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7日で世界が創造されたって?


正確には神が6日間で世界を創造し、7日目は休まれたと聖書の創世記に示されているわけだが、聖書が信じられない理由の1つに、この記述がよく挙げられる。

水が通常100度で気体になることを示すのと同じ様には歴史を証明することができない、と僕は考えている。ある理論が事実であると証明するために、科学者はその事象を予測したり繰り返し発生させたりすることで、観測者に納得をしてもらうが、ある特定の歴史を繰り返し発生させることは、僕の知る限り、できない。例えば科学者が無機質を有機質に「進化」させる実験を繰り返し行うことができたとしても、それが実際に過去に起こったかどうかの証明にはならないであろう。タイムマシーンでも発明されて繰り返し過去が観測されない限り─そういうことは実はできないと理論的に証明されたという話を聞いたことある?─歴史が証明されたとは言えないのである。結局のところ、ある歴史が事実であると認めるか認めないかは個人の選択にゆだねられてしまうのだろう。例えば進化論をどうしても認めたくなければ、超高度な文明をもった宇宙人が、地球に現存する進化論を支持するすべての証拠─地層、恐竜の骨、類人猿の骨、等々─を適当な時期に置いていった、という説を唱えれば事足りるのではないだろうか。

もし創造者なる神を認めるのであれば、その万能なる神が6つの24時間で創世記の記述一字一句文字どおりの現象を起こしたことを─加えて進化論を支持するすべての証拠を残したことを─認めることに、僕は何の抵抗もない。しかし、創世記が歴史的な事実であることを証明しようとすることは、ここではしないし、そんな必要もないと思う。聖書は福音書のように事実を主張し、その真偽がクリスチャンとしての信仰の基礎に関わる場合もあれば、詩篇のように詩的な表現でもって著者の伝えたいことを表わす場合もある。僕はここで後者の立場を取って天地創造の記述を説明してみたい。

それでは、著者が僕たちに何を伝えたかったのかを考えながら、天地創造の記述を読んでみよう。

1 初めに、神が天と地を創造した。2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。5 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。

6 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。7 こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。8 神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。

9 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。10 神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。11 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。12 それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。13 こうして夕があり、朝があった。第三日。

14 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。15 天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。16 それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。19 こうして夕があり、朝があった。第四日。

20 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。21 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。22 神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」23 こうして、夕があり、朝があった。第五日。

24 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。25 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

創世記1章1節から2章3節まで。(新改訳聖書より)

「大いなる水とはなんなのか」「太陽が創られる前に植物が存在したのか」「海の巨獣って?」などなど、細かいところはおいておいて、著者はいったい読者に何を伝えたいのだろうか。僕はここで著者が似たような言い回しを繰り返すことで強調している3つのことを挙げたいと思う。1つめは、神が仰せられるとそのようになった、ということ。2つめは、神は創られたものを各々よしとされた、ということ(なぜか2日目はこれが抜けている。しかし6日目は人も含めて実に「非常によかった」のである)。そして3つめは、あたかも規則的な時の流れを強調するかのように、「こうして、夕があり、朝があった。第何日」と繰り返していることである。

さて神は1日目に昼と夜、2日目に大空もしくは天、3日目に地と海を創ったとされる。これを図に表わすと以下の様になる。

僕の稚拙な絵には片目をつぶっていただくとして、さらに神は4日目に太陽と月と星、5日目に水中の生き物と鳥、6日目に人を含めた地上の生き物を創造されたのである。これを図に表わすと以下の様になる。

この図を見て、なにか気がつかないだろうか。是非、ここで止まって考えていただきたい。

そう、神は1日目から3日目に創った「場所」にそれぞれ対応する様に4日目から6日目に「住む」ものを創ったのである。この記述は偶然だろうか?否、これは著書が十分に意図をした構成なのではないだろうか。

僕は著者がこの対称性を持ったあたかも詩のような記述でもって、神が世界を創られたことを読者に伝えたかったのだと考える。もしそうだとすれば、それは言わば比喩的な表現であって、必ずしも実際に過去に起こったことをその通りに記述する必要がない。詩篇の著者が「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに」(詩篇8篇3節)と言った時、神の指が天にあらわれ、月や星を整えたと彼は言っているのであろうか。否、このような比喩的な表現でもって、「神が創造された」ことを言わんとしているのではないだろうか。

上に一度述べた様に、僕は神が6つの24時間で創世記の記述の通りに世界を創造された、ということを受け入れるのにはなんの抵抗もない。しかし、それは必ずしも必要なわけではなく、もしかしたら長い時間をかけて進化論的な方法でもって神が世界を創造されたとしても、僕は創世記との矛盾を感じない。著者は神が世界を創られたことを読者に伝えるためにこの様な比喩的表現を選んだのであって、それが実際に起こったかどうかは、今のところ「神のみぞ知る」のである。

もし創世記の著者に「世界は6つの24時間で創造されたのか」と尋ねることができたなら、彼はなんと答えるであろうか?


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