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神の必然性

存在の目的   存在の価値   善悪の基準   死後の世界   神の必然性


存在の目的

世界は偶然に発生した、という考え方がある。偶然とはそれが起こったことに目的も意義もないことである。すなわち宇宙は偶然に発生し、地球は偶然に発生し、僕は偶然に発生した、ということである。そこには「なんのために存在するのか」という問いに対する答えはない。

自分の存在に全く目的も意義もない、ということを本当に受け入れられる人がどのくらいいるのだろう?何のために生きるのか。愛するため?子孫を残すため?人の役に立つため?しかしその根拠はどこにあるのか。なぜ愛さなければならないのか?なぜ子孫を残さなければならないのか?なぜ人の役に立たなければならないのか?ウイルスがおそらく何も考えずに一心に自身のコピーを造り続けるように、なぜ僕たちは一心に人の繁栄のために生きなければならないのだろうか?

こんなことを自問できる余裕があるのも、もともと誰かが他の人の役に立つために生きたおかげである、無意味なことを考えて時間を浪費するより、有意義なことしたらどうか?しかし、もし自分の存在に本当の目的があったなら、それを知らずに生きることこそ無意味ではないか?もしかしたら皆が皆、自分の存在の真の目的を知らずに、また知ろうともせずに、大勢に従って生きているだけなのではないか?「僕の存在の意義は社会に貢献するためであると自分で決めたのだ」と言い切ることもできるだろう。しかしその根拠は一体どこにあるのだろう?

存在の価値

世界は物質によってのみ構成されている、という考え方がある。物質とはその存在を示す証拠が観測可能である「もの」を指す。原子は観測可能なので存在し、磁場は観測可能なので存在し、活動する有機質と無機質の集合体として僕は観測可能なので存在する、ということである。そこには神とか霊とか死後の世界とかいう観測不可能な「もの」は存在しない。それを定める人なしに存在の目的とか意義とかいう観測不可能な「もの」も存在しない。

自分は単なる物質である、ということを本当に受け入れられる人がどのくらいいるのだろう?僕が愛されている、幸福だ、価値があると感じるのは単に脳細胞を流れる電流の作用に過ぎないのではないか?たとえ60億人の心が喜んだって、60億本の電線に電流が流れることとどのような違いがあるというのか?虐げられ死んでいった人たちのために涙することに何の意味があろう?人が死ぬとは細胞の集合体が全体として活動を停止するだけのことで、僕の命の価値はたった今、僕の血液に流れる白血球に食べられて死んでいったバクテリアの命の価値に全く勝らないのではないか?たとえ人類に多大な貢献をしたからといって、宇宙のほんの片隅の銀河系のそのまた片隅の、自重の何分の一かの彗星が衝突したら消えてなくなってしまうような地球での出来事にどんな価値があるというのだろう?自分に単なる物質という以上の価値があるという根拠が一体どこにあるのだろう?

善悪の基準

善悪の判断は主観的である、という考え方がある。善とか悪とかいう概念は人が時代と文化に合わせて任意に決めたのであって、宇宙には絶対的な善とか絶対的な悪というものは存在しない。他の人の役に立つ、すなわち、人が繁栄することが善なのか?人の存在は地球にとって、絶滅していった種にとって、最大の悪であると考える人もいる。

絶対的な善悪の基準が存在しない、ということを本当に受け入れられる人がどのくらいいるのだろう?ダーウィンの進化論は自然淘汰の原理に基づく。すなわち強い者、適合した者が生き残り、弱い者、不適合な者は滅びてゆく、という考え方である。もしこの理論が正しいのなら、僕たちは他人に親切にする必要がない。むしろ他人を利用しても自分が得をすることは正しいとされるのではないか?なぜならそれは適者生存の原理に基づいているのだから。もしこの理論が正しいのなら、弱さをもった人たち、絶滅の危機にある種を保護することは理にかなわない。むしろそのような弱者は積極的に排除することが正しいとされるのではないか?なぜならそれが自然淘汰ということなのだから。いや、個人の保存ではなく、実は人の種の保存が正しいことであって、そのためには社会が和をもって存在することが最善である、とでもいうのであろうか?いや、人の種の保存だけでなく、実はすべての種の保存と共存が正しいことであって、そのために人類は英知を尽くさなければならない、とでもいうのであろうか?生物の種は結局のところ発生、進化、衰退、絶滅を繰り返すだけなのではないか?もしそうであるなら、今僕が人の定めた善悪に従うべきであるという主張に一体どんな根拠があるのだろう?

死後の世界

死は個人にとって完全なる無である、という考え方がある。すなわち、僕は肉体が活動を停止すればその後にいかなる意識もなく、僕という存在は完全に消滅するということである。それはどんなに多くの人に愛される人生を送っても、どんなに多くの人に憎まれる人生を送っても、最終的にはまったく同じ無という結末に辿り着く、ということを意味する。

どんなに良いことをしても、どんなに悪いことをしても、結局は同じところへ行き着く、ということを本当に受け入れられる人がどのくらいいるのだろう?人類に歴史的な貢献をし、何十億人の尊敬を受けることになっても、死んで全く存在しなくなった者にとってはなんの価値もない。またどんなに多くの人を利用し、苦しめ、非道な生き方をしても、死んでしまえばそれまでである。たとえ僕の家族や子孫が僕の行いのために苦しむことがあっても、死んでしまった僕の意識にはなんの影響もない。どんなに虐げられた人も、どんなに虐げた人も全く同様に無というところへ終着するのである。

それではなぜ僕は今、善を選ばなければならないのか。牢に入れられないようにということなら、計画を熟考すれば市民法に裁かれないように悪事を行うことが可能であると容易に考える程、僕は愚かであるだろう。明日死ぬのなら好きなように生きようと結論づけることが全く論理的ではないか?たとえ他人を踏みにじったって、それが明日存在しなくなる自分になんの影響があろう?核ミサイルの発射ボタンが目の前にあって、今日、自分が死んで無に帰することが分かっているのなら、僕がこのボタンを押してはいけないという根拠が一体どこにあるのだろう?

神の必然性

上で問いた四つの「根拠」に「神」という存在を抜きにして納得のゆく答えを与えることが、僕はできない。すなわち神が目的をもってこの世界を創造し、神が人の命に特別な価値を与え、神が善と悪を定めたのであり、神がそれぞれの行いに従って人を裁くのである。こうして見ると「根拠」の問いに解答を与えるために、人は神という概念を造り出したとも言えるが、しかし、神が真に世界を創造したので、その存在を認めずにはこれらの問いに答えることができない、とも言えるであろう。

もちろん「根拠は存在しない」という答えも論理的には筋が通っていると僕は思う。すなわち、世界は偶然に発生し人は物質以外の何ものでもなく、絶対的な善悪の基準も恒久的な善を選ぶ動機も存在しないことを矛盾なく理解することも可能である。しかしそのような世界観は、多かれ少なかれ神とか仏とか徳とか仁義とかなにか絶対普遍の真理、存在を認めることで理解されて来た現在の倫理、道徳の根底を放棄することではないか?絶対普遍の真理、存在という概念を全く教わらない世代がいくつか続けば現在の倫理、道徳はおそらく別の─現在では到底善であるとは考えられていない─倫理、道徳にとって代わられるのではないか?そして当然、絶対的な善などという概念を認めない立場からは倫理、道徳が変化することは人の進化の、もしくは衰退の途中経過であって、善とか悪とかという問題ではない。それは実に理にかなってはいるが、それを受け入れることは僕にとって創造主、神という存在を受け入れるよりもはるかに難しいことである。なぜなら僕が日常、経験する人に対する尊敬、妻や子を守りたいと願う愛、自分の人生になんらかの価値があるという実感と全く相容れないからである。いや、絶対普遍の神という存在を認めて初めて人は世界を正しく理解することができるのではないか?

極論すると僕はここに二つの世界観を対比させている。一つは世界は偶然に発生した、という見方であり、もう一つは世界は神によって創造された、という見方である。もしかしたら他にも矛盾なく一貫して理解できる世界観があり、僕はそれを知らないだけなのかも知れない。しかし現時点で僕の理解する限り、神の存在は必然であって、これを無視することは人の存在の目的、人の命の価値、人が遵守すべき倫理、道徳の基準、市民法の枠を超えて善を選択する動機を放棄することと同意であるとしか思えないのである。

訓練されたチンパンジーは幼児くらいの知能を持つことが可能であると聞いたことがある。彼らは鏡を見てそれが自分であると理解できるほどの自我の意識があるようである。しかし「自分はなんのために存在するのか」などと自問する既知の生物は人だけである。なぜだろう?聖書は人が存在する目的の一つを次のように述べている。

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
使徒の働き17章26節と27節(新改訳聖書)

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