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はじめに


聖書の第一のメッセージは、神が人を救うために、人、イエスとなって、この世界に来た、ということだと思う。

神が存在しなければ、世界は無意味である。(「神の必然性」参照)

聖書によれば、神は世界を創り、良いもので満たし、人が神との関係、互いの関係、人と世界の関係を楽しめるようにした、という。

しかし、人は神を忘れ、神の言葉を無視して自分勝手に生きるようになり、世界はあらゆる悪と欲と憎しみに満ちるようになってしまった。

殺人、強姦、盗みなどだけが悪なのではない。

悪意、ねたみ、不和、欺き、陰口、無慈悲なども全く同様に悪なのである。 (マルコ7:20-23、ローマ1:18-32、ガラテヤ5:19-21)

神に逆らい悪に満ちた人を、神が罰する日を定めたことを聖書は告げている。

しかし、同時に、人を愛した神は、人が神に立ち返ることができるように道をも備えた。

それがイエス・キリストである。

イエスは完全に神に聞き従い、彼には一つの悪も無かった。

それなのにイエスは十字架の上で、神に見捨てられたのである─彼は死ぬ時に「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだ。

なぜだろう?

聖書はイエスが人が受けるべき罰を受けるためにこの世界に来た神であることを告げている。

イエスがすでに罰を受けたので、彼に信頼する人は神の罰を受けることがなく、神に受け入れられる、というのである。

神は人が過去にどのような罪を犯したとしても、赦して受け入れる、と聖書は告げている。

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
ローマの信徒への手紙5章8節(新共同訳聖書)

この神の愛を知るなら、人は神に立ち返ることができる。

自分勝手でなく、創り主である神に、自分の最善を定めた神に、自分を愛する神に、聞き従い、生きることができる。

神が人に求めていることは、ただの二つの戒めに集約される。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
マルコによる福音書12章30節(新共同訳聖書)
隣人を自分のように愛しなさい。
マルコによる福音書12章31節(新共同訳聖書)

それでも日々、神を忘れ、自分勝手になってしまうことを繰り返していくことは避けられない。聖書は人がこの世界にとどまる間は、完全になりえないことも告げている。

しかし人がイエスによって示された神の愛に信頼し続けるなら、この世界でも、後の世界でも、神に受け入れられると聖書は約束する。

自分はなにをするべきなのか、神に聞き従えることは心強い。

たとえ誰に見捨てられようとも、神が自分を愛していることを知ることは心強い。

生涯なにが起ころうとも、たとえどのような失敗をしたとしても、死んで後、神に受け入れられることを知ることは心強い。

この神の愛を知ることは僕の生涯、最善の出来事であったといえる。

ここでは聖書のメッセージについて考察した事を綴ってみたい。


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