| Prev | Next | Go Up | English Page |


イエスは神か?(1)

はじめに
イエス==神?
罪を赦す権威
サタンを従わせる権威
なぜ「イエスは神である」と明言しないのか?
イエスの神宣言─「わたしはある」
おわりに


はじめに

「イエスは神か?」という質問を次の3つの項目に分けて考えたい。

(1) 新約聖書の著者たちはイエスが神であると主張しているか?
(2) イエスは自分が神であると主張したか?
(3) イエスは神か?

このページでは主に (1) について取り上げる。

「イエスは神である」という主張は新約聖書に存在せず、後期のクリスチャンたちが作り上げた教義である、という意見が聞かれる。確かに「イエスは神である」という文そのものは、僕の知る限り、新約聖書に記述されていない。興味深いことにたいへん「あいまい」なのである。しかし問題は新約聖書の著者たちがイエスを神とみなしていたかどうか、また読者にイエスが神であると伝えているかどうか、というところにある。

ここではマルコの福音書の著者がイエスを神であるとみなしており、なおかつ「イエスは神である」と明言しないで読者が自身でこの結論に達するように物語を構成している、という主張を行い、その根拠を示そう。

二世紀前半ヒエラポリス(現在のトルコに位置する)の教会の監督であったパピアスによると(これはこの福音書の著作に関する文献で現在知られている最古のものであるが)マルコの福音書はイエスの弟子ペテロの言葉をペテロの翻訳者であったマルコが記したものであるという。


イエス==神?

1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

そのとおりに、4 バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。6 ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

マルコの福音書1章1節から11節まで(新改訳聖書)

キリスト: ギリシア語でキリスト、ヘブル語でメシア、油注がれる者の意、神に選ばれた王を指す。福音: 布告。預言者イザヤの書: ユダヤ人の宗教書の一つ、旧約聖書に含まれる。バプテスマ: ユダヤ人の宗教儀式の一つ、浄められること、もしくは新生をあらわす?聖霊=御霊: 神の霊。

著者の意図するところを汲んで、以下の問いに答えなさい。

質問1: イザヤの書では「荒野で叫ぶ者」の後に誰が来ることが期待されていますか?
質問2: 著者は「そのとおりに」と言っています。イザヤの書の「荒野で叫ぶ者」とはイエスの時代の誰の事を指していますか?
質問3: バプテスマのヨハネの後にあらわれたのは誰ですか?
質問4: 著者はイザヤ書の「主」が誰の事を指していると主張していますか?

僕の答えは以下のようになる。

答え1: 主
答え2: バプテスマのヨハネ
答え3: イエス
答え4: イエス

約二千年前、この箇所を読んで(聴いて?この福音書は自身を福音=布告と呼ぶ通り、人々に聞かれるために街中で読まれていたのではないかと言われる)「預言者イザヤの書」なるものをよく知らなかった人はおそらくユダヤ人の友人にこの箇所で言われている「主」とは誰のことなのか尋ねてみたことだろう。するとユダヤ人の友人はそれは創造主なる神のことであると答えるはずである。ここで「主」という日本語に訳されている言葉はヘブル語のイザヤ書では「神」をあらわす固有名詞だからである。(イザヤ書40章3節、新改訳聖書では太字の「」)すると「イエス==神」なのだろうか?少なくとも読者はマルコの福音書の初めからそのような期待をすると思うのだが、いかがだろうか。

ところで著者であるペテロはまだこのときイエスとともにいなかったはずで、なぜ「天が裂けて御霊が鳩のように下った」などと言えるのかという疑問が生ずるが、ヨハネの福音書によるとこの現象が起きたことをバプテスマのヨハネが証言しているのである(ヨハネの福音書1章32節)。


罪を赦す権威

1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。9 中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

マルコの福音書2章1節から12節まで(新改訳聖書)

家: ペテロの家。中風: 手足がまひして、からだが思うように動かなくなる病気。信仰: 頼りにすること。

著者の意図するところを汲んで、以下の問いに答えなさい。

質問1: 中風の人はなんのためにイエスに会いに来たと思いますか?
質問2: イエスはなぜ「あなたの罪は赦されました」と言ったと思いますか?
質問3: 律法学者はなぜイエスが神をけがしていると考えましたか?
質問4: イエスは自分にどんな権威があることを示しましたか?

そのまま読んでみると、僕の答えは以下のようになる。

答え1: 中風を直してもらいに来た。
答え2: 彼らの信仰を見たから。
答え3: 神以外に罪を赦せる人はいないのに、イエスは自分が罪を赦す権威を持っていることを主張したから。
答え4: 地上で罪を赦す権威。

イエスはこれより前の箇所で、熱病、さまざまな病気、らい病を直していた。中風の人は当然、中風を直してもらいに来たのであろう。それなのにイエスは「あなたの罪は赦された」と言ったのである。イエスは中風の人と初対面ではないのか?いったい中風の人がどんな罪をイエスに対して犯したと言うのだろう。いや、この寝たきりの中風の人が犯すことができたとしたら、それはおそらく心の中の罪で、神に対して犯した罪ではないだろうか。例えば僕が友人のAさんを傷つけ、後にAさんに謝ったとき、Aさんではなく通りがかりの見知らぬBさんが僕に「あなたの罪を赦します」と言ったって、それはBさんが勝手に言っているだけである。問題なのはAさんが僕を赦すかどうかということで、Bさんの意見は関係ないのである。この律法学者の理屈は筋が通っていると僕は思う。人が神に対して犯した罪は、神だけが赦せるのである。少なくともこの律法学者はイエスが自分を神と等しくしている、神に代わって自分が罪を赦すことができる、もしくは自分は神であると主張しているとまで考えたかもしれない。彼はイエスが「神をけがしている」と結論したのである。旧約聖書には神が誰かの罪を赦したことを預言者が告げることはあっても(例えばサムエル記第二12章13節、預言者ナタンの王ダビデに対する罪の赦しの宣言)、預言者が神の代わりに罪を赦すことは、僕の知る限り、ない。

イエスは問いかけた。「中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」僕ならなんと答えるだろう。「あなたの罪は赦された」と口で言うのは簡単である。これは誰の目にも見えないことだからだ。イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」と言って彼が罪を赦す権威、すなわち神の権威を有しているという、僕たちの目には見えないことを、中風の人を一瞬に直すという奇跡でもって示した。イエスは自分が神と等しい権威を持っていることを主張してはいないだろうか?

この屋根をはがされてしまったのはペテロの(しゅうとめの?)家であるが、ペテロもこの場にいたのであろう。なぜペテロが律法学者の心の中の理屈やイエスの心の中の判断を知ることができたのかと疑問が生ずるが、イエスが「あなたの罪は赦されました」と言った後、律法学者たちに向かって「なぜ心の中でそんな理屈を言っているか」と言うのを聞けば、律法学者たちが(おそらくペテロもそう考えたであろう)「神ひとりが罪を赦せる、イエスは神をけがしているのだ」と考えていたであろうと推測することは妥当なのではないだろうか。

ところでイエスは自分のことを「人の子」と呼んでいる。「人の子」とはいかにも人間性を強調する言い方だが、これは後に引用する箇所(マルコの福音書14章62節)に見られるように「天の雲に乗って来る」という句と組み合わせて使われていると、旧約聖書ダニエル書の預言を指し示すものであると思われる。

13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。
ダニエル書7章13節と14節(新改訳聖書)

「私」とはダニエルのことで、これはダニエルが見たという幻を記述している。「人の子のような」とはまたあいまいな表現である。「人の子」であって「人の子」でないという意味が含まれているのだろうか?もしイエスが、自分はここで預言されている「人の子のような」者であると主張しているならば、自分に「主権と光栄と国が与えられ」(ユダヤ人だけでなく)「諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることにな」り、「その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」ことをも主張することであると僕は思う。そのような者が神以外にありえるのだろうか?


サタンを従わせる権威

20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている。」と言っていたからである。

マルコの福音書3章20節から29節まで(新改訳聖書)

イエスの身内の者=母マリアとイエスの兄弟たち、ベルゼブル=語源は列王記第二1章2節のバアル・ゼブブ(蠅の王?)だと言われるが、ここでは文脈からサタンを表わす。

著者の意図するところを汲んで、以下の問いに答えなさい。

質問1:「強い人」とは誰の事を指していますか?
質問2:「家財を略奪する」とは何のことを指していますか?
質問3: イエスは自分がどんな力を持っていることと示しましたか?
僕の答えは以下の通り。
答え1: サタンのこと。
答え2: 悪霊を追い出すこと。
答え3: サタンをも従わせる力。

イエスが悪霊を追い出すことができるのは、イエスがサタンをも従わせる権威を持っていることを示している、とイエスが「強い人」のたとえによって言っていると思うのだが、いかがだろうか?旧約聖書にサタンは3回、名指しで記述されている。一度目、歴代誌第一21章ではダビデを誘い込み罪を犯させた。二度目、ヨブ記ではヨブを非難し神の許す範囲でヨブに災いをもたらした。三度目、ゼカリヤ書3章ではヨシュア(イエスラエルの民を表わす?)を訴える者として描かれている。しかしこれらのどの記述でも預言者はサタンの権威を超えた権威を有していない。人はサタンの力の支配下にいる者として描かれているのである。旧約聖書にも預言者が悪霊を追い出す記述があるが(例えばサムエル記第一16章23節、ダビデはサウルにつく悪霊を追い出す)、サタンに打ち勝つ者は、僕の知る限り、いない。しかしイエスはここでサタンをも従わせる権威を有していることを主張したのである。これはイエスが人には不可能な権威、神と等しい権威を持っていることを示してはいないだろうか?


なぜ「イエスは神である」と明言しないのか?

さて、もしこの福音書の著者がイエス==神であり、イエスが罪を赦す権威と、サタンを従わせる権威という神特有の権威を有していることを主張しているならば、なぜ短絡に「イエスは神である」と述べないのだろうか?僕はここに著者の意図を思うのである。すなわち著者は意図して「イエスは神である」と述べず、読者が自分でその結論に達することを願っているのではないか?僕がこう考えるのは、マルコの福音書の中でイエスが自分を「神の子である」と宣言しないで、弟子たちが自分でこの結論に達することを待っているように描かれていることにある。以下の箇所を読んでいただきたい。

34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。35 そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。36 みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」37 すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」38 するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」39 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。40 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。41 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。42 人々はみな、食べて満腹した。43 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。44 パンを食べたのは、男が五千人であった。

45 それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。47 夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。49 しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。50 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。51 そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。52 というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。

マルコの福音書6章34節から52節まで(新改訳聖書)

イエスが水の上を歩き、風をも従わせているのを見て弟子たちの「心中の驚きは非常なものであった」のだが、その理由としてこの福音書の著者は「彼らはまだパンのことから悟ることがなく、その心は堅く閉じていたからである」と述べている。「パンのこと」とは当然その前の5つのパンと2匹の魚で(男だけで)五千人を満腹させた奇跡のことを指すと思われるが、この奇跡から弟子たちはいったいなにを悟るべきだったのだろうか?是非先に進む前にここで止まって考えていただきたい。

さらに以下の箇所に続く。

31 それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。33 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。34 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。35 すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。36 イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」

1 そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。2 「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。3 空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」4 弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」5 すると、イエスは尋ねられた。「パンはどれぐらいありますか。」弟子たちは、「七つです。」と答えた。6 すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。7 また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われた。8 人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。9 人々はおよそ四千人であった。それからイエスは、彼らを解散させられた。10 そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれた。

11 パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。12 イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」13 イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」16 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。19 わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」20 「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」

22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。23 イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。24 すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。25 それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。26 そこでイエスは、彼を家に帰し、「村にはいって行かないように。」と言われた。

マルコの福音書7章31節から8章26節まで(新改訳聖書)

マタイの福音書によると「パリサイ人のパン種」とはパリサイ人たちの教えのことであると説明されている。しかし僕はマルコが弟子たちは「パリサイ人のパン種」とはパリサイ人の教えのことだと悟るべきだった、と言っているようには思えない。もっと重要なことをイエスは弟子たちに教えようとしているように見えるのである。イエスは言った。「まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。」二度のパンの奇跡から弟子たちはいったい何を悟るべきだったのだろうか?また言った。「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。」耳の聞こえなかった人と目の見えなかった人が癒される奇跡がここで語られているのは全くの偶然なのだろうか?

マルコの福音書の最初の一文は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」である。読者はイエスが「神の子」であり、「キリスト」であることを最初から知らされているが、弟子たちはこれを知らないのである。実にこれまでイエスを「神の子」、「神の聖者」であると証言するのは天からの声と悪霊たちだけなのである。

9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
マルコの福音書1章9節から11節まで(新改訳聖書)
23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
マルコの福音書1章23節から25節まで(新改訳聖書)
34 イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。
マルコの福音書1章34節(新改訳聖書)
11 また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫ぶのであった。12 イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。
マルコの福音書3章11節と12節(新改訳聖書)
6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。
マルコの福音書5章6節と8節(新改訳聖書)

悪霊たちはイエスが神の子、キリストであることを(そしておそらく、人として来られた神であることを)知っていたのであるが、弟子たちはこれを理解できなかった。弟子たちはイエスが神の子でこの世界にあって罪を赦す権威、サタンを従わせる権威、すなわち神の権威を有していることを理解できなかった。この箇所での最後の癒し、盲人を癒す奇跡はこれまでのどの癒しとも異なる特徴がある。これまでの癒しがほぼ瞬時に完了していたのに対し、この癒しには段階があり、一度目は見えるようになったが完全ではなく、二度目の癒しで完全に見えるようになるのである。耳の聞こえなかった人が聞こえるようになり、目の見えなかった人が見えるようになるごとく、堅く閉じていた弟子たちの心も開きはじめ、イエスが何者であるのかを理解しはじめるのである。これに続く箇所は次のとおりである。

27 それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」28 彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。
マルコの福音書8章27節から30節まで(新改訳聖書)

マルコの福音書の中でここで初めて、悪霊ではなく人間のペテロがイエスを「キリスト」であると告白するのである。果たしてついに弟子たちはイエスが何者であるのかを理解しはじめる。そうして初めて、イエスははっきりと自分が地上に来た目的を語り始めるのである。

31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」
マルコの福音書8章31節から38節まで(新改訳聖書)

ペテロはしかしイエスをキリストであると告白しながら、自分の期待するキリスト像とイエスがこれから行おうとしていることがあまりにもかけ離れていたのか、イエスの言葉を認めないのである。もしペテロが本当にイエスを神に選ばれたキリストであると理解していたのなら、イエスがどんなに自分の期待とかけ離れたことを言っても受け入れたはずである。弟子たちはイエスがだれであるかを理解し始めたが、目の見えなかった人が一度目の奇跡でぼんやりとしか見えなかったように、弟子たちのイエスの理解は未だ完全ではなかったのである。弟子たちのイエスの理解が完全になるのはイエスが十字架に死に、復活した後のこととなる。

このようにマルコの福音書ではイエスが自分を「神の子である」と明言しないで、弟子たちが自身でこの結論に達するよう待っていたように描かれていると思うのだが、いかがだろうか?同じように僕はこの福音書の著者が「イエスは神である」と明言せず、しかしそれを指し示す記述を読者に与えることで読者が自身でこの結論に達することを願っているように思えるのである。


イエスの神宣言─「わたしはある」

最後にマルコの福音書の中でイエスが「神の呼び名」を用いて「自分は神である」という主張をしていると僕が考えている箇所を示そう。旧約聖書に神が自分を指す時に用いた言葉がある。すなわち「わたしはある」という言葉である。

13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。
出エジプト記3章13節と14節(新改訳聖書)

この14節は New American Standard Bible によると

God said to Moses, "I AM WHO I AM"; and He said, "Thus you shall say to the sons of Israel, 'I AM has sent me to you.' "
Exodus 3:14 (NASB)

原語のヘブル語では以下のようである(右から左へ読む)。

ここで「I AM」と訳されているヘブル語は文脈によって「I will be」「I was」などいろいろな意味になるので、訳すのが難しいという。英語、もしくはギリシア語に訳すにはもっとも近いであろう言い方で現在形の「I AM」とするしかないのである。新改訳聖書で太字の「」、いわゆる「ヤーウェ」(そう発音するかどうかはべつとして)という神を表わす固有名詞はこの「I AM」と訳されているヘブル語から導かれたのだろうと言われている。

マルコの福音書でただ一度、イエスが自分は神の子、キリストであることをはっきりと認める箇所がある。

60 そこで大祭司が立ち上がり、真中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。
マルコの福音書14章60節から64節まで(新改訳聖書)

ここで「わたしは、それです」と日本語に訳されている言葉は、原語のギリシア語で「egw eimi」英語では「I am」である。なんの変哲もない、普通によく使われる語の組み合わせである。しかし先のヘブル語の「I AM」をギリシア語で訳した場合にも「egw eimi」とするしかないのである。この箇所はユダヤ人の祭司長、長老、律法学者たちの集まるユダヤ人の議会での問答であって、当然ヘブル語が使われていたのだと思う。もしイエスが先の「I AM」と訳されたヘブル語で大祭司の質問に答えていたのだとしたら、僕はここにイエスの神としての宣言を見るのである。すなわち、イエスは神が使った「I AM」を自分を表わすために用い、自分が神であることをその場にいたユダヤ人に宣言したのである。

この議論はもちろん、僕の憶測の域を出ない。イエスがヘブル語の「I AM」を使った確証はないし、使ったとしてもそれが本当に神としての宣言の意味を持つのかどうかは議論の余地があると思われる。しかしもしそうでなかったとしても、僕はイエスの「人の子が、力ある方の右の座に着き」という言葉に神としての宣言をみるのである。すなわちイエスは自分(人の子)が神(力ある方)と等しい(右の座に着く)ということを宣言してはいないだろうか?それはこの主張を聞いたユダヤ人たちの反応を見ることで理解される。大祭司はイエスのこの主張を聞いてイエスが「神をけがしている」と判断したのである。なぜ自分を神の子、キリストであると認めることが神をけがすことになるのだろうか?自分をキリスト、すなわち神に選ばれた王とすることは、それが真実ではない場合、神に対して偽証をすることであるが、自分を神と等しくすることは、それが真実ではない場合、神に対する冒涜である。つまり、イエスはここで自分が神の子であるという以上の主張─自分は神と等しいという主張─をしてはいないだろうか?

この「けがす」という言葉は原語で「blasfhmia」英語で「blasphemy」である。この語は以下のヨハネの福音書の「冒涜」とも訳されている。

31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
ヨハネの福音書10章31節から33節(新改訳聖書)

イエスは神に対する偽証ではなく、神に対する冒涜のために死刑に定められたのである。ユダヤ人たちはイエスが自分を神と等しくしていることを理解し、それが真実ではないと判断したためにイエスが死罪に値すると結論したのであろう。これはマルコの福音書において、イエスが自分は神であるという主張をした、そしてイエスをそのように描いた著者はイエスを神とみなしていた、という根拠になると僕は考えているのだが、いかがだろうか?


おわりに

マタイとルカの福音書の著者らも上に述べたようにイザヤ書の預言を引用し、「イエス==神」という形式を初めから主張しているように思える。特にマタイの福音書28章17節に復活したイエスを弟子たちが「礼拝する」という記述があるが、この「礼拝」と言う言葉は─人々がイエスの前にやってきて「ひれ伏す」という意味にも使われているが─イエスが「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」(マタイの福音書4章10節)と言ったときの「拝み」と同じ言葉が使われている。マタイはイエスだけが礼拝されるに値する「神」であることを主張してはいないのだろうか?

1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 2 この方は、初めに神とともにおられた。 3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

6 神から遣わされたヨハネという人が現われた。 7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。 8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」 16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。 17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。 18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

ヨハネの福音書1章1節から18節まで(新改訳聖書)

この箇所で「イエス=人となった『ことば』=ひとり子の神=神」であると著者が主張していないとしたら、僕はいったいどのように理解するべきであろうか?

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
ピリピ人への手紙2章6節から8節まで(新改訳聖書)

この箇所で「キリスト=人として地上に表れた神」であると著者が主張していないとしたら、僕はいったいどのように理解するべきであろうか?

どのように客観的に新約聖書と対峙しようとしてみても、僕にはその著者らが「イエスは神である」という主張をしているようにしか思えないのである。

僕はすでに新約聖書の著者たちが「イエスは神である」と主張しているという先入観をもっているので、どんなあいまいな表現でも、「ああ、著者は『イエスは神である』と言っているんだ」と考えてしまうかも知れない。僕の主張が妥当なものかどうかを確かめる一つの方法は、まだそんな先入観をもっていない人が新約聖書を読んだ後、「著者がどんな主張をしていたと思う?」と尋ねてみることである。もうこのページを読んでいる人はイエスは神であるとかないとかという疑問を持ちながら新約聖書を読んでしまうから、その意味ではすでに先入観をもっていると言わなければならない。もし小中学校の国語の先生にお願いできるとしたら、僕は以下にあげる箇所をテストに出して著者の意図を問うという質問をして頂きたいものなのだが。

もしイエスが本当に「自分は神である」としたのであるなら、僕の理解する限り、彼はそのことについて間違っていたか、本当に神であったかのどちらかでしかない。彼が間違っていた場合、イエスは自分のことを唯一の神であるとする人たち─とんでもない大嘘つきか精神に異常があるかのどちらかで、人々を破滅に導く存在であるように思われる─と同じであると言わなければならない。イエスは果たして、そのような人だったのだろうか?それとも彼の主張する通り、本当に「人として来た神」なのではないだろうか?


| Prev | Next | Go Up | English Page |

Produced by Hajime Suzuki
Special thanks to Robert Shaw for his help with Hebrew and Greek
Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience