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1.安息日って?
1-1.一般の考え方
1-2.旧約聖書の教えでは?
1-3.パリサイ人の教えでは?
1-4.新約聖書の教えでは?
2.「なぜ安息日なのに、してはならないことをするのですか」
3.「ダビデとその連れの者たちが...」
4.「人の子は安息日にも主です」?
5.「イエスは...心のかたくななのを嘆きながら...」
6.神の安息に入るには...
僕たちは今、Epping に住んでいますが、そこに引っ越す前は Epping から南へ25キロほどのところにある Riverwood というところに住んでいました。
僕の勤め先は Epping のほぼとなりのサバーブの Marsfield というところです。
今では天気が良くて、体の調子も良くて、時間があって、さらに気が向いたときには:)歩いて通勤していますが、Riverwood に住んでいた時には25キロを車で片道40分から交通渋滞のひどいときには1時間半ほどかけて通っていました。
もっとも車の中で聖書を聴いたり──聖書を朗読したテープやCDが売っていますね──メッセージのテープを聴いたりすることができて、聖書を学ぶちょうど良い機会となっていました。
さて、あるとき Lane Cove Road を南へと車で向かっている時、左手に教会堂らしい建物があることに気がつきました。
教会堂らしいといっても古めかしいタイプの建物ではなくてモダンな、しかしそれでもなんだか教会堂らしいというような建物でした。
そして教会堂の外には道路からよく見えるように看板がおいてあって、よくアングリカンの教会堂でも見かけるのですが、目を引きやすい短いキャッチフレーズが掲げてあります。
例えば
「一度しか生まれないものは2度死ぬ、2度生まれたものは一度しか死なない。」
というような感じですね。
そこの教会では、こういうフレーズを掲げていました。
「イエスは土曜日に教会に行きました。だから私たちも土曜日に教会に行きます。」
僕は運転中にそのフレーズを読んだのですが、前の車が近づいているのに、思わずブレーキを踏み損ないそうになってしまいました。
まあ、事故にはならなかったのですが、後で調べたところ、そこはいわゆるセブンスデー・アドベンチストに属する教会だったようです。
僕はこのグループについては全然知らなかったのですが、セブンスデー・アドベンチストの日本語のウェブサイトで、彼らの信条を見てみました。
そこには「セブンスデー・アドベンチスト教団は『聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会』です」とありました。
私たちも聖書を基礎とする、キリストの教えに習う者たちですね。
なるほど、それなら私たちと同じ理解をしそうですが、セブンスデー・アドベンチストによると「教会は、聖書の教えに従い、週の第七日を安息日として遵守する」とありました。
週の第七日とはすなわち、土曜日のことです。
例えばもし世界中からランダムに旧約聖書と新約聖書を合わせた聖書は人のメッセージではなく、神が人に与えた神のメッセージだと信じます、という人を10人集めたとしたら、どうなるでしょうか。
おそらく十人が十人ともいろいろな細かなことについて、もしかしたら大きなことについても、他の人とは少しずつ違う解釈の仕方をしていると思います。
ですが、 それはなにも不思議なことではないと思います。
文化の違いによって、経験の違いによって、感じ方の違いによって、知識の違いによって、私たちは同じ言葉を与えられても、受け取り方、解釈の仕方が違ってしまうからです。
問題は、それでは違う解釈をしたときに、どうするか、ということです。
ある人たちは、聖霊が働いて違う人たちに違う解釈を与えたのだから、人それぞれが同じ言葉を受け取って、感じるように理解すればよい、と考えます。
しかし、聖書自体が、第一コリント人への手紙1章10節ですが、聖書を信じる人たちが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保つようにと教えています。
聖書は自分の好きなように解釈すればよい、ということは決してありません。
ペテロはパウロの書いた手紙について次のように言いました。
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。─このこと、とは「主の忍耐は救いである」ということです─その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
第二ペテロの手紙3章15節と16節(新改訳聖書)
「主の忍耐は救いである」とは、神が未だ審判の日をもたらしていないのは、まだ救われていない人たちを救うためです、ということです。
この箇所で ペテロはパウロが神から知恵を与えられて手紙を書いた事を認めています。
「その手紙の中には理解しにくいところもあります」と言われています。もし、 聖書の言葉が理解しにくい、と思ったら安心してください。どうやら 使徒ペテロでさえ、パウロの手紙──すなわち聖書の一部──には理解しにくいところがあることを言っています。
「 無知な」とは新共同訳聖書では「無学な」と訳されています。
すなわち、神の言葉を学ぼうとしない人たちのことです。
そのような人たちは、自分で学ぼうとせずに、ある一人の先生と呼ばれるような人が言ったことに同意したかと思えば、すぐに別の先生と呼ばれるような人が言った違うことに同意したりして、心が定まっていません。
結果、聖書の箇所を読んで、自分の好きなように解釈し、本当の神の教えを知ろうとせずに、自分自身に滅びを招いています。
聖書を読んで、神が本当にこの箇所でなにを言っているのか、自分の好きなように、ではなく、著者の意図していることはなんであるのかを理解しようと努めることは、聖書を神の言葉であると信じるすべての人たちに必要なことであると、僕は思います。
さて、週の初めの日は実は何曜日なのでしょうか?
一週間は実は日曜日から始まります。
週の第七日の安息日とは土曜日のことです。
正確には私たちが金曜日と呼んでいる日の日没から土曜日の日没までです。
なぜなら旧約聖書、そしてユダヤの人たちの一日は日没から始まり日没に終わるからです。
ところが多くの人は普通、安息日は日曜日のことだと考えています。
それは初期のクリスチャンたちが土曜日ではなくイエスの復活した日曜日に定期的に集まるようになったからです。
使徒のはたらき20章7節には弟子たちが週の初めの日、すなわち日曜日にパンを裂くために、すなわち私たちのいう聖餐式のために集まった、とあります。
安息日とは普通、一週間に一日、仕事をしないで休むことを意味しますが、その教えは考えてみれば素晴らしい教えです。
もちろん、偽ってはならない、殺してはならない、盗んではならない、というような教えも良い教えで、そのような教えを守ることは結局、自分の最善となることですが、安息日を守って、その日は仕事を止めて体を休めなさい、という教えはまさに直接、自分が安らいで憩うための教えに他なりません。
僕の父は─そしておそらく今でもそうだと思うのですが─大変な勤勉家でした。
毎朝、5時半に僕と弟は起こされて父と聖書の学びをしました。
朝食を終えて6時半にはもう家を出て、1時間半かけて仕事場へ向かいます。
夜帰ってくるのは10時頃だったと思います。
僕たちが小中学生の時には土曜日は家にいて文書の翻訳などの仕事をして、午後には2時間くらい卓球を一緒にしてくれるのが楽しみでしたが、僕たちが高校生のころは土曜日も職場にいたようです。
日曜日の朝はもちろん教会に行きますが、日曜の午後そのまま職場に行くことも少なくありませんでした。
もちろん、それだけ働いてくれた父がいたおかげで、食べる物も着る物も住むところも教育のための費用ももなんの心配もせずに十分に与えられて育ったわけですが、やはり一言、言わせていただけるなら、一週間に一日くらい全く仕事をせずに夫婦で、家族で、休める日があったらよかったのではと、今では思うのです。
それが聖書に守るべき教えとして果たして与えられているか、与えられていないかに関わらず、一週間に一日、糧を得るための仕事、生活のための仕事からまったく解放されて家族と、友人と休むことができるとしたら、それは本当に素晴らしいことではないでしょうか?
ところが現在でも昔のユダヤでもこの安息日の教えを守ろうとした人はきっとなにかしらの難しさに直面すると思います。
例えば安息日など関係ない生き方をしている人たちは一週間毎日働いて、(7/6−1)で17%増しの収入を得ることができます。
アモス書の8章に「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが」と言ってユダヤ人の中に神に聴き従わない人たちがいたことが書かれています。
今日は安息日のことが話題になりますが、私たちには安息日についていろいろな切実な問いがあるかもしれません。
旧約聖書の時代、神の民として選ばれたユダヤ人には安息日を守って仕事をしないことが律法に与えられましたが、新約聖書の時代に生きるクリスチャンは今、同じように安息日を守るべきでしょうか?
安息日を守るべきだとしたら、安息日を土曜日ではなく日曜日とすることは本当に正しいことでしょうか?
私は他にどうしても仕事が見つからなくて、土曜日、もしくは日曜日に働かざるおえません。安息日を土曜日でも日曜日でもなく、一週間のほかのある一日とすることは正しいのでしょうか?
一週間に一度、丸一日仕事をしないというのはとても難しいです。毎日2時間休むことで一週間に一日、休んだことにはならないでしょうか?
日曜日に教会を休んで、例えば学校の行事に参加することは正しいことでしょうか?
例えば日曜日に教会の後、仕事をすることは正しいことでしょうか?
これらの切実な問いすべてに僕が今日、答えを与えようとするようなことは、残念ながらというべきか、幸いながらというべきか、しません。
正直に言って、僕自身、未だ確信の持てる答えを与えることができないからです。
ですが今日、まず心を砕いて、自分がどうしたいからとか、自分がどう教えられてきたからとか、という気持ちをおいておいて、神がこのことについて私たちになにを教えていてくださるのかを学びたい、という気持ちで一緒に聖書の教えを見ていけたらと思っています。
まずは旧約聖書の教えを見てみましょう。
旧約聖書では十戒を初め、神はユダヤ人に何度も安息日を聖なる日として守るようにと教えられました。
十戒における記録は以下の通りです。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。──それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
出エジプト記20章8節から11節まで
これは神がモーセを通してユダヤ人に与えた十戒の4つ目の戒めです。
ここではいくつかのことが理解されると思います。
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」
聖なる日とする、とはどういうことでしょうか?
「聖なる」を辞書で引いてみると「神聖な」と出ていました。
「神聖な」をさらにひいてみると「尊くて侵しがたいこと」「清浄でけがれのないこと」とありました。
確かにそういう意味もありますが、「聖なる」という原語のもともとの意味は、特別なことのために分けとって、他のものと区別することだそうです。
新共同訳では「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と訳されています。
すなわち安息日を神のものとして他の日と区別せよと言われていると思います。
その区別の仕方は、9節、「六日間、働いて」、10節、「七日目は仕事をしない」ことです。
9節、「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。」とあります。
仕事が終わらないから、仕事がまだ残っているから、ということは言い訳になりません。
6日間のうちに働いて、必要なことはその間に終わらせなければなりません。
10節、「しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」とあります。
自分が仕事をしない、なるほどそれは大変結構ですが、それではその間、誰が家の商売の世話をするのですか?そうだ、自分の子どもに代わりに働かせよう、ということにはなりません。そうだ、自分の奴隷に代わりに働かせよう、ということにもなりません。
10節、「あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も」仕事をしてはならないのです。
誰かが抜けているような気がするのですが、誰が抜けているでしょう?
あなたの妻はどうするのでしょう?
もちろん、あなた、と言われたとき、そこには当然、妻である人たちも含まれているのだと思います。:)
それはさておいて、ここではなぜ、そのように安息日を守ることが言われているのでしょうか?
11節、「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」
すなわち神がそのように6日間創造のわざを行い、7日目には休まれたからだ、と言われています。
ユダヤ人はこのように神に習うことで、他の民族たちと自分たちを区別してきました。
そしてそれは現在でも続いています。
しかし、旧約聖書では安息日には仕事をしてはならない、と言われているだけで、具体的にそれではなにをして良いのか、なにをしてはならないのか、すなわち、なにがいったい「仕事」なのかがほとんどまったく定められてはいませんでした。
それは当たり前のことであるようにも思えます。
すなわちなにが仕事となるのかは、個人個人で、また心の動機によって違うであろうからです。
例えば安息日に神に対する喜びのためにギターを弾くことはおそらく仕事ではありませんが、実は普段ギターを弾くことが仕事で安息日に練習するつもりでギターを弾くならそれは仕事である、というような具合です。
なにが自分にとって仕事であるのかは、普段の自分の仕事に、また心の動機によるもので、これを定義しようとすることにはあまり意味がないように思われます。
しかし、イエスの時代の当時の宗教指導者たち、とくにパリサイ人たちは、なにが仕事でなにが仕事でないのかをこと細かく規定したそうです。
彼らはまず仕事とみなされる39項目、すなわち種をまくこと、土地を耕すこと、刈り入れをすることなどなどを定めたそうです。
そしてさらに例えば刈り入れをすることとはどういうことなのかを細かく定めました。
しかしこのように彼らによって定められた仕事の内容は、あまりにも最初の神の意図とはかけ離れたものとなっていたようです。
これはあまりにもおかしくて本当なのかを是非調べたかったのですが、聞いた話によるとパリサイ人は安息日に鏡を見ることを禁止したそうです。
確かにある人たちにとって鏡を見ることは何時間もかかる大変な仕事を意味するかもしれませんが、なぜかというと、鏡を見て白髪があるのに気づけば誰でもきっとそれを抜いてしまいたくなる衝動に駆られて、抜いてしまうのならそれは仕事であるとみなされたからだそうです。
ある人たちは確かに神の教えに従いたくて、どの行為は仕事でどの行為は仕事でないのかを理解したかったかもしれませんが、しかし、そのように細かく定めることは多くの人にとって、より自分が宗教的であることを見せるためのパフォーマンスのために使われたか、そのように定めておいて実は抜け道を見つけて神の言葉に従わないようにするために使われたかでした。
このような考え方に対して、イエスはパリサイ人の偽善を責めたのでした。
それでは、新約聖書は安息日についてなんと教えているでしょうか?
僕の知る限り新約聖書には「安息日を守りなさい」という教えが言われていないように思えます。
これはもし違う考えをお持ちの方がいたら、是非、なぜそう思うのか聖書の箇所を示していただいて、そこから学びたいと願っていますが、もし本当に言われていないのだとしたら、これは大変に興味深いことだと思います。
例えば十戒で言われている10の戒めのうち、この安息日に関する4番目の戒め以外はほぼ新約聖書のどこかで繰り返し、イエスを信じるクリスチャンたちが守るべき教えとして言われていますが、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という言葉そのものは新約聖書にありません。
確かに福音書を読めばイエスが安息日には会堂に入って教えられたことがわかりますが、だからといってこれだけではクリスチャンたちも安息日に教会に行くべきだ、ということにはならないと思います。
茶化すつもりはありませんが、イエスが魚を食べたからと言って私たちも魚を食べるべきだとは言わないことと同じです。
イエスが安息日に会堂に行ったということだけでは、私たちが土曜日に教会に行くことへの理由にはならないと思います。
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
コロサイ人への手紙2章13節から17節まで(新改訳聖書)
13節、「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。」
旧約聖書の時代にユダヤ人は神の民として選ばれ割礼がそのしるしとして与えられましたが、イエスが来て旧約聖書は成就し、今ではイエスを信じたユダヤ人だけでなく、イエスを信じたどのような民族の人も救われることができます。
14節、「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」
最後の箇所はわかりにくいですが、イエスの十字架の死によってサタンはもやは私たちを訴える基礎がなくなり、彼らはさながら戦いに負けて力を失った者たちのようです。
16節、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」
ユダヤ人に与えられた過ぎ越しの祭りや新月の祝いや安息日のおきてはイエスが来られるまでの影のようなもので、イエスが来られてからそれはもはや守るべき教えではなくなった、ということが言われていると思います。
しかしそうは言っても聖書を読んで、安息日は今でも守るべき教えであると考える人がいます。
ローマ人への手紙14章5節にはこう書かれています。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」
安息日をまもろうとする人も、安息日はもはや守るべき教えではないと考える人も互いに相手を裁くべきではないとローマ人の手紙の14章に書かれています。
僕は初めに聖書を読んで解釈の違いがあるときには、一致した理解ができるように努めるべきだといいましたが、ある事柄については実に、違った解釈のままで互いを受け入れるべきであることが聖書には言われています。
さて、マルコの福音書を続けて学んでいるところでした。
ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った。
「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」
イエスは彼らに言われた。
「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」
また言われた。
「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」
マルコの福音書2章23節から28節まで(新改訳聖書)
23節、「ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。」
この麦畑はもちろん、イエスのものでも弟子たちのものでもなくて、誰か他の人の麦畑ですね。
日本的な考え方で行くと、他所様の麦畑で穂を摘むなんて道徳に反すると思われそうですが、これは実は旧約聖書によって正しく認められていることでした。
申命記の23章にはこう書かれています。
隣人のぶどう畑にはいったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。
隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。
申命記23章24節と25節(新改訳聖書)
すなわちぶどう畑や麦畑を持っているような人は、ひもじくなって食べ物が必要な人には分け与えるようにとの神の教えです。
ぶどう畑で人が満ち足りるまでぶどうを食べてもその量はたかが知れています。
また手で麦の穂を摘んでもその量は大したものではありません。
ですが、同時にこの教えは受ける人たちが悪用しないようにと、ぶどうをかごにとったり、かまをつかって麦を取ったりして、例えば他の人に売ったりするようなことのないようにと、してはいけないことも教えています。
もちろんこの教えの意図を理解しない人、または理解したいと思わない人は、例えばかごではなくてなべに入れたら良いのか、とかかまではなくてヤンマーバインダーならいいのか :)とかいう言い訳をし始めるわけです。
ここと並行するマタイの福音書によると、弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた、とあります。
24節、「すると、パリサイ人たちがイエスに言った。『ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。』 」
パリサイ人たちは弟子たちが他人の畑で麦を摘んでいることを非難したのではなく、麦を摘んだのが安息日であったことを非難しました。
25節、「イエスは彼らに言われた。『ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。 』 」
このことは第一サムエル記21章に書かれています。
旧約聖書の神の宮にはいつも十二個のパンが備えてあって安息日ごとにそれは新しいものととり換えられ、古いものは祭司だけが食べるようにとレビ記に言われていました。
ところがダビデはサウルにいのちを狙われ、追われて食べ物にも困った時に、宮に入り、祭司に願ってこのパンを食べたのでした。
ここではいくつかの解釈がされています。
その最たるものは、人が窮乏しているときには安息日の教えや宮の供え物の教えなどを超えて、その窮乏を満たすことが正しいことである、という解釈です。
確かに、ユダヤ人にとって神が定めたように安息日を守ったり祭壇の儀式を守ったりすることは神の前に正しいことでしたが、儀式を守るだけで人に対するあわれみを失ってしまっていたりしてはまったく正しくありません。
もし私たちに当てはめるなら、教会に集ったり献金をしたりすることは確かに神に喜ばれることですが、それによって家族や他の人に対する愛を忘れていたりしてはまったく意味がありません。
ここと並行するマタイの福音書には、イエスがさらに「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」と言われています。
もう一つの解釈は、神に選ばれた王となるべきダビデが、あのとき神に導かれて宮で祭司以外には禁じられていたパンを食べることができたように、神の子であるイエスと彼に従う弟子たちは安息日の戒めを超越することができる、という解釈です。
マタイの福音書でイエスはさらに言われました。「また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」
すなわち、安息日ごとに祭司たちはささげものをするという「仕事」をしていましたが、それは律法によって正しいこととされていました。神の子であるイエスは、人の手で作られた宮よりも偉大なものであり、彼の前でイエスに仕えるという「仕事」をしている弟子たちは安息日に定められたことを冒しても罪にならない、ということです。
この両方の解釈が当てはまるように僕には思えます。
27節、「また言われた。『安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。』」
ここで「人の子」という言葉を人間一般に当てはめて、人は安息日の主である、という解釈をする人たちもいますが、イエスが人の子と言われた時にはいつも自分のことを指しているということがもっとも適当あって、そのような解釈は当てはまらないと思います。
新共同訳聖書では最後の文は、「だから、人の子は安息日の主でもある。」と訳されています。
すなわち、安息日は人間のために設けられたのであり、その人間の主であるイエスは安息日の主でもある、という主張です。
安息日を定めたのは誰だったでしょうか?
神が安息日を定め人に与えました。
その神の定めた安息日の自分は主であると主張することは、あたかも自分が神と同格であるかのような主張です。
安息日に人を癒されたイエスをユダヤ人たちは迫害しましたが、そのユダヤ人たちに対してイエスは ヨハネの福音書5章17節で
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
と答えました。「このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった、イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神をご自分の父と呼んでおられたからである 」(ヨハネの福音書5章18節)と書かれています。
人の子は安息日の主である、という言葉によって、イエスは自分が神と等しいことを主張したと、僕は考えます。
イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
イエスは手のなえたその人に、
「立って、真中に出なさい。」
と言われた。それから彼らに、
「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」
と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、
「手を伸ばしなさい。」
と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。
マルコの福音書3章1節から6節まで(新改訳聖書)
1節、「イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。」
イエスは実は1章ですでに安息日に会堂で汚れた霊を追い出すという「仕事」をしていました。1章の21節から26節です。
そのときはイエスが安息日に人を癒されることは誰にもとがめられませんでしたが、イエスが自分は安息日の主であるという主張をしてから、パリサイ人たちはイエスを訴えようとやっきになったようです。
安息日に何をしてよいのかの教えは実は教派によって様々でした。
聖書にはっきりと禁じられている行為は別としても、他の教派の人が自分が正しいと考える安息日の教えに従わなかったからと言ってすぐに殺意を持つようなことはなかったようです。
しかしパリサイ人たちはイエスに対してはあからさまな敵対心を持ちました。
この理由もやはり、イエスの自分は安息日の主であるという主張にあると思われます。
3節、「イエスは手のなえたその人に、『立って、真中に出なさい。』と言われた。それから彼らに、『安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。 』と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、『手を伸ばしなさい。』と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。」
この「怒り」という言葉はこの福音書ではここだけに用いられていますが、聖書のほかのほとんどの箇所では神の怒りという意味で用いられています。
この怒りは自分勝手なものではなくて、悪に対する正義の怒りです。
パリサイ人たちは善を行うことと悪を行うことのどちらがよいことなのか、いのちを救うことと殺すこととどちらがよいことなのかさえ、答えることができなかったのです。
安息日の教えを与えられた神の本当の意図も理解しようとしないで安息日にはとにかくなにもしてはいけないという自分の考えを変えようとしない、かたくなな心、神が旧約聖書で約束されたとおり、人の救いのためにイエスとしてこの地上に来られたことをまったく理解しようとしない、かたくなな心をイエスは嘆きました。
6節、「そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。」
ヘロデ党という単語は聖書に3度しか出ておらず、聖書以外の文書からもどういうグループだったのかあまり分かっていないそうです。
しかしその名前からユダヤの王家、ヘロデの家族を支持するようなグループであっただろうと思われます。
ヘロデ党の人たちもイエスが邪魔であったのか、それともパリサイ人たちが自分たちの目的を達するために当時の権威者であったヘロデを支持するグループに近づいたのかは定かではありませんが、ローマに従うヘロデを嫌っていたパリサイ人がヘロデ党と組んだという記述は、イエスに対する敵対心の強さを示しています。
安息日にイエスは人を癒しましたが、パリサイ人はおそらくはその日の安息日のうちに、悪を行い、イエスを殺すことの相談を始めました。
人はこのように悪を行いましたが、神はその人の悪までも用いて、ご自分のご計画を成就させました。
すなわち、後にイエスは彼らによって訴えられ、十字架につけられ、殺されますが、それは神の計画のうちにあることで、神は私たちの罪を私たちの代わりにイエスに負わせて十字架の上で彼を罰っすることによって、神が私たちの罪を赦してくださるという救いをもたらすことでした。
最後にもう一度、なぜ神は安息日の教えを定めたのかを考えたいと思います。
それはユダヤ人にとっては彼らが他の民族とは違う、神に選ばれた民であることを示すためでした。
実践的には一週間に一日休んで憩うことができるためでした。
しかしそれはまた同時に、人が生きるということは働いて働いて働いて労苦することだけで終わってしまうことではないことを教えるためでした。
すなわち神が創造のわざを終えた後、安息にはいられたように、私たちもまたいつか、この世界の労苦から解放されて神の安息にはいることができることを思い起こさせるためです。
こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
信じた私たちは安息にはいるのです。
「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、
「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」
と言われました。そして、ここでは、
「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、
「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」
と語られたのです。
もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙4章1節から16節まで(新改訳聖書)
1節、「こういうわけで」
すなわち、神はユダヤ人に神の安息を与えると約束しましたが、ユダヤ人は信じ従わなかったために、神の安息に入れなかったので、
「神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」
2節、「福音を説き聞かされていることは、私たちも(ユダヤ人である)彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」
私たちもユダヤ人も神の言葉を聴きました。
しかし神の言葉を聴いてもそれに信じより頼まないのならばなんの益にもなりません。
3節、「信じた私たちは安息にはいるのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。』と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、 『そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。』と言われました。そして、ここでは、『決して彼らをわたしの安息にはいらせない。』と言われたのです。」
ユダヤ人は3500年前、エジプトを出て40年間荒野をさまよったのち、約束の地カナンに入りました。
ところがカナンはイスラエルにとって最終的な神の安息の地ではありませんでした。
なぜなら、ダビデは詩篇の95篇で
「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」
「もし心をかたくなにするのならば、神はあなたを神の安息にはいらせない」と警告したからです。
6節、「こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を『きょう。 』と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。」
ユダヤ人はヨシュアに指導の下、カナンの地に入りましたが、
8節、「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」
ところが今でもユダヤ人は私たちと同じように神が人に与えたこの世界での労苦を続けているのです。
11節、「ですから、私たちは、この安息にはいるよう─この安息とはこの世界でのすべての労苦から解放される神の安息、すなわち天国のことです─力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」
12節、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
神の言葉を聴いた時、私たちの心が霊が突き刺されるはずです。
13節、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」
神は私たちの行いも心のすべてもご存知です。
もし自分のことをよく知っているのなら、この神の前では私たちは自分が正しいことを主張することができません。
ですから私たちはイエスに頼るのです。
14節、「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」
イエスは私たちの罪のあがないをする、神と私たちの間に立つ大祭司です。
15節、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
今日、神があなたになにをするべきかを神の言葉によって示しているのなら、心をかたくなにしてはなりません。
神はこのイエスによって私たちを救うと言っておられます。
祈りましょう。
もし今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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