| Prev | Next | Go Up | English Page |
1.神のことばが伝わるために祈る...
2.誰が神のことばを伝えるべきか?
3.外部の人?
4.賢明にふるまい、機会を十分に生かす...
5.ことばがいつも親切で塩味のきいたものであるように...
6.ひとりひとりに対する答え方がわかる...
7.神のことばを伝えるとは?
目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。
同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。
また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。
外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。
コロサイ人への手紙4章2節から6節まで(新改訳聖書)
これは使徒パウロがコロサイに住むクリスチャンたちに宛てて書いた手紙の一部ですが、彼はこの手紙の読者となる人たちとは直接に会ったことはありませんでした。
この箇所は言わば、パウロが直接会ったことのないクリスチャンたちに向けて書かれているようなものだと言えると思います。
この箇所で「私たち」とはパウロとその弟子テモテ、マルコの福音書の著者であるマルコ、コロサイ人の一人であって最初にコロサイの教会を始めたエパフラスなど宣教の同労者たちのことです。
彼らはエペソかローマかで牢に入れられていました。
イエスの福音が広まることを望まない人たちに訴えられたからです。
パウロはパウロたち宣教者がみことばを、キリストの奥義を人々にはっきりと語れるようにクリスチャンたちが祈ることを願っています。
なにごとかの奥義を学んだことのある人はいるでしょうか?
そういう人は珍しいわけですが、キリストの奥義はなにも珍しくありません。
奥義とはなにか理解すること、習得することが難しいような印象を受けますが、そうではなくて単にいままで隠されていたことを明らかにすることです。
コロサイ人への手紙1章26節には「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。」とあります。
また27節には「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」とあります。
キリストの福音──イエスが人となった神で私たちを罪から救ったということ──は理論的になにも難しいことはないと思います。
このキリストの奥義はキリストが来られるまで隠されていましたが、今は明らかにされて誰にでも伝えることができます。
皆さんはこのキリストの奥義を、キリストの福音、みことばを初め、どのようにして知ったでしょうか?
コロサイのクリスチャンたちはその同胞エパフラスから学びました。
僕の父はアメリカから来ていた宣教師から学びました。
30年ほど前、僕の父も母もクリスチャンではありませんでした。
父と母はなぜか英語を習得することに大変熱心で、二人は英語のクラブで出会ったのですが、結婚して後、どうやら母の方が英語が得意だったようです。
父は、これではイカン、と思ったかどうか知らないのですが、アメリカから来ていた宣教師が開いていた、おそらくは無料か格安の、英語のクラスに出席するようになったそうです。
そこで教会にも出席して聖書のメッセージを聞き、自分の罪を理解して、イエスの身代わりの死を理解して、神の赦しを理解して、永遠のいのちの約束を理解して、信じ、クリスチャンになりました。
このキリストの奥義は二千年間、変わらないで、今も、伝えられ、人々を罪から救って真実の神のもとへと導いています。
僕は長い時間をかけて父と4人の宣教師から学び、今から10年ほど前、21歳の時にクリスチャンになりました。
神は人々を通して、今もみことばを伝えています。
ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
ローマ人への手紙10章12節から15節まで(新改訳聖書)
私たちは聖書のメッセージがまだ福音を知らない人たちに伝わるように、みことばが伝わるように、そのために働いている人たちのために、彼らが当然語るべき語り方で、はっきりとキリストの奥義を語れるように、祈ることが言われています。
聖書の言葉がなかったら、僕はなぜ生きるのか、生きなければならないのか、分かりませんでした。
なぜ善いことをするべきで、悪いことをしてはいけないのか、分かりませんでした。
なにが本当に大切で、なにが実は問題ではないのか分かりませんでした。
死んだらどこへ行くのか分かりませんでした。
神が聖書のことばを通して私たちに語りかけてくださるから、神が宣教師を通してみことばを広めてくださるから、僕は今、神に信頼して生きることができます。
日本のクリスチャンの割合は、ある統計によると0.7%だそうです。
千人に7人。
そのなかで経験でもなく伝統でもなく偽預言者でもない神のみことばに信頼しているクリスチャンは果たしてどれだけいるでしょうか?
神のみことばが伝えられるように祈り続けることが、強く、強く、促されます。
しかし、神のことばは、宣教師、伝道師、牧師、そのような人たちだけが伝えればよいのでしょうか?
次の聖書箇所を考えてください。これはイエスが復活後、イエスの直接の弟子たち、すなわち使徒たちに現れて述べた言葉です。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
マタイの福音書28章18節から20節まで(新改訳聖書)
19節で「あなたがた」とは誰の事を指していますか?
イエスの使徒たちのことです。
イエスが天に昇られた後、この通りに、使徒たちが様々な国へ行き、福音を伝えたことが新約聖書の「使徒のはたらき」と初期のクリスチャンたちの記した書物によって分かります。
それでは、この19節は使徒たちに言っているのであって、私たちには当てはまらないのでしょうか?
いいえ、20節にはそのようにして弟子となった人たちに、イエスは使徒たちに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい、と言われています。
すなわち、行って、あらゆる国の人々を弟子とする、と命じておいたことも含めてすべてのことを守るように、ということで、この命令はすべてのイエスの弟子に当てはまるイエスのことばであると、僕は思うのです。
救いはすばらしいものです。
それを受けなたら、たとえこの世界にあってどのような苦難にあっても、私たちの最終的な未来が、神と共にいるというゴールに定まっています。
その救いを私たちは自分のものとだけしておいてよいのでしょうか?
自分だけでなく、他の人とも分ち合いたいと欲するべきではないでしょうか?
私たちは行って、あらゆる国の人々を弟子とすることがイエスによって言われています。
クリスチャンと呼ばれる人の中にも、あらゆる国の人々に福音を伝える、ということに否定的な思いをもたれる人が少なくありません。
どうしてでしょうか?
福音は伝えられるものであって強要できるものではありません。
みことばを聞いた人が信じる、信じないは、どのような状況でもその人、個人の信仰の問題です。
それなのに歴史的に「キリスト教の宣教」という名の下に、信仰が強要されたり、聖書の教えとは全く関係のない西洋の習慣が強要されたり、もしくはキリスト教国と呼ばれる国々が他の国を侵略、他民族を搾取してきたから、今、キリストの教えを他の国の人々にも伝えよう、という教えに、否定的になってしまうのかもしれません。
しかし本当のキリストの教えは、このような侵略とはまったく関係がありません。
聖書を読めばあまりにも明らかなことですが、しかし、キリスト教の名の下で行われてきた人の悪事は今でも真のキリストの教えの伝道に傷を残しているようです。
それはさておき、私たちが聖書の教えに忠実であるならば、イエスの福音の宣教にも熱心であるべきです。
それでは、宣教師でなければクリスチャンではない、ということがあるでしょうか?
いいえ、第一コリント人への手紙12章には、私たちの信仰は一つですが、私たちには別々の賜物が与えられていて、みながおなじはたらきをするのではない、とあります。
すなわち、みながみな、他の国へ遣わされて宣教する宣教師ではない、ということです。
ですから私たちはあるものは祈り、あるものは宣教師を経済的に支え、あるものは支えられて他の国へわたり宣教するものとなりますが、その目的はすべてのクリスチャンたちに与えられたイエスの命令、すなわち行ってあらゆる国の人々をイエスの弟子とすることです。
コロサイ人への手紙4章に戻りましょう。
目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。
同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。
また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。
コロサイ人への手紙4章2節から4節まで(新改訳聖書)
しかし他の国にわたらなくても、誰かに経済的に支えられなくても、クリスチャンがこの世界にあって生活している限り、私たちにはみことばを語る機会が与えられます。
それが5節と6節です。
外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。
コロサイ人への手紙4章5節と6節(新改訳聖書)
5節「外部の人」とは誰の事を指すのでしょうか?
新約聖書で「外部の人」という言葉は教会に加わらない人のことを指しています。
すなわちクリスチャンでない人たちのことです。
クリスチャンでない人たちに対して賢明にふるまいなさい、とあります。
みなさんにとって「外部の人」とはどのような人たちでしょうか?
前回はクリスチャンたちが他のクリスチャンたちと集まることをやめてしまう問題を話題にしました。
ところがあるクリスチャンたちは、今度はクリスチャンたちだけと時間を過ごしたがるようになるようです。
クリスチャンとだけ友だちをつくろう、クリスチャンの会社に勤めよう、クリスチャンとだけ商売をしよう、クリスチャンの学校に子どもを行かせよう...
時にはそれがとてもよい動機でなされる場合もあります。
自分はアルコールに弱いから、クリスチャンでない人たちの飲み会にはどうしても加われない、酒に酔って罪を犯すよりは加わらないでいたほうがよい、というクリスチャンもいるでしょう。
しかし、私はクリスチャンになったのだから、クリスチャンでない人とまったく関係を絶ってしまおう、という考え方は聖書の教えではありません。
パウロは言っています。
私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。
第一コリント人への手紙5章9節と10節(新改訳聖書)
クリスチャンはクリスチャンでない人たちと出来る限り、よい関係を保つべきです。
5節、これら外部の人たちに対して、私たちは賢明にふるまい、機会を十分に生かすことが言われています。
賢明とは、賢く、知恵をもって、ということです。
僕の妻、ルイースはオプトメトリストでメガネやコンタクトレンズ、サングラスを販売しています。
すると時折、医療保険でメガネの必要のない自分の子供の代わりに自分のメガネを売ってくれないかというようなお願いをする人がいるそうです。
これがどこのオプトメトリストでも断られていたら、来た人もそんな期待はしないのかと思われますが、残念ながらこのような販売の仕方は少なくないようです。
医療保険をごまかすと、結局はそのコストを皆で負わなければならないのですが、そんなことは関係ありません。
ルイースはそのようなとき、メガネを売って儲けられるのだから、という誘惑にもかられますが、後で発覚して罰金を払わなければならないことを心配するよりも、神が、この世界にあって正しく政府に従って生きることを教えているから、という理由で、断るそうです。
すると大抵、断られた人は悪口をついて「もう二度とこの店に来るものか」と出て行くそうです。
クリスチャンが神に従うがための行動に対して、クリスチャンでない人たちがわるくいうことは避けられません。
もし誰も自分がクリスチャンであることを悪く言うような人がいないのなら、一度は自分は果たしてクリスチャンとして生きているのか、神を知らないクリスチャンでない人たちと全く同じように生きているだけではないか、自問してみることも必要かもしれません。
先祖代々仏教の家で初めて自分ひとりがクリスチャンになった場合...
自分の理解できる限り、聖書のことばから、仏教の儀式に加わることは偶像礼拝であると、自分の良心がとがめるのなら...
家族・親戚と気まずい関係になってしまっても、時には家族に厳しく責められるようなことになっても、人ではなく神に従うべきです。
ですが、そのように、クリスチャンでない人たちが自分に求めていることが、神に従うということと反する場合でもない限り、クリスチャンはクリスチャンでない人たちと出来る限り、よい関係を保つことが言われています。
ローマ人への手紙12章18節に
「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」
と言われています。
あなたはあなたの隣人、友人、同僚、家族、取引先で関係する人たち、学校で関係する人たち、近所で関係する人たち、そのなかでクリスチャンでない人たちとよい関係を保とうと努めているでしょうか?
この良い関係はまず第一に自分が勤勉に正しく生きていることが求められます。
また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。
外(そと)の人々─外部の人、と同じ言葉です─外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。
第一テサロニケ人への手紙4章11節と12節(新改訳聖書)
クリスチャンが神に従おうとするとき、非難されることは避けられません。
しかし、クリスチャンが例えばするべき仕事をしていなかったり、果たすべき責任を果たしていなかったり、その他いろいろな、神に従う、とは関係のないところで、非難される場合があります。
ある一面ではそれも避けられないことです。
私たちはクリスチャンといえども罪を犯してしまう者だからです。
ですがクリスチャンが罪を犯して、それがクリスチャンでない人たちの非難の的になることは、自分自身が非難されるだけでなく、キリストの名が非難されることであることを私たちは理解しなければなりません。
そのような非難を生ずる罪を避けることに一層の祈りと努力が求められます。
自分の罪によって他の人に福音が伝わることが妨げられるというのは全く悲しいことです。
しかし、もし私たちが本当に正しく賢明に生活をしているのなら、このまがった世界にあってそのようなクリスチャンは、クリスチャンでない人たちの目に留められるものだと僕は思います。
なぜあの人はいつもあんなにも心優しいのか、
なぜあの人はいつもあんなにも幸せそうに喜んでいるのか、
なぜあの人はいつもあんなにも他の人の事を気づかえるのか、
なぜあの人はいつもあんなにも勤勉なのか、
なぜあの人はいつもあんなにもくそ真面目なのか :)
クリスチャンらしくあるために非難を受けることもありますが、しかし、そのような人には他の人から「なぜあなたはいつもそのようなのですか」と質問される機会がきっとあるはずです。
もちろん、なにも言わずただ黙々と家事に仕事に没頭しているような状態ではそのような期待はできないと思います。
むしろ積極的に他の人と会話を交わすようであるなら、質問も得られるでしょう。
6節、そのために、私たちの言葉は、いつも親切で、塩味のきいたものであるように、とあります。
「親切で」の原語の直訳は「恵みをもって」です。
新約聖書に150回以上使われているこの「恵み」という言葉は主に神の恵みを指しますが、時に恵みに対する私たちの感謝を指すこともあります。
例えば3章16節に「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」とありますが、この「感謝にあふれて」も原語の直訳は「恵みをもって」です。
新改訳聖書ではこの「恵みをもって」という言葉が「親切で」と訳されています。
新共同訳聖書においては「快い」という言葉に訳されています。
しかしその他のほとんどの箇所でこの言葉が使われるとき、それは神の恵みを指していて、私なら「私たちの言葉がいつも恵みにあふれて」と訳したいくらいです。
コロサイ人への手紙とエペソ人への手紙には共通点が多いと言われていますが、エペソ人への手紙4章29節には「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」とあります。
神の恵みを知る者として、恵みにあふれる言葉を用いたいと思わされます。
また塩味のきいたものであるように...
新約聖書に「塩」という言葉は9回出てきますが、一度はこの箇所、他の箇所はマタイの福音書5章13節とそれに対応する他の福音書の箇所のイエスの言葉の中です。
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイの福音書5章13節から16節まで(新改訳聖書)
当時、塩がどのように用いられていたかによって、クリスチャンたちが「地の塩」であるとはどういうことであるのか解釈の分かれるところです。
しかし続く14節以降を読むと、私たちは世界の光であるならば、それを枡の下に伏せてしまうようなことをしないで、人々の前で輝かせなさい、とあります。
塩であるなら、塩らしく、クリスチャンであるならクリスチャンらしく、この世界にあって、相応しく生きないのであるならば、そのような「クリスチャン」は──もはやクリスチャンであるとは呼べないと思いますが──何の役にも立たない、と言われているように思います。
塩が宗教的な清めの儀式に用いられていた、もしくは食物を保存する清めのために用いられていたということがパウロの意図にあったのだとしたら、塩味があるということは清い、ということになります。
先ほどのエペソ人への手紙の4章29節の「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。」という言葉とも通じるようです。
そのような言葉で話すのならば、6節、私たちは一人一人に対する答え方がわかります、と言われています。
宣教師は自分から出て行って人々の前で語ります。
この箇所で言われているクリスチャンたちは、質問を受けた時に答える方法でみことばを語ろうとします。
次の聖書箇所を考えてください。使徒ペテロの言葉です。
もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。 ──著者注:彼ら、とは神を知らない人たちのことです。──
むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。
第一ペテロの手紙3章13節から16節まで(新改訳聖書)
宣教師となる人には賜物が与えられていて、それはすべてのクリスチャンに与えられているものではありません。
しかし、この箇所ではすべてのクリスチャンが、私たちのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい、と言われています。
真のクリスチャンにはイエス・キリストにあって希望があります。
それはイエスが再び来られる日に、彼と共に栄光に加えられるという希望です。
実にこの希望がないのなら信仰も愛も基礎のないものとなってしまいます。
コロサイ人への手紙1章4節と5節には、キリスト・イエスに対する信仰と、他のクリスチャンに対する愛は、天にたくわえられている望みに基づく、とあります。
あなたにはイエス・キリストにあって希望があるでしょうか?
もし、希望があるのなら、この希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をするべきです。
もしまだこのようなことについて考えたことがなかったのなら、どうか祈って、自分はどうやって答えるのかと、準備をしてみてください。
コロサイ人への手紙に戻りましょう。
6節、私たちは一人一人に対する答え方がわかります、と言われています。
前にも言いましたが、私は大変な口下手です。
準備をしなければ、機転の利かない、大変にぎこちない話し方しかできません。
一人一人に対する答え方がわかります、などと言われると、それは僕にとってとてつもなく魅力的な言葉ですが、もし私たちがいつも親切で、塩味のきいたことばを用いていたとしたら、私たちがなんと答えるべきか、わかる、といわれているのでしょうか?
いいえ、なんと答えるべきか、ではなく、答え方がわかる、すなわちどうやって答えるべきかが分かる、ということだと思います。
親切で塩味の効いた答え方...
神の恵みを知る者として、恵みにあふれ、クリスチャンらしい答え方...
神のことばを伝えるとは、イエス・キリストの福音を伝えることに他なりません。
私たちのうちにある希望、この奥義とは、私たちの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
まだ神の恵みを知らない人に、キリストの事を伝える機会が与えられるように、またそのような機会が与えられて弁明できる用意ができているように、祈りましょう。
天の愛するお父様。
キリストが私たちの身代わりに死ぬことによって、私たちの罪を赦して下さったことをありがとうございます。
この世界にあってどのように生きるべきか聖書によって教えていてくださることをありがとうございます。
聖霊を私たちのうちに住まわせてあなたのメッセージを理解させてくださることをありがとうございます。
イエスが再び来られる時、彼と共に栄光に加えられる約束をありがとうございます。
イエス・キリストの福音の宣教のために労を担って働いている兄弟・姉妹を覚えます。
どうか彼らがキリストの奥義を当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、助けてください。
また、私たち一人一人が出会う、まだキリストにある希望を知らない人たちに対して、賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いることができますように助けてください。
私たちのことばをいつも親切で、塩味のきいたものであるようにすることができるように助けてください。
イエス・キリストの名によって祈ります。
アーメン
| Prev | Next | Go Up | English Page |
Produced by Hajime Suzuki
Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience