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6.神の家族と集まる

1.教会とは?
2.神の家族は...
3.なぜ集まるのか?
4.「かの日が近づいているのを見て」...
5.神の家族と集まるとは?


1.教会とは?

なぜ日本語で教会の事を「教える会」と書くのか、少し調べてみたのですが、よく分かりませんでした。

ですが新約聖書で「教会」と訳されている元のギリシア語、エクレシーア、という言葉のもともとの意味は「教える」ということとはあまり関係がなくて、単に「集会」というものだそうです。

使徒の働きの19章には、エペソでクリスチャンに反対する人たちの集会のことが書かれているのですが、その集会のことも「エクレシーア」と呼ばれています。

「教会」の根本的な要素は、人が集まることです。

それでは、人が集まりさえすれば、それは教会であるのか、というともちろんそうではありません。

次の聖書箇所を見てみましょう。これはイエスが弟子たちに言った言葉です。

また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。 

もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。 

それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。 

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。 

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

マタイの福音書18章15節から20節まで(新改訳聖書)

イエスの弟子である人はみな、神を父、イエスを兄とする兄弟、姉妹です。

マタイの福音書12章49節「それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」 」

クリスチャンは神の家族と呼ばれています。

イエスは言われました、「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。」

クリスチャンは─クリスチャンといえども─この世界にあっては罪を犯すものです。

第一ヨハネの手紙1章8節、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」

しかしクリスチャンは罪を犯してよい、犯し続けてよい、と言うことはできません。

第一ヨハネの手紙3章6節、「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。」

ある人はクリスチャンになってもうそをつき続けています。

そしてうそをついても仕方がないなどと思うかもしれません。

ある人はクリスチャンになっても噂話をし続けます。

これくらい小さなことだから問題ではないと思うかもしれません。

ある人はクリスチャンになってもお酒に酔い続けます。

教会でいろいろな奉仕をしているのだから、献金をこれだけしているのだから、それくらい見逃されて良いなどと思うかもしれません。

実に本当のクリスチャンであっても、うそをついてしまうことがあるかもしれません。

噂話をしてしまうかもしれません。

お酒に酔ってしまうことがあるかもしれません。

その他、いろいろな罪を犯してしまうかもしれません。

ですが、本当のクリスチャンなら、それで、そのままで良い、と思うことはできないのです。

自分と交わりのあるクリスチャンが──自分はクリスチャンですと告白している誰かが──罪を犯し続けていることを知っているのならば、私たちはまずその人のところへ行って、ふたりだけのところで責めることが教えられています。

「責める」という言葉を見て、それは愛のない行為だ、と思われるでしょうか?

確かに、例えば相手を恨んで、相手に復讐するつもりで、相手に対する愛なくして、責めるのであれば、それは愛のない行為です。

ですが本当に相手を愛するのなら、罪のうちを歩み続けることの結果を理解しているのなら、相手が立ち返ることを願って責めることこそが、本当の愛の行為ではないでしょうか?

ガラテヤ人への手紙6章1節「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」

ある人たちは他の人が罪を犯すのを見るとなにか、一種の喜びにも似た思いをもつかもしれません。

そのような経験がないでしょうか?

それは他の人を蔑む高慢さ、自分にはそのような弱さがないと思うことの驕り、自分は少なくともそのような罪を犯している人たちよりはましだという、根拠のない安心感かもしれません。

ここでは、その罪の問題について公にしないで、ふたりだけで──もしくは多くとも、ほかにひとりかふたりに打ち明けるだけで──直接にその人のところに行って責めることが言われています。

それなのに、もしかしたら多くの場合、そのような話し合い避けて、その人の弱さについて他のクリスチャンたちと噂話をするという、まったく逆のことをしてしまう場合があるのではないでしょうか?

神の前にはすべての人が罪人です。

ある人は目に見える罪を犯しているかもしれませんが、ある人は心の中の罪を犯しています。

殺人や強盗や姦淫だけが罪なのではないのです。

人をねたむこと、憐れみの心をなくすこと、うそをつくこと、神の前には死罪にあたります。

「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」とイエスは言いました。

しかし、だからといって他の人の悪いところを責めてはいけない、といっているのではありません。

「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」と言われています。

そのように私たちは自分も罪人であることを悔い改めつつ、他の人を正しい道へと導くように薦められています。

その目的は相手を責めることではなく、責めることで相手を神の元へと得ることです。

ヤコブの手紙5章19節「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」

どうでしょうか?

私たちは時に、自分の良く知っているクリスチャンの誰かが罪を犯し続けていることを知っていながら、祈ることはもちろんあっても、なにもしないままでい続けてはいないでしょうか?

またその逆に、ある人たちは他の人の罪ばかり責め続けて、柔和な心も、その人を神に立ち返らせるという目的も忘れてしまっているかもしれません。

私たちはそのどちらでもなく、自分の罪を悔い改めつつ、愛するべき兄弟、姉妹が過ちに陥っていたのなら、柔和な心で正そうと試みるべきです。

その結果はその人を改めて兄弟・姉妹として得ることかもしれませんし、もしかしたら、17節、さらにひとりかふたりをいっしょに連れて行って責めても言うことを聞き入れようとしないことかもしれません。

そのようなときにはどうするべきでしょうか?

イエスは「教会に告げなさい」と言っています。

この前の箇所でイエスは使徒ペテロに対して「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」と言いました。

わたしの教会─エクレシーア。

旧約聖書はヘブル語、また一部はアラム語で書かれたものですが、イエスの時代にはすでにギリシア語に訳された旧約聖書が用いられていました。

新改訳聖書の注釈には「七十人訳」と書かれています。

そのギリシア語訳の旧約聖書では、神の民イスラエルの集会は神の「エクレシーア」と呼ばれていました。

旧約聖書では神のエクレシーアであったのに、ここでイエスは「わたしのエクレシーア」という表現を用います。

イエスが神、ご自身であるがこその言葉です。

ふたりでも三人でもイエスの名において集まるクリスチャンの集いはイエスのエクレーシア──すなわち教会──です。

イエスはその教会に集まるクリスチャンたちに、問題を告げなさい、と言っています。

ここに至るまで、問題は個人的な関係の中で扱われるべきでした。

ここに至って教会全体が一致して罪を責めることとなります。

そしてその教会の言うことさえも聞こうとしないなら、その人を異邦人か

取税人のように扱いなさい、と言われています。

異邦人とはユダヤ人でない人のこと、旧約聖書の時代に選ばれた神の民イスラエルに属さない人たちのことです。

取税人はユダヤ人でしたが、異邦人のローマに加担して同胞から税金を取りたてる裏切り者の象徴でした。

もちろん聖書の他の箇所では悔い改めることのない血筋だけのユダヤ人ではなく、悔い改めた異邦人や取税人が神の家族に加えられることが言われていますが、ここでは異邦人や取税人というのは神の民に属さない人たちのことを指していて、そのように扱うことが言われていると思います。

自分はクリスチャンであると告白していながら罪を犯し続けてよいと言う人、罪を犯し続けて悔い改めるつもりのない人を、私たちはクリスチャンの兄弟姉妹として受け入れることができません。

この教えは時に見過ごされてしまいがちです。

どのような人であれ、受け入れることができない、などと考えるのは、なんて心の狭い教えではありませんか?

教会は誰でも、どんな人でも受け入れるべきではなかったのですか?

それはその通りです。

どんな罪を犯した人をも、神がわたしたちを受け入れてくださったように、教会も受け入れるべきです。

しかしそのようにして教会に来た人が、悔い改めることも、イエスを主であると告白することも、永遠のいのちの約束を信じることもないのであれば、その人は物理的にはクリスチャンの集まりの中にいても霊的には、イエスのエクレーシアに属しません。 

そのままでは神の家族の一員とはなりえないのです。

またある人がイエスは自分の主であると告白していながら、罪のうちを歩み続けようとするのならば、その人がキリストのうちにあると認めることもできません。

ある人に対して、わたしたちはあなたをクリスチャンとして認めることができません、と言うことが、わたしたちにはできるでしょうか?

18節、まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。

この節にはいろいろな解釈の方法が提案されているそうです。

文脈の流れから、わたしたちが地上でつなぐ、とはある人をクリスチャンと認めて教会と交わりを続けていくこと、地上で解く、とは認めずにその人を異邦人か取税人のようにあつかうことであると僕には読めます。

それはとても、とても大きな責任です。

もしわたしたちが地上で解くなら、それは天においても解かれていると言われているからです。

ある人たちは、これは、イエスがイエスの直接の弟子たちに教えたことで、イエスとともに生きてイエスの使徒となる権威を与えられた弟子たちには確かにそのような権威が備わっていたけれども、わたしたちにはそのような権威はない、と解釈します。

しかし、20節にはふたりでも三人でもイエスの名において集まるところには、イエスもその中にいる、と言われていて、イエスの直接の弟子たちに対する言葉だけではないことが分かります。

天においてもつながれており、天においても解かれている、という箇所の原語は文法的には未来完了形と呼ばれるもので、あまり頻繁には使われないそうです。

直訳を基本にする New American Standard Bible では “shall have been bound in heaven, shall have been loosed in heaven” と訳されています。

これは未来を表すこともあれば条件を表すこともあるそうです。

すなわち、わたしたちが地上でつなぐことは天においてもつながれてあるべきであり、地上で解くなら、天においても解かれてあるべきである、という意味かもしれません。

どちらにしてもわたしたちが教会としてある人をクリスチャンとして認める、認めないということは大変大きな責任を伴います。

わたしたちは全力を尽くして地上にあってはつなぐことを望むことが薦められると思います。

19節「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

わたしたちはこのようにして誰かが悔い改めることを、ふたりでも三人でも心を一つにして願っているでしょうか?

イエスの名において二人以上が集まるとき、それはイエスのエクレーシア、神の家族、すなわち「教会」となるのです。

2.神の家族は...

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。 

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。 

また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。 

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 

約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。 

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。 

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

ヘブル人への手紙10章19節から25節まで(新改訳聖書)

この前の箇所で、旧約聖書に与えられた罪のためのいけにえは、私たちを罪から完全にきよめることはできない、ということが言われています。

むしろ毎年毎年、罪のためのいけにえをささげなければならないことで自分の罪が意識されるとあります。

これは後に来るすばらしいものの影であって、その本体はイエスが十字架でささげた、すべての人のための罪のいけにえです。

19節、まことの聖所とは人がそこで神と出会うところです。

それは旧約聖書に与えられた幕屋や神殿の中に設置された物理的な聖所のことではもはやありません。

霊的に私たちが神と出会うところです。

罪人の私たちがどうして神と出会うことができるでしょうか?

僕のコンピュータの中にはデジタルカメラで撮った直美と安娜の15秒ほどのビデオクリップがたくさん入っています。

僕がコンピュータを使っていると直美と安娜はやってきてはビデオクリップを見せて欲しいとねだるのですが、あるとき、直美がやってきて、これを見せて欲しいと指したビデオクリップは、直美が安娜からジュースを取り上げて飲んでしまうビデオクリップでした。

それを見たときの直美の顔はなんともがっかりしたもので、“Not good” と言っていましたが、神は15秒どころか、私の過去の行いすべて、私の心の中の思いもすべてご存知です。

自分の罪を思わされるならば、私たちは神に近づくことを怖れなければならないのではないでしょうか?

しかし私たちがイエスに信頼するのならば、私たちの罪はイエスの血によってきよめられ、イエスの肉体という垂れ幕を通して、イエスという偉大な祭司が設けた新しい生ける神への道を通って大胆に神に近づくことができるのです。

神があなたの罪を完全に赦していてくださるという確信があなたにはあるでしょうか?

22節、「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」

英語では conscience と訳されている言葉を日本語では良心、良い心と書きます。

そうすると邪悪な良い心となってなんだか意味が通じません。

良心とは何が善であり何が悪であるかを決める心の働きです。

その働きが邪悪であるとは、神が定めた善悪に従わず、自分で決めた善悪に従おうとする罪そのものの性質の事を指していると思います。

旧約聖書ではきよめの儀式のために動物の血を人々につぎかけましたが、霊的には私たちはイエスの血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、もはや自分の決めた善悪ではなく、神の定めた善悪に従いたいという思いをもつはずです。

イエスが自分の罪のために死んだということを理解する、受け入れるなら、これからも罪の中にとどまろうなどと思うことはふさわしくありません。

からだをきよい水で洗われた、という箇所をバプテスマの儀式のことと重ねる解釈もできますが、ここまですべて霊的な働きとして理解されてきているので、この箇所も霊的なことを伝えているのだと私は思います。

過去に自分のこころをもって犯した罪があるでしょうか?

過去に自分のからだをもって犯した罪があるでしょうか?

イエスに信頼する人の罪はすべてきよめられているのです。

あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

第一コリント人への手紙6章9節から11節まで(新改訳聖書)

神が私たちを義と認めてくださったのです。

全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

神が私たちの罪を赦してくださらない、と疑ったことがあるでしょうか?

死んで後、永遠のいのちをくださらない、と疑ったことがあるでしょうか?

23節「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」

3.なぜ集まるのか?

ここまで、イエスの血によって自分の罪が赦されること、また大胆に神に近づくことができることは、自分ひとりと神との関係です。

ある人たちはこれだけで十分だと思うようです。

このイエスに対する信仰と神の約束に対する希望をもって生きていけば、他のクリスチャンたちと集まることなく、一人でも生きていける...

いや、一人で生きていったほうがましである...

なぜ他のクリスチャンたちと集まらなければならないのでしょうか?

24節、それは互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合うため、また互いに励ましあうためです。

一人で愛を表現することができるでしょうか?

もちろん祈りの中で他のクリスチャンたちに対する愛を表現することはできます。

しかし、そのように祈るのなら、実際に会って励ましあいたいとも願うはずです。

かの人が励まされますように、と祈って物理的に会えるのに、会って励ましあいたいとは思わないとはどういうことでしょうか?

ある人たちはいっしょに集まることをやめてしまいました。

集まりたいのに集まれないという、いろいろな理由があるかもしれません。

しかし、もし、集まりたくない、という理由だとしたら、それはどうしてでしょうか?

集まってもなにも得るものがない?

集まってもなにも面白くない?

集まっても疲れるだけ?

集まっても励まされない?

集まってもがっかりさせられるだけ?

この箇所は自分が励まされないことを嘆くより、自分が誰をも励ますことが出来なかったことを嘆くべきであることを教えてはいないでしょうか?

他の人を励ましたい、と願う人は実に、相手を励ますことによって自分をも励まされているを知ることがあると、私は思うのです。

4.「かの日が近づいているのを見て」

25節、「かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」とあります。

新約聖書における「かの日」とはイエスが再び来られる日のことです。

誰もいつイエスが再び来られるのかを知りません。

ある人たちは「かの日が近づいている」と言われることに、不安を覚えるようです。

世界の終わりが来る、というメッセージで不安を煽るような事件が歴史の中で何度も起こったからかもしれません。

その日のための準備ができていないからかもしれません。

しかし、クリスチャンは「かの日が近づいている」ことを怖れる必要があるでしょうか?

イエスが私たちのために死んだことによって、私たちの罪が赦され、私たちはいつでも大胆に神に近づくことができるのです。

この世界にあって信仰のために困難にあっているクリスチャンであればなおさら、イエスが来られることを待ち望んでいるのではないでしょうか?

5.神の家族と集まるとは?

教会はイエスの名においてあつまるクリスチャンの群れです。

それは神の家族の集まるところ、ではなく、神の家族そのものです。

日本語で「教会」というとどうやら建物を指すことが多いようです。

類語実用辞典にも教会は礼拝堂であり祈祷所であり集会所となっていました。

確かに新約聖書には教会が「建物」であり「神の家」であることが言われていますが、しかし「教会」という言葉で物理的な建築物を指したことは一度もないと思います。

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

エペソ人への手紙2章20節から22節まで(新改訳聖書)

このクリスチャンの群れが神の家なのであって、建築物はレンガ造りであろうが木造作りであろうが、五角形であろうが六角形であろうが、大きかろうが小さかろうが、 一戸建てだろうがアパートの一室であろうが、霊的にはなにも問題ではありません。

教会は神の家族です。

しかし私たち一人一人がこの世界にあっては完全になりえないように、残念ながら神の家族の兄弟・姉妹の関係もこの世界にあっては完全になりえないと思います。

心を一つに、と言われているのに、思いが合わない、聖書の解釈が合わない、意見が合わない、好みが合わない、馬が合わない、いろいろなことが合わなくて困難を覚えることも多いと思います。

血縁の家族がそうであるように、私たちは神の家族のメンバーを選ぶことはできません。

しかし、この箇所にあるように、一緒に集まることをやめたりしないで、互いに励ましあうことを続けるなら、神はこの家族の中で私たち一人一人を成長させてくださり、かの日に本当に神の家族として互いを喜び合えることと期待します。

祈りましょう。

愛する天のお父様。

イエス・キリストを通して、今、あなたに確信を持って近づけることを感謝します。

この世界にあって互いに励まし合える兄弟・姉妹の与えられていることを感謝します。

どうかかの日がおとずれるまで、互いに励ましあうことができますように、助けてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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