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1.なぜ人は断食するのですか?
1-1.一般の考え方
1-2.旧約聖書の教えでは?
1-3.パリサイ人の教えでは?
1-4.何のために断食するのですか?
1-4-1.人にみせるための断食?
1-4-2.断食をすることによって自分が霊的に成長する?
1-4-3.断食をすることによって神が自分の願いを聞いてくださる?
2.「あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか」
3.「花婿といっしょにいる時は、断食できないのです」
4.真新しい布切れと古い着物、新しいぶどう酒と古い皮袋
5.イエスは新しい契約をもたらす
僕が普段日曜日に集う FOCUS では6つの E というモットーを掲げています。
Evangelism - 福音を伝えること。マタイの福音書28章19節でイエスは言われました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」
Edifying - 日本語に訳すのが難しいのですが、まず第一に互いに霊的に成長するために教えあうこと。
そしてその目的は一人一人が成長してそれで終わりではなくて、教会全体として建てあげられること。
すなわち edify という言葉には建物を建てあげるという意味があって、教会堂という建築物ではなくて、イエス・キリストを礎としたクリスチャンの集まりとしての教会を建て上げることを意味します。
第一テサロニケ人への手紙5章11節「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」
第一コリント人への手紙14章12節「あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。」
Encouraging - 励ましあうこと。
ヘブル人への手紙10章25節「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」
Equipping - いろいろなものを装備して準備することですが、福音を伝えること、互いの霊的成長に役立つこと、励ましあうことのために聖書によって訓練されること。
第二テモテへの手紙3章16節と17節「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
Exporting - 輸出すること。
FOCUS に来た人たちは、福音を伝えること、互いの霊的な成長のために教えあうこと、励ましあうことの訓練をしますが、そのように整えられたクリスチャンたちを今度は他の国、他の教会に輸出することをモットーとしています。
そして最後の E は?
実は Eating - 食べること、の E です。
僕たちは子供が生まれてからなかなか気軽に加われなくなってしまったのですが、FOCUS に来る人たちは大抵、食べることが好きで、日曜日はバイブルスタディの後に大学の周りにある安いレストランにグループでランチに行くのが常となっています。
8年ほど前の話になりますが、あるときそのようにみんなでランチに行きました。
10人くらいのグループだったのですが、そのときは各自、自分の食べたいものを選んでオーダーするという形で注文しました。
そこに新しくマレーシアから来た留学生がいて、僕の隣に座っていました。
メニューを見てなかったみたいなので「なにを食べるの?」と僕が聞くと、その留学生は「いや、断食中だから食べないんだ」と答えました。
少し太めの男の子だったので、僕が「つまり、ダイエット中?」と聞くと、「いや、霊的成長のために定期的に断食しているんだ」と答えました。
そのとき生まれて初めて、霊的成長のために断食するという人とテーブルを一緒にしたわけですが、僕はなぜかつい「それなら僕も食べないことにしよう」と料理をすでに注文してしまった後にもかかわらず言ってしまいました。
その留学生の右隣には南太平洋にあるトンガという国から来た、さらに体の大きな黒人の留学生が座っていたのですが、彼は逆に「それなら僕がはじめの分も食べてあげよう。」と言って本当に二人分の昼食を食べてしまいました。
彼は今、トンガの神学校で先生になっていますが、さて、断食、とは一体なんでしょうか?
断食をすることは果たして霊的な成長に役立つのでしょうか?
いろいろな理由で人は断食をします。
あるときは病気の治療法方として断食が用いられます。
百科事典からすこし引用しますと断食療法とは
疾病の治療や肉体改造の目的で一定期間食物を断つ民間療法の一つ。断食は古来、重要な宗教行為として世界の諸宗教に広くみられるように、宗教的色彩の濃いものである。これに対して絶食というのは比較的新しい用語で、おもに医療行為として行われる場合に使われる。すなわち、絶食は食事療法や検査の前処置として行われるほか、ソ連では主として精神病患者に、欧米では肥満症の治療に用いられ、日本では心身症の治療に応用され、注目されている。
とあります。
断食が日本では心身症の治療に応用されている、とは僕は知らなかったのですが、前回クリスマスに日本に戻った時、体脂肪分を測る体重計で量ったら、僕は体脂肪分30%の肥満型と診断されたので、絶食とはいわないまでも、節食に心がけなければと今は切に思わされています。
病気の治療でなく、自分の意思を認めてもらうための行為、いわゆるハンガー・ストライキという理由で断食する人もいます。
少し前になりますが、オーストラリアでは違法入国者収容所に入れられた人たちがハンガーストライキを行いました。
宗教的な理由としては、神に自分の願いを聞き入れてもらうためや、自分の霊的な意識を高めることを目的として行われる場合があります。
「断食」とはすべて、食べ物を食べないことで、水は飲む場合が多いですが、時には食べ物だけではなく、すべての飲み物も、さらには自分のつばさえも飲み込まないことを意味する場合もあるようです。
食欲、を制御しようとすることは普通、大変な精神力が必要です。
もしかしたらそれは単に不可能である、と思っている方もおられるかもしれません。
僕もそのうちの一人です。
そのような精神力を備えた人を、僕たちは直感的に、それはなにか人並み外れた、なにか神に近いような人であると思ってしまうかもれません。
そのようなわけで、世界の様々な宗教では、断食が必ず守らなければならない教えとなっていたり、そうでなくても崇高な行為として薦められていたりします。
しかし、聖書はなんと教えているでしょうか?
旧約聖書に目を向けると、そこにはいろいろな理由で断食をした人たちの記述があることが分かります。
例えばダビデ王は自分とバテシェバの子どもが病気になって死にそうな時、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏して、子どもが死なないようにと神に願い求めました。
神に願い求める時、人々は断食をしたのです。
しかし断食はそれをすることによって、なにか神が特別に人を哀れみ、祈りを聞いてもらえるようになる、ということではありません。
むしろ神に願い事があって、食事をしている時間もないほどに、神に祈ったことの結果です。
またサウル王が死んだ時、ダビデとダビデの家来たちは断食をしました。
誰かが死んだ時、戦いに負けたとき、大きな悲しみがあったとき、人々は断食をしました。
しかし断食はそれをすることによって、なにか自分にも苦しみをもたらして、死んだ人たちや苦しんだ人たちと痛みを分ち合おうとしたのではありません。
むしろ悲しみがあまりにも大きいので、食事をすることもできなかったことの結果です。
聖書の神──すなわちただ一人、真実の神──が律法として、「あなたは断食をしなければならない」と言ったことは、実は僕の知る限り、一度もありません。
以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。
レビ記16章29節から31節まで(新改訳聖書)
この前後の箇所を読めば、罪がきよめられるのは身を戒めて安息を守ったから、ではなくて、祭司によって罪のためのいけにえの雄牛がささげられたからであることが分かります。
身を戒め、安息を守るのは罪のあがないが成されたことに対する応答です。
ユダヤ人たちは一年に一度、このようにして「購いの日」を守り、それは現在でも続いているそうです。
この「身を戒める」という言葉は新共同訳では「苦行する」と訳されています。
原語のヘブル語の直訳は「あなたのたましいをへりくだりさせる」という意味だそうです。
伝統的にこれが、断食をすることも含まれていると解釈されていますが、もちろん単に外面的に食べ物を食べなければ良い、という意味ではなくて、自分のたましいをへりくだらせて、自分の罪の贖いを思うのなら、その日は食事をすることのないほど、思いをはせる日である、ということであるはずです。
もし神が言われたことに、この日には必ず「断食する」という意味も含まれるのだとしたら─僕は必ずしもそうは思わないのですが、もしそうだとしても─それなら断食は一年に一日だけ、律法として与えられていました。
ところがパリサイ人はどのように教えていたでしょうか。
パリサイ人はその時代の宗教的な指導者で多くの人たちに尊敬されていました。
その尊敬を集めていた理由の一つが、週に二回の断食です。
イエスの例えにでてきたパリサイ人の祈りを覚えているでしょうか?
神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。
聖書外の記録によるとパリサイ人は一年に一度どころか月曜日と木曜日に断食をしていたそうです。
ですが、彼らは一体、なんのために断食をしていたのでしょうか?
イエスは言われました。
断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。しかし、あなたが断食する時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。
マタイの福音書6章16節から18節まで(新改訳聖書)
イエスはパリサイ人を偽善者たち、と呼んでいました。
それは彼らがうわべでは神のために生きているようにつくろいつつ、自分のために生きていたからです。
彼らは神のために断食すると言いつつ、そのように神のために生きると見せかけつつ、実は人の尊敬を集めようと断食をしていました。
そのような断食はもちろんクリスチャンにふさわしくありません。
また、ある人たちは、断食をすることによって自分が霊的に成長する、と考えます。
確かに断食をすることによって身が引き締まったり精神が研ぎ澄まされたりすることはあるかもしれません。
しかし、断食すること自体は、霊的な成長には無関係です。
もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、 「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。
そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
コロサイ人への手紙2章20節から23節まで(新改訳聖書)
断食をする、という行為は世界のいろいろな宗教において、大変に崇高な行為であると思われています。
しかし、上の聖書の言葉によれば、そのような肉体の苦行は「賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないものです」と言われています。
断食をすること自体に、霊的に成長を促す力はありません。
むしろクリスチャンは聖書の言葉を用いて互いに教えあうことによって、霊的に成長するべきです。
また、ある人たちは、断食をすることによって神が私の願いをより聞いてくださる、という思いをもつようです。
これはなにも断食にかぎったことではありません。
例えば朝4時に起きて3時間祈ること。
例えば自分の大好きなお菓子を食べないでいること。
例えば献金をたくさんすること。
例えば教会の奉仕のために時間を費やすこと。
なんでも良いのですが、何かをすることによって、神が自分の祈りをより、聞いてくださる、という思いは果たして正しいのでしょうか?
この世界では何かを得るためには何かを与えなければならない、ということが原則のようになっていて、神に対しても同じように、自分の願いが聞き届けられるためには、なにか自分が事を成さなければならない、と思ってしまうかもしれません。
しかし、神は私たちが断食をしてもしなくても、私たちが神に頼るのなら、私たちの祈りを聞いていてくださいます。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
ピリピ人への手紙4章6節と7節(新改訳聖書)
断食などしなくても、私たちが神に頼り祈るのなら、神は私たちの願い事を聞いてくださいます。
ですがそれは必ずしも神が私たちが願った通りをかなえてくださるということではなく、私たちの願いを聞き、なおかつ、神が私たちの最善のためにと選んだ結果を待ち望むことです。
それでは、私たちは断食するとしたら、一体なんのためにするのでしょうか?
断食することは私たちに相応しいことなのでしょうか?
今日の聖書箇所を見て見ましょう。
ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」
マルコの福音書2章18節(新改訳聖書)
人にみせるために断食していたパリサイ人たちは問題外としても、新約聖書には正しく神を信じる人たちが断食していたことも記録されています。
例えばルカの福音書の2章に書かれていますが、断食と祈りをもって宮で神に仕えていた女預言者アンナ、使徒のはたらきに記録されている使徒たち、そして、バプテスマのヨハネの弟子たちです。
ですが、先ほど見たように、僕の知る限り、旧約聖書には「定期的に断食をしなさい」という神の言葉はありません。
例えが本当に正しいかどうか、まだちょっと確信が持てないのですが、例えば私たちクリスチャンがいわゆるデボーションもしくは静聴のときと呼ばれる時間を毎日持つことが良いとよく言われたことがありました。
簡単に言えばそれは毎日、一人になって聖書を読んで祈り学んだことを反芻することですが、そのようなときを毎日行いなさい、とはもちろん聖書に書かれていません。
また、それを行わなければクリスチャンではない、ということでもありません。
デボーションによってクリスチャンがもっと神の事を意識して、神の言葉に従うことに役立っている場合があるように、神を信じるユダヤ人にとっては、食べ物を食べないで祈るという行為が、自分を神の方へと向けることに役立っていたのではないか、と考えます。
ですが、イエスの弟子たちは断食していませんでした。
ヨハネの弟子とパリサイ人たちにはそれが不思議だったのか、彼らはイエスのもとに来て言いました。
「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」
イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。
マルコの福音書2章19節(新改訳聖書)
日本でもオーストラリアでも当時のユダヤでも結婚式は盛大なお祝いの日です。
花婿の友達が花婿のところにやってきて言いました。
「おめでとう」
花婿が答えます。
「ありがとう。今日はたくさん食べてってよ」
ところが友達は言いました。
「いや、断食中だから食べられないんだ。」
そんな場違いなことがあるでしょうか?
お祝いをしているのに断食はできません。
それは当たり前のことですが、それでは結婚式の時に断食が適当でないことと、イエスの弟子たちが断食しないこととはどのようにつながるのでしょうか?
次の聖書箇所を考えてください。
その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。 ─ ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである。─
それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。
彼らはヨハネのところに来て言った。
「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」
ヨハネは答えて言った。
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。 あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
ヨハネの福音書3章22節から30節まで(新改訳聖書)
上の箇所から、 バプテスマのヨハネの弟子たちが、イエスは神の子であるとヨハネが証言したことを知っていたことが分かります。
また、ヨハネ自身は花婿のことばに耳を傾けている友人で、花婿はイエスであることもこの箇所で言っています。
イエスは信じる者に喜びをもたらす花婿です。
その花婿が一緒にいる間、私たちは喜びで満たされるのです。
断食は適当ではありません。
マルコの福音書に戻りましょう。
しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。
マルコの福音書2章20節(新改訳聖書)
花婿が取り去られる時、とはいつのことでしょうか?
福音書を読んでいけば、これはイエスがパリサイ人たちに訴えられて、人々に連行され、処刑されることを暗示していることが思わされます。
福音書には書かれていませんが、その日にはおそらく弟子たちは悲しみのあまり物を食べることもしなかったかもしれません。
だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。
マルコの福音書2章21節と22節(新改訳聖書)
僕は自分の服の継ぎをするということは小学校の家庭科の時間に習った限りなのですが、現在ではどうなのでしょう?
新しい布切れで古い着物の継ぎをすると破れはもっとひどくなってしまうのでしょうか?
当時の真新しい布切れは時間がたてば縮んでしまい、古い着物の継ぎをそのような新しい布切れですれば、古い着物を裂いてしまったでしょう。
また当時、ぶどう酒はヤギの皮袋に入れたそうです。
新しい皮袋は柔軟で伸びることができて、新しいぶどう酒が発酵して出すガスに対しても破裂してしまうようなことがありませんでした。
ところが古い皮袋はそのような柔軟さがなくなって、ガスが一杯になれば破けてしまったようです。
イエスのこの言葉を聞いて、なるほど、そうか、古い着物の継ぎは古い布切れでやらなきゃダメだなぁとか、新しいぶどう酒は新しい皮袋を用意しなきゃダメだなぁとかいうことではもちろんありません。
イエスは聞く人になにを教えているのでしょうか?
この箇所までで「新しい」と言われたのは、マルコの福音書1章27節のイエスの「新しい」教えだけです。
すなわち、この例えは、イエスの新しい教えを受けるためには、古いままの考え方では不可能である、ということが言われているのだと思います。
ユダヤ人たちは旧約聖書から律法を守ることによって神に義と認められると教えられました。
しかし律法は結局、自分がそれを守りきることのできない罪人であることを教えることが本当の目的でした。
ローマ人への手紙3章20節にはこう書かれています。「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」
またユダヤ人たちは旧約聖書によって自分の罪の贖いのために動物のいけにえをささげることを教えられました。
しかしその教えは罪のあがないのための動物のいけにえによって自分が真にきよめられるのではなく、自分の罪は誰かの死をもってあがなうしかないことを教えるためでした。
ヘブル人への手紙9章22節「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」
私たちには旧約聖書の教えがなかったので、自分が古い考えに捕らえられた、古い着物であったり古い皮袋であったりする危険性がない、と考えられるかもしれません。
しかし、自分は他の大勢に比べてずっとまともな生活をしているのだから、とか、自分はこれだけ一生懸命頑張っているのだから、とか、神の前に自分が罪人であることを認めずに、自分が正しいことを神に主張しようとするなら、律法を守っています、ささげものをしています、と神に言って義と認められなかったパリサイ人と同じです。
古い考え方のままではイエスの新しい教えは受け入れることができません。
上で 僕は、古い考え方がイエスの教えを受け入れられない、と言いましたが、これは旧約聖書の教えがイエスの教えを受け入れられない、ということではありません。
マタイの福音書5章17節、イエスは言いました。「わたしが来たのは律法や預言者─すなわち旧約聖書─を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」
旧約聖書はイエスが来られて、新しい教え、新しい神との契約をもたらすことを預言していました。
旧約とは古い契約のこと、新約とは新しい契約のことです。
見よ。その日が来る。─主の御告げ。─その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。─主の御告げ。─
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。─主の御告げ。─わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。─主の御告げ。─わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。
エレミヤ記31章31節から34節まで(新改訳聖書)
古い契約は廃棄されたのではなく、成就して、旧約聖書で預言されたとおり、イエスが新しい契約をもたらしました。
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
食事の後、杯も同じようにして言われた。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」
ルカの福音書22章19節と20節(新改訳聖書)
贖いの日にユダヤ人たちは身を戒めて、なにも食べずに自分の罪の贖いを思いましたが、クリスチャンたちは十字架にかかって私たちの代わりに神の罰を受けたイエスを思いつつ、ぶどう酒とパンを味わいます。
新約聖書には「祈りなさい」とは言われていても、「断食をしなさい」とは一度も言われていません。
イエスが来られて、私たちに永遠の罪の赦しと永遠の喜びをもたらしてから、霊的な断食はもはや相応しくないからです。
古い教えにとらわれたまま、ということはないでしょうか?
人々は断食をしたり苦行をしたりして神に近づこうとしますが、そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
イエスの言葉に耳を傾けてください。
イエスは私たちの代わりに死ぬことによって、私たちの罪の罰を受け、私たちが再び神と共に生きられるようにと、道を開いてくださいました。
祈りましょう。
もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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