりました。

トマス

トマスはヨハネの福音書によれば「デドモ」すなわち「双子」というあだ名で呼ばれていましたが、なぜ「双子」と呼ばれていたのかはよく分かっていません。

イエスがよみがえられて最初に弟子たちにあらわれたとき、トマスは一緒にいませんでした。

ほかの弟子たちがトマスに「私たちは主を見た。」と言いましたが、彼は信じず、
「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言いました。

イエスの教えはとてもよいものだと思うけど、彼が死からよみがえった、などという奇跡は信じられない、という人たちのなかには、弟子たちはイエスが死んだことのショックが大きくて、精神状態が不安定になり、みんなで幻をみたのではないだろうか、などと言われることがあります。

先のパウロの言葉によれば、イエスは復活して500人以上の弟子たちに同時にあらわれた、とありますから、もし500人が同時に幻を見た、ということがあったら、それはイエスが復活したという奇跡よりもありえそうにない奇跡だと言えそうです。

そして弟子たちの中にはトマスのようによく言えばしっかりした、悪く言えば懐疑的な人もいました。

トマスも一緒にいるときに再び弟子たちの前にイエスがあらわれ、トマスに言いました。

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

アルパヨの子ヤコブ

アルパヨの子ヤコブはゼベダイの子ヤコブと区別するためにアルパヨの子、と呼ばれていると思われますが、十二弟子のリストに名前が載っていること以外には福音書にはなにも彼固有のことについては書かれていません。

タダイ

タダイ、という名前がマタイとマルコの福音書の十二弟子の名前のリストに挙げられていますが、ルカの福音書にはタダイという名前がなく、代わりにヤコブの子ユダという名前が挙げられています。

おそらくはタダイ─すなわち「愛される者」という意味だそうですが、それ─があだ名であろうと言われています。

ヨハネの福音書14章にはイスカリオテでないユダ、すなわちヤコブの子、ユダがイエスに「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」と言ったことが書かれています。

熱心党員シモン

ペテロと同じ名を持つもう一人のシモンという十二弟子は熱心党員と呼ばれ区別されていました。

一世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば、イエスの時代には確かに熱心党というユダヤ人の組織があって、このシモンはその党員であった、という可能性もありますが、律法などに熱心であることで、熱心党員と呼ばれたという可能性もあるそうです。

しかしこの熱心党員シモンも十二弟子の名前のリストに挙げられているだけで個人的な言動は記されていません。

イスカリオテのユダ

そしてイエスを裏切ったイスカリオテのユダです。

ヨハネの福音書によるとユダの父はイスカリオテのシモンと呼ばれていました。

このイスカリオテという言葉が正確になにを示すのかよく分かっていません。

おそらくはカリオテという土地の人、という意味ではないか、と言われています。

ユダはこのときイエスに選ばれ十二弟子に加えられますが、後にイエスを裏切り、そのことの重大さに気づいたとき、自殺してしまいます。

使徒の働き1章によれば、後にユダに代わってマッテヤという弟子が十二弟子に加えられました。

個人的な言動の記録されていない弟子たちですが、彼らはイエスによって理解の遅さを嘆かれ、信仰のなさを嘆かれ、祈ることもしないで悪霊を追い出そうとしたことを嘆かれました。

弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いかを論じ合い、ペテロと一緒に「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言っていましたが、イエスを捕らえにきた群集に取り囲まれるとみなイエスを見捨てて逃げ出してしまいました。

4.イエスの復活後の十二弟子

イエスが十字架にかけられたとき、イエスの十二弟子たちはこのような人たちでしたが、その40数日後に、彼らはエルサレムに立ってユダヤ人たちに向かい、イエスが神に定められた救い主であることを証言し始めました。

これはペテロの言葉ですが、これと40数日前の群集を恐れていたペテロと比べてみてください。

イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。ダビデはこの方について、こう言っています。

『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』

兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』

ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

使徒のはたらき2章22節から42節まで(新改訳聖書)

イエスの3年間の宣教によってこのとき120人が弟子となって集まっていましたが、この日、一日だけのメッセージで3000人が弟子として加わりました。

イエスを殺したユダヤ人の指導者たちは今度は弟子たちを捕らえて脅そうとしますが、弟子たちは全くひるみません。

使徒の働き4章18節、彼らは「いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」と弟子たちに命じましたが、ペテロとヨハネが彼らに答えて言いました。

「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」

こうして弟子たちは捕らえられても恐れず、釈放された後さらに人々にみことばを伝えます。

「彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

使徒の働き5章27節から32節まで(新改訳聖書)

イエスが十字架にかかったときはあんなにも臆病であった弟子たちを、なにがこんなにも大胆に変えてしまったのでしょうか?

それは復活したイエスに会ったからではないでしょうか?

5.十二弟子たちはどのようにして死んだか

イエスが死からよみがえるなどということが信じられない人は、イエスの復活の話は弟子たちが幻をみたのでなく、勘違いしたのでもなければ─五百人どころか12人、みながみな勘違いしたということは考えにくいですから─それは弟子たちの作り話である、と考えようとします。

すなわちイエスが死んだ後、弟子たちは集まって話し合い、イエスが復活したと言い広めようと合意した、ということです。

しかし、そんな話を広めることで彼らにいったいなんの益があるのでしょうか?

彼らはイエスが復活したということを人々に伝えるために自分の命をかけました。

使徒の働き12章には、十二弟子の一人、ヨハネの兄弟ヤコブがまず、ヘロデ王によって殺されてしまうことが記されています。

復活されたイエスがペテロに言いました。

「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。

ヨハネの福音書21章18節と19節(新改訳聖書)

初期のクリスチャンたちの手紙によるとペテロはローマで十字架にかけられ殉教した、と言われています。

後の書物や伝統によれば─それは必ずしも正確な情報でない可能性も大きいのですが─そのほかの弟子たちもみな自分たちが信じて伝えたことのために、殉教したことが伝えられています。

彼らにとってイエスが復活されたことは否定することのできない事実でした。

この事実が彼らにも復活の希望を確かなものとしたのです。

6.あなたにも復活の希望がありますか?

あなたには死は終わりではなくイエスが再びこられる時、死からよみがえる復活の希望があるでしょうか?

私はクリスチャンです、と言う人でも、イエスが復活したことも自分が復活することにも確信が持てない人がいます。

イエスの弟子たちがなにをしたのかをもう一度考えてみてください。

ある人たちは、今、この世界にどのようにして生きるべきかが問題であって、そんな死んだ後のことなんて重要ではない、と考えるようです。

しかし、自分の行く場所に確信を持たないで、なぜ、正しく今するべきことに確信をもてるのでしょうか?

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。─新共同訳では「わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と訳されています─

それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。もし私たちがキリストに本質のない希望、真実のない希望、復活のない希望をおいているだけなら、嘘の上に生きる私たちはすべての人の中で一番哀れな者たちです。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

第一コリント人への手紙15章12節から20節まで(新改訳聖書)

イエスは歴史的な事実として、物理的な肉体をもって復活しました。

それは収穫の最初の穂のようなもので、イエスに続いて私たちも復活することの希望を確かにします。

これはいろいろな困難のあるこの世界にあって、人が自分たちをなぐさめようと作り出した作り話というようなものではなく、神が人に確固たる証拠と共に与えた、この世界でどんな困難にあっても神に従い続けることを可能にする希望です。

あなたにも復活の希望があるでしょうか?

祈りましょう。

もし、今日、このよみがえられたイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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